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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 一、 虫篭のこどく
5/19

 そして、佐伯の言葉がまるで予言だったかのように、あのドライブからひと月も経たないうちに姉弟は「おつかい」をすることになる。勿論、二人ともまだ子ども故に佐伯のように車を運転できるわけもなく、自分の足で屋敷からフェンスを出ていかなければならない。まだ刀を生めない子どもたちは、前回のドライブ時同様洋服を身に着けて「おつかい」へと臨むこととなった。


 二人に与えられた指令は「朝未研究所にサンプルを持っていくこと」だ。正しく単純なおつかいそのものである。サンプルは小さなジュラルミンケースに入れ、世七が。連絡用の携帯端末は、紗七が持つこととなった。陽の高い内に行って帰って来られるよう、昼食を摂ったらすぐに二人は出発した。この日もじりじりと日が照っていたため、姉弟は揃いのキャップをかぶっていた。


 二人ともはぐれないように。道に迷ったら携帯端末で地図を調べるように。研究所にサンプルを渡したら証明書を受け取り、すぐに帰ってくるように。民間人とは極力関わらないように。そして、赤光が出たとサイレンが鳴ったら、すぐにシェルターへ避難するように。師範からよくよく言い含められた託を頭の中で復唱しながら、二人は自分たちの足で零区のシャッターを潜って外へと踏み出した。


「あっつい」

「そうだね。日陰を歩こう」


 キャップを被っているとはいえ、直射日光は容赦なく姉弟の肌を焼く。演習場での稽古が増えてからというものの、一回りこんがりと肌が日焼けしてしまった。道着の形に焼けてしまうのだから、本日着ている丸首のティーシャツでは、やや不自然に白い肌が見えてしまって、世七は随時思い出したように首元を引っ張り上げて日焼け跡を隠していた。


 以前、佐伯と共に歩いた商店街を横目にすり抜け、目的の「朝未研究所」を目指す。露店が立ち並ぶ商店街は、少し入ればアーケード状になっていた。改築が追いついていないのだろう、ところどころペンキが剥がれており、屋根が破れて空が見えている。


「封鎖地区でも、お店があって、人が居て……おばあさまは百年以上前からって言っていたけれど、何とか生きているんだね」


 世七は街往く人々の生活に思いを馳せた。もし、自分が常陸の人間ではなく、ちょうど赤光が表れたその時に、ここ朝未区に生きる子どもだったらどうだろうか? 突如現れた凶暴なバケモノに為す術もなく倒れていただろうか。それとも、運よく生き延びたとして、常に自分や家族が死ぬ危険に怯えながらも、こうして生きるために動くことができるのだろうか? なんだか急に不安になってきてしまって、世七は思わず隣を歩む紗七の手を握った。相変わらず姉の手は冷たいが、そのひやりとした心地が少年の心を温まらせてくれる。


「どうしたの」

「はやく刀を生めるようにならないとなって」

「あと四年と半年だね」


 理性を失ったバケモノに対抗する手段を得たいと思うのは、本能であるだろうし、何よりこの街のみならず封鎖地区「三途」、ひいてはその外に広がる国を守る役目のある家に生まれた者としての義務だろう。いや、十を迎え半年ほどの少年にとっては、「早く自分もバケモノを倒して人を守りたい」というシンプルな正義感だけかもしれない。刀を生むことができるのは、十五歳を迎えてから。理屈ではよく理解できていたが、それでも憧れてしまうのは止められなかった。


「分かってるよ! それでもさ――」


 丁寧に理を述べる紗七に噛みつき気味に、世七が言葉を返そうとしたその時だった。

 地を揺らすような、まるで獣の唸り声のような不穏な音が辺り一帯に響き渡る――サイレンだ。


 穏やかだった街並みは、途端に蜂の巣をつついたように慌ただしくなった。先ほどまで商店街の店先で談笑をしていた住民たちは、我先にと姿を消してゆく。店の地下に自前のシェルターを持っている商人たちは次々と身を隠し、残された客らは半ばパニック状態に陥りながら逃げまどっていた――ここはアーケード街、目印となる赤いサイレン塔が視認できないことが、パニックに拍車をかけている。世七も例に漏れず、言い聞かせられてきた目印が見つからないことに心拍数が一気に跳ね上がった。


