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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 一、 虫篭のこどく
3/19

 純和風の広い屋敷、その一角にある道場に木を打ち鳴らす音が響く。袴姿をした二人の子どもたちが覇気迫る様子で打ち合い稽古をしていた。

――常陸家に生まれるということは、則ち刀を握ることだ。

 物心つく頃には、世七、そして紗七も、一家の長である祖母から事あるごとにそう言い聞かされてきた。体の未成熟な二人は、木刀に踊らされるように振り回すところからスタートを切った。それが、早三年前のこと。世七が十になる年には、木刀は真剣へと変わった。


 世七と紗七は、いつだって二人で刀を握っていた。片方が怪我をこさえれば、片方が手当をする。お互い上手に巻藁が斬れた時には、額を突き合せて喜び合った。二人はまるで双子のように育った。比喩には収まらないほど二人はよく似ており、一見すると見分けがつかないほどそっくりだった。


 カランと木刀が床にあたる音。広い道場に膝をついているのは紗七。少女の手には木刀が握られているが、手首のすぐ上には世七の木刀が添えられている状態。すなわちそれは紗七の『負け』を示していた。


「――勝った。紗七に勝った!」


 興奮した声をあげる世七に、紗七は困ったように笑った。


「敗けました。世七、速くなったね」

「そうでしょ? やった……超嬉しい」


 姉から素直な賛辞を受け、世七の顔により喜色が表れる。当然のように差し出された弟の手を取り、紗七は立ち上がった。


「ついに一本取ったか」

「お見事ですよ」


 二人の剣術を指南にあたっている師範、そしてその妻にあたる女性が銘々に声をかけてきたため、姉弟はそろってはにかんだように笑みを浮かべた。世七と紗七の叔父叔母にあたる夫婦で、この夫婦にも一人娘がおり、名を玲紗という。玲紗は世七よりも二つばかり年下で、木刀を握り始めた柔らかい手に肉刺ができ始めたことを二人に嘆きにくる、可愛らしい従妹だった。


 これまでの手合わせでは、ほぼ紗七の勝ちで終わっていた。しかし徐々に互角になってきたのは、紗七の素早さに世七が追いつき始めた頃からだ。そしてこの日、ついに世七が勝利をもぎ取った。


「二人とも、よく稽古をしている成果が出ている」


 玲紗の父――そして世七や紗七の父親の弟でもある男性は、柔らかく目を細めて二人を褒めてくれる。姉弟の持つ赤い虹彩よりもやや茶味がかった瞳の色は優しく、世七も紗七も自分たちの師範のことが好きだった。


「これなら、そろそろ良いかもな」


 ぽつりと師範が呟く。その声に反応したのは彼の妻だ。眉間に皺が寄り、美しい顔が顰められている。彼女もまた、赤茶色の瞳を持っていた。


「あなた。まだ早いのでは? ()()()までまだ五年もあります」

「それは分かっているさ。ただ、その前に対処の仕方を学ぶだろう。それは早くてもいい――知らないより、ずっといい」


 そう言葉を紡いだ師範の目は遠くを見ていて、叔母はその言葉に口を噤む。世七と紗七は、二人の大人の様子がただ事ではないことしか分からなかった。やや不安そうな世七が、そっと紗七の右手を握る。間もなく、きゅっと優しく握り返される感触が伝わってきて、それが世七を安心させた。二人の子どもたちが所在なさげに立ち尽くしていることにようやく気付いた師範は、にこりと大袈裟に破顔してみせた。


「次のステップに移ろうということだよ。明日は演習場の方で稽古をしよう」

「演習場で?」

「場外戦を?」


 世七、そして紗七がほぼ同時に疑問を投げかける。師範はこくりと頷いた。――どちらの問いかけに是としたのかは、分からなかった。


「さあ、今日の稽古は終いにしよう」

「はい。ありがとうございました」

「ありがとうございました!」


 姉弟はほぼ同時に礼を述べ、頭を下げる。自分たちの使っていた木刀を丁寧に片付け、道場の入り口でもう一度敬礼をして廊下へと出ていった。


「紗七、明日、どんな稽古だろうね」

「ね。演習場か……いつもは外部の大人の人たちが稽古? しているって聞いたよ」

「じゃあ僕たちも今度からその仲間入りかな!」


 大人の仲間入りという概念が嬉しくてたまらないというように、世七が笑う。弟の様子を見て、紗七もまた、柔らかく微笑んだ。



 翌日、演習場にて。それはあまりにも異様な光景だった。

 熊笹で半円形状に囲われた、広い演習場。無人の演習場や、大人たちが集合している演習場は姉弟二人とも目にしたことがある。しかし今日は、その場に三つ、赤々と光る炎の柱が立っている――いいや、あれは、炎でも柱でもない。


