その6 放課後の教室で
日下部の家へ柴田に電話を入れてもらうと、六時半には父親も帰ってくると言うので、その頃に訪問するという事で約束を取り付けることができた。
時間通りに日下部の家を訪ねると、両親はすぐに柴田や茉莉花たち三人を家に上げてくれた。どう見ても不審者なマンチカンは車で待機である。
仏壇に線香をあげたあと、リビングで話が始まった。柴田は日下部に相談を受けていた事を打ち明け、茉莉花たちを親しかった友人として紹介した。
茉莉花たちは西南中学校のセーラー服に着替えていた。後輩へ譲るために卒業生が学校へ寄贈した物を借りたのだ。
柴田は深く頭を下げて言った。
「相談されていたのに助けられず、申し訳ありませんでした」
すると両親は優しい顔で柴田の頭を上げさせた。
父親が言った。
「先生のせいではありません。親なのにアイツの悩みを受け止められなかった私たちのせいです」
茉莉花が訊ねた。
「遺書があると伺いました。わたしたちは彼の本当の気持ちを知りたいんです。見せてはいただけませんか?」
「お見せします」
そう父親が言うのと同時に母親が立ち上がった。
母親が持ってきたのは一冊のノートだった。柴田が受け取って開くと、新しいノートに丁寧な字でメッセージが書き込まれていた。茉莉花たちも覗き込む。
ノートには、こう書かれていた。
『お父さん、お母さん、柴田先生、そして周りの皆さん。
僕は男です。
僕を女だと思ってるのは誤解です。
体は女で生まれたけれどそれでも男です。
お父さんが言うように頭がおかしいのかなって悩んだ事もありました。
そんな時にサマーボランティアで知り合った医者の南さんが何も言っていないのに僕の事を見抜いていて、それは性別違和だよって教えてくれました。
中学生でも受けることができる体の女性化を止める治療法や、将来的に体を男性にするための治療法だってあるそうです。
だから少し希望を持ったんです。
でも体はどんどん女になっていきます。
だから一日も早くジェンダークリニックへ行きたかった。
だけどお父さんとお母さんは何度頼んでも連れていく気はないと言いましたね。
僕の思い込みだからって。
僕はもうどうしていいのかわかりません。
どんなに強く押さえつけても胸の成長は止まりません。
毎月のように生理用品を使わなければならない恐い思いにも、もう耐えられそうにありません。
このまま何もしなければ体はどんどん女性になっていって元には戻れなくなるそうです。
だけどこれ以上は女になりたくありません。
だからここで終わりにします。
お父さん、お母さん、小さい頃からずっと変なことを言って困らせてごめんなさい。
でも本当は思い込みなんかじゃないってわかってほしかった。
柴田先生、いつも無理な相談ばかりしてごめんなさい。
本当の事を話せるのは先生だけでした。
話すと楽になれました。
先生が学ランを着てもいいよと言ってくれた時はすごく嬉しかった。
でも他の子に知られるのが恐くて着れませんでした。
僕は生まれ変わって男になります。
ごめんなさい。
さようなら。
男子として修学旅行へ行きたかったな。』
文章はそこで終わっていた。読み終わった柴田は沈痛な面持ちをしていた。
父親は言った。
「本人の主張はもちろん聞いていました。でも、わたしたちは何もしなかった。テレビに出てくるそれっぽい人達が何だか軽く主張しているから、そんなに重大な事だとは知らなかったんです」
母親が続いて言った。
「いいえ、本当は気づいてたのかもしれません。だって、莉子の訴えは必死だったもの」
父親が頷く。
「私達が認めたくなかっただけなんです」
母親が涙ぐんだ。
「親なのに…。一番の味方にならなきゃいけなかったのに…。ごめんね、莉子」
柴田の返すノートを受け取りながら父親は言った。
「このノートを見て、初めて性別違和について調べました。性同一性障害って言った方が聞き覚えがありましたけど、れっきとした診断名だそうです。医者が診断を下すような事なのに、親が勝手に判断してアイツを苦しめていたなんて…」
父親は慈しむようにノートを胸に抱いた。
帰りの窮屈な車の中で、助手席の柴田に茉莉花は訊いた。
「自殺の原因は修学旅行じゃありませんでしたよ。罪悪感は無くなりましたか?」
柴田は思い出すように中空を見つめた。
「彼女……彼、そういえば言ってました。第二次性徴が進んでしまう苦痛の事も。そんなのどうしようもないじゃないって思ってたから、筋トレしたらとか大豆イソフラボンはなるべく抜いたらとか適当な答えを返してました。けど、女性化を止める治療法なんてあったんですね。無知って恐いですね」
そして苦しそうに続けた。
「わたしだけに助けを求めてきた子を救えなかったんですよ。そんなの罪悪感しか――ううん。どちらかと言えば後悔かな?」
