私と彼女とお金の話
昼休みの始まりを知らせるチャイムが鳴り響く。
教師が立ち去り、クラスは喧騒に包まれる。机をくっつけてグループを形成する者、お友達と連れだって教室を出ていく者、イヤホンをはめてひとり弁当をつつく者。おのおの好きなように振る舞う。
そんな中、私は悩んでいた。手のひらに握りしめた300円、この昼食代を使って一日をどう乗り切るか、その最適解はいまだ出ていない。
お腹が減っているときは100円のおにぎり3個。暑い時はおにぎりと、80円の唐揚げ、缶ジュース一本の組み合わせが多い。
だが今日、私は集中力が切れかけていた。毎朝のルーティンである数学の問題集で興が乗りすぎてしまったのが原因だ。一日の集中力を使い尽くしてしまった。センター過去問ってけっこう面白い問題多よね。
では、簡単な問題。集中力が切れたときはどうすればいいですか?
はい、そうですね、正解です。マックスコーヒーですね。
ですが自販機の飲み物が軒並み値上げしたせいでマックスコーヒーを買うとおにぎりひとつしか買えません。さすがに餓死する。
マックスコーヒーを飲んで空腹にあえぐか、腹を満たして午後は気合いだけで乗り切るか。
そんな究極の二択に頭をひねらせていたときだ。
とんとん、と机が叩かれた。
顔をあげると、同じ制服を着た女子生徒。背丈は150cmの私より10センチほど高い。茶色く染めたボブカット。幼い顔立ちに、溌剌とした笑みを浮かべている。
名前はたしか、九重奏。
「…………なに?」
問うと、九重さんはぐいと距離を詰めてきた。
「三笠さん……私とお金儲けしない?」
なんだこいつ。
つい口に出そうになった言葉を飲み込む。さすがにこれを言うと出会って5秒でバトル。私はなるべく相手を刺激しないような言葉を選ぶ。
「えっと……ごめんなさい、マルチ商法はお断りしてるの」
「違うよ! そんな怪しいもんじゃないよ!」
怪しさは満点だと思う。
私の拒否感が顔に出ていたのだろう。九重さんは「まいったなー」と頭をかく。
「とりあえず、話だけでも聞いてくれないかな」
「はあ、まあ、勝手に話せば?」
「冷淡! まあいいや。ここだとちょっとあれだから、場所移そう」
「いやだよめんどくさい」
「めんどくさがらないで! 人に聞かれるとあれだから!」
「怪しい人にはついていっちゃいけません、っておばあちゃんに教わってるし」
「だから怪しくないって!! んー、じゃあジュースとか奢ってあげるから」
「マックスコーヒー」
考えるより先に言葉が出ていた。私のバカ。
やっぱ今のなしで、そう言ういとまもなく、九重さんは私の手を取る。
「おっけー、じゃあ自販機行こっか」
もはや断ることもできず、私は手を引かれるままに教室を出た。
ーーーーーーーーーー
プルタブを押し倒し、缶の中身を呷る。
甘ったるいコーヒー入り練乳を飲むと、糖が疲れた脳に染み渡る。眠気が冴え、集中力が回復していくのを感じる。今なら二次試験問題だって解けそうだ。
「で、話なんでけど」
私がマックスコーヒーを飲んで幸せな気分に浸っていると、現実に引き戻す声。
「あたし宝くじ当たったんだよね、五百万」
「ごひゃ!!!」
思わず吹き出した。練乳が器官に入ってむせる。
「だ、大丈夫?」
九重さんが心配そうに背中をさすってきた。「大丈夫だから」と押し退けて仕切り直す。
「でも五百万じゃ一生遊んで暮らすとか無理でしょ」
「まあ、無理ね」
「だからこれを元手に株で大儲けしてロックスフェラーになろうと思って」
「別にロックスフェラー、金持ちって意味じゃないから。……別にまあ、好きにすればいいと思うけど」
「けど問題があるの!!」
九重さんは叫び、それから私の目をじっと見つめてくる。
「な、なに」
「あたしってバカじゃん?」
「じゃんとか言われても知らないけど」
「英語と公民と数学が赤点です」
しっかりバカだった。
「なんか、投資するのに絶望的な感じだね」
「そうなの! そこで三笠ちゃんの出番なの!」
急にちゃん呼びして来たぞこいつ。距離の詰め方剣豪かよ、まったく反応できなかったわ。
「どの株買えばいいか教えてください」
「知らないわよ。なんで私に聞くの」
「だって、三笠ちゃんずっと学年一位だし、頭いいからわかるかなって」
この学校は試験の順位を張り出す。別に文句はなかったのだが、こういう訳のわかない絡み方をしてくる輩がいるのなら公開制度はやめて欲しい。うざい。
「私は……学校の勉強はしてるけど、経済なんて門外漢。もし経済を学ぶってなったら一から調べないといけない。九重さんが自分で勉強したほうがいいと思うよ」
