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無常堂夜話

水の都の物語【無常堂夜話1】

一条戻子いちじょうれいこ貴家鏡子さすがきょうこは大学1年生。一夜にして海に沈んだと伝わる『雨竜島伝説』の調査で、化野空あだしのくうと名乗る青年に出会う。

現地調査の際、三人は何故か海没前の雨竜島に行き、竜神と『水の民』の誓約について知ることとなる。

起・非日常の扉


 これは、私が経験した話。今でも思い出すと、懐かしさや切なさといった不思議な気持ちが心にあふれてくる。

 あの、どこまでも澄んだ水底から日の光を眺めるような、ヒグラシが鳴く晩夏の日の出来事を記してみたいと思う。


 私は、一条戻子いちじょう・れいこ。当時は大学1年生で、高校とは勝手の違う生活にも慣れて、自分のペースで日常生活を送れるようになった頃だった。


 それは、猛暑が続いた盛夏も過ぎ、日差しや木々の装いに秋の気配を感じ始めた時期、私が構内を歩いていると、小柄で細身の女の子から声をかけられた。


「戻子、今からお昼? うちも連れてってんか!」


 そう言いながら駆け寄ってきたのは、私の幼馴染の鏡子きょうこだ。


 鏡子は小学校5年生の時に私が住む町に引っ越してきて、同じクラスになった。

 身体が小さいのでよく男子からいじめられていたが、家が武道の道場ということもあり、実はかなり強い。いじめっ子が私を標的にした時、それまで自分はどんなにいじられても、嫌がらせされても、ニコニコして何も言わなかった彼女が、


『おんどりゃ、うちの友だちに何すんねん!』


 鬼の形相で4・5人の男子に掴みかかり、あっさりと全員を伸してしまった。

 それ以降、敢えて鏡子に悪戯しようという者はいなくなったし、私にもちょっかいをかけてくる児童・生徒は絶えていなくなった。


 そして私と鏡子は、中学校、高校とすべて同じクラスで過ごした。彼女のおかげで楽しい学校生活が送れたと感謝している。一番の親友と言っていい。



 鏡子から声をかけられたすぐ後、私と彼女は学食の一角で、向かい合ってお昼を食べていた。


「そう言えば、戻子は今度の課題、どないするん?」


 鏡子がかつ丼を食べ終わり、手を合わせて『ごちそうさま』をした後聞いて来る。

 私は首を傾げて、


「う~ん、課題って、『水に関する伝承と社会の関係』だったよね? 正直、水に関する伝承を探すのも大変だよ」


 そう答えると、鏡子はにんまりと笑って、


「そないなの、ネットでチャチャっと調べたらええねん。どうせその後の調査や検証や考察に時間取られるんやから、早めに決めたがええで?」


 そう言う。


「じゃ、鏡子は決めたの?」


 私が訊くと鏡子は薄い胸を張って得意そうに言った。


「うちがそないに手際がええわけないやん」



 結局、課題のテーマが決まらずに、私と鏡子は思い切って教授を訪ねることにした。課題の選定やまとめ方などについて、あわよくば何かヒントをもらおうという気持ちもあったのだ。


「あっ、ノブさん! ちょっとええ!?」


 私たちがゼミ棟にある教授の部屋を訪れた時、ちょうど廊下に織田信尚おだ・のぶなお助教が出て来たのを見て、鏡子が話しかけた。


 ちなみに、鏡子が助教を『ノブさん』呼びしたのは、彼女が横着で礼儀知らずだからではない。自身も武道家である鏡子は、見た目こそ金髪のギャル系だが、いたって真面目で礼儀正しい女性である。


「織田助教、平島准教授はおいででしょうか?」


 私が訊くと、ノブさんは顔中を口にして笑い、


「戻子ちゃん、梅ちゃんも言ってるとおり、堅苦しいのはナシだよ。オレが梅ちゃんに『平島准教授』なんて言ったら、即、研究室から追い出されちまう。

で、何か相談かい? ひょっとして課題の件かな?」


 そう言う。鏡子がうなずいて、


「せや、さすがノブさん、話が早いで。実はうちも戻子も課題が決まらんで参っとるんや。これって個人でやらなあかんのん?」


 そう訊く。ノブさんは銀縁眼鏡を押し上げて、


「本来研究テーマは、個人が決定するもんだけれどな」


 そう言う。ま、それはそうだよね……と私は納得したが、鏡子は納得していないのか、ノブさんに食い下がる。


「せやかて、共同研究ちゅうもんがあるやろ? うちと戻子、共同研究ってことじゃあかん?」


 その時、研究室のドアが開いて、平島梅子准教授……もとい梅ちゃんが顔を出した。


「ノブさん、女の子の声が聞こえたけど、学問の府で痴話げんかはよしてよね」


 黒髪をショートにした、少年のような女性が顔を出す。梅ちゃんだ。


「いえ、戻子ちゃんと鏡子ちゃんが、今回の課題について訊きに来たんです」


 ノブさんがニコニコして言うと、私たちの存在に気付いた(私たちはドアの陰になっていた)梅ちゃんは、にこりと笑って言った。


「じゃ、部屋に入りなさい」



 梅ちゃんの部屋を出た鏡子は、ルンルンしていた。今度の課題については、複数人で同一テーマを研究するのもあり……という許可をもらったのだ。


「二人でやれるんなら、ちょっと小難しいテーマもできるね」


 私が言うと、鏡子は手をひらひらとさせて、


「そんなんどうでもええんや。うちは戻子と一緒に居られるっちゅうだけで幸せやで」


 などと恥ずかしいことを言う。これは、テーマを考える気がないと見た。


「どんなテーマにしたい?」


 私が訊くと、案の定、鏡子は


「そんなん、ネットでチャチャっと検索したらええんや。ええ感じのもんがあったら、それやればええやん」


 と、責任感の欠片もないことを平気で言ってのける。

 私はため息をついて、スマホを取り出し、

『水、伝説、日本』というワードを入れる。検索してみると、すぐに『日本の民話・伝承』とかいうサイトを見つけた。


 そこでさらに条件を絞って検索すると、突然画面に

『日本のアトランティス・雨竜うりゅう島の伝説』

 の文字が飛び込んできた。


「何それ何それ!? おもろそうやん! 戻子、うちら、これをテーマにしよ!」


 私のスマホを覗き込んだ鏡子が、いっぺんで食いついた。



 課題の提出日は、10月24日。今が9月初旬だから、たっぷり時間はある。もともと梅ちゃんはフィールドワークを重視する先生だったから、今回の伝承も別に身近な物とは限らず、国内の伝承であれば、私たちが住むN県以外のものでもOKだった。


 ということで、私と鏡子は、新幹線と特急を乗り継いで、『雨竜島』の伝承が残るO県に来ていた。ちなみに学生の分際なので、調査期間は3泊4日の予定だった。


「戻子、どの水着がええと思う?」


 旅館に入ったら、鏡子がすぐに水着を引っ張り出してくる。私は呆れて、


「鏡子、遊びに来たんじゃないんだよ?」


 そう言うと、鏡子は頬を膨らませて文句を言う。


「えー、ええやん一日くらい。戻子はイケズやなあ」


 やいのやいの言う鏡子に譲歩して、結局、十分な証言や資料が集まったら、後は観光に充てることで何とか納得させた。


「じゃ、戻子、行くで」


 鏡子が張り切って言う。

 意外だった。もう午後4時なので、ゆっくりしようと言うかと思った。でも鏡子の顔には、『早く資料が集まれば、それだけ長く遊べる』、そう書いてあったので納得した。


 1日目は午後遅くからの調査だったこともあり、図書館で古文書や伝承を調べるのに時間を費やした。それで、『雨竜島』について、次のことが文書でも確認できた。


「海岸線から4・5百メートルの河口にあって、周囲は約12キロ、人口は5千人ほどが住んでいた。

島長の娘が竜神の怒りを買ったため島が沈んだとされる、かぁ……」


「竜神様も、何をそないに怒ったんやろなぁ? 島を沈めるほどの怒りって、相当罰当たりなことをしとったんやろうなぁ?」


 鏡子が言う。それはそうだ。だとすると、島長の娘の何が竜神の怒りを買ったのかって、結構考察しがいがある。竜神の怒り……それは価値観の変動の比喩とも考えられる。そして変動を起こしたもの、それは新たな価値観の流入だったかもしれない。あるいはまったく別の理由だったかもしれない。


