その4 パンツを買いに
学校が休みになる土曜日、茉莉花と雅と桜子は笠井の運転する車で大きなショッピングモールへ来ていた。桜子の服を買うためだ。
桜子の持っている服や下着はことごとく子供服だった。桜子の身長が143cmしかないので小学生の時の服がまだ着れてしまうのだ。
持っていた服を大切に着つづければ新しく買う必要もない。これまでそれで済ませてしまっていたのは桜子自身が着るものに無頓着だという事もあるが、実家の経済事情も関係していた。
けれども茉莉花が許せなかったのは子供服だからというだけではない。子供服でもオシャレなものはたくさん売っているし、茉莉花的には似合っていればファストファッションでも全然かまわないと思っている。
ただ、桜子が持っていたのはいわゆる世間の母親がスーパーで買ってくるアレだった。それは親が我が子に大人っぽさや色っぽさなどの要素を排除した野暮ったい「子供らしさ」という呪縛をかけるためのアイテムである。センスの欠片も無い。
その上、さらに茉莉花を愕然とさせたのは風呂上がりの桜子を見たときだ。名札つきの中学校の指定ジャージを堂々と着ていたのだ。
それはもう我慢など出来るはずもなく、服や下着の総入れ替えを敢行しようと本日ここへ来ているわけだ。
もちろん今日の桜子の服装は茉莉花が決めた。本人の服は茉莉花から見て使えるものが無かったので、とりあえずは雅に借りるしかなかった。
胸元に大きめなリボンのついたブラウスとミニのサーキュラースカート。
そんなフェミニンな格好をしたことがなかった桜子は気恥ずかしさを覚えていたが、初めてのオシャレに実はテンションが上がっていた。
笠井の運転するミニバンはショッピングモールの駐車場に到着した。
車から降りる前に茉莉花が笠井に向かって言った。
「荷物が多くなったら取りにきてもらうけど、それまでは好きにしてていいよ、セバスチャン」
桜子が驚きの甲高い声をあげた。
「セバスチャン?!」
その声に、逆に茉莉花が驚いた。
「なに?急に」
「だって、だって、セバスチャンって…」
「セバスチャンがどうかした?」
「笠井さんじゃないの?」
茉莉花が舌打ちをした。
「そうよ、セバスチャンよ」
「あの…外国のかた?」
笠井が苦笑いしながら答える。
「いえ、純粋な日本人でございます」
「じゃあ、どうして」
茉莉花は自信満々な顔で答えた。
「なに言ってるの。執事といえばセバスチャンに決まってんでしょ?桜子もちゃんとセバスチャンて呼びなさいよね」
「え?わたしも?」
「あたりまえでしょ?セバスチャンなんだから」
「で、でも…」
「はい、試しに呼んでみて」
「い、いま?」
「そうよ、いまよ」
「なんか呼びにくい」
「なんで?ただ名前を呼ぶだけなのに」
笠井が助け船を出した。
「皆さんそう呼んでくださいますのでご遠慮なく、桜子さま」
桜子は申し訳なさそうに答えた。
「はい、セ、セバスチャンさん」
茉莉花が訂正する。
「セバスチャン、よ。さんなんて付けたら、ぽくないでしょ」
「え、でも…」
セバスチャンがさらに助け船を出す。
「どうぞ、呼びすてで。そのほうが親しみがあって、わたくしとしては嬉しゅうございますから」
「じゃあ……セ、セバスチャン」
茉莉花は満足そうに頷いて、バッグを掴んだ。
「よしっ。桜子で遊ぶのはこんくらいにして行くわよ」
「遊ぶ?!」
桜子はショックを受けつつも、雅に促されて車を降りた。
雅はショッピングモールの中にある手芸店へ行くというので別れ、茉莉花と桜子は二人で服を見て回る事になった。
まずはランジェリーショップから。
茉莉花がセットアップのショーツとブラを無造作に買い物カゴへ放り込んでいく。桜子はオロオロした。
「選ばないの?」
茉莉花が手を止め、なに言ってるの?――な表情を向ける。
