008 襲撃
「それで、なんで待ってたの?」
「ちゃんと貢ごうと思ってさ。朝飯食べた?」
ちゃんと貢ぐとは何なのだろうか。それを疑問に思うものであるが、グリードが作業前に言っていた貢ぐという言葉を果たすという意味だろう。
「食べてないけど。」
「奢るよ。」
「いいの?ありがと。」
エーレは意外そうな顔をした後に笑みを浮かべた。その笑みは作ったようなものではなく、年相応のごく自然なものであり、それは芸術的な美しさはなかった。素朴さゆえの安心感のような、そんな可愛らしさというものを感じるものだった
「どっか行きたいとこある?」
「ないけど。甘いもの食べたい気分。」
「分かった。心当たりがあるから、そこ行くわ。」
「うん。お願い。」
グリードの提案に対して、エーレは頷いた。そして二人は連れだって街へと繰り出したのだった。
近道をするために路地裏に入り、少し歩いたところでふとグリードは変なものを目に捉えた。それは刃先だけが宙に浮いており、そしてその刃がグリードの腹に突き刺さる直前の光景であった。
「なっ。」
「リド!?どうしたの?」
そんな訳の分からない光景を前にグリードは驚きに声をあげるが、訓練の賜物かその身体は自然と刃を回避するように真後ろに跳んでいた。その様子に状況を理解していないような驚きの声をあげたのはエーレである。
「……っ。避けた?」
その声と共にグリードが見たのは異様に影が薄い女の子であった。いや、見えたという表現は正しくはないか。グリードはその存在を見えておらず、微弱な気配を捉えているに過ぎないのだから。
それでも十分すぎるほどだが。なんと言ってもエーレはその姿、気配の一切を捉えられてはおらず、ただ尋常じゃない空気感の中を佇むばかりであったのだから。
「誰だっ。」
「……。」
「っ完全に消えた?」
「リド。説明。」
そう言ったグリードの言葉通り、その女はまるで霞のように気配が消えた。そこに確かにあったはずなのに、その女に注視していたというのに何らかの特別な動作など何もなく、ただその女は消えた。
グリードはエーレに説明を求められていたが、それにこたえる余裕はなく気配を全方位感じられるように隆気をおこす。しかし、気配察知を発動する前にまた同じような現象が起きた。
それが今度は背中からであったが。気力をその身体に纏わせていたいたからこそ気づけたものだ。そうでなかったら刺されるまで気づくことなどできなかっただろう。隆気さまさまである。
「っく。どういう原理なんだ。それ。」
「……また。」
「もう一度聞く。誰だ?」
「……。僕はリリィ。」
少しの沈黙の後にリリィは名を告げた。おおよそ人の感情など感じられない声色であった。グリードとエーレは声のした方に目を向けても、気配を感じ取ることはできなかった。それは気配が薄いなどというレベルでなく、そこには確かに気配というものが存在してはいなかった。そこに最初からそんなものがなかったかのように。
グリードからの返答がない段階からエーレは黙っていた。空気を読んだ結果ではなく、魔法を行使するために集中しているのだ。そのことにグリードとリリィは気づいてはいなかった。
「リリィか。なぜ襲う?」
「惨めだから。」
「惨めだって?」
リリィの回答にグリードは思わず眉をひそめた。惨めだからと人は襲わないだろうと。惨めであれば泣くことがあっても、誰かを害そうなどとはしないだろう、と。いや、しかしおかしなことでもないのかもしれない。自分と同じ立場に落とすことが目的と考えれば、その考えも自然というものなのかもしれない。
「そう。僕は惨めで惨めで仕方がない。皆が僕とはあまりに違いすぎて。」
「どこがだ?」
「何もかもが。でも、どうでもいい。ただ僕は普通じゃないから。普通を見ると惨めに思える。それだけ。」
どうでもいいといったリリィは本当に心の底からどうでもいいと言っていそうで、でもどこかどうでもいいと信じたくてそう言っているようなそんな風に思えた。どうでもいいと思わなければ心が耐えられないような、そんな風に。
そんなリリィを見てグリードは慰めの言葉を吐く。その言葉はリリィには届きようがないのだが。届きうるとすればなんだろうか。同じ存在くらいではなかろうか。本当にそんな存在がいるとすればだが。
「こちらから見ると、リリィも普通に思えるけど。」
「……。普通、ね。普通って何だろう。さっき僕を見ることさえ出来なかったのに?」
「それ、は……。」
グリードは言い返すことなどできなかった。それはただの事実でしかなかったのだから。確かに普通ではなかったのだ。そんなものが普通のわけがない。一切の気配というものが存在しない人間なんて、普通のわけない。
「……。ほら、何も言えない。だって、僕は普通じゃないから。」
「そんなことは。」
「無い。なんて言えないでしょ。事実、それは普通じゃないから。」
「……。」
何も答えないグリードに一つ指を立ててリリィは言う。可愛らしい仕草に反して、その表情は相変わらずの無表情であった。長く伸びた黒の髪に隠れた赤い瞳が揺らめき、逆に不気味さを感じるものでさえあった。
「例えばこれが努力の末に手に入れた技術であったなら、それは普通であったかもしれない。でも、これは生まれつきのもの。そんなものは普通であるわけがない。普通であっていいはずがない。」
「……確かにそうかもしれない。でも。」
「慰めはいらない。もっと惨めになる。」
微かではあるが感情を露わにしたリリィ。リリィが今までの対話の中で初めて感情を見せた瞬間であった。それまでも感情を露わにする瞬間はあったはずであるが、それまでは努めて感情を無としようとしていたのだろう。
