第五話 羽田の心配
「おはよう」
私はぱっと体を起こした渡部君に対してそう言う。
「ああ、おはよう」
彼も答えた。明るい声で。それを聞いた瞬間良かったなと思った。
「今日はどこかに行く?」
「今日は、静かに過ごしたいな」
「そっか」
私たちはとりあえず家で簡易的な料理を造り、カードゲームを用意する。
彼は一人客を連れてきた。そこに来たのは羽田九段だ。
思ったよりもすごい人が来てびっくりした。
いやでも、そう言えば羽田さんと親交があるって言ってたな。
「さて、トランプなら君に勝てるのかな」
そう言ってニヤリとする羽田さん。
はたして私、ここにいていいのかな。
羽田九段と言えば初の七冠王を達成した人で、渡部君の前は羽田さんが時代の覇者だった。
この前渡部君に負けたとはいえ、今も十分に強い人のはずだ。
「君は葵さんと言ったかな? 本当に君がいてくれてよかったよ。最近の渡部君はおかしかったから」
「そうでしたか……」
「まあ、そんな彼に負けたんだけどね」
そう言った羽田さんは笑っていたが、私は笑えなかった。
そして、大富豪をすることとなったが、
私、この人たちと勝負になるの?
そう思うと少し怖くなる。何しろ、将棋のプロという事は思考のプロであるという事。
対して私は勉強なんてほとんどしてない高卒だ。
まあ、その点で言えば渡部君は確か中卒なのだけど……
そして大富豪の結果は、意外や意外。渡部君のぼろ負けだ。
意外にも渡部君は大富豪が意外とへただったのだ。
だから実質羽田さんとの一騎打ちになったわけだ。
羽田さんは将棋のプロらしく、丁寧に適所適所で、カードを使っているように見えた。
数戦して私が勝てたのは最初の戦いだけだった。
「僕……トランプ弱すぎるな」
そう、大富豪が終わった後、渡部君がぼやいた。
「でも、あの時二があったんだろ? だったら私が一を出した状況で出していれば、流されるからそのまま革命して、四を出せば勝ちだったんじゃないか? 三はもう消えているわけだし」
「いや、でもその時点で三がないなんて知らなかったし」
「いや、最初に山嵐で三枚消えているわけなんだから、そのあと、私が三を出した時点でなくなっているからね」
そう、感想戦? で盛り上がっている二人を見るとこちらまでなんだか楽しくなってくる。
最終的には覚醒したのだろうか、渡部君の三連大富豪で試合は終わった。
そうして夜も近くなった時、羽田さんが、「ちょっと葵さんに言いたいことがある」と言って、私を呼び出した。
「葵さん。渡部君の事なんだが」
やっぱりその話か。
「君から見て渡部君はどう思う?」
「私から見てですか? ……色々と心配です」
渡部君はまだ回復しきっていない。今のままだと、いつかまた倒れる可能性もある。
私が今日渡部君の家に泊まったおかげで、若干は回復しただろうけど、それも一時的な物な可能性が高い。
予断は許さないと思う。
「そうか、彼はやっぱり将棋が楽しくないと?」
「……私から見て、将棋は責任感だけで、やってるものだと思います」
「そうか。何かあったら連絡して欲しい。私にできる事なら力を貸すから」
「……羽田さんにとって渡部君の何なのですか?」
ふと私は訊いた。その瞬間、変な質問をしてしまったかもしれないと、軽く公開をする。
「将棋仲間というだけではない、彼は、私を抜いた天才だ。そんな彼を助けてあげたいと思う事の何が悪いか。……私は彼の苦しみはよくわかってるつもりだよ」
羽田さんも、渡部君のせいで忘れがちだが、天才と呼ばれる棋士だ。
天才同士、分かることがあるのだろう。
そして、三日後、渡部君に取って試練の日が来た。
そう、渡部君の対局日だ。
渡部君はここ最近将棋盤に触れずに生活してきた。
それは傍目、うまく行っていたように見える。
だが、渡部君の対局日が近づくたび、顔が絶望に近づいていた。
私が毎晩隣に寝ているのにも関わらずだ。
「はあ、行きたくないなあ」
そう、渡部君はぼやく。
その顔を見ると、本当に行きたくなさそうだ。
渡部君は意外と字顔に出やすいタイプだ。将棋を指している時とか、大富豪をしているときは、決してそんなことは無いのに。
世界の終りのような顔をしている渡部君。次のこう告げた。
「僕が対局すると必ず勝ってしまう。対戦相手がどんなに研究していても。しかも勝った時にネットの悪意を受けることになる。それが嫌なんだ。ただ、勝っただけで、将棋界面白くないとか書かれるのが嫌なんだ。僕が将棋界を汚しているみたいで……」
彼は本当につらそうだ。対局場まで行かなければならないのに、足が動かない、そんな様子だ。
この前の遊園地の時よりも悪化していると感じた。
なんでだろう、将棋からは離れさせてたのに、それが逆に行けなかったの?
何とかして、楽にさせてあげたい。
「無理して行くことないよ。仮病とか使って――」
「いや、それじゃあ、ダメなんだ。スポンサーによって成り立っている将棋界。ここで僕がずる休みしたら信用問題になる、休めないんだ」
ああ、渡部君は真面目だ。私ならサボるという選択肢を取りたくなりそうなものを。
確かに、サボりは絶対にいけない事だ。だけど……。
多分そう言うところも、彼を苦しめている原因の一個だと思う。
全部を本気でやろうとするところ、周りからの言葉を全部一心に真に受けてしまうところ。
そこが、渡部君の良いところであり、欠点だ。
だけど、私はそれが渡部君らしくて良いと思っている。
「じゃあ、行ってくるよ」
「でもっ!!」
「言ってくる」
そう言って渡部君はドアをパタンと閉めた。
私はそっと、ドアの向こうを見る。すると、とぼとぼと、重い足取りで、歩いていた。
大丈夫かなあ……。対局場まで無事につけるのかなあ。
心配すぎる。
思えばあの日も行きたくないって思いながらの対局だったのだろうか。
一応メールっと。
(羽田さん。渡部君は無事対局場に向かいましたが、その足取りは重そうでした)
送信っと。羽田さんには渡部君の最新の状態を知ってもらいたい。
この前も何かあったら頼ってほしいと言っていたし。
(そうか、分かった)
羽田さんからは、そう言ったシンプルなメールが返ってきた。
一時間後、対局が始まり、私は将棋中継を見る。
その画面の中で渡部君が将棋盤の前に座って考え込んでいる。
やっぱりかっこいいな。
……でも、すごく将棋を指したくなさそうな顔だ。
その顔は、今すぐ対局場に行って慰めてやりたいと思ってしまうほどだ。
だけど、私には彼を黙って見てやることしかできない。対局場にはスマホ持ち込み禁止だから、元気づけるメールや電話も出来ないのだ。
そして私は一言、
画面越しの彼に頑張れと、呟いた。
そしてその間にも私にやるべきことがある。主に家事だ。
渡部君の負担をなくすために頑張らないと。
彼が帰ってきたのは四時だった。
彼は返ってくるとすぐに、私に対し「早く葵に会いたくて、急いで将棋を終わらせてきた」と言ってくれた。
その言葉を聞いて正直嬉しかった。
私は彼を抱きしめた。
「え?」
「嬉しい気持ちを表すためのハグだよ。もしかして嫌だった?」
「いやではないよ」
「そ、なら良かった」
彼も私を抱き返してくれた。