「……とにかく、明日は聞き込みしなきゃ。一日中歩くことになりそうだし、あっちこっち回らなきゃならないだろうから、早く寝よう」


 私たちは明日のために、早めに眠ることにした。



 その夜、私は夢を見た。青く澄んだ水の中に、私は沈んでいた。


 でも、息は苦しくない。水面から差し込むお日様の光が、まるで天使の梯子のように揺らめき、頭の上を見れば青い空を映した水面に、小さな泡がいくつも上って行く。


(きれい……)


 そう頭の中で思った時、急に耳障りな音、甲高く、それでいて鼓膜を揺するような重低音を含んだ、何とも形容し難い音が頭の中に響いた。思わず耳を塞いで目を閉じ、身体を丸めてしまう。


 その中に、私は何かの声を聞いたと思った。それは女性の声のようでもあり、男性の声のようでもあった。だが、その言葉を聞きとることは出来なかった。急に空が曇り、水の温度が下がったと思うと、息が詰まる感覚が襲ってきたのだ。


(ヤバい、溺れる……)


 私は急いで水面を目指す。しかし、どうしたことかいくら力を入れて手足を動かしても、水面は近付いてこない。

 その時、焦ってじたばたする私は、『それ』を見た。

 目の前、ほんの10メートルくらいに、『それ』はいた。赤く光る目で私を見つめながら……。


 ごぼっ!


 私はびっくりして息を吐いてしまう。大きな泡がいくつも、無数の小さな気泡と競争するように水面へと向かう。


(……本格的にヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバい……)


 私は、誰かが私の手を引っ張るのを感じながら、気を失った……。


「……イコ、戻子、どないしてん!?」


 私は鏡子の声で目が覚めた。ちょうど朝日が昇るところだった。雲一つない空が、今日も快晴であることを教えてくれる。

 夢だったんだ……そう思って安心すると同時に、あの息苦しさに妙なリアルさを感じて、私は滴り落ちる汗をぎこちなく拭く。


「うなされとったで。嫌な夢見たんか?」


 私の顔を覗き込む鏡子に、これ以上夢のことで心配かけたくなかった私は、無理に笑顔を作って言った。


「変な夢だったけれど、大丈夫。早くご飯食べてフィールドワークに出なきゃね?」



 調査2日目。私たちは市のあちこちを回って、いろんな人から『雨竜島』の話を聞こうと頑張った。

 しかし、誰もそんな話は知らないという人ばかりで、私たちの取材ノートは一向に埋まりそうにない。


 午後からは視点を変えて、神社や仏閣を目につく限り回ってみた。神主さんや住職さんにも話をお聞きしたが、伝承を御存じないか、御存じの方は「話せない・話したくない」と仰る方ばかりだった。


「話せへん、話しとうないってどういうことやねんな?」


 私たちは、ファミレスに入り、早めの夕食を食べながら作戦会議を開く。現地に着く前は、伝承についてもたくさんの証言が得られるものと勝手に思い込んでいたが、完全に予想は裏切られた。


「梅ちゃんやノブさんの話では……」


 私は鏡子の問いに、パスタを丸めながら答える。


「話せないという共同体の意識下には、伝承にならなかった、あるいはできなかった、当時の社会情勢や制度の歪みが隠れているそうよ」


「ゴメン、日本語でおけ?」


 鏡子が言うと、不意に彼女の後ろの席から、


「伝承としても残すわけにはいかなかった『裏の理由』があるってことですよ」


 そんな静かではあるが、凛とした声がした。隣のボックスから、丸顔で天然パーマの男性が、人の好さそうな笑みを浮かべて私たちを見ていた。


 ポカンとする私たちを見て、男性は慌てて、


「あ、すみません。盗み聞きするつもりはなかったんですが、『雨竜島』という単語が聞こえて来て。ぼくもその伝承を調べに来たんで、つい気になっちゃって」


 そう弁解する。その笑顔には嘘はない、となぜか私はその時確信めいた思いを抱いた。そして、この人は何か知っているに違いないとも。


 だから私は、彼が場所を変えて『雨竜島』について語り合いたいと誘ってきた時、何の疑いも心配もなく、彼の誘いを受けたのだった。



 その青年の名は、化野空あだしの・くうと言った。


「読み方は『くう』だけど、ほとんどの人は『そら』と読んじゃうんだ。だから『ソラ』って呼んでくれていいよ」


 と彼自身が言っていたから、これ以降は彼のことは『ソラさん』と呼ぶ。


 最初私はソラさんのことを、4・50代のおじさんかと思っていた。だって彼の髪は歳に似合わないほど雪を置いていたから。といっても、私はソラさんが幾つなのかは知らなかった。


 ソラさんは不思議な人だった。『場所を変える』と言って連れて行かれたのは、その市内でも最も由緒あるお寺の僧房で、そこの寺の方とソラさんは知り合いのようだった。

 私が、誰も伝承について話したがらないと不満を言った時、ソラさんは少し悲しそうな顔で、


「歴史の事実というものは、その地域の烙印スティグマになることがあるんだ。他地域の人にとって、それは往々にして『知らない方がいいこと』と同義でもある」


 そう言った後、私たちを試すような眼で見て言った。


「本当のことが知りたければ、明日、ぼくと一緒に『雨竜島』を回ってみないか?」


 その時なぜか、私も鏡子も、そんなソラさんのことを不思議だとも、胡散臭いとも思わなかった。ただ、


(これで資料がそろうかも……)


 とワクワクしたことを覚えている。あんな出来事に巻き込まれるとも知らないで……。



 次の日、調査3日目の早朝、私と鏡子は、ソラさんから指定されたバス停に来ていた。


「こんなに早よからバスなんて走っとんのかな? 時間間違えたんとちゃう?」


 鏡子が眠そうに目をこすりながら言う。無理もない、まだ朝の4時だ。


「え、そういえば、4時!?」


 私は時計を見て、急に不安になる事実に思い至った。こんな時間にバスなんて走っているわけはない。時刻表を確認すると、始発は上りで5時36分、下りで5時48分だった。


 とすると、単に待ち合わせに便利だったからここを指定したのか? いや、ソラさんの話しぶりから、彼は明らかに地元の人間じゃない。だったら、駅前とかならともかく、こんなマイナーなバス路線のマイナーな停留所まで知っているはずはない。


 じゃ、私たちは担がれた?……これも彼の話しぶりからあり得ないと思った。だいたい、見ず知らずの女子大生二人をからかったところで、彼には何のメリットもない。


(じゃ、どういうことだろう?)