「小学校から高校二年までの10年間勉強した結果、赤点とりまくってる人間が勉強してどうにかなるとお思いで?」
「それは、九重さんのがんばり次第じゃないの?」
「出たよ! 努力至上主義者! あなたたちは努力して結果が出る程度には才能あるからそういう無責任なことが言えるんだよ! がんばってもがんばってもどうにもならない人間の気持ちも考えてよ!!」
「ご、ごめん……」
あまりの剣幕につい謝ってしまった。
「あたしじゃどんなに頭絞ってもわからないの! だからお願い! どうすれば儲かるか考えて!!」
「えー……」
「お昼奢るから!!」
「ありがと」
あ、しまった。
胃袋のバカ……。
今のは違う、そう言おうと口を開く前に九重さんは顔を輝かせる。
「やった! ありがとう!! 渚ちゃんは話せばわかる人だって信じてた!」
信じるも何も今日初めて話したし、なんでこいつ下の名前で呼んできてんの、いろいろと意味がわからないよ。話しても何一つわかんないよ。なんなら話せば話すほどわかんないよ。
だがもはや会話の主導権は完全に九重さんのもの。
私は抗うこともできず、親子丼とデザートのパフェを平らげた。
どうせならうんと高いの頼んでやればよかった、くそう……。
ーーーーーーーーーー
さて、翌日の土曜日。
私は図書館に来ていた。目的はもちろん投資について調べること。
せっかくの休日、こんなことで時間を無駄にしたくない。自分のための勉強をしたい。けど、九重さんに昼食代を出させた以上、契約は成立してしまっている。私はその対価として彼女に投資計画の案を提供しなければならない。
図書館に足を踏み入れる。いつもは行かないような、金融や経済関連の棚に足を向ける。
まあ、やると決まった以上はちゃんとやろう。それに、まったく未知のジャンルに足を踏み入れる高揚感も少しはある。
そんなことを思いながら目当ての棚の前に来た。さっそく背表紙を見る。
『バカでも稼げる投資術!』『難しい話抜きの金儲け』『一冊ですべてわかるFIRE』
などなど、目先の利益しか見ていない短絡的な思考の持ち主が飛びつきそうな薄っぺらいタイトルが並ぶ。うええ……。
せめて、せめてもう少し好奇心くすぐるタイトルのものを……。
偏差値の低さに吐き気をもよおしながらも、なんとかマシなタイトルを選ぶ。これならもういっそ資本論か国富論でも読みたいよ。でも金融と経済じゃ微妙に違うから経済系の古典作品を読んでも投資には繋がらないだろうしな。
10冊ほど適当に選んで備え付けの机に座る。
さっそくはじめるわけだが、無計画に進めては時間がかかりすぎる。土日中に投資計画を完成させ、月曜日にそれを渡して縁を切りたい。効率的に進めないと。
九重さんのイメージと違い、私は決して経済だの金融だのに詳しいわけじゃない。まったくのゼロからはじめることになる。
となれば、金融の中の特定の分野を深掘りするのではなく、まずはいろんな本を読んで全体像を掴むところからだろう。怪しげな本もあるが、今は気にせずとにかくたくさん、それもなるべく似たような本を避けて広範な知識を得る。
孔子曰く、広きを聞き危うきを欠く。
あるいは愚者の千言に一言の真実あり。
とにかく広く知ることが大切だ。
というわけで、今日のノルマはこの10冊。今は9時、昼食抜きで15時までは粘れるから、一冊平均36分。
きついな。まあいいや、がんばろ。
一冊目を開いた。とにかく最速で文字列を追う。脳内で文字を音声化せず、意味を直接拾い上げる。
知識を入れながら、それらを関係性に従って結び合わせ、頭の中に認知地図を作り上げていく。
——株の値動きの原因は大別すると二つ。市場や景気といったマクロ要因と、個々の企業というミクロ要因。
マクロ要因を理解するのは難しいだろう。なら、これは後回し。まずは勝ち易きに勝つ。
一冊読み終えたところで時計を見る。一時間半。遅い。もっと速く。速さが足りない。
すぐに次の本を選ぶ。ミクロ要因について理解するため、コーポレションファイナンスについての本。
だがすぐに悟る。これは経営者向けの知識だ。投資とは少し違う。けど今更引き返すとかえって回り道になる。このまま進めたほうがいい。
経営書とはいえ、コーポレションファイナンスの一側面であることに変わりはない。投資に絡む問題もあった。大事なのは財務の健全性と収益性。それを見るためには決算書。
決算書については最初の本でも取り上げられてた。読み方はわかる。
二冊目の本を閉じる。52分。内容は薄かったから一冊目よりはペースがよかったが、それでもまだ足りない。
