第七話 結婚?
それから一年の日々が過ぎた。その間の勇人君の将棋は圧勝を極めていた。
何も遊ばずに淡々と勝利を決めて行っていた。
その理由をふときいてみた。すると、早く私に会いたいからと、言われた。
私と遊ぶ時間を増やすために、将棋に費やす時間を早く終わらせようとしてくれているのだそうだ。
そのため、今までよりも将棋に全力を込められるという事らしい。
今までなら、圧勝してしまうのは、将棋の美学に反すると言って、あえて接戦を演じていたらしいが、最近はそれよりも私との時間を大事に思ってくれているらしい。
それはまさに私にとってうれしい事でもある。
だって、勇人君が私を大事に思ってくれているという事だから。
新聞とかでは、渡部八冠覚醒とか言われているが、実際は勇人君が自身の実力を全部出しきったからというのが真実だ。
それから私たちの距離も近づいてきて、帰りのハグもするようになった。
そんなある日、羽田さんに飲みに誘われた。メールで、「今日時間空いてるなら、一緒に飲まないか」と。
勇人君は今日は将棋のタイトル戦で旅館に泊まっているから、今日は私は今日一人だ。
本来タイトル戦というのは二日戦うものもある。その場合、旅館で泊まるのだ。
その場合一日目は小手調べの、序盤戦もしくは、中盤に差し掛かったところで、終わる場合が多い。
本格的に戦いが始まるのは二日目からだ。
まあ、これも勇人君が教えてくれたことだが。
そして肝心の対局。すでに勇人君が優勢だ。
これならば明日は夜休憩までには対局が終わっているだろう。
さて、勿論の事、今日の夜は暇なので、羽田さんの誘いに乗る。
恐らくは、だからこそ、今日誘ってくれたのだと思うが。
「君はどう思う?」
店に入った瞬間に羽田さんにそう言われた。
「この店は私と渡部君の行きつけなんだ。ほら見てみろ」
そこにはたくさんの人のサインがあった。勇人君の物、羽田さんの物、野球選手やサッカー選手のサインまである。
「すごいですね」
「この店は人気なんだよ。ほれ」
羽田さんに日本酒を渡される。正直日本酒は少し苦手だが、嫌いではない。酔った時の高揚感がすごいのだ。
とはいえ、あまり飲むと倒れるので、そこまでは飲まないのだが。
そして、酒のつまみに、ポテト、唐揚げ、野菜炒めなどなどいろいろ頼んだ。
そして、一通り頼み終わった後、羽田さんがふうと、息を吐いた。
「それで、本題だが、お前たちは結婚しないのか?」
そして重い口ぶりで、そう言った。
「どういうことですか?」
思わず聞き返す。
「私としては君と渡部君はすでに恋仲だと思うんだが」
「はあ……」
「君たち早く結婚したらどうだ?」
「はあ!?」
結婚? そんなの全く考えてなかったんだけど。
「私には君たちお似合いと思うんだがねえ。というか、そもそも君たちも。もう結婚しているようなものだろ」
「いやいや、そんなことは……」
ある気がする。最近お帰りのハグをしてるし、ベッドで毎日一緒に寝てるし、ご飯も一緒に食べてる。流石に、性行為なんてものはしてないけど……。
というか、そもそも同棲してる時点でという話なんだけど。
そう考えたら実質今もう結婚してるみたいなもの?
「難しいことは言っていない。ただ、籍を入れたらどうだっていう話をしているだけだ。最近私にはまた渡部君が苦しんでいるように見える。彼は君との今のふわりとした関係を思い悩んでいるんじゃないかと思う。そこでどうだと思ってな」
確かに、勇人君は最近思い悩んでいることが増えた。それも、将棋の件ではなく。
「今度少し機会があったら勇人君と話しようと思います」
「それがいい。まあ、私にできることは背中を押すことだけだ。勿論、決めるのは君たちの意思なんだから」
そして、羽田さんと一緒にいろいろなご飯を食べた。羽田さんはそんな中、豪快に酒を飲んでいた。
あまり酒を飲まないイメージがあったけど、実際は大酒飲みだったんだなと、驚いた。
本当に、羽田さんの飲む勢いはすごい。私だったら、もうすでに倒れてるかもしれない。
いや、今考えるべきことはそれじゃなくて……。
私と勇人君が結婚?