「選んでるわよ、ちゃんと」
「だって、そんなにポンポン…」
「胸のサイズなら、きのう揉んで確かめたからわかってるわよ?」
「――!」
そう!揉まれていた。
いきなり揉まれたから何事かと思っていたが、桜子は今の会話で腑に落ちた。
もちろん茉莉花の気持ち的には計測のほうがオマケなのだが、桜子はそんなことを知るよしもない。
茉莉花はカゴのショーツをつまみ上げて広げた。
「ほら、こういうシンプルだけど地味すぎず、きれいな飾りがついてるようなのが桜子には似合うのよ」
「……シンプルだけど地味すぎず、きれいな飾りがついてるようなの?」
「そう!シンプルだけど地味すぎず、きれいな飾りがついてるようなのが可愛くて萌えるのよ。でしょ?」
「う、うん。確かにシンプルだけど地味すぎず、きれいな飾りがついてるようなのは可愛いけど、そういうレースの付いてるのとか穿いたこと無いし、なんか恥ずかしいよ」
「どこが恥ずかしいの?」
「だって、なんか大人っぽすぎない?」
「えっ?どこが!?むしろ少女み強いんだけど。こんくらい女子高生の最低ラインだと思うけど。雅のパンツなんて、もっとヒラヒラだよ?わたしのなんかほら、こおんなにセクスィー…」
茉莉花が桜子に向かってミニスカートをまくり上げた。
「うわーっ!」
桜子は顔を赤くして慌てて茉莉花のスカートを押さえた。
「なにやってるの?!茉莉花ちゃん!」
「ん?なにが?」
茉莉花はとぼけた顔をしている。
桜子は辺りをキョロキョロ見回した。
「人に見られたらどうするの?」
「どお?セクスィーだろぉ?」
「セクシーっていうより何かエッチだから!18禁だから!」
「大袈裟な。そんな焦らなくてもダイジョブよ。この店、女性しかいないもん」
「カップルで来るかもしれないじゃない」
「でも今はいないよ?」
「そうだけど…」
「見られて困るようなパンツじゃないし」
「見られる自体、アウトでしょ?!」
「あら、うぶなこと言うのね。カワイー」
茉莉花はジタバタする桜子を抱きしめた。
買い物は下着や服にとどまらず、靴下や靴、バッグやアクセサリーなどの小物にまで及んだ。
増えていく荷物はその都度セバスチャンが車まで運ぶ。
桜子は申し訳なさそうに言った。
「茉莉花ちゃん。もういいんじゃない?」
「なに言ってんの。まだ帽子とヘアアクセと、肝心なルームウエアを見てないじゃない」
「でも、いまさらだけど、こんな買ってもらったら悪いもん」
「気にしなくていいわよ。わたしの精神衛生のためだから」
「――???」
もちろん桜子には理解できない。
一般常識でも教えるように、茉莉花はさらりと説明した。
「だから、あんなクソだっさいカッコーは見たくもないし、ましてや一緒に歩くのなんてゴメンだわ」
「ひどい…」
「あとは、わたしの趣味ね。小さい頃から着せかえ人形が大好きだったの」
「そう、着せかえ人形……って、えっ?わたしのこと?」
「当たり前じゃない。だから、あなたに拒否権は無いのよ?」
「…えっ?」
「いいわね?」
「あ、うん…」
桜子は色々と考える間もなく返事をしていた。
買い物の途中でひと休憩し、そのあと茉莉花がトイレに寄りたいと言うので桜子は目の前のベンチに座って待っていた。すると、遠くから聞き覚えのある声が飛んできた。
「桜子ーーーー!!」
こんなに人の多い場所での非常識なほどの大声である。
振り向くと、手を振りながらこちらへ走り寄ってくる結城がいた。
「――!!!」
桜子の頭は混乱した。思いもしなかった場所で自分の理解の及ばない人物が急速に迫ってくる。
「はうあっ!」
半ばパニックになりながら、桜子は思わず逃げだした。
それでも結城は追ってくる。
「桜子ー!ボクだよボクー!」
――わかってますよ!だから逃げてるんですっ!
