3.待ち望んだ再会
◇
南通りと十番街。そこに残されていたという落書きは、清掃員が話していたようにすっかり消されて分からなくなっていた。だが、実際に足を運んでみて分かったことがあった。どちらも、犠牲者が頻繁に訪れていた場所だということだ。
南通りは中年男性が通勤のために毎日通った場所。十番街の路地裏はそこにある小さな酒場に犠牲となった青年がよく通っていたという。
そのいずれも天使像の土台に描かれていた通りのものならば、やはり描いたのはルージュだったのだろう。
では、彼女は何処にいる。
十番街の路地裏にて、カッライスはひたすら考えていた。
ルージュがわざわざサインをする理由は、自分を誘き出すためだとカッライスは知っていた。それを承知で追いかけているし、それを利用して狩るつもりだ。
しかし、ルージュはそう簡単に会ってくれない。
向こうのタイミングでなければ、姿を現さないつもりだろう。
要するに遊ばれている。
奔走し、思案を巡らして悩む姿を見て、笑っているのだろう。そう思うとカッライスは不服だった。
だが、感情的になってはいけない。
カッライスとアンバーを庇護した師匠はかつてそう教えてくれた。
ペリドットという名の彼女は、ルージュのお陰で何も知らずに育ったカッライスに人らしい暮らしや決まりなどを教えてくれた。カッライスという名前をくれたのもペリドットだったし、文字を読めるのもペリドットのお陰であるし、彼女と同じく狩人として生計を立てられるようになったのも、ペリドットの教えがあったからこそのことだ。
ルージュをいつか仕留めたい。
そう願ったカッライスの想いに、ペリドットは真剣に向き合ってくれた。だからこそ、実際に吸血鬼を退治して報酬を得られるまでに成長できたのだ。
師匠ペリドットならばどうするだろう。
人知れぬ森の奥でひっそりと幼い頃のカッライスはルージュに育てられた。母親あるいは父親がつけてくれたかもしれない本来の名前は忘れ去られ、ただベイビーと呼ばれて育った。
そして誰にも知られないまま成長し、いつかは食い殺される運命だったカッライスを、ペリドットとその仲間たちは救ってくれた。
ルージュは警戒心が強い。にもかかわらず、その居場所を突き止めたのはペリドットだったという。彼女の直感が、仲間の狩人たちを吸血鬼のもとに導いた。
結果的にルージュには逃げられてしまったというが、居場所を発けただけでも今のカッライスにとってみれば羨ましい話だった。
奴は何処にいるのか。
どうすれば見つけられるのか。
焦ってはいけないという思いが、逆に焦りを生んでしまう。
そんな中、カッライスは酒場近くの路地裏から十番街を行き交う人々の流れを見つめていた。
日はすでに落ちかけている。
早朝からすぐに得た手掛かりも、町の反対と反対を行き来し、その都度、犠牲者にまつわる情報収集を続けているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
間もなく夕食時となる。
アンバーは今頃何をしているだろう。
彼女との約束を忘れてしまったわけではない。ただ、素直に宿に戻ろうにも重い腰はなかなか上がらなかった。
せめてあともう少し、何かしらの手掛かりは得られないだろうか。
そんな時だった。
カッライスの水色の目にある人影が写り込んだのは。
一瞬ではあったが、見逃せるはずもなかった。
何故ならその人物が、かなり見覚えのある頭巾をかぶっていたからだ。とても目立つその赤色は、何故だか人々の印象に残らない。記憶に残るとすれば、それは狙われている人物のみ。
そう、あれはルージュがよく見につけている頭巾でもあった。
「ルージュ」
思わず前へと踏み出したその刹那、ルージュと思しきその人影は行き交う人々の姿に隠れてしまった。再び視界が晴れてみればそこにはもう誰もいなかった。
落胆するも束の間、彼女が立っていた辺りに、カッライスは何かを見つけた。
──印だ。
通りの壁に、それはあった。慌てて近寄ってまじまじと見つめてみれば、その印は広場の天使像のものと同じだった。
──ルージュだ。間違いない。
確信し、カッライスは周囲を見渡した。
まだ近くにいるはずだ。幽鬼のように姿を消せる彼女ではあるが、すでに何度か吸血鬼を仕留めてきた経験からただの人間にだって気配を探るくらいは出来るかもしれない。カッライスはそう信じた。
まるで、そんな彼女を誘い出すかのように、ルージュは再び姿を現した。
誰にも気づかれることなくすっと現れ、人混みの中からカッライスをふり返る。その顔がはっきりと見えた瞬間、カッライスは寒気を感じた。
彼女だ。
記憶の中の彼女と何も変わっていない。美しいまま時を止め、まるで本物の母親のように幼い頃のカッライスを甘やかしたあの頃と同じ笑みを浮かべていた。
──ルージュ。
カッライスは歩みだした。これが罠だろうということは、彼女自身にも分かっていた。しかし、あちらから姿を現すというこの絶好の機会。逃す気には到底なれなかった。
だから、カッライスは無言で進んだ。
ルージュの背中に導かれるままに。
◆
すっかり日は落ちてしまった。アンバーには申し訳ないと思いつつも、カッライスは歩みを止めることが出来なかった。
優雅に歩きながら逃げるルージュを、周囲を刺激しないように追いかけているうちに、カッライスは再び路地裏へと足を踏み入れていた。
十番街から外れに外れたその場所が、いったい何処なのか余所者のカッライスには分からない。ただ、ルージュだけを見失わないという執念が足を動かしていた。
そして、カッライスがたどり着いたのは、誰もいない袋小路だった。
ずっと追いかけていたはずのルージュの姿はなく、壁にはあの赤いチェックマークがあるのみ。急いで引き返そうと振り返ったその時、唯一の退路を塞ぐ形で彼女はいつの間にか立ち塞がっていた。
月の光に照らされて、ルージュの全身がカッライスにもはっきりと見えた。
「ベイビー」
甘い声でルージュは言った。
「久しぶりね。ついて来てくれて嬉しいわ」
赤く光るその目を細めるルージュに、カッライスは恐怖を感じた。
「ルージュ……」
かつては何も知らずただ純粋に愛した記憶が鎖となってカッライスの心を絞めつけてくる。けれど、カッライスはその苦しみから逃れるように、外套の下に忍ばせていたリボルバー式の拳銃に触れた。
ルージュは微笑んでいた。
カッライスがその名を間違いなく呼んだことを嬉しがるように。ルージュはカッライスの事をベイビーとしか呼ばなかったけれど、カッライスはかつて何度もルージュの名を呼んだ。幼い頃はただ甘えたくて、成長した後はもっと深い愛を知りたくて。
しかし、カッライスはもう知っている。ルージュは自分を愛してなんかいなかった。ただ美味しい血を飲みたかっただけ。食べ物で遊んでいただけ。彼女にとって自分は、今だって哀れで愚かな獲物でしかない。
それなのに、と、カッライスは銃を構えた。
──どうして今も期待してしまうのだろう。
心身の震えを感じながら、その震えも迷いも全て振り払うつもりで、カッライスはルージュを睨みつけた。
「止まれ。止まらないと──」
だが、ルージュは従わなかった。面白がるようにカッライスを見つめ、わざと歩み始めてみせた。
「止まったって、撃つくせに」
その甘くまろやかな声が、カッライスに引き金を引かせた。