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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 二、 太陽と選択
8/19

 世七がだらだらと続く成長痛と声変りを終えたのは、彼が十四年と半年過ぎた夏だった。結局少年の背丈は理世に追いつくことはなかったが、最低目標としていた紗七を数センチ追い越せたあたりで及第点とした。

 さて、うだるような夏の日。世七は例のごとくおつかいのための準備をしていた。出立日は翌日。今回も紗七と同行の任務だ。


「世七、夕ご飯」

「分かった。紗七、そこのそれ、取ってくれる?」


 夕食にと呼びに来てくれた紗七を小間使いのようにしてしまうことは申し訳ないが、本人である紗七自身がまるで苦には感じていないので問題はないだろう。世七の指した先にあるのは古びた音楽プレーヤーだ。紗七はくすんだ白の機体を手に取り、弟へ手渡した。


「持っていくの? 大事なものなのに」

「それが……壊れちゃったのか、動かないんだよ」


 世七は悲しそうに呟いた。お気に入りで、一人で部屋にいる時に聴くことの多かった、名も知らぬ音楽。それは暫く前からボタンを押しても反応がなくなり、ただの置物と化していた。だから、最近はおつかいの度に持ち歩くようにしていた。偶然カイトに会うことができれば、どうすれば良いのか教えてくれると思ったからだ。


「りいに聞いてみたら? 今夜はいると思うよ」

「えっ!?」

「夕ご飯の後にでも。知ってるかも」


 行くよ、と促されとうとう世七は立ち上がって部屋を出る。過ぎ去った年月の中、世七は結局一度もなかったが、紗七は何回か理世ともおつかいをしている。いつの日にか紗七は理世のことを「りい」と愛称で呼ぶようになっていた。それは従妹の玲紗を「れー」と呼ぶくらい、理世が紗七にとって親しい人物になったことの表れでもある。世七にとって、腹の底が見えず怖い人物である理世と、自分の片割れのような紗七との仲が良いというのは変な感じだった。一度、世七から直接的に理世のことについて紗七へと問うてみたことがある。あいつは何を考えているのかよく分からなくて、俺は怖いと。それに対して姉は少し笑いながら「私もりいが考えてることは分からないよ」と答えて、それで。どう続けただろうか。こんなことがあって怖かった、と紗七に話を聞いてもらっていると、世七が一番分からなくなる。客観的な事実を並べてみれば、嫌がらせ行為をされているわけでも、無視をされるでもなく、何も恐れる要素がないように思えるからだ。単純に自分にだけ理世の態度が違うかと言えば、そうではない。煙に巻かれるような不可解な気分で終わることが多かった。ただ、自分の懐に入れた者に対してはとことん甘い性質である姉がいつか騙されてしまわないかと、世七は少し心配だった。誰よりも自分が一番紗七に甘やかされている自覚は、多少はあるが。夕飯の最中そんなことをまたぐるぐると考えていて、ぼんやり煮魚の骨をつついていたら、玲紗に行儀が悪いと叱られてしまった。


 そして、夕食を終えて世七は理世の部屋の前に立っている。たった数歩で来られる距離だ、何せ隣なのだから。しかし、最初に来た時以降世七がこの部屋に入ったことはない。主観的な恐れから一人で此処に来るのはとても勇気の要ることだった。締め切られた障子は、部屋の灯りでぼんやりと照らされている。灯りが点いているということは、部屋の主はこの中にいる。一度息を吸って、吐いて。世七は意を決して声をかけた。


「理世、入ってもいい?」


 緊張したが声を震わせずに言えたのは、ひとえに意地からだ。夏の夜に鈴虫が鳴く音が、世七以外立っていない廊下に寂しく響いた。


「どうぞ」


 シンプルな許可が得られたのはすぐだった。そも、理世に断られるとは世七も思っていない。声を聴き、世七は障子に手をかけてゆっくりと引いた。部屋の主は窓際に立っている。嗅いだことのない、甘いような不思議な香りが一瞬ふわりと鼻を擽った気がした。