「待ってくれよー!」
ショッピングモール内での鬼ごっこが始まった。
結城の足は速かった。その上、雅に借りた靴が桜子には走りにくかった。
最初はかなりあった距離も少しずつ縮まっていく。慌てる桜子。
そしてついに転んでしまった。しかもミニのサーキュラースカートが大きく捲れあがるかたちで。
桜子はスカートを直してクマちゃんパンツを急いで隠した。
「大丈夫かぁ?!」
結城がますます近づいてくる。
桜子が素早く辺りを見回すと、目の前には外への出口が。迷わず走り出る。
出てから外のほうが隠れる場所の無いことに桜子は気づいた。どうしよう。どこへ逃げようか。
走りながらふと思い浮かんだのはセバスチャンの顔。桜子は駐車場へ向かった。
駐車場には乗ってきたミニバンがあった。駆け寄りながら桜子は叫んだ。
「セバスチャーン!!」
声に気づいたのか、必死に走る姿に気づいたのか、セバスチャンが車からゆっくりと降りてきた。その背中へと桜子は走り込む。
結城は追いついてきていた。
それを見て、セバスチャンにはおおよその察しがついたようだ。桜子を守るように一歩前へ出た。
桜子を庇うセバスチャンの数メートル手前で結城は立ち止まった。そして言った。
「通していただけませんか?ボクは桜子に話があります」
セバスチャンは振り向いて桜子を見た。桜子は息を切らしながら大きくかぶりを振った。それを確かめてセバスチャンは結城に静かに言った。
「桜子さまのほうに話は無いようですが?」
結城はセバスチャンを油断なく睨みながらも、言葉はあくまでも丁寧だった。
「それは桜子が誤解をしているからです。ボクは桜子と結婚の約束を交わした仲です。桜子が記憶を失ってしまっているだけなんです」
セバスチャンはキョトン顔を桜子の方へ振り向けた。
「そ、そうなんです?」
桜子は泣きそうな顔で訴えた。
「それ…前世の話だって言うんです」
セバスチャンは、もういちど結城の姿を見直してから苦笑いとともに言った。
「ああ、なるほど」
結城は黒いタートルネックとブラックジーンズ、その上に季節はずれの黒いロングコートを前ボタン全開で羽織っていて、袖をヒジあたりまで捲っていた。
手には黒いレザーの指ぬきグローブ、足には黒いレザーのショートブーツを履いている。
さすがにもう松葉杖は突いていなかったし、足には包帯を巻いていないようだったが、眼帯や頭と腕の包帯は私服姿でも怠っていなかった。
セバスチャンは結城の人物像をなんとなく理解しつつも、あえて否定せずに言った。
「前世ではそういうご関係だったとしても、すでに桜子さまは過去を忘れて新しい人生を歩んでいらっしゃいます。そっとしておいていただけませんか?」
「出来ませんね。前世の約束は永遠の誓い。話さえできれば思い出してくれるはずです。そこを通してください」
「桜子さまが望まない限り、通すわけにはまいりません」
結城は右足を前に一歩ふみ出して拳を固めた。
「ならば力ずくという事になります」
セバスチャンは桜子に下がるよう促してから、左足を半歩出して腰を落とし、拳を構えた。
「はたして通れますかな?」
その言葉を最後まで聞かずに結城は動いた。
かなりあると思われた距離を一歩で詰めて右拳を突き出す。それをセバスチャンが左腕で払う。
続けて結城が右足の蹴りを飛ばす。それもセバスチャンは左腕で受け止める。
今度は結城の左拳。セバスチャンが右腕で払う。
すかさず結城の左回し蹴りがセバスチャンの頭を狙う。セバスチャンは紙一重で後ろへかわす。
その反動を利用してセバスチャンの右拳が結城の顔面めがけて唸りを上げる。結城は後ろへ跳んで距離を取った。
「あっぶね。なにそのコンクリも砕きそうなパンチ。オジサン何歳なんです?」
「62歳ですが」
「うひゃ、信じらんねえ」
結城とセバスチャンは距離を取って対峙した。
結城はコートを脱いで脇へ投げた。
セバスチャンは構え直して言った。
「もう退いてくれませんか?じゃないと君の頭が砕けます」
