第六話 佐渡川隆
それから二ヶ月が経過したある日、
「葵、そろそろ見せたいものがある」
そう言って彼は私の隣に座った。中々興奮している様子だ。
なんなのだろう。渡部君が興奮するようなこと。まったく見当もつかない。
だが、一つだけ分かることは、将棋に関する話ではないかという事だ。
何しろ、渡部君の趣味嗜好は将棋に固まっているのだから。
「なに?」
そう、私が言うと、彼は「ふふふ」と、ためらうように言う。
なんだか気になるなあ。
気になって仕方がない。
気になって私がそっと、彼の持っている本を見る。将棋関連の本であるという事が伺えた。
「葵、実は……これ見てほしいんだけど」
そこで観念したかのように勇人君が一冊の棋譜書を見せてきた。
「葵もこの棋譜の美しさを感じてほしい」
「え?」
その棋書には一人の男性の名前が書いてあった。佐渡川隆司という名前が。
佐渡川隆司、佐渡川隆司。もう一回、のぞき込む。が、どうやら見間違いではないようだった
まさか、渡部君はあいつのことを尊敬してたの? 棋士として。
あいつのことはこの世で一番のくず人間だと思っている。
今も許せないという気持ちが芽生えているくらい。
そう、あいつはこの世に生を受けてはいけない人間なのだ。
頭の中で色々な情報が錯乱する。
だが、渡部君の「どうしたんだ?」の一言で我に返った。
この気持ちを悟られるわけには行かない。
悟られるわけには行かないのだ。もし、悟られれば、私は渡部君の元を離れなければならないかもしれない。
「いや、その人私も名前聞いたことがあるなって」
私は咄嗟にそう言い訳をした。
実際に聞いたことがあるどころの話じゃない。私が最も憎むべき人間なのだ。もう、名前も聞きたくない。
「僕の尊敬する人なんだ、過去にいろいろあって死んじゃったんだけど」
死んだというワードを聞いて、あの日を思い出す。
あの地獄の日を。
勿論、死んだ今でも、あいつのことは許せない。
でも、私は……棋譜を重んじる渡部君の棋譜を見るチャンスをつぶした。私は奴が死んだ原因に当たる。
それは許される行為ではない。
だが、あの日、事を起こさなければ、私の人生は灰色だったことは間違いがない。
「渡部君。ごめんね」
私はたってもいられずそう呟いた。
本人に直接謝罪することはできない。だから聞こえないような小声で。
「どうしたんだよ」
あ、聞こえてた。比較的小さな声で行ったはずなのに。
「ううん、棋譜見せられてもよくわからないかもしれないから」
咄嗟に別の理由を口にする。
実際将棋のことはよくわかっていたつもりだ。だけど、棋譜なんてきちんと読めるほど棋力が上がっているわけじゃない。嘘ではないのだ。
そこから実際に渡部君は棋譜の解説をし始めた。
何々が凄いとか、これこれが凄いだとか。
普段渡部君の棋譜解説を聞くのは楽しい。だって、楽しそうなんだもん。
だけど、今日は違う。それに負の感情が加わっていく。
危機ながら、これがあいつの将棋かと思った。案外繊細な攻めをする。駒を渡さずに、少しずつ敵陣の守備を柔らかくする。
なるほど、これは勇人君が好きになるのもうなずける。だけど、やっぱりむかむかもする。
現実のあいつとは大違いで。
私はそこからも、負の感情を表に出さないように気を付けながら聞いた。
正直な気持ちで言えば、この場を今すぐ離れて、叫びたい気分だ。
だけど、それはかなわない。
渡部君に心配なんてさせたくないのだから。
結局渡部君の棋譜講座は小一時間続き、五時だという事でご飯を食べることにした。
今日のご飯は事前に作ってあった。
だからこそ、暗い気持ちで料理を作らなくても済むという事は実にありがたい事だ。
そして、ご飯を並べ食べ始める。
今日は鳥を焼いた。
鶏肉の塩コショウ焼だ。
「美味しそうだな」
渡部君がそう言って次々と食べていく。
幸せそうな顔だ。