三冊目に行く前に、図書館のパソコンを使って調べ物。適当な企業の名前を検索し、ホームページから有価証券報告書を探す。
必要なのは財務三表だけ。
バランスシート、損益計算書、キャッシュフロー計算書。それらの数字をチェックし、株価も調べてメモ帳で必要な値をざっと計算する。
自己資本比率、DEレシオ、流動資産と流動負債の割合。
売上高利益率に、ROE、ROA。すべての基準はクリアしている。PERも低い。
なるほど。こういうのが優良な銘柄ってわけか。なら、株価が下がった時にこれを買えば。
仮にこの戦い方をするなら、あと足りないのは実際の買い時と売り時の判断だけ。それなら薄っぺらい本で十分。
『一冊ですべてわかる! 投資術』という、一冊でわかってたまるか! と思わずツッコミそうなタイトルの本。それだけに内容も一番薄っぺらい。本当に必要な情報を拾うだけだった。時間は45分。よし、読む速度はいい感じになってきた。
そして、これで個別銘柄を使ってのトレードについては一通り知識がそろった。三冊でようやく勝ち筋がひとつ。
ちょうどお昼だ。あと半日。ここまで来たら意地だ。絶対残り七冊読み切ってやる。
私は四冊目に手を伸ばした。
ーーーーーーーーーー
週が明けて月曜日の昼休み。
私は中庭のベンチに座っていた。
うちの高校の中庭は第二校舎の中にある。三方を校舎の壁に囲まれ、一方は体育館に続く通路。
一辺15メートルほどの正方形。まばらに木々が植えられ、中央にはコンクリートの段。段上にベンチは三つあるが、今いるのは私だけ。
木漏れ日を浴びながら膝に置いた文庫本を読んでいると、こちらに駆け寄ってくる音。
「やっほー、お待たせ!」
「別に待ってないけど」
九重さんは挨拶もそこそこに腰掛ける。私も本を閉じた。
「なに読んでんの?」
「ローマ人の物語」
「なんでローマ?」
「今、一冊でわかってたまるかって気持ちでいっぱいだから」
「んん??」
きょとんと首を傾げる九重さん。あなたにはわからないでしょうねえ!
「で、どうよどうよ、CEO、計画は順調ですかい?」
「それだと私のほうが偉くなっちゃうんだけど……どっちかっていうとCFOじゃないの」
「ごめん、CEOもそれも正直ぜんぜんわかんない」
わからず使ってたのか。突っ込みたいが、私も土曜日に読んだ本で知ったばかりなので強くは言えない。
「……土日で調べられる限りは調べたよ」
「さっすが! できる女!」
「米国のETFを買えばいいわ」
「……ETFってなに」
「いろんな銘柄を組みわせた商品のことよ。言ってみればアメリカの株価全体に投資するようなものね。個別銘柄だと自分でリスクを分散させる必要があるけど、ETFならその必要はない。はい、これ」
ポケットに入れていたメモを手渡す。
「なにこれ?」
「おすすめのETF一覧。一番上のは配当金が10%あるから、税引後でも7%。五百万円入れたら毎年35万円、自動で振り込まれるわ。まあ、ドル円のレートにもよるけど」
「35万!? お小遣いより高いじゃん!」
「まあ、配当金は出るたびに課税されるから、元本の値上がりを期待してそれ以外のにしてもいいけど。大学出て就職するころにはそれなりの額になってるわ。各銘柄の大学卒業までに期待できる値上がりと配当の合計、配当を使って同じ銘柄を買った場合のトータル利益までまとめてるから、これで好きな銘柄買いなさい」
話は終わり。立ち去ろうとすると、ぐっとスカートを掴まれた。
「なにすんの! 脱げるでしょ!!」
「だって急に帰ろうとするんだもん。ところでどんなパンツはいてる?」
「教えるわけないわよね!?」
「これって、ようするに今これ買ってあとは何もしないってこと? それで、このお金が手に入るの?」
「そうよ」
答えると、九重さんは「むー」っとうなり、そして
「あたしがやりたいのと違う!」
叫んだ。
叫ばれても困る。
「あたしはこう、パソコンかたかたしながらグラフとか見て『ここが買い時だああ!!』エンターキーたっーん! みたいな、そういうのがしたいの!! そして億万長者になりたいの!!」
「億万長者って……あのね、たしかにトレードで儲ける方法もあるし、短期的に見れば成功することもある。けどそれって結局偶然でしかないの。長期で見た場合、勝った時と負けた時が相殺されて結局総利益は株価の上昇率と同じか、それ以下になる。苦労するわりには利益がないし、当然負けるリスクも抱える。ETFの長期投資が一番合理的よ」
「つまんない!!」
なぜか目的が面白さになっていた。金儲けがしたかったのでは?