 『騙された~』と言って憤慨する鏡子をしり目に、私が彼はなぜここに呼び出したのかを考えているとき、朝もやの中からソラさんが現れた。それは唐突と言っていいほど突然目の前に現れた感じだった。


「やあ、もう来ていましたか。遅れちゃったみたいだね」

「いえ、時間ちょうどです。そんなに待っていません」


 彼は、私と約束した午前4時15分ちょうどに、バス停にやってきた。

 その時、鏡子が私の袖を引いた。すごい顔でソラさんを睨んでいる。明らかに鏡子はソラさんを警戒していた。


「……昨日のファミレスでもそうやったけど、あいつの気配を感じひんかってん。相当できる男か、人間やないんちゃうか?」


 鏡子が私に耳打ちしたが、私は


「まさか。そんなことないって」


 と一笑に付した。

 だが、私たちが慄然とすることが起こった。ますます濃くなる朝もやの中、私が


「バスで行くんですか?」


 そう訊くと、ソラさんはうなずいて、


「ええ、もう来ましたよ」


 そう言う。確かに、朝もやの中から音もなく、ヘッドライトを点けたバスが現れ、私たちが待つバス停に停車した。プシューっという音と共に、乗車口のドアが開く。ソラさんは迷いもなく整理券を取ってバスに乗り込んだ。

 そして、びっくりして声も出ない私と鏡子に優しく言ってくる。


「別に変なバスじゃない。乗るといい」


 いやいや、時刻表に載ってない時間に来るバスが変じゃなかったら、何が変なんだろう?……そう思うも、私はこれが夢か現か分からないが、夢なら醒めればいいし、現実ならなぜ彼がこんなに大掛かりなことをしてまで私たちをだますのか知りたいと思ったので、


「鏡子、行くよ」

「あ、ちょっと待ちぃな。心の準備が……」


 なんか言っている鏡子を強引に引き連れて、バスに乗った。午前4時18分だった。



 バスは朝もやの中、ゴトゴトとゆっくり走る。車窓からはぼんやりと海岸線が見えるが、今どの辺にいるのかまでは分からない。

 乗客は私たち三人だけで、バス停ごとに運転手さんが、


「次は、○○、○○……通過……」


 と車内放送を流す。時刻が早すぎるせいか、誰も乗車してこない。不自然な時刻に来たバスでなかったら、眠気を誘う車内だったに違いない。


 しかし、私も鏡子も、眠気どころではなかった。時刻表に載っていないバス、音もなく靄の中から現れたバス……『幽霊バス』という言葉も脳裏にちらついた。


 ソラさんは笑顔で先頭の席に座り、運転手さんと何か談笑している。その様子を見ていると、日常にありふれた光景だ。何も不思議なことはない。

 やがて、ソラさんが私たちの方を向いて、


「もうすぐ着くから、降りる準備をしていて」


 そう教えてくれる。そしてその次の停留所(確か『沖島公園前』とかいう名前だった)で三人とも下車した。乗客が誰もいなくなったバスは、来たときと同じように音もなく朝もやの中に消えた。


「さて、行こうか」


 ソラさんがそう言って歩き出す。私は昨日の夜から引っ掛かっていたことを聞いた。


「ソラさん、昨日、『雨竜島に行こうか』って言いましたよね? 雨竜島って海に沈んじゃったんじゃないんですか? 沈んだ島に、どうやって行くんですか?」


 するとソラさんは、一瞬目をぱちくりさせると、頭をかきながら言った。


「あ、ごめん。伝承では、雨竜島は確かに沈んだことになっている。ただ、その名残だと言われる岩礁や小島があるんだ。

ぼくが言ったのは、その岩礁だよ。島にあったと言われる石碑が、海底から引き揚げられて祀られている洞窟があるんだ。

それを調べれば、何か島の秘密が分かるかもしれないだろう?」


 そう言いながらソラさんは、県道から防波堤を越えて海岸に降りる。漁民のための階段があったため、お転婆な真似をしないで済んだ。



 海岸は砂浜ではなく岩場だった。ごつごつとして歩きにくかったが、30分ほど歩いて、どうにかこうにか石碑が祀ってあるという洞穴までやって来た。


「……これが、その洞穴ですか?」


 洞穴は、高さ5メートルほど盛り上がった岩場の中腹にあった。大潮の時には海面下になるんじゃないかと思ったが、洞窟の中は案外乾いていた。


「大潮の時の満潮時に台風が来れば、洞窟も海面下になるだろうね。だけど、島があった時代の人たちは、石碑が水没しないよう考えて祀っているようだ」


 懐中電灯で石碑を照らしながらソラさんが言う。私と鏡子は、石碑の表面をスマホの電灯で照らしながら、何枚も写真を撮った。後でパソコンに取り込んで、明度を調整すれば何が書いてあるかは分かると思ったのだ。


 いい加減、石碑の文字を全部写し終わった頃、鏡子が


「あれっ!?」


 と小さく叫ぶ。私は鏡子がどこかケガでもしたんじゃないかと心配して、


「どうしたの?」


 と聞くと、鏡子は石碑の後ろを指差して言った。


「何か、ここ通路になってへん?」


 私が鏡子の指差す方を見ると、真っ黒い穴がぽっかりと口を開けていた。


   ★ ★ ★ ★ ★


承・水脈の人々


「何この穴!?」


 私がそう叫ぶと、鏡子も気味悪そうに私にしがみつく。


「うぅ~。戻子、なんかキショいんだけど?」


 そこに、洞窟の壁を調べていたソラさんが近付いて来て、


「どうしました? 何かありましたか?」


 何事もないような声で話しかけてくる。私はその時、『春風駘蕩』という言葉が脳裏に浮かんだ。すると、何だか気持ちが落ち着いて来る。


「……あ、あれ、通路じゃないかしら?」


 ソラさんは私が指差す方向を見て、目を眇めてじっと眺めていたが、やがて私たちを見て、


「……何にもないけど?」


 そう言う。


「え!? 嘘やん、あないにはっきり見えとんのに……」


 鏡子はそう言いながら穴の方を向いて絶句する。私も振り向いて言葉を失った。

 あんなに黒々と、虚無を感じさせるほどの存在感を放っていた穴が消えていた。


「……ない……」


 思わず漏れた私のつぶやきを聞きながら、ソラさんは石碑の後ろ側の空間に回り込み、真剣な顔で壁を見ている。そして、ため息と共に首を横に振った後、私たちを見てさっきまでの落ち着いた態度で言った。


「……もうすぐ潮が満ち始める。途中の岩場が水面下に隠れないうちに戻ろうか」



 私は、洞窟から出た時、何とも言えない違和感を覚えた。外に出た瞬間、周囲の景色が一瞬セピア色に変わった気がしたのだ。

 けれどそれは、暗い所から急に日差しの下に出たため、目が慣れていなかったからと思った。

 だが、鏡子の言葉で、違和感は増した……というより、違和感の正体が分かった。


「戻子、海岸線の護岸、無くなっとるで?」


 私はその時、海沿いに造られた県道を守るための堤防や、石積みの護岸、コンクリートのテトラポッドが一切消えていることを認識した。


「どういうこと!?」


 私はそう言って、最後に洞窟を出たはずのソラさんを振り向く。頭が混乱している私は、ソラさんならこの現象に何とか理由付けして、私たちを安心させてくれる……そう思ったのだ。


「え?」


 しかし、私は目の前に見える光景に、素っ頓狂な声を上げる。自分の眼が信じられず、朝早く起きたせいで、居眠りしているのだと思いたかった。


 そこに、島があった。


 島の中央にいくつかの峰があり、海辺の平坦な場所には、数十軒の家々が立ち並んでいた。そして、砂浜にはたくさんの小舟が岸に並べられている。


 岸にいた何人かの人が、こちらを見ている。手をかざしていたその人たちは、私たちを見つけたのか、大慌てでどこかに駆け出す人、舟を海に押し出してそれに飛び乗る人、子どもを家に連れて帰る人など、にわかに浜辺は慌ただしくなった。


 その喧騒を、あっけにとられて見ていた私たちは、漕ぎ寄せた島の若者にいきなり怒鳴られた。


「お前たち、そこで何しとう!?」


 私たちは、怒鳴られたこともそうだが、若者のいで立ちに驚愕して声も出せなかった。

 若者は20になるかならないかといった年頃で、潮に焼けた肌を絣のような着物で包んでいた。髪も潮で焼けて焦げ茶色で、ぼさぼさの長髪をポニー・テールのように後ろでまとめている。


「そこは神域じゃけん、早うこっちに来んか、罰当たりどもが!」


 鬼のような形相で怒鳴られた私たちは、混乱の極致にあったこともあり、とにかくここはこの若者の言うことに従った方がいいと判断し、おとなしく彼の舟に乗った。



 私たちが浜に着く頃には、村中の人たちがここに集まっているんじゃないかと思うほどの人だかりができていた。そのみんながみんな、私たちに敵意むき出しで、舟が浜に着いた時には殺されると覚悟していた。


