その3 女性一選
雅と大輝は午前中から動物園に来ていた。少し見て回ったあと、二人は園内の屋台のラーメンで早めの昼食をとった。
雅は大輝が美味しそうに麺を啜るのを見て微笑みながら訊いた。
「長野は楽しめた?」
啜っていたラーメンを飲み込んでから大輝は答えた。
「もちろん」
「もう少し遠出もできたらよかったね。軽井沢とか」
「一緒に海にまで連れていってもらったから充分だよ。軽井沢なんて帰りに通るし」
「そっか」
「まあ、たぶん寄らないけどな」
「なんで?」
「雅がいなけりゃつまらないから」
「…………」
雅は何も言葉を返せなかった。
雅と大輝は午後も動物園を存分に堪能したあと、夕方に無料送迎車で最寄駅まで戻ってきた。
駅の近くの食堂で早めの夕食をとる。食事をしながら雅は訊いた。
「バイト先のホテルって温泉なんだっけ?」
頷く大輝。
「そうだよ」
「満喫した?」
「うん、まあな」
「長野は他にも温泉がいっぱいあるけど、どこか行ってみた?」
「行ってないよ」
「せっかく長野まで来たのに」
「観光で来たわけじゃない。温泉なんて行く暇があったら雅に会いにくるよ」
「でも、去年やおととしはどこか行ってなかった?」
「あれは雅と予定が合わなかったからだよ。バイトもしてなかったから時間はあったし」
「ごめんね」
「別に謝らなくていいよ。俺が勝手に来てるんだから」
「大輝くんも自分の生活を大切にした方がいいよ。高校に入学したばかりなんだから、学校の友達と遊んだり…」
「友達はいらないな。遊んでる時間なんて無いし」
「バイト?」
「うん、コンビニ。夏休み中は休んでもいいって許可もらってる。他の学生たちが多めに入ってくれるから」
「そうなんだ」
「でも時間が無いのは勉強もしてるからだよ。バイトのせいで成績を落としたくないからな」
「へぇ、偉いね」
「だって雅、絶対にいい大学へ行くだろ?俺も同じ所に余裕で受かるぐらいになっとかないとな」
「…………」
雅はまた言葉が出なかった。
雅と大輝は電車に乗って姨捨駅に着いた。
駅のホームには展望デッキや線路に背を向けて設置されたベンチがあり、眼下の見事な棚田やその先に広がる千曲の街が見渡せるようになっていて、日本三大車窓の一つに数えられる景色が楽しめる。夜にはその景色に変わって美しい夜景が広がる。
周囲にはその夜景を楽しむ人たちが何組かいた。それぞれが思い思いにベンチに座ったり柵に寄りかかったりして、ちりばめられた街の灯りを目や写真に焼きつけていた。
雅と大輝は展望デッキに立って夜景を眺めていた。雅の声が弾む。
「すごいね、これ」
大輝も頷く。
「ああ。キレイだな」
雅がイタズラっぽく笑って大輝を見た。
「あたしの方がキレイって言いたいんじゃない?」
真面目な顔で雅を見る大輝。
「いや、いま普通にそう思ったけど、それをマジで口にしたら陳腐に聞こえるだろ?」
その言葉自体が言ったも同然だという事に大輝自身は気付いていない。雅は気付いて赤くなった。
照れる雅に気付かず、大輝は続けた。
「よく『君の方がキレイだよ』なんてキザなセリフがドラマとかに出てくるけど、あれを素で言って歯が浮かない人ってスゴいと思うよ」
雅は照れ隠しのつもりで話に乗っかった。
「それでうっとりしちゃう女もバカよね」
「そうかな。そんなこと言われてうっとりしたり照れたりするのは、言った男のことが好きな証拠だろ?好きでもない男に言われてもキモいって思うか、良くても『悪い気はしない』って程度じゃないか?」
雅はさらに恥ずかしくなった。自分の気持ちを見透かされた気がしたからだ。
そんな雅の心の動きを知らないまま、大輝は夜景に目を戻して言った。
「まあ、陳腐なセリフでも言いたくなる気持ちはわかるよ。この景色、夜景百選に選ばれてるんだろ?確かにめちゃくちゃキレイだけど、言っても百選の内の百分の一だからな。でも好きな子は本人にとっては一分の一、女性一選なんだよ。比べるまでもないだろ?」
ロマンチックでもキザでもない理屈っぽい言葉である。言っている大輝自身も雅を喜ばせようとか口説こうなどといった意図などまるで無く、結果的に雅を賛美している事になるなどとは気付いてすらいない。
けれども、それに気付いてしまう雅は恥ずかしくてしかたがなかった。
「よ……世の中にキレイな女性なんて芸能人なんかも入れればいっぱいいるんだから、好きな子も含めて女性百選ぐらいにしてもいいんじゃない?」
大輝は笑った。
「頭いいのにわかってないな、雅は。確かにキレイだなあ。目の保養になるなあ。みたいに思う女性はいっぱいいるよ」
「でしょ?目の保養なんて最上級の褒め言葉じゃない」