「渚ちゃんはこう、遊び心というか、冒険心が足りないよ。もっとリスクを背負って生きていこう! 安定した人生なんてつまんないよ」
「世のサラリーマンすべてに謝れ」
九重さんは安定した生活を送ることがいかに幸せか考えたほうがいいと思う。こういう人がギャンブルで負け込んで借金抱えたりするんだろう。私みたいなタイプとは思考回路が違いすぎる。
口には出さず胸の内だけで反感を積み上げていると、九重さんは「そうだ」と小さくつぶやく。
「今週の土曜空いてる!?」
「いや、勉強するから」
「空いてるね、じゃあ出かけよう。10時に校門前にいてよ」
「ねえお願い、私の話聞いて?」
「今月毎日マックスコーヒーおごったげるから。あ、あと、動きやすい格好で来てねー」
こいつ……っ。私を食べ物で釣れる安い人間だと思ってるな……。むかつく。
ーーーーーーーーーー
そして土曜日、私は校門前の道端でぼけーっと立ち尽くしていた。
どうも食べ物で釣れる安い女です。
道路に人気はなく、グラウンドから届く運動部員たちの声だけが響いてくる。
腕時計を見た。10時まであと5分。
休日に呼び出すとかいったいなんなんだろう、めんどくさいなー、帰りたいなー、と気分が沈んでいく。
静かな道路に、エンジンの音。見れば、ハイカラな蛍光グリーンのバイクが走ってきていた。
なんて派手な色……。雨蛙みたい。
乗っているのはフルフェイスのヘルメットを被った、茶色いジャケットを着た人物。シルエットからして女性だろうか。
ライダーは左手をあげ、ひらひらと手をふる。この辺りには私しかいないはずだが、もしかしたら幽霊でも見えてるんだろうか。
関わらないようにしよう。
視線を背ける。
するとそのバイクは徐々にスピードを落とし、なぜか私の目の前でとまった。
「なんで無視すんの!」
ヘルメットからあらわれたのは、つい最近見知った顔。
九重さんだった。
九重さんは私の姿を見るや、ふくらましていた頬をゆるめ、今度は景気良く笑い出す。
「って、あっはははははは!! 渚、なにその格好! ジャージって、ジャージってなによ!? あっはっはっはっは!」
「いや、だって動きやすい格好でって言ってたから……」
「いくらなんでも動きやすすぎでしょ。運動するわけじゃないんだからさ。ほい、これ」
言って、ヘルメットを押し付けてくる。
「後ろ乗って。……って、その格好じゃ寒いかな? うーん……ま、ちょっと我慢してよ」
「はあ」
よくわからないが、九重さんをわかれたことなんてないので今更だ。
ヘルメットを被り、後ろに乗る。
「しっかりつかまっててね。ぎゅって、ぎゅって抱きついて!!」
「九重さんにくっつくの、抵抗感じるんだけど」
「なぜ!?」
だが怖いので言われた通りつかまった。
ジャケット越しに柔らかい感触が伝わってくる。
なんだか変な気分だ。親とはあまり関わらず、兄弟もなく、友達だの恋人だのはまあ割愛って感じの人生だったので、人に密着することへの耐性がないのだろう。やたらとどきどきしてしまう。
「……あたし、信じてたよ。渚は絶対着痩せしてるだけだって」
九重さんが恍惚とした声を漏らした。なに言ってんだこいつ。
「じゃ、行くよ!!」
やっぱり降りようかなと思ったときにはもう遅い。九重さんはエンジンをふかし、バイクは勢いよく走り始めた。
並んだ家屋がどんどん後ろに流れていく。エンジン音だけがヘルメットの中に響いてくる。
大きな通りに出ると、九重さんはアクセルを捻り、加速した。
九重さんの肩越しに速度計を見やると、その数字は40、50とぐんぐん上がっていく。
風が体を打ちつけてくる。電車やバスとはぜんぜん違うスピード感。
なにこれ思ったより速い、っていうか怖い。これ転んだら死ぬよね? 車と違って体剥き出しだもんね。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!
