AI時代における、書き手/読み手に対する結論
一通りAIをいじった末、
確信したのでこのテキストを垂れる。
テキストの読み手、及び書き手。
このどちらもが、
「自分にとって楽しいことはなにか?」を
真剣に、全力に希求せねば、滅ぶ。
自分由来でない「価値」は、
すでにAIが無限に生む。
逆に、希求できれば楽しくなる。
加速度的に。無制限に。
自分を起点にして興味を示せれば、
世界が無限の速度で広がるのだ。
以上。
AIの進化は、やばい。
すでに思考レイヤにおいて、
現段階で人間に勝てる要素がない。
ただし、AIでは
どうしようもない部分がある。
「あなたがあなたであること」、
「あなたがあなたとして考えること」だ。
これをどう例えるか、で考えた。
ここでは望遠鏡にしよう。
顕微鏡でもいい。
このどちらもが、人間では
到底見出しきれないものを見せてくれる。
ただし、見たいものしか見れない。
無論、見ようとして、
思いがけないものが見える、
というケースもある。
が、ここでもこれがある。
「それにあなたが、興味を見出すか、否か」。
ならば、これも言えるのだ。
「読み手が、なにを楽しいと思うのか?」
「彼らが、何を読みたいと思うのか?」
AIは、これを一見判断できる、
ように見える。
できないのだ。
統計から、傾向から、
「示されたパターン」に対する確度を
到底人間では検証しきれない膨大な仮説から
導き出しているに過ぎない。
「あなたの欲するもの」
「読み手の欲するもの」
そのものにはならない。
ただし、近似はする。
どこまでも近似はする。
「あなた以外のみんな」の傾向について、
あなたがAIに勝てるはずがない。
ただ、あなたそのものにはなれない。
そのうち脳にAIが
接続されたりもするだろうし、
そのときにどんな地平が
待ち受けているかはわからないが、
それまで、あなたは
あなた以外の何物でもない。
ならばあなた以外の、
特定の「あなた」のことなら、
いまのAIではどうしようもないのだ。
以上、何も語っていないポエムを吐いた。
俺は俺を深めます。
あなたはあなたを深めてくれ。
「誰か」によりかからない、
「私」と「私」で
バチバチにやり合いましょうぜ。