柴田はマンチカンに訊ねた。
「浄霊に立ち会ってもいいですか?」
マンチカンは桜子に訊いた。
「桜子。どうだ?」
桜子は窓の外側を斜めに伝う雨の雫を目で追いながら、頬に手を当てた。
「…考えさせてもらっていいですか?」
その後の話で浄霊は翌日に決まった。
茉莉花たち三人は西南中学校の更衣室で昨日と同じセーラー服に着替えていた。
時刻は午後六時半すぎ。ほとんどの生徒が帰った頃だった。
更衣室から出て、外で待っていたマンチカンと柴田に合流する。
柴田は立ち会いを許された。ただし離れた所から見るだけだ。日下部が柴田に気づくと逃げてしまう心配があるからだ。
桜子が茉莉花に訊いた。
「また端から探していく?」
茉莉花はドヤ顔で胸を張った。
「必要ないわ。どこにいんのか、わかるから」
「なんで?!」
「前回、彼にマーカーをつけたもん」
「え?」
桜子は茉莉花が前回、コルトなんちゃらを撃った事を思い出して訊いた。
「あれってマーカーだったの?」
「そうよ」
「すごいね。そんな事も出来るんだ」
「と言っても、彼にわたしの霊気をちょっと与えただけなんだけどね。個性の違う周波数の霊気が混じってるから、それを探すのよ」
そう言って、茉莉花は目をつぶった。
しばらくして、茉莉花は目を開けた。
「こっち」
茉莉花のあとに全員が続いた。
着いたのは三年生の教室が並んでいる辺りである。
「この一番奥の教室」
指差す茉莉花に柴田は言った。
「三年A組です。もちろん四月までは彼もいた教室です」
茉莉花が頷く。
「好都合だわ」
一つ手前の教室前で茉莉花は立ち止まり、小声で柴田に言った。
「ドアの外にいてもいいけど、絶対に顔を出さないようにしてください。今度は失敗できないんで」
柴田は頷いた。
目的の教室前で茉莉花は桜子と頷き合い、雅と頷き合った。作戦については昨夜のうちに話し合ってある。
茉莉花と雅は二人だけで小走りに教室へ入っていった。茉莉花は窓辺で佇む日下部に手を振りながらあっけらかんと声をかけた。
「あ、いたいた。日下部くん」
日下部は「えっ?」という顔をしている。
茉莉花は無遠慮に近づいて、ごく自然に訊いた。
「修学旅行の班行動の希望ルート、考えてくれた?」
日下部は、やはり「えっ?」という顔をしている。
茉莉花はわかりやすく膨れた。
「まだ考えてないの?」
『あ…』
「これだから男子は…」
『えっ』
「山本くんも佐藤くんもまだなのよ。三人で話し合ってもいいから、ちゃんと考えてよね、男子たちも」
『え、あ…』
「日下部くんと同じ班で回れんの、楽しみにしてたんだからね」
そこで雅がしゃしゃり出た。
「あ、なに急に自分をアピールしてるのよ」
「だって他の男子が山本と佐藤だよ、頼りないじゃん」
「まあね、日下部くんがいちばん男らしいもんね」
『えっ』
茉莉花が日下部の顔を覗き込む。
「ねぇねぇ、日下部くんって好きな子いんの?」
『えっ?』
雅も日下部の顔を覗き込む。
「あー、興味ある」
『えっ』
茉莉花が迫る。
「ねぇ、教えてよ」
『えっ』
雅も迫る。
「クラスにいる?」
『えっ』
茉莉花は恋バナ大好き乙女のごとく体を左右に揺らす。
「ねぇ、好きな女の子ぐらいいるんでしょ?」
日下部は小さく首を振る。
『…いない』
茉莉花は不満げに高い声をあげる。
「えーうそぉ」
雅も高い声をあげる。
「ホントのこと言いなさいよー」
茉莉花は下卑た笑顔を向ける。
「白状しちゃえよー。男らしくさ」
日下部は茉莉花を見ていたが、視線を逸らして呟いた。
『…強いて言えば柴田先生』
茉莉花と雅は揃って悲鳴をあげた。
「きゃー!」
日下部は照れくさそうに睨んだ。
『強いて言えばだからな』
茉莉花は満面の笑みで大きく頷いた。
「わかってる、わかってる」
『言うなよ』
雅も笑顔で頷く。
「言わない、言わない」
そこへ桜子がゆっくり入ってきて、茉莉花と雅に向かって言った。
「桐生さんと香月さん、柴田先生が呼んでたよ」
「やばっ、忘れてた」
茉莉花と雅は慌てて教室を出ていった。
その後ろ姿を見送ったあと、桜子はゆっくり日下部の方を見た。前回の事があるので緊張が走る。桜子があの時の巫女だと気づかれたら終わりである。
桜子はあくまでもクラスメイトであるかの様に自然に声をかけた。
「期末テストが終わったら修学旅行だね」
『……うん』
日下部は穏やかに頷いた。気づいていないようだ。
窓の外は久しぶりによく晴れ、暮れかけた空は赤く燃えている。
「日下部くんと一緒に修学旅行、行きたかったな」
『……』
「日下部くんも柴田先生と一緒に行きたかったんじゃない?」
日下部は恥ずかしそうに視線を逸らした。
『さっきの、聞いてたの?』
「好きだったの?先生のこと」