その揺らぎを受けて、その存在をエーレは確かに感じ取った。その存在があると確信を持ったエーレは迷うことはない。迷うことこそ、死であるのだから。エーレの魔法はその瞬間に行使された。
「銀色魔法。」
その言葉と同時にエーレを中心に銀に可視化された濃厚な魔素の霧が構築された。その銀は一直線にある路地裏を瞬く間に覆いつくし、リリィの姿を確かなものとする。その想像より小さい背を感じ、エーレは少しの動揺をしたが表に出すことはなかった。
「これ、は?」
「私の固有魔法。色彩魔法の一つ、銀色魔法。」
「色彩魔法?それにその髪は……。」
「私の髪?ああ、銀になっていること?あはは、色彩魔法を行使するとこうなっちゃうんだ。人体に悪影響はないから心配しないで。」
グリードの疑問に律儀に応えていくエーレであったが、リリィの方に鋭い目を向けて警戒心を露わとする。そのエーレの迫力、雰囲気に押されて路地裏は静かに、重く沈黙が広がった。
銀に包まれたまま黙り込んだままであったリリィは、次の瞬間にその眼を隠すように伸びていた髪をかきあげた。その瞳に宿るのは先ほどのような赤ではなく、怪しく光る青と金であった。
「魔、眼?」
「そう。それも二つ、特別製。こんな銀では僕は止まらない。」
「本当にそうかな?私の銀を簡単に敗れると思ったら、大間違いだよ。」
にらみ合うように銀が青と金とぶつかる。ますます辺りを包む銀が濃くなり、敵意を向けられていないはずであるグリードが冷や汗を流す。プレッシャーを受けてグリードがごくりと喉を鳴らす。その音を境に二人は己の力を行使した。
まず起こったのはリリィの付近を漂う銀の消失、正しくは視界に入った銀が魔素に拡散され、宙に消えることであった。その現象が起きた瞬間にエーレは次の選択をする。それは銀をすべて回収することであった。
それによって起こるのはリリィの姿が認識が出来なくなること。この一瞬でエーレはかなりの苦境に立たされることになった。姿の見えない敵に対峙しているのだ。どう攻撃をしてくるかも見えないほどの脅威は早々にないだろう。
「魔法の無効化?」
「……。」
「まぁ、答えないよねぇ。」
エーレは回収した銀をその身に纏わせた。これは魔力を応用した技術の一つである属性纏いである。効果は単純に身体能力の向上、並びにその属性の効力の増強である。属性纏いによってエーレの銀の力が強化された。
しかし、それでもエーレが不利なのは変わらない。と思われたが、それがそうではない。何故か?簡単なことである。相手の姿が見えないときはどうすればいい?
「答えは全方位、無差別に攻撃する、だよ。」
「……っ。」
「そこね。よいしょー。」
そう。相手が見えないのなら、すべての範囲を攻撃すればいい。単純である。そして効果的な手段でもある。例にもれず、リリィにも有効な手段だった。たとえリリィは銀の効力を消せたとしても、その身がどこにあるかは分かってしまう。
そうすればそこを目掛けて、全方位から攻撃魔法を行使すればよい。リリィはあくまで魔眼の力で銀を消しているのだから、眼で見えない場所から、視界外からのの攻撃は対応不可能だ。
「リリィちゃん、積みだよ。」
「まだっ。」
「それにね。私の力とその魔眼は相性最悪だよ。その魔眼は魔素を拡散させることができるんだろうけど、私はその魔素を集束させることができるからね。」
悪あがきのようにリリィは見える範囲の銀を拡散させたが、その次の瞬間にはその拡散された魔素が銀を形作る。まさしく、相性最悪であった。エーレは銀が拡散したとしても、そのすぐ後に集束できるのだ。それではリリィに勝ち目がないのは明白である。
「ねっ?」
「……まいった。」
「いい子。また遊ぼうね。」
「お姉さんの大勝利。ぶいっ。」
「……負けたの初めて。」
「ふふ~ん。なんて言っても、私だからね。でも、リリィちゃんも強かったよ~。」
エーレと話すリリィはどこか最初に比べて柔らかな雰囲気を持っているようだった。敗北したからか、より特別が現れたからか多少なりとも気を許したのだろう。それにしてもグリードが空気である。
「……で、どうするんだ?」
「ん?どうしよう?」
「……帰る。」
「リリィちゃん待って。ご飯食べて行かない?」
突然にそんなことを言ったエーレにグリードは驚いたが、グリードは特に何も言うことはなく成り行きに任せたようであった。そして、誘われたリリィはと言うと微妙に微笑みを浮かべており頷いた。
「グリード。」
「分かったよ。二人に奢るよ。」
「うん、よろしく。こっちのお兄さん、リド君が奢ってくれるからね。」
「……分かった。」
「さて、そろそろ行こうか。」
グリードとエーレ、リリィの三人はグリードが選んだ店より出てきた。三人の顔に浮かんでいたのは、差異はあるものの総じて満足気な表情であった。だが、何故かグリードだけは乾いたようなそんな笑みにも思えた。グリードの現実逃避である。
「美味しかった。ありがとう。」
「……うん。ごち。」
「どういたしまして。美味しかったなら良かったよ。」
「本当にありがとね。じゃあ、またね。リリィちゃん行こうか。」
「うん。」
「ああ。また機会があれば。」
グリードは二人がが帰るのを笑顔で見送った。二人が曲がり角を曲がったのを確認したグリードは一つため息を吐き、顔を隠すように手で覆い天を仰いだ。手の下は先ほど二人が浮かべた満開の花のような華やかな表情とは真逆の無であった。
「……あいつら、食いすぎだろ。」
一つ愚痴を吐いたグリードは今度こそ店から離れて道を歩き出した。その足取りは重く、この先の生末を心配するようなものだった。