渡部君の笑顔を見れていいなと思う反面、その顔を見るのが辛くなってくる
やはりあの男の件だ。
なんでだろう、なんで私はこんなくらい顔をしているんだろう。
私の感情が分かんない。
そしてその翌日、私は思わず家を飛び出した。
理由は明白。あのくそ野郎の話題を渡部君が出したから。
正直、勇人君の好きな人があの人であってほしくはなかった。
笑えない。笑えないよ。私はうまく笑えない。
やっぱり、私の心は汚れてしまった。
渡部君には心配させてしまうだろう。
だけど、あの状態の私では渡部君の横にいるのがふさわしくない。
なんだか、私の行動も短絡的だったかもしれない。
だけど、急に息苦しくなってしまったのだ。
正確には家に居られなくなったというのが正しいだろうか。
渡部君は罪がないはずなのに、あれからあいつの将棋が好きな渡部君という存在に一種の微々たる違和感を感じ、空気が薄くなり、それが夜に一気に来たという訳だ。
もう、勇人君の家に行く前に契約していたマンションも解約してしまった私に行き場所なんてない。
両親の家に行くというのも、少し躊躇われる。
別に不仲という訳ではない。
渡部君と一緒に暮らしていると伝えたときに、大喜びしてたというのもあるが、理由はもう一つある。
恐らく両親の家に行ったら、理由を訊かれることになる。そんな時に佐渡川隆なんて言うくず野郎のことを両親に思い出させてしまうのは申し訳なく感じるからだ。
両親も、私とあいつの関係は深く理解しているからだ。
「頼れるのはこれだけね」
全財産の五万円を握り締める。これも勇人君からもらったお金だ。
渡部君に少しだけ実家に帰ります。多分すぐに戻ってくると思う、という書き置きを残しているので、そこまで心配をかけることは無いと思う。
すぐに戻れるかどうかは、私の精神状態によるが。
どこに行こう。そう思い歩いていると、近くの通りを出た。
こんなところ普段なら行かないところつまり、夜の街だ。
居酒屋が多い街であるが、それ以外の意味も持つ。
見ると、道端で、誘惑している格好の女性が男性に話しかけている。
女性の方は、かなり服装が露出しており、谷間なんて堂々と見せている。
少し吐き気がする。
こういうのは、性行為はセットではないだろうけれど、それでも、自分の性を売って客引きしている感じだ。
悪いとは言わないが、私とは済む世界が違うと思う。
「お姉さん僕と飲まない?」なんて、ホストっぽい男の人に言われたがそれも無視した。
ポストに貢ぐなんて私は嫌だ。
そして近くの居酒屋に入った。
少しここで、時間を潰そう。そして、どっかのビジネスホテルとかで寝よう。
そこで酒を飲む。
普段はあまり飲まない酒だ。少し苦い。
でも、気分が高揚してきた。
つまみのから揚げを食べながら飲む。
なんだか、嫌な事を忘れられる。
今でも、あいつに受けた傷が疼くのだけど。
そこに一人の男がやってきた。
「なんですか?」
私は訊く。
「いやーね。お嬢さん美人だねと思って」
「そうれすか」
もう呂律も回らない。
「ちょっと俺と飲まない?」
「いいれすね」
もう何もかもがどうでもいい。
私は彼と一緒にいろいろと話した。私が勇人君が嫌いな人を尊敬していたことなどを、人物名を告げずに。
男はそれに対して「大変っすね」などと軽薄な感じで相談に乗る。
だけど、その中であることに気付いた。
全然楽しくない。なんだろう、こんな生産性のない会話。勇人君となら楽しいはずなのに、今は地獄だ。
「ちょっと、姉ちゃん気に入ったから、ちょっとホテルでも行かねー?」
ホテル。つまりラブホテルの事だろう。
つまり、私とエッチするために話を聞いてたのだろう。道理で全然面白くなかったわけだ。
当然だ。私に気に入られようと、私とエッチな事がしたいから、相談に乗ってたという事だ。
普通に考えればすぐに分かることだ。
何しろ、私に不自然に優しくしてたのだから。
