その2 雅の告白
雅は言った。
「あたしの大切な秘密を聞いてくれる?」
その言葉で、桜子は背筋を正した。くつろぎの空間であったはずのリビングの空気は一気に張りつめた。
だが、それは長くは続かなかった。雅の核心へのゆっくりとしたアプローチが、桜子の緊張をほぐす猶予を与えた。
雅はあらためて桜子に質問した。
「桜子は、あたしが生物的に妊娠できると思う?」
真剣な表情をしていた桜子の顔は崩れ、ポカンと口を開けた。
「へ?」
雅は一瞬だけ後方を見てから桜子に訊いた。
「脱衣場で見たこと覚えてる?」
桜子はもちろん覚えていたが、チラリと茉莉花を見たあと、ピンときていないと言わんばかりに訊き返した。
「見たことって?」
「あたしの体を見たでしょ?」
直球だった。茉莉花にも隠す気が無いという事は、あの脱衣場での出来事を既に話してあるのだろう。桜子が色々と考えて配慮する意味などない。
「うん。…………見た」
「その上で妊娠できると思う?」
「できないの?……かな?」
「そうよ?…………大輝くんの子供なんて産めないのよ」
「え?」
それから桜子は下を向いた。
「そっか……。産めないのか…」
「…………」
雅は桜子の寂しそうな顔を少し見ていたが、話を続けた。
「じゃあ、生理不順にはなると思う?」
桜子は少し考えてから答えた。
「よくわからないけど…………ならない……かな?」
「うん。そもそも生理が無いもの」
「そっか…」
「あそこへはね。ホルモン治療で通ってるのよ」
「ホルモン治療?」
「そう。知り合いに見られたら生理不順って答えようとは思ってたけど、まさか桜子に見られるとは思ってもいなかった」
「…………」
よくわかっていない顔をしている桜子に、雅は静かに訊いた。
「性同一性障害、または性別違和って知ってる?」
「うん。日下部くんのやつでしょ?」
「そうよ。あたしはそれなの。日下部くんとは性別が逆だけどね」
「なんとなくそうなのかなって思ってた」
「どういうのかは知ってる?」
「う~ん。……正直、よくわかってないかも。雅ちゃんが女の子だって事ぐらいしか」
雅は微笑んでから、ゆっくりと説明した。
「うんとね、あたしは生まれた時は男の子だったの。だから、体は男の子のままなんだけどね。心は女の子なの」
そこで茉莉花が口を挟んだ。
「だから、その言い回しは間違いだって言ったじゃない。あんたたち当事者は、なんでわざわざ誤解を生むような言い方をすんの?」
少し考えてから雅は答えた。
「……わかりやすいから?ホントにそう思ってる当事者も多いし」
「正確に伝えられるわかりやすい言い回しぐらい考えておきなさいよ」
「いや、そもそもあたしは誰に伝える気もなかったから…」
渋い顔をする茉莉花。
「そっか……。そうだった」
茉莉花は桜子の方を向いた。
「横からごめん。少しわたしから説明させて。わかりにくかったら質問してね」
桜子は戸惑いながらも頷いた。
「あ…うん」
「雅は生まれた時から女の子よ。体が男の子で生まれちゃっただけ。でも脳は女の子で生まれてきたの」
「……脳?」
「そ。お母さんのお腹の中で体は男の子に作られたのに、ホルモンなんかの影響で脳は女の子に作られたの」
雅が割り込んだ。
「ちょっと待って。それは一つの説でしょ?」
茉莉花は手でシッシッとやりながら言った。
「現段階では最有力でしょ?脳に性別がある事も、脳の性分化が胎児期に起こるという事も、ほぼわかってるわけだし。ややこしくなるから、雅は少し黙ってて」
雅は困り顔で黙った。
茉莉花はあらためて桜子を見た。
「だからね。性同一性障害って、つまり脳は女の子なのに体は男の子ってこと。…あ、日下部くんはその逆ね」
桜子は首を傾げた。
「それって雅ちゃんの説明と、どう違うの?」
「雅は心が女の子って言ったの。その説明が世間では一般的なんだけど、それが誤解を生んでる大きな原因なのよ」
「誤解?」
「だって心って言われると、変えられるのかなって思っちゃうでしょ?そのせいで心の病気だとか、下手をすれば我が儘みたいな言われ方をしちゃう」
「な、なるほど」
「でもホントは脳っていうハードの部分から女の子だから、変わるわけないの。わかるかな?」
「うん。なんとなくだけどわかる」
「雅は自由に性別を選択して女の子になったわけじゃなく、生まれる前から女の子なの。そもそも性別の選択肢なんて最初から無いのよ。それって桜子もわたしも同じでしょ?」
「そう言われると、よくわかる」
「その点、多様化する社会を味方に付けて女性的なライフスタイルを自由選択してる颯空とは全く違うものなのよ。世間では同列に見られちゃってるけど」
「あ…わたしもそう見ちゃってたかも」
「わたしからの訂正は以上。あとは雅に説明してもらって」
雅は慌てた。
「え?なに?――あとは何を言えばいい?」
茉莉花は苦笑いした。
「産婦人科の前で会っちゃったんでしょ?治療の話とか、とりあえずすれば?」
「あ……うん」
雅は桜子を見た。
「あたしね。もう診断はとっくにもらってるの。だから中学の時は二次性徴抑制剤で体の男性化を止めてたの。思春期ブロッカーとも言われてるお薬よ。日下部くんの遺書にもそういう薬があるって書いてあったでしょ?」
桜子は興味津々だった。