「珍しいね。どうした?」


 理世が問う。世七と違い、彼は部屋の中でも着流し姿だ。後ろ手に障子を閉じ、世七は文机の手前まで進んで、包みに入れていた音楽プレーヤーを取り出した。


「これなんだけど、見たことある?」


 差し出された物に、理世は窓際から部屋の中央へと位置を変え、文机の向かいに座った。置きなよ、と指示されたので世七は素直に従う。机の上にプレーヤーをことりと置き、世七自身も畳の上に座った。


「動かなくなっちゃって」

「ふうん。電池は替えたの?」

「でんち?」

「大分古そうだし、充電式じゃないだろ、これ。触っても?」

「あ、ああうん、お願い」


 理世の武骨な手が、白い音楽プレーヤーを手に取る。機体を裏っ返して、爪をひっかけて細いプラスチックの蓋を取ってみせた。その中から円柱の物を二つ取り出し、机に転がす。何となく世七は壊してしまうと危惧して分解することは避けていたのだが、この様子だと理世はこれの仕組みを既に知っていて、かつとても簡単なことで直りそうということが分かった。


「これが電池。……プレーヤーを動かすためのエネルギータンク。こいつを新しいのに替えて、それでも無理なら別の方法を試した方が良いと思うよ」

「なるほど。端末の充電器が使えたらと思って探してみたんだけど、こうなってたのか……」

「此処の技術がそれなりに発達してるのも考え物だな。……っと」


 ひとつ電池が畳に転がって、理世は体を屈めて取ってくれた。理世の部屋は以前来たときよりも本が増えて、部屋の壁一角を埋めていた。整然と本棚に並べられているものがほとんどだが、一層古そうな、紺地に銀の装丁が施された本が数冊、本棚の前に平積みにされていた。何となく数か月前にカイトたちと見たグラビア雑誌が頭を過ったが、そんなものはこの部屋になさそうだとも思った。本以外には稽古用の木刀と真剣があるが、もう二年も前――理世が常陸となって二年後のことだ――から現場に出るようになった彼は、世七に比べれば木刀たちの使用頻度はかなり減っただろう。しかし、埃は被っていない、きれいに手入れがされている様子がうかがえた。


「それで、これはどうやって手に入れたんだ?」


 部屋を見回しているのがばれたのだろうか、唐突に飛んできた質問に世七はぎくりとした。まだおつかいのみで仕事現場に出ていない少年は、当然ながら給金という概念がない。必要なものは基本的に、すべて家が揃えてくれるからだ。そのため、世七がこんなものを持っているということ自体が不自然であると考えるのは当然で、この質問は想定の範囲内でもあった。


「え、えっと……いや、その、盗んだとかではない!」

「それは別に思ってないよ。お前のことだ、そんなことはしないだろう」


 理世の返答に世七は少し驚いた。自分がそう評価されているとは知らなかったからだ。


「俺が疑問なのは、電池を買うにしたって何処で買えばいいか知らないお前をサポートしてくれる奴がいるのかってこと」

「そ、それは……きっと大丈夫、だと思う……多分、だけど」


 思い浮かべたのはカイトたちだ。偶然会うことができれば、きっと彼らは喜んで世七を案内してくれるだろう。電池売り場も知らないのか、と揶揄われることは目に見えているが。問題は購入資金だ。電池が大体幾らなのか想像がつかないし、それこそ代金を支払わず盗むなんてもっての外である。ただ、金銭を得ていない現状では無理だ。年がそこまで離れていない理世にはこの音楽プレーヤーの存在を知らせることができたが、規律に厳しい師範や、父、祖母には絶対にばれてはいけないと思っていた。芋づる式に音楽プレーヤーのみならず現在も民間人であるカイトたちと交流があるということが分かってしまうに違いない。そうなったらお小言だけでは済まなさそうだということは、世七も理解できていた。