「世七。大丈夫、あの看板が道標になっている。ここから三百メートル北に行けばシェルターに行けるはず」


 握られた手が、くん、と引かれたと思えば、至極冷静な声が隣からかけられる。紗七のものだ。姉が指す先にはサイレンと同じ赤い色をした看板。そこには姉の言葉通り、この道をまっすぐ北に進めばシェルターがあることを示すシンボルマークが書かれていた。


「ほかの人たちもほら、みんなそっちに向かってる。私達も行こう」


 姉の言葉に頷けば、握った手をそのまま引かれた。正直なところ、紗七が引っ張ってくれなければ今の世七の心情では一歩走り出すことは叶わなかっただろう。一歩。踏み出しさえすれば、ようやく体は逃げるために取る行動を思い出したように、足を回した。


 奇しくも姉弟を殿として、逃げ惑う住人たちの列はシェルターへと進んでいた。「出現地点は朝未区中央南東、朝未霊園近くより――」鳴り響くサイレンの合間に、出現した赤光の位置情報が伝えられる。逃げる足は緩めず、世七は佐伯の言葉を思い出していた。自分がいずれ守る街の中、何処に何があるかを分かっていないといけない。今は守る段階ではないが、何処に狩るべき、今は避けるべきバケモノが居るのかを把握していなければ難しいだろう。現に、逃げながらも世七は必死に頭の中で地図を描いていた。現在地は朝未区の中央北、アーケード商店街を抜けたところ。朝未霊園とは一キロほど距離があったはずだ。事前に地図を見てイメージトレーニングをしていたことも然り、佐伯に朝未区の中を歩きまわせてもらったことは充分すぎるほど役に立っていた。


「――まずい、近づいてきてる」


 しかし、隣を走る紗七がぽつりと呟いた不穏な言葉に世七は驚いた表情を浮かべた。なぜわかるんだ。問いかけようとした弟に視線を合わせず背後を確認しようとした紗七に、つられるように世七も走ってきた道を振り返った。


 赤く燃えている。炎ではない、ヒト型のあれは。


「移動速度どうなってんだ……ッ」


 思わず世七は毒づいた。凶暴だ、と聞いていたし、実際稽古で何度か追い立てて斬り捨てたことはある。しかし、そのどれもが赤光としては下に位置する物を師範が()()()()、稽古用にと用意したものだということが今、まざまざと理解できた。平均して今の自分たちと同じくらい動くことができると称された赤光の、それも特別速い個体だったら、一般人など。いいや、世七や紗七も例外ではなく、師範の言葉通りひとたまりもないはずだ。シェルターを目指す人の群れ、最後尾を走る姉弟はもっと速度を上げることはできるし、息も切らさず目的地までたどり着くことはきっと可能だが、ほかの人間たちはどうだろうか? 現に、少し速度を上げた姉弟は前を走っている少年たちの集団に簡単に追いついてしまった。


「もっと速く走れ! 後ろに来てる!」


 見知らぬ少年たちに向けて、世七は声を張り上げた。四人の少年たちは息を切らしながら、ヒッと引き攣った悲鳴を上げる。うち、一人がきっと確認しようとしたのだろう、後ろを振り返ろうとして、足が縺れて、転びそうになる。転がったら、きっと間に合わない――頭で考えるよりも先に、世七は手を伸ばしてその少年の腕を掴んだ。半ば引き摺るようにして少年を転ばせず、再び走らせるように強いた。


 目指す先の赤い拡声器が、どれほど安堵をもたらしただろうか。世七含む子供たちの固まりが這う這うの体で滑り込むと同時に、背後でガシャン! と重たい金属音が響いた。シェルターの入り口が完全に閉じられようとしているところだった。


「もっと奥に……シェルターの、奥に、行こうぜ」


 ぜいぜいと荒い息のまま、一人の少年が呟けば、賛同するように他の子供らも立ち上がり、再び歩き始める。シェルターは三層構造になっているため、なるべく外に近い場所から離れることが鉄則だからだ。姉弟よりもよっぽど封鎖地区での生き方に慣れている子どもたちは、此処で休んでいてはいけない、安心する場所は此処よりももっと深い場所だと理解しているようだった。