『好きじゃないよ。だって先生は僕のこと男として見てないから』
「そうね。日下部くんは男なのに、男として見てくれないなんて悪い先生だね」
日下部は視線を桜子へ戻した。
『先生は悪くない。悪いのは僕なんだ』
「そうなの?」
『僕が黙っていれば何も問題なかったんだ』
「本当にそう?」
『だって、そうだろ。どうせ僕なんて何も出来ないくせに余計な相談なんかして、先生を困らせたのは僕なんだ。悪いのは僕に決まってる』
「ふーん、余計な相談だったんだ」
『……』
「自分を男だってわかってもらおうとするのは悪い事なんだ」
『……』
「じゃあ、日下部くんは先生に女だと思われたままでいいんだ」
『……』
「日下部くんは女でいいんだ」
日下部の目がつり上がった。
『ボクは男だ!』
「だったら!」
そこで急に桜子の表情と声が慈愛に満ちた。
「あなたの何が悪いの?」
日下部の変わりかけた形相が元に戻った。
桜子は静かに、けれどもはっきりした口調で続けた。
「あなたは男で、周りがどう見ようとあなたは男で、ただそれを言っただけ。山本くんや佐藤くんみたいに普通の男子として生きたかっただけ。日下部くん、あなたは何も間違ってない。何一つ悪いことなんてしてない」
表情こそあまり変わってはいないが、日下部の目からは涙がこぼれた。
『僕は間違ってない?』
「そうよ」
『僕は悪くない?』
「そうよ」
『不安だった。僕が男だっていう確証なんて僕の頭の中にしか無いから…』
「大丈夫。今の日下部くんは男の子にしか見えないし、わたしたちは日下部くんが男の子だって知ってる」
『…ありがとう』
「柴田先生だって信じてくれてたよ」
『だったら嬉しいんだけど…』
廊下で聴いていた柴田の口元がブルルと震えた。ぐっとこらえる。
桜子は手を後ろに組んで、首を少し傾けた。
「先生もね、修学旅行へ日下部くんと一緒に行きたかったって言ってた」
『迷惑がってたでしょ?』
「どうしていいのかわからなくて悩んではいたけど、迷惑がってはいなかったよ」
『本当に?』
「当たり前でしょ?先生はあなたの事をわたしの大切な生徒って言ったもん」
日下部は寂しげな笑顔を見せた。
『……本当はわかってた。そう言ってくれるのは。だから大好きだったんだ』
「さっき先生ね、修学旅行にはあなたの遺影を連れていくって。とっても弱い人だけど、とってもいい先生だったのね」
『……うん』
桜子は同級生っぽく声を明るくして言った。
「先生は大人だからさ。中学生を男の子としては見られても『男』としては見れないと思うの。恋愛対象にしてもらえなかったのは許してあげて」
『そんなんじゃないから』
日下部は恥ずかしそうに否定した。
桜子の表情と声がさらに慈愛に満ちた。
「ところでね…」
『ん?』
「まだココにいる?」
『あれ?僕、なんでココにいるんだっけ』
「修学旅行が気になってたんじゃない?もうすぐだし」
『そんな気もする』
「男の子として参加する修学旅行の思い出は想像できた?」
『もちろん。ずっと前から思い描いてたもん』
桜子は、学ランを着た日下部がクラスメイトと一緒に旅行を楽しむ風景を見た気がした。
「どうする?修学旅行までは残る?」
『……いい』
「なんで?」
『なんでだろ。わからない。でもなんか……もう充分って気がする』
「…そう」
日下部は周りをゆっくり見回した。気づけば薄暗い教室も空の赤に染まっている。
『でも…この教室で一人だけ行くのはやっぱり寂しいな』
桜子は日下部の両手を取った。
「大丈夫。わたしがついてるから」
そして桜子は息がかかるほど顔を近づけて囁いた。
「逝かせてあげる♡」
照れる日下部。
そっと抱きしめる桜子。
「日下部くん。みんなよりちょっと早いけど、卒業だね」
桜子よりもやや身長の高い日下部は、桜子の肩の上で小さく頷いた。
桜子は目をつぶり祈った。すると日下部の姿が光り始めた。
『あっ…』
光が増していく日下部。
『あああっ…』
日下部を抱く腕に力を込めつつ桜子は訊いた。
「男子生徒のまま逝けるのはどう?」
日下部の声が上擦る。
『最高っ』
それから日下部は泣き出しそうな声で言った。
『お願い。柴田先生にありがとうって…』
桜子が頷く。
「必ず伝える」
日下部は恍惚とした笑顔を見せた。
『あ……逝く…』
日下部の姿がひときわ明るく輝き、光がおさまるのと同時に赤の中に溶けるように消えた。
桜子はポケットから数珠を出し、手を合わせた。それから涙のにじんだ目で茉莉花たちがいるだろう方を振り向いて言った。
「逝っちゃった…」
少しの間をおいて、廊下から獣の咆哮にも似た泣き叫ぶ声が低く響いた。柴田は茉莉花たちの目をはばかる事なく声を枯らしてしばらく泣いた。
次回「その7 生理周期とブラサイズ」は8/13(火)に投稿する予定です。




