2.天使の広場の落書き
◇
小鳥たちの話し声が騒がしい早朝、カッライスは早々と朝支度をしていた。
案内された宿屋はそれなりの質で、アンバーと何故か共用となった客室は悪くない。寝台もまた、休暇で来たならばいつまでも寝てしまいそうなほどには質が良かった。
そんな寝台の上で、アンバーは服も着ずに寝ぼけ眼でカッライスを見つめていた。
「早いなぁ。もうちょっとゆっくりしたらいいのに」
「じっとしてはいられないよ。昨日の間に新しい動きがあったかもしれない。ルージュの気配を探りつつ町を見て回らないと」
「仕事熱心なこった」
そう言ってアンバーはうんと背伸びをした。見慣れたその身体が目の前に置かれた鏡に映り、カッライスもまたため息を吐いた。
昨夜の事は、あまり覚えていない。酒に飲まれて右も左も分からないうちに客室に運ばれて、その後は有耶無耶なまま彼女にその身を委ねてしまったらしい。
不意に蘇る断片的な記憶を、カッライスはため息で一蹴した。
何のことはない、いつものことだ。
共に師匠の下で学んでいた頃から、いつの間にかカッライスはアンバーとそういう仲になっていた。互いに若く、好奇心旺盛な年頃だった。だから、一過性のものだったのだとカッライスも言いたいところだが、どうやらまだまだ彼女との関係は終わらないらしい。そして、その事にカッライス自身も心の何処かでホッとしていた。
「どうでもいいけど夕食までには戻って来いよ。一人で食うなんて、味気ない」
欠伸交じりのその言葉に、カッライスは微笑んだ。
「努力する」
断言を避けた形だが、一応、アンバーも納得したのだろう。その後はばったりと横になり、程なくして寝息が聞こえてきた。
「仕方ない姉貴だ」
カッライスは一人呟き、アンバーの元へとそっと近寄った。
ぐっすり眠る彼女に毛布を掛け直してやると、麦色の髪にそっと触れた。
ルージュも同じ色の髪をしている。しかしながら印象はだいぶ違う。アンバーの髪が人々に安らぎを与える麦の色であるとすれば、ルージュの髪は人々の目を突きさすような灼熱の太陽の色だった。
すべての吸血鬼がそうであるように、ルージュは美しい女性だった。美しいまま時を止め、魅了した人々の命を残酷なまでに確実に刈り取っていく。
彼女がその気になるならば、この人間社会自体を操れるまでの悪女にだってなれるだろうと、カッライスは確信していた。
しかし、ルージュは長生きをした吸血鬼らしい狡猾さもある。生きるのに邪魔な虚栄心などそこにはなく、彼女の目的は飽く迄も生存への欲求だけ。食べると決めた者の前にだけ現れ、狩りの成功率は極めて高い。
この町で彼女を見た者がいるとすれば、その者はもうこの世にいないだろう。
だが、いかに気を付けていても、吸血鬼だって生き物だ。その存在自体を消し去る術はないようで、はっきりとルージュを見た覚えはなくとも、人影や声として、あるいは犠牲者たちとの記憶の中で、その存在を覚えている人はいるかもしれない。
カッライスはそうした僅かな可能性を求めて町へと繰り出した。
◆
依頼主である町長によれば、犠牲者は三人。
三日に一度ほどの頻度で誰かが襲われている。年齢はまちまちだが、全て男性でいずれも一人暮らしだった。男性に偏っているのはたまたまだろう。
ルージュが好むのはどちらかと言えば女子供だとカッライスは記憶していた。次に狙われるのは帰る家を無くした孤児であるかもしれないし、娼婦かもしれない。
いずれにせよ、犠牲者が増える前にルージュの居場所を突き止めないと。
カッライスはひとまず犠牲者の出た現場をぐるりと巡ってみることにした。一人目は町の北部。二人目はそこから反対側の南部。
そして三人目はカッライスたちの泊まる宿からも近い町の中心部。昨日、アンバーが言っていた天使の広場も近い場所だ。行くならまずはここだろう。
三人目の犠牲者は、早朝と夕暮れ時によくその広場を訪れていたという。
散歩が日課で、会話をした人も多いと聞いている。
明けゆく空と共に、カッライスは広場の天使像を眺めた。アンバーが言っていた通り、幻想的な光の反射が確認できる。
犠牲者となった老人も、この光景を楽しみにしていたのだろうか。
太陽とは正反対に沈みかける気持ちを抱えつつ、カッライスは周囲を見渡した。
早朝の散歩が日課であった人はそれなりにいたと聞いていたが、吸血鬼騒ぎのせいもあるのだろう。広場には清掃員がいるだけで、他には誰もいなかった。
彼にはすでに声をかけている。
だが、取り合ってはくれなかった。
吸血鬼の話を不要にして、目を付けられるのは嫌だと断られたばかりだった。巻き込まれたくないというのは生き物としては自然な感情かもしれない。ともかく、彼がダメならば他の人々を当てにするだけなのだが、なかなか人は来なかった。
──別の場所に移動するか。
カッライスが迷っていると、天使像を磨こうと近づいた清掃員が奇妙な声をあげた。
「なんてことだ」
「どうしたんです?」
カッライスが訊ねると、清掃員は不機嫌そうな顔で天使像の土台を指示した。
促されるままに視線を向け、カッライスはそのまま言葉を失った。
印。赤い印だ。
口紅で書かれたチェックマークがそこにあった。
「全く誰がこんな悪戯を……罰当たりめ!」
強い口調で憤慨しながら清掃員は天使像の土台を磨き始めた。なかなか頑固なその印に悪戦苦闘する様を見守りながら、カッライスは印を目に焼き付けた。
悪戯などではない。
その印は間違いなく、ルージュが描いたものだった。
誰に宛てたメッセージなのか、考えれば考えるほどカッライスの心は震えた。
──怯えているわけじゃない。
自分に言い聞かせ、カッライスは胸に手を当てる。
──これは、武者震いだ。
「腹が立つよ、全く」
カッライスの横で、清掃員は言った。
「これで三つ目だ。今日だけで、だぞ? よりによってこの俺の担当の場所ばかり。犯人をぶん殴りたいね」
「三つ? 他にもあったんですか?」
カッライスが問いかけると、清掃員は手を休めて顔をあげた。
眉を顰めたままうんと頷くと、彼は立ち上がった。
「ここ以外にも清掃を頼まれている箇所がいくつかあってね。そのうちの二か所で同じような落書きがあった。こりゃクレヨンだか何だか知らんがどこの悪ガキがやったんだか」
「ちなみに、その場所というのは?」
「南通りの散歩道にあるモニュメントと十番街の路地裏の壁だよ。どっちもすっかり消しちまったから分からないと思うがね」
「ありがとう」
手短に礼を言うと、カッライスはさっそく広場を去った。
消されたといっても、何かしらの意味があるかもしれない。ともすれば、ルージュ本人にたどり着くような何かが。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。