九重さんの体に回した腕に力を込める。振り落とされないよう、体をぴったりと押し当てた。
「うっほーーーー!!!! 地球に生まれよかったあああああ!!!」
エンジン音を掻き消すほどの叫び声。なんでこの人こんな楽しそうなの!?
もう景色を見たくない。ぎゅっと目をつぶって時間がすぎるのを待つ。
信号でとまるたびにほっとし、発進するとすぐに目をつぶる。それを10度も繰り返したころだろうか。
九重さんは道を外れ、イオンの駐車場に入った。
やっと降りれる……。
スピードを落とし、バイクがとまる。
「渚ー。先に降りてくんないとあたし降りにくい」
「あ、ご、ごめん……」
「まあ、くっついたままならそれでもあたしはぜんぜん……うへへ、役得だった」
「気持ち悪い……」
「なんですと!?」
バイクを降り、ヘルメットをぬぐ。
九重さんはバイクを降りるや私の手を取る。
「じゃ、行こっか」
「だからどこに!?」
「その格好じゃ寒いでしょ? 上着買うの」
「いや、私お金持ってないし」
「部下の服くらいプレゼントしてあげるよー。あたし、CEOだから」
「だれが部下よ!」
言っても聞いちゃいない。九重さんはユニクロに入る。
やたら機嫌良さげに、鼻歌混じりに上着を見る九重さん。私はげっそりとしながらそれについていく。
「お、これとかいいじゃん」
「……もう好きにして」
ーーーーーーーーーー
イオンを出るや、またもバイクの移動がはじまる。
九重さんに買ってもらった上着のおかげで風は気にならないが、やはりまだ怖い。
目を瞑る。
時間が経つにつれ、少しずつ気温が下がってきた気がする。剥き出しの手が冷たい外気にさらされ、感覚がなくなってきた。
ずっとしがみついていたせいで疲れた。それでも力を緩めることはできない。せめてヘルメットの重みだけでもマシにしようと、九重さんの背中に額を押し当てる。
厚着をしていても、ずっとくっついていれば体温が伝わってくる。身を切る冷気の中、その温もりがやけに心地いい。
「渚ー!」
突然呼びかけられた。
「なに!?」
「景色いいね!」
「わかんない! 目瞑ってるから!」
「なんで!? めっちゃ緑綺麗だよ! 見た方がいいって!」
九重さんの言葉に、嫌々ながら目を開ける。
飛び込んできたのは、一面の緑。
バイクは山道を走ってた。やたら寒かったのは標高が高かったかららしい。
曲がりくねる山道の右手には生い茂った木々。左手は崖になっており、下には川が流れている。澄んだ水が陽光を反射させて輝き、岩にぶつかっては白いあぶくをたてている。
「……ほんとだ。きれい。」
「んー? なんてー!?」
「なんでもなーい!」
九重さんの思い通りの返事をするのがいやで、なんとなくごまかしてしまった。
山の頂上に近づくと九重さんは速度を緩める。
道の脇にバイクをとめると、九重さんはヘルメットをとった。私もそれに倣い、バイクから降りる。
ガードレールの下にはジオラマのような街並み。
景色を眺めていると、九重さんは自販機に駆け寄って行った。
「マックスコーヒーでいい!?」
振り返ると、九重さんは笑顔でこちらに手を振っている。
「……あったかい紅茶で」
「はーい」
二人分の飲み物を買った九重さんは私の隣に来て、ガードレールにもたれて缶ジュースを開ける。
缶は暖かく、持っているとかじかんだ手がほぐれてくる。
「あ! ごめん、手袋買うの忘れてた! 寒かったよね!?」
「いいって、別に。そこまで面倒見てもらう義理はないよ」
九重さんは「ごめんごめん」と言いながら、心配そうに私の手を取り「わ! 冷たい」と驚いてみせる。
「寒かったよね、寒かったよね」と繰り返しながら、やたら手をなでてくる九重さん。
「あの……ほんとに大丈夫だから。このくらい」
「うへへ……渚の手超綺麗ー。すべすべー」
「離せ! 変態!!」
手を引き離すと、九重さんは「あう」と残念そうに眉を歪めた。
だが悲しげな表情をした次の瞬間には携帯を取り出し、景色を撮り始める。忙しい人だ。
「やー、ほんといい景色だよね。あ、そうだ。連絡先。渚の連絡先教えてよ。ラインかインスタか、なんでもいいけど」
「私、携帯持ってないから」
「……………………うそ」
「ほんとだけど」
「なんで!? 携帯持ってないとかマジ!? え? どうやって生きてるの!? マジでなんで持ってないの?」