 世七も、紗七も子どもたちに続いて奥へと歩んでいこうとする。シャッターは、外が視認できる透明なものが既に降りている状態で、それよりももっと強力な重たいものが徐々に左右から閉じている途中だ。あれだけぎらぎらと降り注いでいた太陽光が遮られ、シェルターの白熱灯の明るさに目が慣れようとしていた。そのため、余計に外の明るさが眩しく感じられ、振り返った紗七は思わず手で目の上を覆った。


「――……?」


 赤光の出現情報の少し前から気になっていた首元の疼きは、今やピークに達していて、どうにも落ち着かない。そして、少女は目を細める。見間違いだろうか。


 人だ。確かに人が、砂まみれの地に立っている。ざんばらに伸びた髪の毛が、砂と共に揺れていた。その奥に燃える炎のような赤い柱たちが見え、紗七は思わず透明なシャッターに手をついた。


「外に人が――」


 少女の声は、完全に閉まった重たい扉によって遮られた。外光が閉じきる直前、彼の人影が緩やかにこちらを振り向き、長い前髪の奥にある視線が僅かに絡んだ。それは、少女の気の所為だったのかもしれない。


「もしそうだとしても、もうこのシェルターは開けられない。……心苦しいがね。あとは監視者が来てくれるのを待つだけさ……ほら、君も奥に行きなさい」


 シェルターの管理をしている職員だろうか、大人の男性がゆっくりと紗七の肩に手をつき促す。はい、と短く返事をし、紗七は彼女を待っていた世七の元へと歩んでいった。





 シェルターの最奥にて、ようやく世七と紗七は地べたに座り込んで息を吐いた。陽射しをたっぷり吸って温かさの残る黒いリュックサックから出した水筒で喉を潤す。生ぬるい液体が喉から食道を通って体に染み渡っていく感覚が、今自分がしっかり生きていることを証明していた。


「なあ、君だよな、さっき――その」


 身を寄せ合って座り込んでいた姉弟の元に、一人の少年がおずおずと声をかける。先ほど赤光から逃げていた際に、転びそうになったところを世七が間一髪引き上げたあの少年だ。色素の薄い茶色の短髪で、日に焼けた健康そうな肌色をしている。しかし、きっと同じような顔が二つ並んでいることで、少年はどちらが自分を助けてくれた恩人なのか分からず戸惑っているようだった。彼の困惑を察した世七が、「いいよ」と言葉をかける。そうすれば、二つの同じ顔で左右に揺れていた少年の視線が世七の方へと向き、彼はほっとしたように破顔した。


「シェルターが閉まる前に間に合ってよかった」

「本当に! あんなに早く奴らが来るなんて、全く思ってなかったから……君が助けてくれなかったら俺、きっとやられてたぜ。ありがとう」


 気恥しそうに礼を述べ、少年が手を伸ばす。意図が分からず首を傾げた世七の手を取り、少年はやや強引に握手をした。


「俺、能登快人(よしひと)。カイトって呼ばれてる。君は?」

「えっと――」


 世七は迷っていた。「一般人とは極力関わらないように」と師範に言われていたことを思い出したからだ。しかし、相手が名乗ったというのに無視するのはきっと失礼に当たる――礼儀正しく、というのも常々師範であり叔父である世治が世七に対して口酸っぱく言う言葉だ。


「世七」

「世七、よろしくな。此処に住んでるわけじゃないだろ? これだけそっくりな奴らが居れば知ってそうなもんだし」

「あ、うん……今日はその、たまたま」

「たまたまで()()()()()か。最悪だな」


 からりと笑うカイトに、つられるようにして世七も笑みを浮かべた。年頃はきっと世七よりも少し上だろうか。さっぱりとした物言いの、印象の良い少年だ。


「俺らも今日は休みだからさ、商店街ぶらついたらサッカーでもするかって予定だったんだけど……ボールどっかに置いてきたな、こりゃ。後で回収できるといいんだけど」


 困ったように髪を掻きながらカイトはつらつらと喋る。お喋りな人間が身近にいないため、世七は少年の話についていけるよう少し身を乗り出した。


「そうだ、そっちの方は何て名前なんだ?」


 カイトの視線が世七から紗七へと移った。壁に凭れかかりながら水を飲んでいた紗七は、少年を一瞥し、すぐに視線を外す。慌てて世七が代わりに「こっちは紗七」と説明をした。しかしカイトは紗七の態度を気にすることなく、むしろ「女みてーな名前だな」と響きの方が気になっていたようで、世七は間違いなく女性名であることを説明した方が良いのかと考えた挙句、姉がカイトに対し全く興味がなさそうにしていることから説明を放棄した。