これこそまさに、最近よく見る、どしたん、話聞こうかという物だ。
そう思った瞬間、私にはどうでも良くなった。
私の心配事についての話は。
今の会話で、私に得られた学びは一つだ。
結局渡部くんと一緒に話している時が1番楽しいと言う事だ。
渡部君はそういう時、下心なんて出さない。
私の話を聞いてくれる時は、真剣に聞いてくれる。
そう思ったら、目の前にいるチャラ男なんてどうでも良くなった。
私の中の、佐渡川という名前を出した渡部君への理不尽な嫌悪感も無くなった。
ああ、帰りたい。
今すぐ渡部君と会話がしたい。
勿論佐渡川に対しての、怒りの念は渡部君に話すわけにもいかないし、佐渡川隆と、過去に起こった事件のことも話すつもりもない。ただ、そんなことを忘れて、楽しいドラマやゲームの話をしたい。
そう、心の底から思った。
そして私は、「ごめんない、帰ります!」そう言って会計を即座にすまし、家までの帰路に就いた。
チャラ男はポカンとした顔で、こちらを見ている。
チャラ男には悪いことをしたかなと思うが、あちら側も下心ありで、私に話しかけてきたのだ。
別にチャラ男に気を使う必要なんて一切無い。
不思議だなと、思う。先ほどまであんなにも会いたくなかった渡部君に今、ものすごく会いたい。
会って抱きしめたい、抱きしめたくてたまらない。
こんな、私の変な気持ちで、彼との関係を終わらせたくない。
勇人君と、あいつは違うのだ。
勇人君があいつが好きだから勇人君も嫌いになっていいはずはないのだ。
「はあ、帰ってきた」
そう、家の前で呟く。今は朝の三時。
正直家に入るのが怖い。でも、入らなければ何も起こらない。
それに、きっと、渡部君は寝ているだろう。
だが、家に入ると、渡部君はリビングでアニメを見ていた。
起きていたのだ。
そして、私の顔を見ると、すぐさま「葵!!」そう叫んだ。
一瞬ビクッとなったが、ここは誠意を見せなければならない。
「渡部君、ごめん」
私はそう言って謝った。
心配かけたのだ。誤って済む問題でもない。
「ごめんってどうしたんだよ。ただ、出かけてただけだろ」
そう、渡部君は優しく言う。なんだかそれを聞いて、私の中の罪悪感が強くなる。
「それでどうして家から出たんだ? 実家に戻るには、あまりにも戻ってくるのが早い気がするけど」
渡部君の声は優しい。私を全く責めていないかのように。
「ごめん。私は勝手な理由で家を飛び出してしまった。しかも、嘘までついちゃった。本当は気分転換に出かけてたの」
「……それは、佐渡川さんに関係するのか?」
さん付けにやはりもやもやする。でも、その理由なんて言えるはずもない。
「ただの、私の逆恨み」
そう、私は言う。本当の理由なんて渡部君は知らない方がいい。
「何かあったのか?」
「いや、私が好きじゃなかっただけだよ。ごめんね」
「それは構わない。人間性に問題があったらしいから。それよりも、戻ってきてくれて本当に良かった。葵が出て行ったらと思うと――」
「そんなことしないよ。私はこの家が一番居心地いいんだもん」
正直、今までで1番居心地がいいかもしれない。両親には悪いが、実家よりもかもしれない。
「そうか。でも、戻ってきてくれて本当に良かったよ」
「私も、……ねえ、渡部君好きだよ」
私は思わずそう言った。
「これは、友達関係じゃなくて恋愛の意味で」
私の気持ちを言うのは初めてだ。いきなりで、渡部君をびっくりさせてしまったかも知れない。
「……葵。僕はそういう時気持ちで葵を見ているのか分からない。ただ、一つ言えるのは、葵がそばにいる時が1番安らぐっていう事だ。僕は、葵がいなくなって本当に焦った。それは、書き置きを見てもだ。だけど、今僕は安心している。確かにこれは愛かもしれない」
そう、渡部君は、自己分析をする。
やっぱりプロ棋士だなあと思った。
そして私たちはハグをした。
そのハグは人生で一番暖かかった。