その6 桜子の場合
8月の第一土曜日は昼食を食べたあと、浴衣を着るのを雅に手伝ってもらい、髪をセットしてもらい、桜子はそそくさと出かけていった。
茉莉花はアイスコーヒーを飲みながら言った。
「早いわね、桜子」
雅もアイスコーヒーを一口飲んでから答えた。
「びんずるさんって夜の踊りだけじゃなくて、午前から何かやってるわよ」
「知ってるよ。ずっと長野在住なんだから。なんなら昨日からなんかやってるでしょ」
「そうみたいね」
「大輝くんと早く行ったら?」
「朝から仕事だって。でも早抜けできるみたいだから、17時半には待ち合わせしてるわよ」
「踊りって何時からだっけ?」
「たしか18時半だと思う」
「何時に出るの?」
「16時半ごろかな?」
「それでも早いわね」
「ご飯は作っていくから心配しないで」
「弁当かなんかでいいよ」
「これから買いに行くより作った方が早いから」
「そう?」
なんとなく茉莉花がおとなしい。雅は訊いた。
「……ホントにびんずるさん、行かない?」
茉莉花は表情を変えずに答えた。
「だから知り合いに会いたくないんだってば」
「…………そう。気が変わったらクローゼットに浴衣を掛けといたから着てね」
「いやよ。めんどくさい」
「……」
茉莉花はかたくなだった。
中央通りを手をつないで歩く桜子と結城。結城もまた浴衣を着ていた。
美形男子は浴衣も似合う。手を引かれて歩きながら、桜子は有頂天だった。
結城は隣の桜子を見て、世間話でもするようにごく自然に言った。
「その髪型も浴衣姿もすごく可愛いね。桜子はいつだってすごく可愛いけど、今日は雰囲気が違うから、なんかドキドキするよ」
赤くなる桜子。
「そ、そんなこと言うのやめて。こっちがドキドキしちゃうじゃない」
「だったらやめられないな。もっとドキドキさせたいからね」
爽やかに笑う結城。桜子の心臓は撃ち抜かれ、めまいを覚えた。
――心臓がもたないよぉ。
前から歩いてきている人が桜子にぶつかりそうなのを感じて、結城は桜子の肩を抱きよせた。
桜子は頭から湯気を吹き出した……気がした。
――ダメ。死ぬ。心臓が止まる。
桜子のそんな気持ちを知ってか知らずか、結城は肩を抱いたまま普通に言った。
「人が増えてきたね」
桜子は舌をもつれさせながら答えた。
「この先でイベントやっれるからりゃないかな」
「ふ~ん。見たい?」
「結城くんは?」
「ボクはどっちでもいいんだけど、桜子が見たいなら行こ?」
結城は抱いていた肩から手をはなし、桜子の手を取った。
桜子は抱かれていた肩をチラリと見て、少しがっかりしながら言った。
「わたしもどっちでもいいかな。もっと向こうへ行けば屋台がたくさん出てるよ」
笑う結城。
「お腹すいた?」
「実はそんなには。ご飯たべてきちゃったから」
「ボクも。屋台はもっとあとでもいいかな」
「あはは。夜のびんずる踊りの時間に来てもよかったね」
「なに言ってるんだよ。それじゃ、一緒にいられる時間が減っちゃうじゃない。少しでも長くいたいのに」
結城の容赦ない攻撃に、桜子は防戦一方だ。
「う…うん。そうだね…」
「それに明るいうちに桜子の浴衣姿を見れてよかったし」
「そ…そお?」
「でも、夜の浴衣姿も素敵なんだろうな。楽しみにしとくね」
「う、うん…」
「あぁ…。桜子をお嫁さんにしたいな。そしたら毎年、見られるでしょ?」
「そそそそ…そう……だね…」
結城の猛攻撃に、桜子はノックアウト寸前だ。
ただ、その猛攻撃が反則である事に結城はすぐに気付いた。
「あ、ごめん。結婚とか婚約とかは桜子がその気になってくれるまで言わない約束だったよね」
桜子は混乱した。確かにそんな約束だったが、桜子の中ではもうどうでもよくなっていた。それどころか嬉しいまである。これは桜子が結城のことを好きになっているという証拠ではないのか。
けれども、まだわからない。桜子は自分の気持ちを明確にできない。他人の恋愛話は大好きなのに、自分の事になると戸惑ってしまう。そもそも結城が言ってくれるような可愛い女の子だとは、自分の事を思えない。結城の言葉は嬉しいけれど、田舎娘の桜子には過ぎた言葉に思えてしまう。
そんな格差を結城に対して感じてしまうので、ただの王子さまに対する憧れ、恋愛に対する憧れを雰囲気に流されて勘違いしているだけではないのか。
そんな風に頭の中が整理できない時には、桜子はいつも考えるのをやめる。意識的に話題を変えた。
「びんずる踊りまで、まだたっぷり時間があるけど、これからどうする?」
結城は辺りを見回した。
「そうだなあ……どうする…か……」
そこで結城の視線がどこかの一点で止まった。その視線がゆっくり横移動しているところを見ると、どうやら誰かを目で追っているようだ。
桜子はそちらを見たが、誰を追っているのかわからない。訊いてみた。
「知り合いでもいた?」
結城はハッとなって、桜子へ視線を戻した。
「ごめん。仕事で追っている人物がいたものだから」
――仕事?アルバイト?人を追いかける仕事って?