「どうしても携帯が必要な理由ことなんてないし、お金の無駄」
「いやいやいやいや、無駄ってことないでしょ。家いる時とかどうしてんの」
「普通に勉強してるけど」
「それは普通じゃない! 渚、なんでそんな勉強ばっかしてんの? 少しは遊んだら?」
「私はただ時間を無駄にしたくないだけ。ただ意味も生産性もなく携帯をいじったり、食べたり騒いだら、仲間内でしか通じない言葉で一日だべってるだけで、一日っていう時間を無駄にしたくないの、私は」
「なんというしっかり者……なんかごめんなさい、時間無駄に使ってばっかりで」
「別に、人がどうしようが知らないけど、私はそうしたいってだけ」
「やっぱドライだねー、渚って。そっかそっか。じゃあ休みの日とかも一日勉強してるの?」
「一日ってわけじゃないわよ。一時間ごとに休憩はとるし、ご飯も食べる」
「それは一日中勉強してるって言うんだよ。こんなふうに出かけたりとかもあんまないんだ」
「あんまりっていうか、一度も」
「ほうん。……渚のはじめて奪ってしまった」
いちいち気持ち悪い言い方するわよね、この人。
内心うんざりしていると、九重さんは楽しげな笑顔のままこちらを覗き込んできた。
「どうだった? 初めてのドライブ。楽しかった?」
咄嗟に否定の言葉が出そうになる。けれど、どうだろう。最初はたしかに怖かった。けど、ここの景色はたしかに綺麗で、バイクに乗っている時も、いやってわけじゃなくて、むしろ……。
九重さんの体温を思い出し、顔が熱くなる。なに考えてるんだ私。これじゃ九重さんと同じじゃないか。
九重さんはどこまでもまっすぐに私を見てくる。思わず顔を背けた。
「……まあ、それなりにね」
「そっか。じゃあよかった」
満足そうにうなずき、ジュースを飲む。
「言っとくけど、ドライブが楽しいっていうより……知らないとこに来たのが新鮮というか、まあ、たまにはこういう気分転換もありっちゃありっていうか……」
「それだよ! 渚に足りなかったものは」
誤解を与えないように補足していると、九重さんが急に声をあげる。
「……いや、意味がわかんないんだけど」
「渚に足りなかったもの、冒険心、冒険心だよ! いい、この世の中にはリスクを避けて安全な道を行くだけでは味わえない楽しさがあるんだよ! 知らない道を探検するわくわく感。渚にはそういう冒険を楽しむ心がないよ」
「待って、知らない道? 帰り方わかるんでしょうね」
「知らん。けどグーグル先生はすべてを知っておられる」
なぜかドヤ顔。この人ほんと適当だな。
「冒険心って……まあ、言わんとしてることはわかるけど。でも、これって口で説明すればよかったじゃない。わざわざバイク乗る必要あった? 土曜日丸一日使って」
「なにごとも経験だよ! 言葉だけでは伝わらないものがあるんだよ。あたし、説明すんの苦手だし」
「それって、九重さんに語彙力がないって話?」
「あたしのことは奏でいいよ」
「ところで、もう用事は終わり? 帰りましょうよ、九重さん」
「聞いて! あたしの話聞いて!」
空き缶を捨て、バイクに向かうと、九重さんも慌ててついてきた。
「ねー。渚、なんか怒ってる? つまんなかった?」
「怒ってない……なんというか、どう反応したらいいかわからないだけ」
「どうって?」
「だから……こういうの、したことなかったし。いつもは、親の顔色うかがいながら最適な反応を返せばいいだけだけど、九重さんってこう……カオスっていうか、なにを求めてるのかわからないから」
言い終わるも、返事がない。不審に思って振り向くと、九重さんはぽかんと口を開けていた。
「なに? どうしたの」
「いや……ええっと、渚って、こう……うん」
うなずきひとつ、言葉を続ける。
「もっと自由に生きればいいと思うよ! 面白かったら『面白かった』って笑えばいいし、つまんなかったら『なにつまんねーデート連れてきてんだよ』って怒ればいいし」
「なによそれ……ばっかみたい」
「バカですから、あたし」
ヘルメットを被り、帰る準備は万端だと示すと、九重さんもバイクにまたがる。
「あ、ちなみにあたしは超楽しかった! 渚ちゃんの体堪能できて大変満足です。ありがとうございました。あ、そうだ、どうでなら前からもハグしとく!? ちゅーくらいしてもぜんぜんウェルカムだよ!」
「私、あなたのそういうところ嫌い」
「そんなぁ!?」