「いつ出られるんだろう」

「さあなあ。でも此処は監視者の拠点からそう離れた地区でもねえし、ササっとやっちゃってくれるといいな。陽が落ちたら朝まで居なきゃいけないからなあ」

「早く終わるといいけど――ねえ、ポケット、落ちそう」


 会話を途中で切り、世七はカイトのズボンのポケットを指さした。先ほどから気になっていたのだが、白いひものようなものがぶらぶらとしているのが視界に入って気が散ってしまう。世七の指摘を受け、カイトも気づいたように手を伸ばし、ポケットから件の物を取り出した。


「サンキュな。落っこちるとこだった」

「……それはなに?」

「え? 音楽プレーヤーだよ、見たことないのか」


 カイトは世七の前に小さな箱型の機械を差し出す。差し出されても、どうしたらよいか分かっていない少年に対し、カイトは「さてはお前、良いとこの子どもかあ?」なんて笑いながら、紐状の先につながった丸い先端部分をつまみ、世七の耳元へと近づけた。


「ほら、これを耳につけるんだよ。俺のお気に入りを聴かせてやるぜ」


 彼の言葉に従順に、世七は耳に機械を当ててみる。カイトが手元で箱型の機械のボタンを押せば、世七の耳には聴いたことのない音たちがあっという間に広がった。


「うわ、うわ。なに」

「かっけーだろ?」

「かっこいい」


 聴いたことのない、いや、体験したことのない感覚だった。溢れる音たちに、人の声が重なって、何かの言葉がのっている。目をきらきらと輝かせて聴き入る世七の姿に、嬉しそうにカイトは笑った。


「気に入ったらさ、それやるぜ」

「え!? それはまずいよ、こんな良いもの……」

「何処が! ぼろっちいプレーヤーだよ、それにもうすぐ新しいの買ってくれるってオヤジが言ってたんだ。今日の礼だよ。そんなもんで悪ィ」


 な? と。音楽プレーヤーを押し付けられてしまえば、世七はもう断ることなどできなかった。その後は暫くカイトにプレーヤーの使い方を教わり、ディスクを交換すればほかの音楽も聞くことができるということを知ったが、世七は今のこれがとても気に入ったので暫くは交換する必要がないだろう。第一、交換するものも持っていない。


 そうして、時間にして三時間ほどシェルターの中に押し込められていた人々は、警報解除の知らせでようやくもう一度太陽の下へ戻っていった。世七はカイトからもらった音楽プレーヤーを大事そうにリュックサックにしまう。


「今回、警報解除早かったな」

「近くに巡回中の監視者が居たんじゃねぇの?」


 ざわざわと人の群れたちが銘々に呟く言葉たちの中に、そんな言葉が混ざる。三時間はいつもよりもずっと短いらしい、ということを、世七は初めて知った。


「世七、行こう。陽が落ちる前に戻らないと」

「そうだね」


 目的に忠実な姉からの言葉に、素直に頷いて世七もまた太陽の下を歩き始めた。





 無事サンプルを研究所に渡し、おつかいは成功。最終的には零区の屋敷に戻るまでに走って、世七も紗七も陽が落ちるまでに家に戻ることができた。研究所でもらった証明書を師範に渡しに行かねばと、靴を脱いですぐに姉弟は師範の執務室へと向かう。しかし、どうにも家の中がバタバタとして落ち着いていない。日中の朝未区での赤光出現の影響だろうか? 事務関係や調整役を担う高梨家の人間たちが、忙しなく廊下を行き来していた。その中の一人をどうにか捕まえ、師範の居場所を問うてみる。すると、師範は執務室ではなく母屋、それも当主である祖母の部屋にいるとの返答だった。


「現在五代目と吠世様、世治様は取り込み中で……しかし、無事お戻りになったということはお知らせした方が良いと思います」


 丁寧に高梨の者が言葉を述べる。世七も、そして紗七も、できれば会合中の三人の輪をつつくなんてことは御免だ。しかし、報告は義務。すこぶる気は乗らないが、二人は一度顔を見合わせ、同時に頷いて母屋の方へと歩き始めた。