よく考えたら桜子は結城の事をほとんど知らない。東京に実家があるという事は、一人暮らしなのだろうか。実家が東京なのに、なぜ長野の高校に通っているのだろうか。
結城が先程の方向をチラチラ気にしていたので、桜子は訊いた。
「追いかけなくていいの?」
「大丈夫。たぶん別の人が追ってるはずだから」
「そうなの?」
「それに入院からこっち、しばらく休みを命じられてて、仕事をすると怒られる」
「そうなんだ」
「それに、桜子とデート中だよ?こっちの方が大切だよ」
「あ、ありがとう」
結城はニコッと笑った。
「さて、どうしようか」
桜子は、はっきり答えた。
「どこか落ち着いた所で飲み物でも飲も?結城くんの事をもっと知りたい」
結城は少し驚いたが、笑顔で頷いた。
桜子と結城はこじんまりとしたカフェのテーブル席に向かい合って座っていた。カフェで飲み物を飲みながら語り合うのはいつもの事だが、二人とも浴衣だったので気分は違っていた。
桜子は照れながら言った。
「なんか大人になった気がしない?」
「ああ、ちょっとわかる」
「ここに来るまで浴衣の人っていっぱい見たけど、二人とも浴衣のカップルってなんか色っぽい気がしちゃうよね」
「既に大人な関係の二人って感じ?」
「そそ」
「じゃあボクたちもそう見られてるって事だね」
桜子は慌て、手が勝手に踊った。
「いや、それはほら、なんていうか……そうなのかな?」
「そりゃ、そうでしょ。ボクたちだけ例外って事はないよ」
「急に恥ずかしくなった」
「いっそのこと、イメージに実質を合わせてみる?」
「え?え?どゆこと?」
「ボクたちも、大人な関係になってみる?」
「…………」
少し考えてからやっと意味を理解し、桜子の頭はボンと破裂した。
「あーえーそれはどーなのかなーまだはやくないかなー」
結城は笑った。
「あはは、冗談だよ。いつかはそうなりたいけど、まずはキスからでしょ?そんなに慌てないでよ」
桜子はほっとした。
「なんだあ。冗談かあ」
とは言ったものの、結城のセリフにはスルーできない言葉が含まれていた。
「まままずはキスからって言った?」
結城は笑顔で頷く。
「そりゃそうでしょ」
「キキキキスしたいの?」
「そりゃ好きな人とはキスしたいよ。普通でしょ?」
「ででででででも…」
辺りを見回す桜子を見て結城は吹き出した。
「桜子はめちゃくちゃ可愛いなぁ。今すぐしようって言ってる訳じゃないよ。最初のキスは二人の大切な思い出になるから、ムードも大切にしたいでしょ?さすがにこんなお祭り騒ぎの所ではムードなんて望めないよ」
桜子は恥ずかしかった。
「ですよねー」
「また今度、ちゃんとムードのある所でするから心配しないで」
――スルコトハカクテイナンデスカ、ソウデスカ。
桜子は覚悟を決めた。けれども嫌だとは思わなかった。
ただ、結城が大人な関係について、いつかはそうなりたいと言った事に関しては、桜子はスルーした。と言うよりも、完全に気付いていなかった。
結城はアイスティーを一口飲むと、話題を変えた。
「ところで、さっきボクの事を知りたいって言ってたけど、例えばどんなこと?」
桜子は頷いた。
「あのね、実家が東京にあるんでしょ?じゃあ、こっちで一人暮らしなの?」
「あ、うん。そうだよ」
「じゃあ自炊してるの?」
「する事もあるけど、外食も多いかな」
「掃除とか洗濯とかは?」
「もちろん、やってるよ。大雑把だけど。まあ、きれいな部屋とは言いがたいけどね」
桜子はドキドキしながら上目づかいに結城を見て言った。
「じゃ、じゃあさ。わたしが行って、手伝ってあげようか?」
霊能力美少女の家では桜子はやる事が無い。けれども身につけた家事スキルを遊ばせておくのは勿体ない。
せっかくだから彼氏の家で家事をするという憧れのシチュエーションを経験するのも悪くないと思う。ついでに結城の家へ遊びに行く口実にもなるのだから、一石二鳥だ。
ところが結城は断った。
「ありがとう。でも、今はいいかな」
桜子は少なからずショックを受けた。家に来てほしくないのだろうか。
「ど、どうして?」
「さっき、しばらく仕事の休みを命じられてるって言ったでしょ?」
「うん」
「そのあいだ、身内が来てボクの代わりに仕事をしてくれてるんだけど、その人が家事を全部やってくれてるんだよね」
「え?そうなの?」
身内とは家族の事だろうか。家族を「その人」などと呼ぶだろうか。けれども、なんとなくそれ以上は深く訊きにくい。
そこで、別の質問をしてみた。
「その仕事って、なに?」
「あー、プライバシーの問題があるから詳しくは言えないけど、人さがし的なこと?」
「アルバイト?」
「違う違う。どっちかっていうと、ボランティア……と言うより家業の手伝いかな?そのためにボクだけ長野に残ってる」
桜子は慌てた。
「じゃあ、仕事が終われば長野からいなくなるの?」
結城は笑顔で首を横に振った。
「いなくならないよ。やる事は人さがしだけじゃないからね。ある意味、終わらない仕事なんだよね」
桜子はほっと胸を撫で下ろした。
「そう。よかった…」
結城は真剣な顔で言った。
「たとえ仕事が終わったとしても、桜子の前からいなくなるなんてしないから安心して」
それから結城は爽やかな笑顔を見せて言った。
「ボクはずっと桜子と一緒にいたいからね」
桜子の心は目の前のアイスコーヒーの氷よりも先に、完全に融解した。
次回「その7 雅の場合」は12/27(金)に投稿する予定です。