うぅ、と涙声をもらし、九重さんはバイクを走らせる。
十分にスピードが乗ったところで、私はぽつりとつぶやいた。
「……楽しかった。ありがと」
ヘルメットの中で漏らした声は、風の音にかき消され、彼女の耳に届くことはなかった。
ーーーーーーーーーー
朝6時、目覚まし時計が鳴る。
布団から腕だけを出し、アラームをとめた。
「ねっむ……」
昨日一日外にいたせいで疲れたのだろう。いつもより体が重い。
寝足りないと訴える体に鞭打って、なんとか布団から這い出る。カーテンを開けると、地平線に登ったばかりの太陽が網膜を焼いた。
陽光を浴びたことで、かなり眠気がマシになる。
日曜日のこの時間、親はまだ眠っている。起こすと不機嫌になるので、足音を鳴らさないようゆっくりと一階へ降りる。
リビングに入り、電気をつけた。テーブルには食べかけの料理がほったらかしにされており、床にはビールの空き缶が転がっている。
昨日はボートレースに負けたとかで、夜遅くまで騒ぎながら飲んでいた。そのあと後片付けもせず寝たらしい。これに比べたら九重さんだって品行方正なお嬢様だ。
まあ、別に父親が騒がずともどうせリビングは狭い。
もとから対して大きい部屋でもないのに、壁際に積み上がった段ボールがかなりの面積を奪っている。母親の大好きなマルチ商品が入った段ボールだ。今日は日曜だから、恒例のマルチ商法仲間たちとのお茶会をするのだろう。
互いにしか理解できない言葉と、その集団の中でしか通用しない論理の支配する、否定する価値観の存在しない隔絶した小さな村社会。側から見たら宗教でしかない。聖典の第一条は「マルチはネズミ講じゃありません」だ。本当に吐き気がする。
段ボールを目に入れないようにしながら洗面所に向かう。顔を洗い、ジャーの中に残っている黄ばんだごはんを茶碗によそった。食べ終わると、食器を洗って部屋に戻る。
がたつく折りたたみ式のテーブルに問題集を開いた。ルーズリーフにペンを滑らせる。
より速く、より正確に。間違えたものは完璧に理解できるまで繰り返す。
一時間経つと、一息入れて英語に移る。
いつも通りの日曜日。いつも通りの勉強。
だというのになぜだか頭が働かない。
単語を見ても頭に残らない。数学も、いつもよりペンの運びが遅かった。
目をつぶり、一度頭の中をクリアにする。
その瞬間、虚脱感に襲われた。
「……なにやってんだろ、私」
なにをやってる? 勉強してる。当たり前だ。
なぜ私は今、そんな疑問を口にしたんだろう。そして、この物足りない感じはなんなんだろうか。
八時間眠り、寝起きの頭が一番クリアなときに数学。そのあと最近力を入れている英語をやって、午後からは他の科目の復習。時間が余れば寝るまで数学。
これ以上なく合理的で、無駄のない一日のはずだ。眠りにつく前に、一日を使い切ったという満ち足りた感覚を味わえる、充実した一日のはずだ。
だというのに。
「つまんないな……」
物足りない。狭い部屋にこもって、親みたいは人間にはなりたくないと、そのために何かしないとっていう焦燥に駆られて、勉強ばかり。
金儲けなんて、くだらない。目先の利益だけに騙されて、結局は破滅する。マルチ商法にはまった母親みたいに。あるいは賭け事で金を浪費する父親みたいに。
投資というなら、勉強こそが最良の投資だ。ノーリスクハイリターンの。これ以上の投資なんてない。
今日はくだらないことばかり考えてしまう。
少し気分転換でもしよう。
英語を一旦やめ、部屋の奥にしまってあったノートを取り出す。先週、金融について調べたとき使っていたノート。
——トレードにおける利益とは、リスクプレミアム。つまりリスクに対する対価だ。
株は債券などと比べてリスクが高い。だからこそ、期待できるリターンも大きい。そして長期に渡れば渡るほど、利益が出る確率は高くなる。ウォーレンバフェットではないが、株式市場は短期的な変動はあるも、長期的に見れば確実に上がる。
という、まあ、覚えたての知識なのだが。
「冒険心かあ……」
ノートに書いてある文章と、彼女の言葉が重なる。
きっと、そんな深いことを考えたものではなかったのだろうけれど。
これらを結び合わせてしまうのは、私の考えすぎなのだろうけれど。
それでも、これはきっと、楽しい誤謬だ。
ーーーーーーーーーー
月曜日。
教室で本を読んでいると、聞き慣れた声。
「はよー」