「それで雅ちゃん、女の子らしい体なんだね」
「それだけではないよ。思春期ブロッカーは第二次性徴を止めるだけだから。中三の時、十五歳になってようやくホルモン療法を始められたの。女性ホルモンを投与する治療ね。定期的に通ってるんだけど、それでやっと体が女性化していってる気がするの」
「今日のはそれだったんだね」
「うん。あとは治療しながら待つだけ。十八歳になったら手術を受けて女の子の体になるの」
「性転換手術ってやつ?」
「性別適合手術って言うのよ。自分の中の変えようのない性別に体の性別を適合させる手術ってこと」
「そっか…」
「それが終わったら戸籍も女性に変えるよ」
「へえ、すごいね。そしたら完全に女の子じゃない」
「そうよ。戸籍も女性、体も女性、周りの人たちの認識も女性。それが普通の女性でしょ?あたしは普通がいいの」
茉莉花が補足する。
「簡単じゃないけど、戸籍や体は手に入る。けど周囲の認識だけは一度失うと二度と戻らない。どんなに好意的でもトランスジェンダーを完全に普通の女性と認識できる人は稀なの。戸籍や体を変えたって、その認識は変わらない」
桜子はキョトンとしている。
「そうなの?」
「よく、わたしは気にしないよとか、性別がどうだろうと君は君だからとか、そんなこと言ってる人いるけど、その時点でもう違うのよ。だって桜子に対してそんなこと言う人、いないでしょ?」
「う、うん…」
「不特定多数にそういう認識が広がると、もう取り返しがつかない。特に、男性が欲求に従って女性になろうとしてるみたいな誤った認識を持った人が必ずいるから最悪なの」
「最悪なの?」
「だって、そんなに辛いなら男に戻ればいいだろとか平気で言うバカがいるのよ。戻るもなにも、元から女だっての」
「それ、傷つくね」
「そう!だから、そうならないように秘匿する必要が絶対にあるわけよ。わかるでしょ?」
桜子は大きく頷いた。
「うん、うん」
「今はトランスジェンダーだけど、雅はトランスジェンダーになりたいわけじゃない。体も戸籍も周囲の認識も、本来の性別である女性に適合させたいだけ」
「うん、うん」
「それで、そのまま死ぬまで女性として生きるんだから、雅が女性であるという情報以外は周りが知る必要なくない?」
「あー、なるほど。そういう事か」
「トランスジェンダーはすべからくカミングアウトすべきみたいな風潮が、当事者たち……特に子供たちを苦しめてる。トランスジェンダーのレッテルを貼られたら、もう故郷を捨てて転地するしか完全な女性としての周囲の認識を手に入れる方法がなくなっちゃう。でも、それって簡単じゃないし、悲しい事でしょ?」
桜子は思い当たった。
「あ…それで雅ちゃん、長野に来たの?」
雅が答えた。
「茉莉花が助け出してくれたの。じゃなければ、あたし…………日下部くんと同じ道をたどってた」
「…………」
桜子は言葉が出なかった。過去の雅には死を選んだかもしれない何かがあったということだ。けれども桜子には、雅の気持ちも含めて全く想像できなかった。
ただ、茉莉花が雅よりも熱く説明する理由はわかった気がする。過去の雅を追い詰めた何かに対して憤っているに違いなかった。
悲痛な顔をする桜子を見て、雅は言った。
「深刻にならないでよ。今は幸せなんだから」
桜子は形ばかり頷く。
「う、うん…」
「あと三年も頑張れば、リスクはグッと減るし」
「そうなの?」
「だって裸になろうが身分証を見せようが女性でしょ?今はそうじゃないけど」
「そっか」
「あ、でも学生証には性別の記載が無いから、そこは助かってるかな」
「そうだったっけ。気にしたこと無いけど、そっか。雅ちゃんにとっては、そういうのが重要なんだね」
「うん」
「わたし、知らない事ばかりだね」
「普通はそうよ。だから知りたい事があったら訊いて」
「う~ん。いっぱいありすぎて、何を訊けばいいのやら」
茉莉花が笑った。
「あはは…。またにしたら?いっぺんに話したって、余計わかんなくなっちゃうよ」
雅も頷いた。
「うん。他の人さえいなければ、いつでも訊いて。くだらない事でもいいよ。桜子に気を使われるのは嫌だから」
笑顔になる桜子。
「うん。わかった」
「ただ、あたしが言ってるのはあくまでもあたし個人の事だからね。トランスジェンダーって言っても色々な人がいて、例えば――」
雅の言葉を茉莉花が遮った。
「だから!そこまで説明しなくていいから。桜子が混乱するだけじゃない。桜子は雅の事が知りたいのよ。一般論なんて、余裕ができてからで充分でしょ?」
ハの字眉の雅。
「そうだけど……」
「桜子に話す事を賛成したのは、別に桜子をアライにするためじゃないよ。雅が自分を知ってほしいって言ったからよ」
桜子が質問した。
「アライってなあに?」
茉莉花は答えた。
「簡単に言うとLGBTQの味方って事ね」
桜子は雅を見て言った。
「わたし、前から雅ちゃんの味方だよ?」
雅は少し驚いた顔をしたあと、そっと立って桜子のすぐ横へ行き、姿勢を低くして桜子を抱きしめた。
困惑する桜子。
「雅ちゃん、どうしたの?」
雅は少し震えた声で囁いた。
「ホントだ。桜子って抱き心地がいいね」
すると茉莉花は「でしょ?」と自慢げに言った。
次回「その3 裏路地の乱闘」は4/4(金)に投稿する予定です。