「あのこは、この事を知っているのか」


 考えに耽っていた世七に、理世から声がかかる。


「あのこ?」

「紗七」

「え、うん。知ってる。理世に聞いてみたらって、紗七から言われたからだし――」


 そうでなければ此処にはきっと来なかった、とは言わなかった。世七の言葉の途中で理世は立ち上がる。本棚の隣に置かれた小棚の引き出しを開け、そこから何かを取り出している。彼の表情は分からなかったが「そうか」と呟く声はいつも通りのように思えた。


「ほら、これで電池が買える。……金の概念は分かるよな?」

「流石に分かるよ! っいや、でもこれは貰えないって。いいよ俺、自分で仕事するまで我慢できる」


 目の前に置かれた紙幣に世七は首を振って、理世の方へと追いやった。昔の佐伯の言葉ではないが、タダで貰うものほど恐ろしいものはないのだ。この音楽プレーヤーはカイトを助けたという事実に基づいて彼が世七に与えたものであるし、カイトが対価として世七に寄越したのだ。しかし、理世のこれは違う。世七は理世に何もしていない。金銭の価値すら分からないかもしれないと思われたことは少し気に障ったといえ、世間知らずなのは重々承知だ。カイトたちとの会話で身に染みて理解できていた。それよりもこの金は受け取ってはいけないと否定する方が重要だった。


 受け取りを拒否する世七に、理世は肩を竦める。どうやら、きっと世七がそのまま受け取ると思っていたようだった。


「じゃあ、おまえの師範に直接交渉すれば?」

「で……っきるわけないだろ、怒られるよ」

「物は言い様だろ。俺にもらったとか何とか誤魔化せよ」

「そ、その言い訳で大丈夫なのかな」

「さあ?」


 ええ、と顔を顰める世七とは正反対に、理世は笑ってみせる。そして、理世の視線が障子へと向いたためつられるようにして世七も振り返ってそちらを見た。


「理世兄さん。そこに世七兄さんはいる?」


 すると障子の外から声がかかる。玲紗だ。いるよ、と短く理世が告げれば、障子を開いて玲紗が部屋を覗いた。


「お話し中すみません。兄さん、父から話があるそうです。来なさいって」

「師範が? 分かった。理世、その……ありがとう」

「どういたしまして」


 結局金は文机に置いたまま、世七は音楽プレーヤーのみ回収して理世の部屋を出た。入るときはかなり緊張していたが、今はそうでもない。ただ、この部屋から出ると少し息がしやすいのは前と同じだった。




 流石に気持ちの準備も誤魔化す用意もできなかったので、音楽プレーヤーは急いで部屋に置いてきた。てっきり明日同行する紗七も共に師範から呼ばれたと思っていたのだが、違ったようだ。世七が一人で執務室に伺えば、厳しい表情をした叔父の姿。何かしてしまっただろうかと、世七はぎくりと体を強張らせた。


「座りなさい」


 はい、と短く返事をし、師範の前に正座する。橙の灯りに照らされた師範の顔は難しい表情で、世七は視線を手元に落とした。


「明日はまた朝未研究所に行くことになっているが、世七。任務で気を付けるべきことは何だ」


 師範からの問いかけに、世七は考えを巡らせた。いつも言われていることを頭の中で反芻させ、口を開く。


「サイレンが鳴ったら、すぐにシェルターへ避難すること」

「ああ」

「紗七と絶対にはぐれないこと」


 世七の言葉一つ一つに相槌を打つ叔父は、言外に続きを促していた。世七は、一度こくりと唾を飲み込む。少し躊躇ってから、少年は再び言葉を紡いだ。


「証明書を受け取ったらすぐに帰ること。……民間人とは、極力関わらない」

「そうだ」


 なぜ世七だけ呼び出されたのか。先ほどばれたらお小言では済まないと思っていたことが、たった数分も経たないうちに現実になったようだ。世七は視線を上げることができないまま、審判を待つ被告人のような気持ちでいた。