「さっさと降りろ、こん罰当たりどもが!」


 着岸した舟から降りることを躊躇していた私たちに、若者が怒声を浴びせる。その声と迫力にびっくりした私たちは、飛び降りるように砂浜に降りた。途端に、待ち受けていた中年の男性が、私たちの手を取って、無理やり群衆の真ん中に放り投げる。


「痛っ!」


 倒れ込んだ私に、


「戻子、大丈夫か?」


 鏡子が寄り添って声をかけてくれて、村人を睨みつけて叫んだ。


「何やワレ! か弱い女子をいじめて楽しいんか!?」


 途端に村人は殺気立ち、


「このチビから先に、竜神様に供えるぞ」


 数人の若者が鏡子につかみかかって来た。


 しかし、そこは剣道6段、柔道5段、合気道3段に棒術や華道など、もろもろ合わせて20段と豪語する鏡子である、数人の若者たちはあっという間に当て身を食らって伸びてしまった。


「うちは法神流剣術師範代、貴家さすが鏡子。うちらの話も聞かんかい、ボケナス!」


 鏡子の気迫に村人たちが圧倒されたとき、


「皆、落ち着け」


 そう言いながら、貫禄のあるおじさんが、巫女装束の少女と共に、群衆を割ってこちらに向かってきた。浜に集まった人たちは、おじさんの姿を見ておとなしくなる。


 おじさんは私たちの側で足を止めると、不審そうな色を目に宿しながらも、丁寧に言う。


「村人たちの行動は許してくれんか。話によると道迷いの旅人とのこと、儂の家で話を聞かせてほしい」


 それだけ言うと、踵を返して歩き出す。巫女装束の少女は、まだ座ったままの私を見て、


「早う立って、ついて来りゃれ」


 澄んだ声で言う。

 その言葉に弾かれるように、私は立ち上がった。



 おじさんはこの島の長で、龍喜左衛門りゅう・きざえもんと言い、巫女装束の少女は妹の佐代里さよりと言った。私には佐代里さんが14・5歳に見えた。


 島長の一族は代々竜神を祀り、その庇護か、この島は周囲の武家たち(!?)の支配を受けずに済んでいるとのことだ。


「そなたたちが大内にも大友にも、河野にも与していないと、この御仁に聞いてな。

神域に居たのも修行の一環と聞いたゆえ、粗相があってはならんと急いで浜に出向いたという次第だ」


 喜左衛門さんがそう言って引き合わせてくれたのは、なんとソラさんだった! そう言えば、私はあの洞窟を出た後、ソラさんの姿を一度も目にしていなかったことを思い出した。


 長袖のポロシャツにジーンズという、明らかに場違いな格好(私たちだって同じだが)をしたソラさんは、白髪だらけの髪をかき上げ、にっこりと笑って言う。


「やあ、大変な目にあったね? でも大丈夫、ぼくたちは神仏を祀る行者で、修行中の身だと説明しているから、村人たちも手を出しては来ないと思うよ?」


 私には、ここはどこなのか、なぜ雨竜島があるのか、ソラさんは今までどこに行っていたのか、いや、そもそもソラさんは何者なのか……訊きたいことがたくさんあり過ぎた。でもそんな質問を言葉にしないうちに、ソラさんは私たちに一枚の紙を見せて言った。


「巫女さんが、ぼくたちと話をしたいらしい。竜神伝説が聞ける機会だが、どうも困りごともあるみたいでね? それで君たちを巻き込んだものかどうか迷っているんだ。

一緒に行って話を聞いてみるかい? 君たちに任せるよ」


 私が見た紙には、細くきれいな字で、


『相見るを又有る事と知りませば、誓約うけいの事も受けざらましを』


 ただ一首の和歌が認められているだけだった。


 これを読んだ鏡子は、不思議そうにソラさんに訊いた。


「あんた、あの巫女はんと会うたことあるんか?」


 ソラさんはニコリとして、


「さあ……ないんじゃないかな?」


 そう答えたが、その笑顔はどこか寂しそうだった。



 神社は、浜を見下ろせる山の中腹に建っていた。大きくはないが、手の込んだ彫刻が施してあるお社や、苔むした鳥居が荘厳さを加えている。


 佐代里さんは、鳥居の向こう側で私たちを待っていた。ソラさんを見た彼女の顔がパッと輝き、次いで私たちを見て一瞬眉をひそめたのが、なぜか印象に残った。


「よく来てくれました。神職は我しか居りませぬ故、十分な賄いは出来かねまするが、ご容赦ください」


 澄んだ声で佐代里さんが言う。ソラさんはそれに対し、春の日のような微笑で答える。


「この神社は島の要だというのに、佐代里殿しか担い手はいないのですか?」


 佐代里さんは顔を曇らせて、


「……担い手は竜神様がご指名になります。それ以外の人物がご奉仕しても、竜神様のご機嫌を損ねるだけ。それで我がこうしてお仕えしているわけです」


 そう答える。女性の神職って聞いたことがなかった私は、佐代里さんのお話を聞いて


(そんなこともあるもんなんだな……)


 そう無邪気に思っていた。


 しかし、ソラさんは何か釈然としないものがあるらしく、じっと佐代里さんを見つめている。それは冷静で冷たい感じがする佐代里さんが、思わず頬を赤くして顔をわずかに背けるほど不躾ともいえる凝視だった。


 それに気付いたか、ソラさんは自分をここに呼び出した理由を佐代里さんに聞く。佐代里さんは、元の冷静な顔に戻って、訳を話してくれた。


 なんでも、ここ数か月間の間で、村人が何人も行方不明になっているとのことだ。ほとんどが成人男性で、老人も何人かいる。男女の別はなく、小さな子どもが行方不明になった例は今のところない……とのことだ。


「何か我の知らぬ間に、竜神様の禁忌に触れたのかと思い、ひと月の間潔斎しておりました。その満願日に、くう殿たちが現れたというわけです。

しかも空殿たちは神仏を崇敬する行者とのこと、これは竜神様の引き合わせと思い、お力をお借りしたいと思ったのです」


 静かに語る佐代里さんの眼には、ソラさんに対する信頼があふれている。あれ? ソラさんってそんな力を持っているのかな……私が不思議に思っていると、ソラさんは真剣な声で佐代里さんに訊いた。