全く考えてすらなかったんだけど。
いや、いつかはそんなことを考えなければならないとは思っていたのだけど。
ただ、私がそんなことをする権利がないと思っている。
私は勇人君に見合う女じゃない。
それを羽田さんに言うのもしのびないので言ってはいなかったのだけど、私のくそみたいな過去を知ったらきっとみんな離れていくだろうから……。
それに、結婚した後、それが発覚した場合。……私の暗い過去が暴かれる恐れすらあるのだ。
もう、羽田さん本当に難しいこと言わないでよ。
「お帰り」
翌日、元気に帰って来た彼にそう告げると、いつもの通り、私にハグしてくれた。羽田さんのあの言葉もあって、なんとなく意識してしまう。どうしよう。
勇人君の体って意外にがっしりしてる……そんなことを考えてしまう。
今日はいつもより長いし、羽田さんの言葉もあるせいで、変な思考が巡る。巡る。
結婚かあ、私の過去の事がなかったらすんなりできるんだけれども。
そして、ハグが終わった後、少しだけ調べた。
棋士と言ってもマスメディアにばれないように結婚する方法はあるのか。
軽く調べると、過去に有名なプロ野球選手も、結婚式をハワイで行って結局マスメディアにばれなかったという一例がある。ばれずに結婚することも可能なのか。
となれば、式場は海外の方がいいよね。
そうなると、ばれないように海外に行かなきゃダメ……か。
ああもう、マスメディアにばれないようにって難しいなあ。
いや、そもそも結婚するとは決まったわけじゃない。
ああ、もう!
「何をしているんだ? 葵」
そんな時、勇人君が話しかけてきた。
「結婚式場……?」
パソコンの中に表示されてる文字を勇人君が読み上げる。ああ、なんで見ちゃうの?
やらかした。そう、咄嗟に思った。まだ、決めたわけじゃないけど。
「葵、結婚するのか?」
いや、なんでそんな冷静な声で言うの?
「相手は誰だと思う?」
思わず私はそう言ってしまった。
絶対今言うべきこと、それじゃないのに。
「羽田さん……いや、あの人は結婚してるしなあ」
相変わらず、そこらへんは興味がなさそうなのよね。もしかして勇人君ってバカなんじゃ……。
でも、将棋以外の事、それこそ、私の事を考えてるそぶりは会ったから、馬鹿ではないと思うんだけど。
「もし私が結婚したらこの家からいなくなるかもよ」
「それは困る。僕には君がいないと困る。結婚するのはやめてくれ。……ただ、もし本当に葵が結婚するつもりなら僕にはそれを止める権利はないことは分かっている……僕は……君が必要だ」
「……」
ああもう、唐突なその言葉、ドキドキしちゃうじゃない。ああ、もう。勇人君はずるい。
その瞬間、変な迷いは断ち切れた。
もう、変な事は考えずに、私の気持ちに正直になろう。
私の過去は知られたときに、もう観念して全てを自分の口から明らかにしよう。そう思った。
「もう、正直に言うわ。私が好きなのは……あなたなの。前も言ったけど」
「え?」
「私は、あなたのことが好きなの。私はあなたのいる生活がかけがえないの。だから、お願い。私と籍を入れましょう」
ああ、なんかプロポーズにしては少し変な形になってしまった。でも、今もう同棲状態にある私たちがこれから先進むのは結婚しかない。
「分かった。僕も同じ気持ちだ。君がいてくれて本当に良かった。君の存在が僕を支えてくれた。僕の将棋へのつらい気持ちを多少なりにも和らげてくれた。僕は君が大好きだ」
「ありがとう……そう言ってもらえてうれしいわ」
そして、私たちはキスをした。人生初めてではないけども、それでも貴重なキスだ。
そのキスは素敵な感じがした。そう、好きな人とのキスなのだ。気持ちがよくないわけがない。