「世七。報告で上がった証明書の受取時間と、帰宅の時差。これをどう説明する」


 少年は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。そんなもの、説明するまでもない。ただ道草を食っていただけとするには、聊か長い時間が空白になっている日が点々とあるのだから。沈黙を続ける世七に、師範が溜息を吐く。責められているように感じられて、もっと気持ちが重く沈んでいった。


「……世七。お前の名前は誰がつけたか知っているか?」


 しかし、ふと脈絡が分からない質問が投げかけられ、思わず世七は顔を上げる。相変わらず厳しい表情をしているが、その中に心配そうな視線を感じ取りながら、世七は緩く首を横に振った。


「お前の母親がその名を付けたんだ。常陸家男児が有する『世』の字に、七代目に相応しく育つようにと」

「……お母さんが」

「世七。言いつけを破って民間人と関わっていたね」


 この流れはひどくずるいのではないかと思いながら、世七は頷くしかなかった。母が自分に対しそのような期待を込めた名づけをしていたなど初めて知ったし、素直に嬉しかった。きっと言いつけを破ったことだけが悪いわけではなく、七代目を目指すものとして相応しくない振る舞いをしてきたことを、師範に咎められているのだろう。


「なぜ民間人との関りを制限しているのか、考えたことは?」


 師範からの問いに、世七は再び俯いた。


「監視者としての情報が洩れるのを防ぐため、です」

「ああ、勿論それは重要だ。しかしな……いいか。我々常陸の人間は――いや、言い換えよう、監視者は、民間人に危害を加えてはいけないという制約がある」

「はい、習いました。守るべき対象として扱えと」


 模範的な回答をする世七に、師範はそうだと重々しく頷く。


「刀を生めない常陸の者が、封鎖地区内で()()に遭うことが、稀にある」

「事故、ですか」

「そうだ。……赤光に襲われる民間人を助けようとして死んだ者も居る。私の息子だ」


 叔父の言葉に、世七はぐっと口を噤んだ。世七も知っている世治の子の一人、玲紗の兄にあたる少年。もし生きていれば、理世と同じか少し上くらいの年齢の彼は、十二の時に亡くなってしまった。だからこそ、民間人に関わるなという世治の言葉には一層重みがあった。


「もう一つある」


 終わりかと思った話には続きがあった。


「民間人そのものが敵になることもあるからだ。特に身なりの良い(おんな)子どもは狙われやすい」

「民間人が、俺たちを?」

「そうだ。そして、我々は彼らを害してはいけない、そう言われている――分かるか、世七。お前たちは常陸とはいえ、まだ子どもなのだよ。何かが起こってからでは遅すぎる」


 叔父の声は悲嘆が含まれており、世七は自分の軽率な行動を恥じた。同年代の少年が此処には少ないから。初めて家族以外に、過ごしていて楽しいと思える人たちだったから。知らないことがたくさん知れて、嬉しかったから――でもそれは、常陸として生きていく上では切り捨てるべきリスクの一つなのだ。世七は唇を噛み締めながら、ゆっくりと頭を下げた。


「……すみませんでした」

「いや……私も、この件には過敏になってしまってね。お前が窮屈な思いをしているのは分かるし、ほら、紗七はきっとお前がしたいということは止めないだろう? しかしな、吠世……お前の父さんに知られる前に止めた方がいい」

「はい」

「明日はすぐに帰ってくるね?」

「はい。道草食わずに、紗七と一緒にすぐ」


 叔父は世七の言葉に安心したように、そして満足げに頷く。ちらりと世七の頭の片隅に、動かなくなった音楽プレーヤーが浮かんだ。もう、あれは二度と動かすことはできないのだろうな、と、この時に思った。

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