「いなくなった人たちには、何か共通するものがあるはずです。それが何か判っていますか?」


 佐代里さんははっとした表情でソラさんを見て、慌てて


「いえ……我も良く事情を聴いてみましたが、何ら共通するものは思い当たりません」


 そう答える。ソラさんは目を閉じて上を向いていたが、ぼそっとつぶやいた。


「そうですか……誓約の真を知りぬれば、何を為すかは神のみぞ知る」

「えっ!?」


 青くなった佐代里さんに、ソラさんは優しい笑顔を向けて言った。


「……何でもありません。村の衆に話を聞いてもいいでしょうか?」



 私たちは村人たちに話を聞いて回ったが、聞けば聞くほど不可解な事件だった。

 まず、失踪する場面を見た人はいなかった。それなのに失踪だと言い切れたのは、その人の服が道端に落ちていたからだそうだ。それも水に浸かったかのようにびしょ濡れで。


「服を木の枝に引っ掛けちょんなら、着替えでもしたんばいなって思うさ。ばってんが、地面に置き捨てるような真似は誰もせんと思う。

着物だけならまだしも、下帯をそのままにするはずはなか」


 こう言ったのは、私たちを浜まで運んだ若者、晋作だった。彼は私たちのことを聞いたらしく、訪ねて行くと仰天して家から飛び出し、


「すまんかった! あんたらが天女っち知っとったら、あんな無礼なこつはせんかった。

 こんところ人が消えるっち事件が頻繁に起こっとったけん、罰当たりな奴のせいで竜神様ば怒らしたち思ったったい」


 そう、こちらが見ていて恐縮するほど謝った。で、私や鏡子が、別に怒っていないことをようやく納得させて、話を聞いたというわけだ。


「でさ、消えた人たちが日常どないな暮らしをしとったか、聞かせてもらえへん?」


 鏡子が凄みのある笑顔で訊くと、晋作は青くなって何でも教えてくれた。

 結局、晋作からは行方不明者26人のうち、彼の仕事仲間や遊び仲間、幼馴染など23人分の話を聞くことができた。


 ついでに、私たちはソラさんの指示で、行方不明者の親族15人からも話を聞いた。これはちょっと、辛い仕事だった。


「……おかしい……」


 喜左衛門さんから宛がわれた宿(屋敷の離れだった)に戻り、聞いた話をまとめていた時、不意に鏡子がつぶやいた。


「何がおかしいの?」


 私が訊くと、鏡子は憮然とした表情で、


「みんな、嘘ついとる……と言って悪ければ、なんか隠しとる」


 そう言う。

 ソラさんは私たちがまとめた聞き取りを読んでいたが、それを聞いて薄く笑いながら言う。


「人は都合が悪いことは隠すものさ。それが実は、問題の根源に関係があるかもしれないのにね。でも、君たちはみんなの話を100パーセント信じているふりをするといい」


 立ち上がりながら言うソラさんに、鏡子が訝しげに訊く。


「もう夜やで。どこに行くんや?」


 ソラさんはこともなげに答えた。


「佐代里殿の所さ。いや、夜這いじゃないよ」



 佐代里は、薄暗い灯火の下、神社の記録を紐解いていた。その顔は青白く、書物をめくる手が震えている。


「……これも、竜神様の祟り……」


 そうつぶやいた時、障子の向こうから静かな声がした。


「……と言うより、『水の民』の誓約うけいじゃないかな?」


 その声を聞いても、佐代里は驚きもせず、むしろそれを待っていたような顔で立ち上がると障子を開けた。


「……知っておられたんですね?」


 佐代里は、月の光に照らされて立つソラを見て、微笑むとそう言い、縁側に正座する。

 ソラは、その横に腰かけると、肩をすくめて言った。


「いえ、洞窟にある石碑を読んでいるうちに、『今昔物語』にある、水の精が凝って人間になったという話を思い出したもんでしてね? その人たちは竜神の子孫と言われていると聞いたことがありますが、それ以上のことは知りません」


 すると、佐代里は目を閉じ、何度か深い呼吸をして言った。


「竜神の子孫は、清浄な魂を持たねばなりません。そうでなければ神との誓約により、水に還ります。人間になりたかった水の精を、哀れに感じた竜神様が、誓約を以て人にした……それがこの島に伝わるもう一つの伝承です。もう、村人のほとんどは忘れているか、信じてはいないでしょうが……」


 ソラは黙って聞いている。そんなソラに、佐代里は縋るように訊いた。


「空殿、我はどうすればいいのでしょう?」


 ソラは首を振って、哀しそうに


「ぼくが決めていいことじゃない。でも、ぼくが感じたのは、この島にかけられた呪いのようなものだ。それが何なのかぼくには分からないし、それをどうすればいいのかは、君が考えることじゃないかな」


 そう言った後、ソラは佐代里を見て静かに言った。


「……でも、これだけは言える。神が定めたものなら、神の心に従うしかないんじゃないかってね」


   ★ ★ ★ ★ ★


転・竜神の封印


 次の日の早朝、私たちの所に佐代里さんからの使いがやって来た。まだお日様は昇りきっていない時分だったが、急ぎの用事だという。


「なんや大事な話ゆうとったなぁ。ならしゃあないかぁ~」


 眠いのを叩き起こされ、朝食もまだ、おまけに村人は何かを隠している……鏡子にとっては怒りの理由レベル99ってところだったが、


「……佐代里殿が呼び出すということは、何か分かったのかもしれないよ?」


 ソラさんが優しい声で言いながら、鏡子と私にアメちゃんを差し出す。単純な鏡子はそれで機嫌を直し、神社への薄暗い道を上っているところだ。


「よく来てくださいました。こんな時間にお呼び立てするのは気が引けましたが、事態は一刻を争いますので」


 私たちを迎えてくれた佐代里さんの顔は、昨日会った時よりさらに憂鬱そうだった。


 私たちを社殿に上げると、佐代里さんは一言、


「昨夜、晋作殿が消えました」


 そう言う。私たちはびっくりした。あの、単純で気の好い若者が消えた!?

 佐代里さんはうなずくと、さらに驚くべきことを教えてくれた。


「それに、夜にかけて、十数人の子どもたちが消えたようです。島長が急を知らせてくれ、急いでお祓いに行きましたが、その間にも数人の子どもや老人が消えました。

みな、家人の目の前で急に水となって融けたということです」


 私たちは言葉もない。


「これは、私たちを守る竜神様の力を、何者かが封印してしまっているからです。

ですから、その封印を解かねばなりません。皆さんのお力をお借りしたいのですが」


 そう言われてしまった。それは困る。ソラさんが村人みんなに変なこと吹き込んだおかげで、佐代里さんにまで期待させちゃってるみたいだけれど、私たちはただの女子大生で、何かの拍子でこの世界に来ちゃっただけなのに……。


「済まんけど、うちらは何もできひんで? うちらが行って足手まといにならへんか?」


 鏡子が本当にすまなそうに言うが、佐代里さんは首を振って、


「あなた方が修行中の身であられることは存じております。ですから、ついて来ていただけるだけでいいのです」


 そう言って私たちを見る。ヤバい、完全に誤解されちゃってるし、この子、見た目の割に押しが強い。


 その時、ソラさんが静かに訊いた。


「君は本当にそれでいいのかい?」


 佐代里さんは強い光を瞳にたたえて答えた。


「はい。竜神様のお心に従うことにしましたから」


 この時は二人の問答が何を意味しているのか、私には判らなかった。



 村人が目の前で融けて水になる……その現象を目の当たりにした浜の人々は、恐慌状態に陥っていた。

 人々は、この現象を何とかしてもらおうと、島長である龍喜左衛門を頼った。喜左衛門は代々、竜神を祀る家柄。雨風を自由に操り、それによって島を制圧しようと目論んだ武家たちを次々と退けて来た。


 祖父母を、父母を、我が子を、きょうだいを失った人たちや、『人が水になる』という現象がいつ我が身に降りかかるかもしれないと恐怖した人々は、こぞって喜左衛門の屋敷に押し寄せた。


 喜左衛門も頭を抱えていた。

 せっかく先祖が大変な苦労と、何代にもわたる犠牲を払って、この島に竜神を封印することに成功し、その力を自由に使って島を支配してきたというのに、自分が水になってしまっては何にもならない。


「いや、儂にはこのお守りがある。竜神がいくら祟ろうと、封印された神が儂の守護神に勝てるわけがない」


 お守り袋を握りしめて喜左衛門はつぶやく。

 そんな喜左衛門に、『竜神の封印を締め直したい』と佐代里がやって来て言った。


「封印の締め直しか、それもいいだろう。とにかく早くこの怪異を鎮め、村人たちの動揺を抑えるんだ」


 喜左衛門は一も二もなく賛成し、竜神を封印している社のカギを佐代里に預けた。

 そして喜左衛門は佐代里を連れて村人の前に姿を現した。


「皆の者、ここ数か月続く怪異について、竜神の祭祀である誓約うけい殿から話があるそうだ。謹んで話を聞こう」


 島長の言葉に、村人たちは静かになり、固唾をのんで佐代里が何と言うか待った。

 佐代里は前に進み出ると、鈴のような声を張って、村人に呼びかける。


「竜神様の力を削ぐ妖が、祠に結界を作って竜神様の力を封じ込めようとしている。この封印を解かなければ、島の滅亡は必定。

よって我は封印を解きに行くが、我と共に『不入谷いらずだに』に入ってくれる村人はいないか? 我を守るために」


 しかし、この呼びかけに応える村人は、一人もいなかった。


「晋作なら、我と共に来てくれただろうに……さすれば救えたのだが……」


 佐代里は寂しそうにつぶやいたという。



 結局、『不入谷』に行くのは佐代里さん、私、鏡子、そしてソラさんの四人だった。


「なんや『イラズダニ』って、おっそろしい名前やなぁ。幽霊とか出ぇへんやろな?」


 鏡子が怖気づいたように言う。ちなみに鏡子は幽霊やお化けの類が大嫌いだ。


「霊や妖の類は出ませんが、マムシやヒルは多いです。皆さん、足元をちゃんと隠すような服をされていますね。さすがは行者様です」


 佐代里さんがそんなことを言うので、今度は私の方が怖くなってきた。


「え、蛇が出るの?」


 すると、私が蛇など爬虫類や両生類が苦手なことを知っている鏡子は、道端に転がっている棒切れを拾い上げ、


「ふんっ!」

 ベキッ!


