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天才棋士との結婚生活  作者: 有原優
なぜ天才棋士は亡くなったのか

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第28話 羽田


 そして彼は翌日、対局場に行った。今日はB級一組戦で、対局があるのだ。対局相手は羽田勲三冠だ。今は四十三歳で、衰え始める年齢だが、まだまだ若手には負けてはいなかった。彼の今のタイトル数からもそれは分かる。


 その対局では、相矢倉の古き形の対局となった。



 本格派で、中々駒がぶつからない。この局面、互いに時間を使いながら対局が続いていく。

 長き中盤戦。だが、終局は早かった。終盤に入るとすぐに二人共持ち時間を使い切り、六〇秒将棋になった。



 互いに時間を五九秒、つまりぎりぎりで指していく。

 そのせいか、羽田が先にミスをした。別にアマチュアから見てすぐに咎められる手ではない。だが、プロなら別だ。

 貰ったあ! とばかりに皆川はその手をとがめた。三七銀打ち。一見、飛車でも角でも取れるが、取ったら最後、どっちでとっても、厳しい手が残る。


 一応唯一局面を悪くしない手は、受けずに攻め合う手だが、どちらにしろ、AIの評価値は九〇〇程度下がる。

 羽田にとって我慢の時間が続く。だが、羽田の受けは強く、中々寄せ切れない。そんな中、今度は皆川が間違えた。


 重い攻めをしてしまい、攻めのスピードが下がったのだ。

 その隙に羽田に攻めの手番を渡してしまい、そのまま寄せられた。


「負けました」


 皆川が投了した。皆川は頭を下げながら、自分が今までどれだけの回数負けましたと言ったことかと思った。

 今期は勝率四割を切っていて、B級一組からも落ちそうになっていた。

 つまるところ、調子が悪いのだ。


 そして、感想戦(将棋の内容を対局者同士で話し合う事、反省会に似ている)が終わったタイミングで、羽田が、「この後時間あるか?」と皆川に行った。


 もう時間は、十一時半を回っていたが、迷わず「はい!」と答えた。


 近くの飲食店に行った二人はとりあえずビールを頼み、本日の対局の感想を十分程度話した。そこから、話は渡部の話になった。


「君は渡部君の事を調べてるんだろ?」

「はい、そうです」

「だからここに呼んだんだ。私が知っていることについて話そう」

「それはうれしい限りです」


 そう言って頭を下げた。


「まず、彼とは竜王戦決勝トーナメントで当たった。その時は、血気盛んな中学生に現実を見せてやろうと思った。何しろ、これ以上負けたらプロ、大人としての威厳がないからね。だけど、その対局で、甘く見ていたという事が分かったよ。

 中盤の局面の組み立て方、そこには中学生じゃなく、老齢なベテランと対局している気分にさえなった。


 だけど、私は当時五冠だったからね、絶対に負けてはならないと思った。負けたら恥だと。それから暫く互角の局面が続いた。難しい局面だが、私が一歩リードしていると思ったよ。でも、違う。途中から攻めが激しくなり、あらゆるところにいる駒が強烈な働きをするようになった。三〇手くらいも前に打たれた桂馬がよく利いていたことには驚いたよ。たぶん彼は後々のことを考えてその桂馬を打っていたんじゃないかと思うよ。別にそれで激しく形勢を損ねたとは思わないが、ただ、確実に少しずつ悪くなっていたのが分かった。だが、何を指し手も、どんなにいい手を指しても、もうだめだった。

 それから十分後、投了した。まだ七十七手しか指していないにもかかわらずだ。

 仕方がないと思う。今からどう指し手も局面がよくなる気がしなかったのだから。だが、それはいいわけだ。完敗するくらいなら、あっさりと投了した方が、まだいいと思ったからだ。

 その局後、たくさんのマスコミが入ってきた。正直嫌だったよ。これからたくさんの記事が書かれるのだと思ったらな。しかも、渡部四段をどう思われましたか? とまで質問された。本当に、敗者をいたわれと思った。

 こんな屈辱は初めてだった。感想なんて、ムカつく気持ちしかなかった。今まさに負けたのだから」


 そう言って豪快に笑う羽田。


「正直悔しいから早く引退しろって思っていたよ。そんなことを言ったら私が渡部の引退を望んで、引退の話し合いに出てたと思われるが。まあ、それは置いといて、その後は、王将戦リーグでぼろ勝ちすることで、何とか威厳を保った。だが、それもぎりぎりだ。勝ったとはいえ、いくらでもまぎれの手があり、敗勢になっても中々負けてくれなかった」