「……ヒトだ」


 怯えたように世七が呟いた。仄暗い童話の中に出てきた、中世外国の処刑場の一場面のように、地面に突き立てられた十字の柱。そこに文字通り磔にされている人型のものは、体内から赤い光を発しながら、言葉にならない呻き声を上げていた。悍ましく響く声に、世七も、そして紗七も。まだ十と僅かばかりの子どもたちは、一歩ずつ後退った。


「しはん」


 助けを求めるような世七の声が、師を呼ぶ。姉弟の隣に控えていた師範は、表情乏しく赤い柱を見ていた。


「あれについて二人は知らなければならない。常陸として生きていくのであれば、避けて通ることはできない」


 普段の稽古よりもずっと厳しい口調で師範が言う。世七と紗七、二人分の赤い目が、師範と赤い柱を行ったり来たりしていた。


「あれは『赤光(しゃっこう)』――正確には、約一世紀前に発生した赤光ウイルスの感染者だ」

「かんせんしゃ……?」

「汚染者、ともいう」


 感染者、汚染者。子どもたちにとって聞き馴染みのない難しい単語ばかりが続いたのが分かったのだろう、叔父が助けるように「とあるウイルスによって作られるバケモノ、ということさ」と言葉を繋いだ。


「我々常陸家が生業とする監視者は、赤光を殺せる。唯一の種族だ」

「え……」


 斬るのか、あれを? 今までの稽古はこのために? 二人の動揺が手に取るように分かったのだろう。師範は「斬る」と一言呟いた。


「あれは生きた人間を襲い、人間の細胞に赤光ウイルスが付着すれば――……ほぼ感染する。殺さねば無限にバケモノを生み続ける」


 師範の言葉を遮るようにして、赤い柱――『赤光』が甲高く叫んだ。びりびりと空気が震え、姉弟はびくりと体を跳ねさせる。二人は知らず内に手を繋ぎ合っていた。


「師範」


 隣から響いた声に、世七は紗七を見遣る。姉はまっすぐに、赤い光を見ていた。揺らめく光に同調するかのように、姉の赤い瞳が暗く光った。


「……私たちも、あれになるの」


 それは質問と呼ぶにはあまりに単調な声音だった。紗七の質問に、世七は驚いて言葉も出ない。自分が。自分も、姉も、ああなる未来があるというのか?


「いや、我々は感染することはない」


 しかし、緩く首を振って師範が否定する。


「死ぬだけだ」


 男の声に重ねるようにして、再度赤い炎が悍ましく鳴いた。



 その日から、剣術の稽古は「赤光を殺すための練習」に替わった。今、演習場で磔にされている赤い柱だが、実際は括られているわけでも大人しくしているわけでもない。現に、磔にされている今ですら、引き攣った声を上げながら拘束から逃れようと藻掻いている。


「あやつらは素早い。一般人ならひとたまりもないな」


 叔父が顎をかきながら呟き、紗七を見遣った。


「平均して赤光は今のおまえたちと同じくらいは動けるだろうよ」

「……殺し方の手順はありますか?」

「なあに、正しい殺し方なんてものはありゃせんよ。頭部、喉元、胸に腹――ヒトと同じ。急所が何処にあるかは教えたはずだね」


 師範の言葉に紗七は頷く。半歩後ろにいる世七を見遣れば、少年の不安そうな視線と目が合った。自分たちの家が剣術を生業としていることは分かっていたが、その延長上にあることに直面して動揺しているようだった。世七の視線は紗七と、演習場の赤光を交互に見ている。いつあの三体が拘束を引き千切ってこちらに向かってくるのではないかと、気が気でない様子だった。