 私の手首ほどの太さがある棒切れを苦も無くへし折り、ポケットから取り出したサバイバルナイフで破断面を削って、即席の武器が2本誕生した。


「はい、こっちは戻子の分や。これで枝を叩いてヒルをぶち落としたらええし、草を叩いてダニをぶっ飛ばしぃ」


 そう言いながら、棒切れをくれた。


「でも、マムシには手を出さん方がええで。あいつらは獲物をじーっと待ち構えて、ぶわぁーっと跳びかかって来るねん。せやから、見かけたらできるだけスルーせんとあかんで」


 さすが、小学校低学年の時には、男の子に混じって野山を駆け回っていたという鏡子の面目躍如と言ったところだった。


 そんなことを話しているうちに、私たちは『不入谷』の入り口に着く。登山道の脇を流れる川を渡った所に、V字型をした谷の入り口が口を開けている。


 それはまるで、生きているものを何でも飲み込む、得体の知れない生き物の口のように見えた。入り口から木々が鬱蒼と茂り、先が見通せない不安もあっただろう。

 その時になって、ソラさんがいないことに気付いた。


「あれ、ソラさんは?」

「そう言えば、姿が見えへんな。いつからやろ、おらんようになったんは?」


 おかしい、私たちが神社を出たときには一緒にいたはず。喜左衛門さん宅で佐代里さんの話を聞いているときも、確かに私の横にいた。

 が、喜左衛門さんちを出発するときにも一緒にいたかと言われれば、ちょっと記憶がない。それは鏡子も同じだった。

 けれど、佐代里さんは気にもせず、


「空殿は後から追い付かれます。参りましょう」


 そう言って、『不入谷』に足を踏み入れた。



「やれやれ、佐代里が行くなら安心だ。これで儂のせがれにも安心して島長を譲れるな」


 佐代里たちが『不入谷』に出発した後、喜左衛門はそう言いながら屋敷に入る。彼は部屋に戻ると、山役人を呼んで訊いた。


「十兵衛、鉄穴かんな流しの件はどうなっている?」


 すると十兵衛は、首を振って答える。


「旦那さま、鉄穴流しは川を汚します。それに山に穴を開けたら、竜神様の水脈を断つ恐れもございます。真砂まさは川浚いで集めてはいけませんか?」

「川浚いでは十分な砂鉄を集められないだろうが」


 喜左衛門が切って捨てるように言うが、十兵衛は食い下がる。


「量が必要なら、海砂鉄はどうでしょうか? 幸い、海流の関係で南の海岸では赤目砂鉄がたくさん採れます。それに、漁にもあまり影響はしません」


 喜左衛門は、ギロリと十兵衛を睨んで吐き捨てるように言う。


「赤目砂鉄でも鉄は作れるが、いい鉄を作るには一度洗わんといかんだろう。それに南の海岸には川もなく、近くに炭を焼くのに適した森もない。つべこべ言わず、早くたたら場を完成させろ!」


 喜左衛門から怒鳴り付けられた十兵衛は、倉皇として部屋を出て行った。


「まったく、竜神は『誓約』の巫女たちによって封印されておるわ! 水脈がどうのとか、世迷い事ばかり並べたておって」


 十兵衛への悪態をついていた喜左衛門は、催したのか部屋を出て行く。そこに、音もなく忍び込んだ影が、喜左衛門の文机に近付き、中から何かを取り出すと、また音もなく出て行った。



 私たちは『不入谷』の奥へと進んだ。『不入谷』は谷底に枯れた川があって、両側は急斜面。しかも岩盤が脆いのか、大小の落石が転がっている。


 その落石が半端ないのだ。小さいのは拳大から、大きいのは2階建ての家くらいある岩が、行く手を阻んでいる。しかもそんな岩がいつ落ちて来るのか気が気じゃない。

 私的には、『雨竜島』に関する体験で、2番目に命の危険を感じたのはこの時だった(1番は後述する)。


 大岩を鏡子の手を借りてよじ登り、向こう側に降り立った時、佐代里さんはホッと一息ついて言った。


「ここまで来たら、後は楽です。もう半刻(7・8分くらい)歩けば、祠があります」


 それを聞いて、私も鏡子も、安堵のため息をつく。


「せやったら、一発張り切って祠まで行こか。こうしている間にも、水になる村人がおらんとも限らへんからな」


 鏡子の言葉で、私たちは再び奥へと歩き出す。


 その時、いつの間に、どこからやって来たのか、ソラさんが歩いて来て、佐代里さんに何かを手渡し、耳元で何かをささやいた。それを聞いた佐代里さんの顔がみるみる曇っていくのが、はた目からも分かった。


「あんた、見た目に似合わず下種な男やな。何ゆうて女の子泣かしとんねん?」


 鏡子がそう言って噛みつくが、ソラさんはどこ吹く風と聞き流し、


「……いいかい、佐代里殿が何をしても止めちゃいけない。それが決まりだから」


 そんな不思議なことを言う。考えてみれば、この人の存在そのものが、私の体験の中で一番の不思議だった。


「佐代里はん、急がんといけんのんとちゃうん? ソラさんが何言うたかは知らへんけど、やることやった後でど突き回したらええやん。うちらも加勢するで?」


 鏡子がそう言って佐代里さんを励ます。下を向いている佐代里さんは、


「……そうですね、『水の民』が犯した過ちは、いくら竜神様に謝罪してもお許しにはならないでしょうが……」


 そう、沈んだ声でつぶやくが、ソラさんはそんな佐代里さんを痛ましそうに見詰めながら、静かに言った。


「『水の民』のほとんどは、誓約うけいのことを忘れていても、誓約に従って生きているはずですよね?

竜神と『水の民』が交わした誓約を破った者さえ折伏すれば、『水の民』が水の精に戻ることはないでしょう? 介添役の言うことが信じられませんか?」


 ……最後の方は聞き取れなかったが、それが佐代里さんに希望を与えたらしかった。


   ★ ★ ★ ★ ★


結・全ては水に


 ソラさんから何か言われた佐代里さんは、しばらくの間、肩を震わせながら泣いていた。

 しかし、30分ほどすると泣き止み、懐紙を取り出して涙を拭き、


「……参りましょう。これ以上、竜神様をお待たせするわけにはまいりません」


 そう言うと、再び歩き出した。


 佐代里さんとソラさんは並んで歩き、二人は何かを話しているようだったが、私たちにはそのやり取りの意味がよく分からなかった。


「……空殿、教えてください。あの時、誓約のご指名を頂いた乙女は3人いました。なぜ我を島から連れ出してくれなかったのでしょうか?」


 佐代里さんが不思議なことを訊くと、


「ぼくにとってそれは、祖神おやがみ様との約束で、してはならないこと、いえ、したくてもできないことだったんです。その点はご理解ください。

それに他の乙女は、その後数年を経ずしてみんな亡くなっています。佐代里さんが誓約を継がれることは、速いか遅いかの違いだったのではないでしょうか?」


 ソラさんがそう答える。佐代里さんは深くため息をつき


「……そうですか。そう言うことだったのですね?」


 ただそれだけ言うと、後は無言で歩みを進めた。それまでとは違い、心なしか迷いが消え、何か清々しいものを感じさせる後姿だった。


 その後姿を見て、私は何かぞくりとした。言葉では言い表せないが、さっきまでの彼女とは何かが違う……別人とまでは言わないが、確かにさっきまでの佐代里さんとは違った雰囲気を感じていた。


「……怖いな……」


 私が思わずつぶやくと、それを聞きとがめたようにソラさんが低い声で言う。


「怖がる必要はないさ。彼女は進むべき道を進む覚悟が出来たんだ」


 そんなソラさんに、私はさっきの言葉の真意を訊いた。


「ねえソラさん。さっき『佐代里さんが何をしても止めちゃいけない』って言ったけど、どういう意味?」


 するとソラさんは、チラリと私を見て肩をすくめ、


「そのままの意味さ。彼女がやることを邪魔しちゃいけない、それだけだ」


 そう言う。私はさらに突っ込んで訊いた。


「じゃ、ソラさんには、佐代里さんが何をするか分かっているわけね?

