1.赤いチェックマーク
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吸血鬼の多くは証拠を残したがらないものである。
彼らにとっての殺人は、人間たちの行う屠畜や収穫と同じ。
その特徴的な手口から、吸血鬼による犯行であることは隠し通せないにしても、用済みとなった死体を残さず持ち去る者も多い。
けれど、ルージュと呼ばれる女吸血鬼は違った。
長く生き過ぎた彼女にとって、殺人は単なる食事ではないらしい。彼女は用済みとなった死体を持ち去ることもなく、誰かに発見されるに任せる。それを見据えて、彼女は現場にメッセージを残すのだ。
口紅で描かれるのは文章ではない。誰でも分かるチェックマークただ一つ。
吸血鬼にやられた死体とチェックマークがあれば、それはルージュの犯行である。いつしかその噂は各地に暮らす一般市民にも広く知られるようになっていった。
チェックマークの意味を正しく理解する者はほとんどいない。
自己顕示欲の表れだと述べる学者もいれば、吸血鬼特有の何らかの呪いかもしれないと警戒する魔法使いもいる。
しかし、どれも間違っていることを、女狩人のカッライスは知っていた。
「ルージュ……」
木の床に描かれた赤い印に軽く触れながら、カッライスは静かにその名を呟いた。
現場となったのは、孤独な老人が終の棲家としていたアパートの一室である。質素ながらもそれなりに穏やかに過ごしていたという彼に与えられた死は、安らかな老衰などではなかった。
ルージュは相手を選ばない。
空腹を満たすためならば、どんな獲物でも美味しくいただいてしまう。その暴食こそが彼女を長生きさせた要因の一つであるようだ。
それでいて、食を全く楽しまないわけでもない。
彼女が嬉々として攫うのは年若い女性で、同じ女性として少々手間をかけて親しみを持たせておいてから裏切り、捕食するということも度々あった。いわば吸血鬼にとっては食材の魅力を引き出す調理のようなもの。
カッライスの実母は、そのようにして命を奪われた。もはや母の面影すらカッライス自身は覚えていないけれども、実母の仇であるというのは生涯をかけてでもルージュを狙い続ける理由として十分すぎるほどだ。
だが、ルージュを追う理由はそれだけではない。カッライスにとってルージュは、絶対に誰にも渡したくない獲物だった。何故なら彼女は、カッライスの育ての親でもあるからだ。
◆
「それで? 手がかりは見つかったのか?」
誰もがひそひそと会話をする静粛な酒場にて、カッライスの姉弟子たるアンバーはそう囁いた。
酒場の主人が贔屓にするピアニストの演奏を邪魔しないよう気を配りながら、カッライスもまたアンバーにそっと耳打ちをした。
「口紅のチェックマークがあった。ルージュが犯人で間違いない」
「ふうん。だが、模倣犯って可能性は? そのルージュってやつは、魔物の世界でも有名なんじゃないのか? 同じ吸血鬼なら尚更」
アンバーの言葉に、カッライスは首を振った。
「いや、間違いないよ。奴の書く印は特徴的なんだ。人によっては花びらに見えなくもないだろう。わたひが見間違えるはずもない」
「大した自信だな」
半ば呆れるアンバーに対し、カッライスは静かに目を伏せた。
自信があるのにも理由はある。
ルージュが描くチェックマークはカッライスにとって見慣れていた。ともすれば、この周辺のいかなる言語よりも馴染み深いほどでもある。
幼い頃、母親を失った傷はカッライスの声を奪った。文字もしっかりと読めない彼女に対し、母親代わりに成り代わったルージュは敢えて言葉を教えることなく、カッライスの意思表示をチェックマークで示させ、ルージュ自身もチェックマークのみで極力やり取りをしていた。
書く場所によって指示は変わり、カッライスはその言うことを聞く。このようなやり取りはカッライスが再び声を取り戻すまで続き、声を取り戻した後も、ルージュからの書き置きは常にチェックマークのみでやり取りされた。
ルージュのもとから救出されて以来、学びの甲斐あって文字が読めるようになった今も、チェックマークには馴染み深いものがある。
特に床に描かれた口紅の印にもまた、意味があった。
──すぐに戻るからいい子にしていなさい。
幼い日に聞いたルージュの声を思い出し、カッライスは身震いした。
「どうした? 冷えるのか?」
目敏く気づいたアンバーに訊ねられ、カッライスは麦酒の入ったグラスの氷をかたむけながら誤魔化した。
「平気だよ」
「酒の飲みすぎか? 相変わらず弱いんだな」
そう言ってアンバーはオオカミのような黄金の目を細めた。
その眼差しは子供の頃からあまり変わらない。だが、変わらないようではカッライスも困る。せっかく師匠の元を巣立ったというのに、アンバーはいつまで経っても自分を未熟な子供だと思っているのだ。
吸血鬼に育てられた世間知らずの妹にあれこれ教えた姉弟子の気分は、そう簡単に薄れないものなのだろう。共に独立した日に、これからはお互いにそれぞれの道を歩もうと誓ったにも関わらず、アンバーはこうしてカッライスが単独で引き受けたはずの依頼について来る。
「それで? アンバーはこの町で何をするつもりなの?」
多少の苛立ちを覚えつつカッライスが訊ねてみると、アンバーは軽く笑って答えた。
「別に。観光ってところかな。この町、前々から来てみたかったんだよ。天使の広場から眺める夕日が綺麗らしい。何でも、天使像と反射して、それはもう幻想的なんだってさ。他にも面白い土産物が多数あるって聞いてね」
「……ふうん。それなら別にいいけれど、仕事の邪魔だけはしないでくれよ」
「ああ、勿論さ。お前が苦戦していようと、休暇中の私は手伝ってやらないよ。だが、ルージュは強敵なんだろう? 師匠たちが取り逃したくらいの大物だ。下手したら飛んで火にいる何とやら。あっちとしちゃ、鴨がネギ背負ってきたとしか思わないかもしれないな。覚悟は出来ているのか?」
「出来ているさ。やるかやられるか。ルージュになら殺されたって構わないくらいだ。わたしに何かあったら、敵討ちくらいは願いたいところだけれどね」
「止せよ。私は自分に見合った獲物で稼ぐって決めているんだ。ルージュなんて荷が重いよ。……まあ、骨くらいは拾ってやらなくもないけれどさ」
そう言って、アンバーは笑いかけた。
カッライスも軽く笑い返し、そのまま口を閉ざした。
ルージュになら殺されたっていい。それは半分冗談で、半分本気だった。まだまだ生き永らえたいのは確かだが、どうせ殉職するならば、その相手はせめてルージュであってほしい。彼女はカッライスにとってそのくらいの獲物なのだ。
間違っても、他の魔物にやられたくない。
間違っても、他の狩人にくれてやりたくない。
それは、カッライスの心に強く根付いた願望だった。
この度の依頼主は自分以外にも複数の狩人を雇ったと言っていた。
他の者たちはまだ町に入っていない。来るかどうかも分からない。だが、どちらにしたって獲物も報酬も早い者勝ちだ。もたもたしていれば、報酬目当てに多少無茶してでもルージュに挑む者が現れるかもしれない。
報酬なんて別にくれてやってもいい。違う仕事で稼いだ分が暮らしに困らないくらいはまだまだ残っている。だが、ルージュの命だけは別だ。一つしかないその命。あれだけは譲るわけにはいかなかった。
──他の誰にも、絶対に。