「違うな。それって夜景にも当てはまる褒め言葉だろ?」
「そ、そうね」
「でも好きな子に対しては、その気持ちを言い尽くす褒め言葉なんて浮かばない。それに、まずそんな余裕なんて無い」
それから大輝は雅をまっすぐに見て続けた。
「ただひたすら目と心が奪われてしまうんだ。切なくて苦しくて狂いそうなんだ。その子の前では世の中の全ての美が霞んでしまう。同列に並べられる他の九十九人なんて存在しないんだよ」
雅は恥ずかしさのあまり大輝の視線を避けるように横を向いた。
「な、なるほど。でも、それって客観性がないよね」
「キレイとか美しいって、そもそも主観的なものじゃないの?世間の言う美しいなんてのは客観的に見えるけど、実際は主観の最大公約数だろ?」
「そ、そうね…」
「美しいは主観なんだから、だとすれば好きな子は本人にとって世界一美しいって事になる」
大輝は自分の胸に手を当てて続けた。
「この胸の鼓動は、それが真実だという何よりの証拠だよ」
雅は真っ赤になった。大輝はどうやら一般論を話しているつもりらしいが、どう聞いても大輝と雅の事だった。というよりも、自分たちの事を一般論風に話しているだけだという事に自分で気付いていない。
大輝は頭は悪くないはすだが、天然な所がある。思った事、考えた事をそのまま喋るので、その場の空気や状況と噛み合わないことがよくある。頭の中だけで完結してしまうのだ。
熱烈な愛情攻撃をくらって虫の息の雅に対して、世間話をしているだけのつもりの大輝は、そのまま世間話をただ続けた。
「でも百分の一とはいえ、この景色を雅と見られてよかったよ。一生の思い出になる」
雅は大輝の顔を見つめたが、視線を夜景に戻してから小声で言った。
「……じゃあ、充分よね。もう長野に来なくてもいいじゃない。だから……あたしを過去の思い出にしてね」
大輝は夜景をじっと見つめている。
「…………」
雅も夜景を見つめている。
「…………」
大輝は夜景を見つめたまま呟いた。
「……嫌だ」
「……どうして?あたしは大輝くんの気持ちには応えないよ?」
「…………」
「じゃあ、もう少し正確に言うね。あたしは大輝くんのこと、好きじゃない」
夜景の一点を見つめる大輝。
「…………ウソだ」
「……ウソじゃない」
大輝は少し上を向いた。記憶を辿るようにゆっくりと言葉を並べる。
「……中学一年の三学期が終わって春休みに入った最初の日。あの日の事を、俺は絶対に忘れない。あの日の雅の涙を、俺は絶対に忘れない」
「あれは……」
雅も少しだけ上を向き、あの日の事を思い出していた。
雅と大輝は二人だけで湘南の海に来ていた。堤防に並んで座って海を眺めていた。すでに日は落ちかけていたが、まだ人影はちらほらと目に入った。
海を見たまま、大輝は言った。
「だんだん遅い時間になってきたな。これからどうする?夜のご飯の事とか、お母さんに何て言ってきた?」
雅は海を見つめたまま答えた。
「…………何も言ってきてない」
驚いて雅を見る大輝。
「え?じゃあ、もうご飯の用意はしてるんじゃない?急いで帰らなきゃ」
「…………」
「……どうした?」
「…………帰りたくない」
「え?なんて?」
雅はゆっくり大輝を見てから言った。
「今日は帰りたくないの」
大輝は雅の顔をじっと見つめてから訊いた。
「……何かあった?」
雅は小さく首を振った。
「……まだ大輝くんと一緒にいたいだけ」
「それは俺もそうだけど……」
自嘲の薄笑いを浮かべる雅。
「ごめん。迷惑だよね」
下を向く雅。それをしばらくじっと見つめていた大輝は、大きく頷いてから言った。
「わかった。泊まろう」
雅は驚いて顔を上げた。
「え…?」
大輝の表情には強い意志が表れていた。
「でも、コンビニには寄らせて。ホテル代を持ってないからお金をおろさないと。あと普通の宿では大人だなんて騙せそうにないから、ラブホになるけど……いい?」
唖然とした顔のまま、雅は訊いた。
「泊まるなんて言ったら親に怒られるでしょ?」
「かもね。ただ、雅は怒られてもいいって思ってるんだろ?何も言ってきてないんだから」
「……うん」
「だったら一緒にいるよ」
「あたしが、このまま家にはずっと帰らないって言ったら?」
少しのあいだ雅の顔を見つめてから大輝は笑顔で答えた。
「……じゃあ、俺もずっと帰らない」
大輝がそう答える事はわかっていたのに、試すような質問をしてしまったことを後悔しながら雅は訊いた。
「なんで?」
「雅を守るって決めてるから」
雅の目が潤んだ。それをごまかすように、雅は海に目を戻した。
「…………ウソよ」
「ウソ?」