ちらと見上げると、九重さん。教室に入るや友人たちに声をかけている。
本を閉じ、声をかけようと思ったのだが、よく考えると私から話しかけるのってはじめてだな。
どう切り出せばいいんだろう……。
九重さん、ちょっといい? とかか。いや、挨拶は入れたほうがいいのかな。
おはよう、九重さん、話があるんだけど。これかな。これでいくか。
考えているうちに九重さんの席には数人の女子生徒が集まっていた。おはよう合戦は終わり、談笑がはじまる。
さては挨拶タイム終わったっぽいな。今から「おはよう」とか言っても空気読めない感が出るんじゃないだろうか。
や、でも私が話しかけるのはこれが最初なわけだから、挨拶はしたほうがいいのか。
んー、でもあんまりかしこまっても鬱陶しがられるかな。
話しかける時ってどうすればいいんだろう。正しい話かけかたとはどういったものなのだろう。そもそも正しさなんてあるんだろうか。わからない。こればっかりは自分で考えてもどうしようもない。
人生ではじめてグーグル先生に頼りたくなった。まあ、携帯持ってないので無理なんだけど。
悶々としていると、机を叩く音。
顔をあげると、笑顔の九重さん。
「はよ。どしたん、こっち見てたけど」
「あ、はい! おはようございます……」
「おおー。うん、おはよう」
九重さんの席を見ると、残された友人たちは一瞬こっちを見た後、仲間内での会話に戻った。
「で、どうしたの、なんか用だった。もしかしてあたしのこと好きなの? 付き合う?」
「……いや、そうじゃなくて」
時計を確認。授業開始まであと15分。微妙な時間だな。あとにしたほうがいいだろうか。
まあ、概要だけでも今伝えるかな。
カバンからルーズリーフの束を取り出す。
「なにこれ? 会社の名前?」
「そう。財務が健全で収益性も高く、現時点での株価が極端に割高じゃないとこのリスト」
「おー。なんか頭良さげ」
「これらの会社の株価を見張って、底値で買うの。株価は携帯で見れるでしょ? チャートの読み方はあとで教えるから」
「ん? えーっと、この前のETFとかいうのは?」
「九重さんが言ったんじゃないの……つまんないからやだって。まあ、ETFもまったく買わないわけじゃないわ。ポートフォリオの方針については私だけじゃ決められないから、あとで話して決めましょう」
「ポート……? なにそれ?」
「……それも含めてあとで教えるわ」
概要は伝えた。残りは放課後にでも話そう。
一限目の教科書を出し、授業の準備をする。だというのになぜか九重さんは私のそばから離れない。
「あの……九重さん?」
「ん? あ、ごめんごめん。なんか急に乗り気になってきたなーって。この前は『無駄なリスクや労力はなんて取りたくない』みたいなこと言ってたのに」
「それも九重さんが言ったんでしょ。冒険心だって」
「おー。あたしの言いたいことちゃんと伝わってたんだ。ふふふ、バイクを出したかいがあったぜ」
「うん。ちゃんとわかったわよ。つまり機会損失のことでしょ?」
「ん? んー?? 機会??」
「長期投資だけに集中するとトレードをやっていたら得られたはずの利益を逃すことになる。リスク管理は最低限やりつつもいろんな手段を試していくべきだってことだよね。まあ、これだとたくさんの銘柄の株価を監視しなくちゃいけないし、売り買いのタイミングの難しさもある。企業の選び方も今は私しか知らない状態。最初の案と違って、計画だけ渡して『はいおしまい』って訳にはいかないから、その……」
うっかり早口になってしまった。九重さんはなんとか理解しようと、うんうん言いながら頭をひねらせているが、たぶんほとんどわかってない。
だから、これ以上なく簡潔に伝えることにした。
「つまり……九重さんとは長い付き合いにならざるを得ないってこと。…………よろしくね、CEO」
さっきまでうんうんうなっていた九重さんは、ぱあっと顔を輝かせる。
「渚がツンデレた!! 今までツンしかなかったのに、とうとうデレた!!」
やっぱりこの人意味がわからない。
やりとりしているうちに時間はすぎ、教師が入ってくる。九重さんは「あ、やば」と急いで席に戻った。
……まあ、そういう意味不明なところが面白いんだけどさ。
教科書を開いた。教師の話がはじまる。
いつもと同じ月曜日、いつもと同じ一限目。
だというのになぜだか不思議と、気分はいつもより晴れていた。