彼女が何をするか、どうして私たちがそれを止めちゃいけないか教えて?」


 するとソラさんは、再び肩をすくめながら答えた。


「……さてね? 先のことなんか分かるわけないじゃないか。ぼくは超能力者じゃないんだから」


 ……ぶん殴ってやろうかと思ったが、私のキャラじゃないから我慢した。


 10分ほど歩くと、明らかに雰囲気がおかしい場所に着いた。夜、谷の中だから月ももう見えない。本当なら漆黒の闇であるはずで、それを覚悟したから私と鏡子はスマホの電池を取り換えて、その光で先を照らしていた……って、夜!?


「……騒がないで。今は確かに午前中だ。夜のように見えるのは、君たちが夜のように感じているからだ。

思い出してごらん、喜左衛門屋敷を出たのは明け方だったろう?」


 私たちの狼狽を見て取ったのか、ソラさんがそう静かにつぶやく。そう言えば、私たちは夜明け前に佐代里さんから神社に呼び出され、それから喜左衛門さんの家に行き、『不入谷』に出発した時は朝日が昇っていた。


 そのことを思い出した時、周囲が明るくなった。場所が場所だけに、日陰で薄暗がり程度ではあったが、少なくとも『漆黒の闇』ではない。


 佐代里さんが立っている先を見ると、高さ1・8メートルくらいの木造の社があった。造りは立派で、古くはあるがまだまだしっかりしているようだ。

 そして社を取り囲むように、石を1メートルほど積み上げたものが四つ置かれている。


「うわぁ、あの石塔、なんかキショいな。戻子は何も感じひん?」


 鏡子が不意に、四つの石塔を見て言う。


 そう言われれば、石塔は苔むしたというより、何かの液体をぶちまけられたかのように黒や茶色のまだら模様になっていて、しかもその周囲には虫の死骸がたくさん転がっている。そして(気のせいかもしれないが)石塔からは黒い靄のようなものが湧き出ているように感じた。


(あれは何だろう……あの靄のせいで、視界が黒っぽいのかな?)


 私が石塔に目を奪われていると、


「始まるぞ。佐代里殿に注目し、気を散らすんじゃない。でないと術に取り込まれて、家に帰れなくなるぞ」


 ソラさんがそう言ったので、私と鏡子は慌てて石碑から目をそらし、佐代里さんを見つめた。



 佐代里さんは、社の扉にかけられた鎖の錠前を開け、鎖を取り去った。そして扉を開くと、中には1メートルほどの石の祠があった。祠の扉は閉じている。

 その扉を開くと、中には丸くて上が尖がった、潰れた水滴のような形をした透明な物が置かれていた(後でそれが『宝珠』という物だと知った)。


(あれが竜神様を祀るご本尊? じゃ、これで封印は解けたの?)


 私がそう思った時、ソラさんが、


「……いや、まだだ。むしろこれからが本番だ」


 そうつぶやく。心の中を見透かされたのは、これで何度目だろう。ソラさんには私が考えていることが読めるのだろうか?


 ソラさんが言ったとおり、佐代里さんは宝珠に一礼すると、何やら祝詞のようなものを上げ始めた。透き通った声は谷中に響き渡り、佐代里さんを中心に一定の範囲だけ、靄が払われて視界が明るくなったように感じた。


(やっぱり、あの石と……)

「そのことは考えるな!」


 低いが鋭い声が、私の思考を引き裂く。鏡子も同じことを考えかけていたのか、ハッとしたように佐代里さんに視線を戻した。

 私たちは祝詞を聞くことに徹することにした。意味は解らなかったけれど、聞いていると心が晴れやかになり、悩みが消え、そして何か空虚感を感じるような祝詞だった。



 これは後日ソラさんから聞いたことだが、佐代里さんが祝詞を上げている最中、村では大変なことが起こっていた。

 なんでも、次々と人が水へと還っていったらしい。


 最初は、喜左衛門さんの一家が犠牲になったそうだ。

 息子の勘兵衛は、たたら製鉄場のことで山役人の十兵衛と話をしていたそうだ。

 その時、勘兵衛が不意に苦悶の表情を浮かべ、胸を押さえて苦しみだした。十兵衛は慌てて喜左衛門に知らせると、喜左衛門は驚いて十兵衛と共に息子のもとに駆け付けた。


「勘兵衛、しっかりしろ! すぐに医者を呼ぶからな!」


 喜左衛門がそう叫ぶと、勘兵衛は顔を上げたそうだ。その顔は真っ白く、能面のように表情というものがなかったらしい。

 ギョッとした喜左衛門が、


「勘兵衛……」


 やっとそれだけ言うと、勘兵衛は地獄の底から聞こえるような声で、


「……我を閉じ込め、水と山海を穢し、神仏を恐れぬ者よ。その報いは大きいと覚悟せよ」


 そう言うと喜左衛門の目の前で水になって消えたという。

 茫然とした喜左衛門は、


「旦那さま、貴様のせいでそれがしも地獄に行くことになった。無間地獄で貴様を待っているぞぉーっ!」


 彼を狂ったような眼で見つめ、血の涙を流しながら叫ぶ十兵衛の咆哮に戦慄した。


「うわわああーっ!」


 喜左衛門は、十兵衛もまた彼の前で水となって消えるのを見て、叫びながら自分の部屋に駆け込む。お守りだ、私には封印のお守りがある……喜左衛門は文机の引き出しを開けた。そして、目をむいて固まった。


「……ない……ない、ない、ない……」


 喜左衛門は文机をひっくり返し、手金庫もあさり、納戸に駆け込んで帳面箪笥もくまなく探したが、


「私の封印守りがない!」


 そう叫ぶと同時に、指の先が透けてきた。


「あ、ああ、ああああ……」


 腕まで透けて来た喜左衛門が、絶望の表情を浮かべた時、急に心臓を握りつぶされるような痛みが走り、


「うぐわああっ!」


 胸を押さえて転げまわる。口からは血泡を吹き、目や鼻や耳、身体中の穴という穴から、搾り取られるように血が噴き出す。


(殺せ、早く水に還せ!)


 のたうち回りながらそう思う喜左衛門の頭の中に、荘厳で冷酷な声が響いた。


『そちの罪は、水に流せない』


 結局、喜左衛門が水になったのは、悶え苦しんで息が切れた後だったという。



 祝詞が終わった。佐代里さんは私たちを見つめ、静かに話し出した。


「……ここは、竜神様を封じ込めた場所です」


 えっ!? と思った。祀られている竜神様が、何者かに封印されたんじゃないの?