 そして羽田はビールをゴクっと飲み干し、店主に「お代わり」と言った。すると店主は「あまり飲み過ぎないでくださいよ」と言ってビールを注いだ。羽田は「分かっている」と、注がれたビールを飲む。


「羽田さんは、常連なんですか?」

「ああ、この店にはいつでも来ている。そうだ、店主さん! もう一人棋士が来ているんだが、サイン増やしとくかい?」

「ああ、頼むよ。皆川だろ」


 そして、皆川は丁寧にサインを書く。そして書き終わった後、店主は丁寧に壁に飾った。そこにはいろいろな棋士のサインがあった。湯川永世竜王や、飯山女流四冠、阿武八段、木村三冠などたくさんのサインが飾ってあった。他にはプロ野球チームのロッテの選手のサインもあった。軽快な守備が魅力のショートのサインだ。だが、そんなサインの中で一番皆川の目に留まったのは、渡部五冠という文字だった。


「店主さん、渡部もここに来たんですか?」

「ああ、来たよ。あの人が来た時は正直驚いたよ。まさかこんな著名人が来るとは思っていなかったからな。だは、話してみたら気さくな感じだった。彼はこうも言っていた、将棋が楽しすぎて、やばいってな」


 なるほど、五冠王になった二十二歳の時にはまだ、将棋は楽しかった。

 つまりまだ、将棋には飽きていなかったのか。


「でもな、来たのはその一回だけだった。SNSマナーのなってない客が、渡部さんの写真を撮ったんだから。彼とその客は怒鳴り合いになった。そして、結局店を出て行ったんだ。おかげでうちは客が増えたが、その客もいい客とは言えなかったけどな。要するに有名人は大変だなという事だ」


「いあ、そういえば、羽田さんの話をさえぎってしまいましたね。どうもすみません」


「いやいい。……それで、初年度はそこで終わりだったが、渡部君の二年目は、四度対局して、全ての対局で勝った。した。その時は渡部キラーと言われて、謎の違和感があったな。普通、私の方が各上だというのに。とはいえ、渡部も中々の実力を見せていて、二年目から、タイトル挑戦はなけれど、全部の棋戦でいい成績を残していた。だからこそ注目されていた。


 そこからしばらくは、私が渡部に連戦連勝だった。だが、君も知っている通り、彼の五年目に久しぶりに負け越した。 その時の彼は強かった。まるで人が変わったように。


 本来将棋は、野球とかみたいにオフシーズンとかはない。年度が替わったからと言って大きな休みがあるわけじゃない。なのに、三月に対局した時とは全然別人になっていた。まず四月に一回負け、六月から行われる棋聖戦で三敗した。ストレートで負けなかっただけまだましだったが。


 そして、それからまともに勝てなくなった。渡部キラーとか呼ばれていたのに、今度は私が全然彼に勝てなくなった。そのせいで、一年で三つものタイトルを失い、一年で四冠から、一冠、棋王だけになってしまった。それも二年後に奪われるんだがな。その時から、彼の戦型は変わって行った。四間飛車とかは勿論、プロならたまにしか刺さない、鬼殺しや、筋違い角などの所謂B級戦法や、急戦戦法を指していった。


 でも、そこで驚くのは、なぜかそれでも勝ち続けたという事だ。本来色々な戦法を指そうとすると、一戦法ごとの研究時間が少なくなるのに」


 それは、皆川にとってもうなずけることだ。彼は主に矢倉という戦法一つに絞って指していた。勿論、苦手戦法への対策もばっちりだ。


「彼の目は確かに、死に始めていた。その時からだろうな、将棋が面白くなさそうだったのは。面白いほどにつまらなさそうに指す彼の姿はもう、盤面からわかったよ。それと同様に、私は舐められているんだろうなって」


 それは皆川も経験したことがある。


「そこから、マスコミへの受けごたえも雑になっていた印象もあるし、将棋も雑になった。だから、引退するのは目に見えていたな。実際すぐに引退した。私は彼を手助けした。私生活の手助けもした。だが、引退のとどめを刺したのは私だ。とある人に相談されたんだよ、渡部君を、助けてほしいって。それで、私が引退勧告をしたというわけだ。まあ、私から言える話はこれくらいだ。もしかしたら皆川君も知ってる話も多くて退屈だったかもしれないが」

「いえいえ、役に立ちました」

「そうか……そうだ。もし話を聞きたいなら青空葵に尋ねてみたらいい。彼女は良く知っていると思う」


 そう言って、羽田は、連絡先が書かれた紙を皆川に渡す。

 そこには渋谷区千駄ケ谷と書いてあった。将棋会館の近くだ。すぐに行ける。


「今度行きます」


 皆川は笑ってそう言った。

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