 一歩一歩母屋へと近づいていく。母屋の距離と比例して高梨たち使用人の数は少なくなってきたが、反対に怒鳴るような声が大きくなってきた。心配と不安とで、世七は紗七を見遣る。姉もやや不安そうな表情だったため、世七は少女の手を握った。


「……おばあさまの声かな、珍しい」


 ぽつりと紗七が呟く。声を荒げているのは、祖母のようだ。厳格であるが声を荒げて怒ることなど聞いたこともない。世七も紗七も事態の検討が付かず、余計に不安が増幅された。


「分かっているのか! 野放しにした挙句に何人も死なせたも同然だ!!」


 部屋の直前で、より鮮明に聞こえた紗倉の声に、思わずびくりと怯えて世七の足が止まった。強く握った紗七の手が、緊張からかやや震えている。一度深く息を吐いた姉が、再び足を踏み出して、障子の前で膝をついた。


「お話し中すみません。紗七です」

「……っ、せ、世七です。戻りました」


 世七が言い終える前に、すっと障子が開く。師範だった。稽古中よりもずっと厳しい表情のままだったが、「よく帰ってきたな」と二人を労う言葉をかける。部屋の中には厳しい表情の祖母、そして難しい表情をした父がいる。二人とも視線は合わず、無言のままだ。手早く世治に証明書を渡せば、部屋に戻っていなさいとすぐさま障子は閉められた。姉弟もいつまでもこの場に居たくない気持ちが大きかったので、早足で母屋から去る。自分たちに宛がわれた部屋に入って、ようやく二人は揃って大きなため息をついた。


「どうしたんだろう、みんな。怖かった」

「何かあったんだろうけど……はあ。暫くは部屋にいよう」


 姉の言葉に世七は激しく同意した。早いところ風呂に入ってすっきりしたいし、そろそろおなかも減ってきたが、不用意な動きをして今の大人たちに咎められるのだけは御免だからだ。二人ともそのままの格好で畳の上に転がり、無為に過ごしていようと決めた。しかし腹は減るし用も足したい。家中が何処かピリピリとした緊張感に包まれている中、慎重に周りを見渡して逐一安全を確認しながら姉弟はその日の夜を過ごした。





 変化が起こったのは、丸々一か月後の朝である。依然として湿度も気温も高い季節、その日は朝から嵐が来ていた。どんよりとした厚い雲がかかり、雨脚も風も強い。そんな最低の空模様の日に、姉弟、そして従妹である玲紗は、母屋の祖母の部屋に呼び出されていた。ひと月前の例の日ほどではないとはいえ未だ緊張感は家の中に点在しており、部屋の中、上座に坐する祖母も、奥に控える叔父や叔母、そして父も、皆が皆厳しい表情のまま。今此処に、常陸を名乗る全員が揃っていた。不安と緊張で落ち着かないが、いつものように姉の手を握るわけにはいかない。ぐっと我慢をしながら、世七はこの場を耐えていた。


「今日お前たちを集めたのは、報せがあるからだ。――……お入り」


 祖母が伏せていた目を開き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。ひりついた空気の中、障子が開く音が嫌に耳についた。大人たちが皆俯いている中、子どもたちは一斉に音の出口へ視線をやる。部屋に入ってきたのは、世七よりも年上に見える少年だった。赤茶色の短い髪の毛、そして瞳の色は玲紗と同じような茶色がかった赤だ。少年は静かに入室し、障子を閉め、子どもたちの斜め前に座った。


「この者が新しく常陸に入る。名は『理世(りせ)』と言う」


 祖母の言葉が一瞬理解できず、世七は呆気にとられながら祖母を見つめた。先達て説明を受けた我が家の成り立ちにおいて、()()「常陸」に新たな人が増えるなど、有り得ることだとは思えなかったからだ。


「理世は刀を生めるが……現場の前に教育を挟むべきと判断した。紗七、世七。お前たちと同じく世治に稽古をつけてもらう。吠世、世治は各部隊に周知――いや、やはり私がやろう。政府側への周知も私から。よいな」


 当主からの命に皆が跪拝するのが見え、慌てて世七も頭を下げた。そして、直感的に、先日この部屋で揉めていたことと関連しているだろうと分かる。ちらりと斜め前を盗み見た先に居る「理世」と呼ばれた少年は、この部屋の中の誰よりも涼しい顔で座っていた。

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