「言いますね。でも当たらなければ何てことはない」
結城が再び跳び込んだ。
右足で下段、中段、上段と連続で蹴りを繰り出す。それを左腕、右掌、左腕と受け止めるセバスチャン。
結城は右足が着地すると同時に左足を上段へ。セバスチャンは長身を小さく屈めてその蹴りを右へ潜り抜けながら接近し、右拳を結城の顔面へ。
結城は不安定な体勢のまま上半身を右へ回転させつつ間一髪でかわし、膝をつきながらも追撃してきたセバスチャンの左拳を側転で跳び避けた。
距離を大きく取って構え直す結城。
桜子はその様子を呆気に取られて見ていた。信じられない光景である。ただの喧嘩とは思えない。
きちんと心得のある者たちの格闘だと素人目にもわかる。まるで映画の1シーンのようだった。
セバスチャンは一歩さがってさらに距離を取った。
そして桜子にだけ聞こえる囁き声で言った。
「桜子さま。闘ってるスキにお逃げください」
「え、でも…」
「大丈夫。彼に大きなケガはさせませんから」
「…わかりました」
素人にはどちらが優勢かはわからなかったが、ケガはさせないと言えるほどセバスチャンには余裕があると桜子は受け取った。ならば素直に従うべきだろう。下手に残ればかえって足手まといになりかねない。
結城は手足を振って力みをほぐすと、あらためて構え直した。
拳は握っていない。さっきとは少し違う構えのようだ。
それを見てセバスチャンは言った。
「やはり中国拳法のたぐいですかな?」
セバスチャンも腰を落として構える。今度は少し歩幅が大きい。
それを見て結城は言った。
「そう言うあなたのは空手ですか?」
「まあ、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。ただ、趣味のひとつに過ぎませんのでお手やわらかにお願いしますよ」
「いや、どう見てもプロ級でしょ」
「いえいえ、そんなたいそうなものではありませんよ。掃除や洗濯ならプロ級と言える自信はありますが」
「ははっ。冗談はいいですって」
結城は無造作にセバスチャンとの距離を詰めた。それに合わせてセバスチャンも前へ出る。
そしてまた格闘が始まった。
白熱する二人の格闘を見ながら桜子は少しずつ後ずさった。そして闘いに集中している結城の目を盗んで、その場から逃げ出した。
結城から逃げるため、しばらくあちらへこちらへと走り続けたあとで桜子は立ち止まった。あたりを見回す。
「あれ?ここはどこ?」
気づけば知らない場所にいた。
巨大なショッピングモールもここからだと見えない。連絡の手段も無い。
田舎育ちの桜子には街なかはジャングルと同じだった。完全に遭難状態である。
――このまま一生ここで暮らさなければならないかも…。
桜子は絶望した。
だが、すぐに気づいた。周りには商店がたくさん並んでいる。商店街のようだ。
人もそこそこ歩いている。ならばお店の人か通行人にでも訊けばいいのだ。
――なんだ、簡単な事じゃない。
桜子は希望に満ちあふれた。
だが、すぐに思い出した。自分が極度の人見知りだという事を。
人に訊けるわけがない。ましてや通行人にいきなり話しかけるなど、とんでもない。
それに商店街の人に競合店であろうショッピングモールの事を訊こうものなら敵視されるに違いない。
――きっとひどい目にあわされるんだ。怖い…。
桜子は絶望した。
だが、すぐに気づいた。ふと目をやった先の看板に「駅前」という文字が。すぐ近くに駅があるのだ。
駅があれば地図があるはず。地図にはショッピングモールも描かれているはず。
――これで帰れる。助かった…。
桜子は希望に満ちあふれた。
駅はどっちだろうか。歩いていた進行方向を見る。大きな通りが見えているので、おそらくそちらに違いない。念のため来た方向を見る。
すると目の前に思いがけない人が立っていた。結城である。
「ひいぃぃぃっ!」
桜子は絶望した。
次回「その5 少女漫画とかでしか見たことない」は6/11(火)に投稿する予定です。