「帰らないなんて冗談よ。困らせてゴメンね」
「…………」
「遅くなるとお母さん心配するから、あとで電話も入れる。もう少ししたら帰ろ」
「泊まらなくていいのか?」
雅は大輝を見てニコリと笑った。
「あたしとラブホに泊まりたかった?」
大輝はいたって真剣に答えた。
「……雅が望むなら」
大輝の真顔に、雅は逆に戸惑った。
「あたしは…………。だって、責任が取れないじゃない。あたしたちまだまだ子供だもん」
「ああ、そうだな」
「もっとも、責任が取れても取れなくても、どうせ赤ちゃんなんて出来ないんだけどね」
「責任って、そういう事だけじゃないだろ?」
「そう?」
「そうだよ。大人の望む責任は取れないかもしれないけど、俺はいつだって雅に対してだけは責任を取る覚悟が出来てる」
雅は寂しげな表情で大輝の顔をじっと見つめた。
「……だったら今日の責任を取って?」
「今日の?」
「あたしに帰りたくないって思わせた責任……」
大輝はその言葉の真意には気付かず、あっさり頷いた。
「いいけど……どうやって?」
大輝の顔を見つめる雅。
「わからない?」
首を傾げたまま、雅の顔を見つめる大輝。
「…………」
大輝の顔を見つめていた雅が、ゆっくりと目を閉じ、顎を少しだけ上げた。緊張からか、表情は固かった。
その仕草の意味をさすがに大輝も理解できたが、つい疑問に思った事を口に出してしまった。
「これが責任を取るって事なら、これ自体の責任はどう取ればいい?」
雅は目を閉じたまま微笑んだ。ムードが台無しなのに、こういう大輝の天然な所を雅はけっこう好きだった。
「じゃあ、あたしを家まで送ってくれる?それで責任を取ったって事にしてあげる」
雅が目を閉じていて見えないという事には考えも至らず、大輝は大きく頷いた。
「わかった」
雅は促すように、さらに少しだけ顎を上げた。
大輝は雅の肩に手を置いた。雅がちょっとだけビクリとする。
大輝は少しのあいだためらっていたが、ようやく顔を近づけて、ぎこちなく、けれども心を込めて優しくキスをした。
雅は固く目を閉じていたが、口づけた瞬間の想像以上の優しい感触と大輝の唇の震えを受けて、心と共に表情が緩んだ。そして柔らかく閉じた目の端から、まもなく涙が流れ落ちた。
唇を離したあと、大輝はその涙に気が付いた。
「どうして泣いてるの?」
首を小さく振る雅。
「なんでもない……」
雅は下を向き、指の背中で涙を拭いた。
姨捨駅に電車が入ってきて停まり、少しして出ていった。辺りが静かになってから、大輝は言った。
「新学期になって会えると思っていた雅が学校に来ていなかった。クラス分けの表を必死に探したけど、雅の名前はどこにも無かった。一年の時の木村先生に訊きに行ったら、雅は長野の中学校に転校したって言う。愕然としたよ」
夜景を見たまま雅は言った。
「ごめんね。黙って行って」
雅の横顔を見つめる大輝。
「雅のお母さんに話を聞いてすぐにわかったよ。長野で全てをやり直すつもりなんだって」
「うん…」
「結局、俺は雅を守りきれなかったんだって事もな」
雅は慌てて大輝を見た。
「そんなことない。東京にいるあいだはちゃんと守ってもらってたよ。でも、あたしは普通の女の子になりたかったの」
「わかってる。でも、これは俺の気持ちの問題だから」
「…………」
「あの海へ行った日は、俺とのお別れの日だったんだろ?」
黙って頷く雅。
大輝は呟くように言った。
「あの日の気持ちが俺の一方通行だったなんて信じない。あの時の雅に気持ちが無かったなんてウソだ。……でなければ、あの涙はじゃあなんだったんだ」
苦しそうな表情で夜景に視線を戻す雅。
「…………」
大輝は泣きそうな顔で微笑んだ。
「……あの時のことを俺の見た夢だとか言わないよな」
雅は苦しそうな表情のまま大輝を見て無理に笑った。
「ねぇ……お願いだからわかって。あたしの中では、あの春に全てとお別れしたの。辛かった子供時代の全てと。すごく覚悟が必要だったの。やっとの思いでお別れ出来たのよ。引き戻さないで」
「引き戻すつもりなんてない。だから俺の方から来てるんだ。――俺は雅と別れたつもりはない。だって雅は俺にさよならを言わなかったじゃないか」
「そうだけど……」
「あの日の別れ際、雅の家の前で俺は『またな』って言ったんだ。そしたら忘れもしない、雅は笑顔で『またね』って返事をしたんだ。俺はそれだけを頼りに自転車で峠を越えてやって来たんだ。今さら俺は止まったりしない」
「…………」
今の大輝を止められる言葉は、雅には到底思いつきそうになかった。
次回「その4 颯空の見学」は8/15(金)に投稿する予定です。