 しかし、佐代里さんはもう一度言った。


「ここは、竜神様を封じ込めた場所です。我の先祖が神を呪縛する呪法を完成させ、その邪法で竜神様をここに閉じ込めました。その神通力を利用するために」


 ……つまり、神をも恐れぬ所業を行ったことになる。


(だから、この島に手を出す勢力がなかったのね)


 私は納得した。数日ここで暮らし、晋作やみんなと話をして、私たちがいるのは安土・桃山時代の前後であることは分かっていたのだ。そんな時代に、堺みたいな特別な何かなしに、自治のような体制が取れるとは思えない。


「我のような乙女が、月に一度結界石に血を浴びせることで穢れを創り、竜神様がどこにも逃げられないようにするところから始めたそうです。

その後、幾世代かにわたって結界石の範囲を縮め、ついにこの島に閉じ込めました」


「……一つ確認したい。結界石というが、最初は京観けいかんだったのではないか?」


 ソラさんが訊くと、佐代里さんは苦し気に首を振り、答えた。


「我が知る限り、乙女の首を積んだ話は聞いていません。ただ、何度か竜神様の神通力を削ぐために、京観的な結界を作ったと記録には残されています」


「……そうか……」


 ソラさんは眉を寄せて黙り込んだ。

 佐代里さんは、そんなソラさんに、


「清算の時が来ました。お二人を連れて、すぐにここから逃げてください。あなたなら、帰る方法はご存じでしょう?」


 そう言ったかと思うや否や、佐代里さんは四方の石塔を蹴り倒し、宝珠を恭しく石祠から取り出すと、私に渡してきた。


「これを持っていてください。水が来たら、流れの中で手放して」


 そう言うと佐代里さんは結界の中に戻り、祠に向かった。


 ブジュッ!


 嫌な音が聞こえた。まさか、と思った時、佐代里さんは背中を向けたまま叫んだ。


「逃げてっ!」


 その言葉と同時に、首を懐剣で刺し貫いた。


「佐代里さんっ!」

「来るんだ!」


 私は、ソラさんに手を引かれて駆けだした。鏡子も後ろからついて来る。


「どっちに逃げればええ?」


 鏡子が叫ぶように訊く。ソラさんは迷いもなく、


「洞窟がある岩礁だ!」


 そう叫び返した。


 私たちは駆けに駆けて海岸を目指す。『不入谷』を抜けた時、不意に地面が揺れだした。


「急ごう!」


 揺れる地面は走りづらかったが、歯を食いしばって駆けた。心臓がどきどきして、足も攣りそうになる。けれど、この島は沈むんだ。早く逃げないと!

 その時、急に海面が盛り上がったと思った途端、私たちは波に飲み込まれた。


(え、うそ!? 津波なんて来なかったけど)


 私は慌てて上を見た。青く澄んだ水の中に、私は沈んでいた。

 でも、息は苦しくない。水面から差し込むお日様の光が、まるで天使の梯子のように揺らめき、頭の上を見れば青い空を映した水面に、小さな泡がいくつも上って行く。


(きれい……)


 さっきまで必死で走っていたのに、私はなぜかそう頭の中で思った。


 その時、急に耳障りな音、甲高く、それでいて鼓膜を揺するような重低音を含んだ、何とも形容し難い音が頭の中に響いた。思わず耳を塞いで目を閉じ、身体を丸めてしまう。


 その中に、私は何かの声を聞いた。それは女性の声のようでもあり、男性の声のようでもあった。その言葉をよく聞くとそれはこう言っていた。


『竜は雲を呼び、水を司る。汝ら水の民が我にした所業は、誓約により汝らに返る』


 その声が聞こえた途端、急に空が曇り、水の温度が下がったと思うと、息が詰まる感覚が襲ってきたのだ。


(うわっ、これヤバいかも……)


 私は急いで水面を目指す。しかし、どうしたことかいくら力を入れて手足を動かしても、水面は近付いてこない。


 その時、焦ってじたばたする私は、『それ』を見た。

 目の前、ほんの10メートルくらいに、『それ』はいた。赤く光る目で私を見つめながら……竜神様だ。竜神さまは何かを求めるように私を凝視していた。


 ごぼっ!


 私はびっくりして息を吐いてしまう。大きな泡がいくつも、無数の小さな気泡と競争するように水面へと向かう。


(……本格的にヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバい……)


 私は無茶苦茶に手足を動かして、水面へ上がろうとするが、水は私を捕まえて離さない。

 竜神様が、赤い瞳を私に向けて、何か言いたそうにしているが、失礼ではあるがその時、私はそれどころじゃなかった。

 私は、誰かが私の手を引っ張るのを感じながら、気を失いかける。


「宝珠だ。戻子、宝珠を竜神に!」


 ソラさんの声が聞こえる。私はしっかり握っていた宝珠を手放した。宝珠はキラキラと輝きながら、竜神様の所まで流れて行った。


『受け取った。礼を言うぞ』


 竜神様の目が輝き、私は、そのまま気が遠くなった。



「戻子、起きんかい! いつまで寝とるんや!」


 私は鏡子の声で目覚めた。頭がくらくらする。よく見ると、私はあの岩礁の上で眠っていたらしい。


「……起きた? 急に『気分が悪い』って言うから、心配したやんか。気分はどないや?」


 鏡子は私の顔を覗き込んで訊く。私は顔をしかめながら答えた。


「頭痛い」

「脱水やな。戻子、ちっとも水分摂ってへんかったからな。これでも飲みぃな」


 そう言ってポ〇リのペットボトルを差し出す。

 私はそれを受け取り、少し口に含んだ。水分が染みわたり、頭の痛みもマシになった気がする。


「……ソラさんは?」


 私は、またソラさんの姿が見えないので鏡子に訊いた。

 しかし、鏡子の答えは信じられないものだった。


「空? 誰それ? 戻子がハマってるゲームの主人公?」

「誰って……化野空さんだよ。5日前にファミレスで知り合って、ここのことも教えてもらって、一緒に雨竜島に行ったじゃない」


 私が説明すると、鏡子は心配そうな顔で手を私のおでこに当てて言う。


「……戻子、熱ある?」

「ないって! 本当に知らないの?」

「知らへん。第一、ここを見つけたんは戻子やし。今日の朝、5時48分のバスでここに来て、一通り洞窟内の石碑や壁を調べて、さあ帰ろうって時に『気分悪い』ってなったんやで?」


 私は混乱してきた。今日? じゃ雨竜島に3日間もいたのは、夢?

 考え込む私を、鏡子は痛い人を見る目で見ている。


「今日、何日?」

「調査日の3日目や。昨日は神社やお寺を回って、ぎょうさん興味深い話を聞いたやんか」


 調査の時間的経過におかしいところはない。ただ、私の記憶では2日目のフィールドワークでは目ぼしい話を聞けなかったし、私たちが雨竜島で過ごしたと思われる3日間と、その間の鏡子の記憶がすっかり消えているだけだ。


 しかし、ここは常識的に考えて鏡子の話が本当だと思った方がいい。私はきっと日射病になりかけて、夢を見ていたんだと思うようにした。それにしても、リアルな夢ではあったが……。


「……帰ろっか。夢を見ていたみたいだし」


 私がそう言って立ち上がると、鏡子はまだ少し心配そうな顔で、


「明日N県まで帰るんはきついんちゃう? 宿探そうか?」


 そう言ってくれるので、甘えることにした。


「うん、お願い」


 そう言って私は、フィールドノートをバッグにしまおうとして、何か紙片が挟まっているのに気付いた。


「? 何だろ?」


 私はそれを開いて、中に書いてある字を読む。そして、にっこりと笑った。


『そういえば、言ってなかったけれど、佐代里さんは亡くなったわけじゃない。対岸の人たちの協力で竜神様を祀る神社を建立している。そこで島の人たちを祀って生涯を終えたと神社縁起にあるんだ。調べてみるといい。

 元気でね。縁があったらまた会えるさ。化野空』


   (終わり)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

前作、『綛糸かせいととせせらぎの物語』を、くうの他に戻子ちゃんや鏡子ちゃんというキャラクターを加え、『無常堂夜話』としてシリーズ化することにしました。主に『不思議系』の物語を不定期に投稿しようと思います(『キャバスラ』の後は『六花の乙女たち』と『青き炎の魔竜騎士』の連載を再開します)。

では、またいつか。

     シベリウスP

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