「ただし」


 深い男性の声が、二人の視線を師範へと戻す。


「赤光を殺せるのは『監視者の刀』のみ。――見た方が早いだろう」


 言いながら、師範は左端の赤光へ近づいていく。体つきが女性のそれの前に立ち、稽古用の真剣をすらりと抜いた。

 見た方が早い、言い換えれば「目を逸らさずに見ていなさい」。紗七も、世七も、いつの間にか口の中が乾いていた。この先の展開が想像できて、本心で言えば「見たくなんかない」けれど、目を逸らしてはきっといけない。そして――二人の想像した通り――師範はぎらつく真剣を振った。しゅ、と鋭い音が一度響き、ごとりと女の首が落ちる。思わず「ひ」と引き攣った声を上げたのは、紗七だったか、世七だったか、二人とも判断がつかなかった。もしかしたらどちらも同じタイミングで上げていたのかもしれない。


 てん、てんと転がる首――その見開いた真っ赤な目と視線が絡んだ気がして、世七は思わず自分の木刀を強く握りしめた。その首が口を開いて再び叫び始めると同時かそれより早いか、師範の真剣がぐさりとその首を地面に縫いとめる。いびつな形になっても尚、悍ましい叫びをあげようとするその首に、依然として藻掻く、頭部を失った体。異様だった。


「ただの武器じゃ殺すことはできない。このようにいくら急所を仕留めたとしてもね。まあ、血流を遮断されてしまった以上頭部は暫くすれば消滅するだろうが」


 優しく諭すような師範の声が、二人にとっては不気味に響く。知りたくなかった世界を眼前に突き付けられたまま、奈落へとつながる空洞をこじ開けて無理やり広げられた気分だった。


「だから、我々が必要となる」


 叔父は独り言のように呟いた。


「見なさい」


 注意を惹く言葉ではない。二人に向けて、叔父は明確に命令をした。

 紗七も、世七も、冷や汗が止まらない。勧善懲悪の鬼退治を読み聞かせてもらうのとは訳が違った。しかし、目を離すことは許されない。刀によって地面に縫いとめられた女汚染者の頭のように、二人は瞬きすることも忘れて食い入るように叔父を見ていた。


 叔父は、利き手である右手を左の胸に当てる――心臓がある位置だ。何かを呟くわけでもない、一瞬だった。よく鍛えられた胸筋、それを覆う着物、それらをすり抜けるようにして赤い光の粒子が集まる。筋張った手が握ったのは紛れもなく刀の柄で、まるで鞘から抜くようなしなやかな動作で叔父が手を引けば、胸から『生えた』刀の姿がそこにはあった。


「かたなだ」


 思わず漏れたのだろう、世七の声音は聊か興奮を帯びていた。叔父が一閃するように水平に赤光の鳩尾のラインを薙げば、磔にしている拘束具に凭れるようにだらんと汚染者の体は力を失った。すると、体中から溢れんばかりに発していた血のように赤い光もまた、ろうそくの火が消えるが如く失われてゆく。そして。


「……消えていく」


 ぽつりと紗七が呟いた。その声を運ぶ風が、裂かれた腹から溢れる――いいや、裂かれた腹から徐々に変化して砂や土塊になってゆく「赤光ウイルスに汚染されてしまったヒトだったもの」を攫ってゆく。別の二体はまだ悍ましくも叫び、呻いているというのに、紗七と世七の聴覚は一瞬、支配されたかのように砂のさらさらとした音しか認識しなかった。あれだけ喧しく、そして鮮やかに生を主張していたこの世の異物の最後は、痛いほど静かなものだった。


「常陸家のものは十五になると刀を生むことができる。この世で唯一赤光ウイルスに対抗できる手段だ」


 師範の声で、二人に音が戻ってきた。相変わらずけたたましく存在を主張する二体のウイルス汚染者たち。叔父が手にした赤い刀を払う風切り音。そして、こちらに向かってくる静かな足音が聞こえ、紗七と世七はそちらに視線を向けた。


「――世治(せいじ)。どうだ、この子たちはやれそうかえ」


 やってきたのはこの家、いやこの組織の当主。そして姉弟の祖母だった。皺のある顔つきは威厳に溢れており、正直世七は笑わないこの人が怖い。祖母の声に「ええ」と朗らかに返事をしたのは叔父だった。


「よく学んでいます」


「紗七」


 叔父の答えを聞き終わる前に、祖母は紗七を呼ぶ。弾かれたように「はい」と返事をし、少女は背筋を伸ばして祖母を見つめた。


「真ん中の赤光をおやり」

「――え」

「私の刀を貸してやる。血が近ければ使えるのだよ」


 祖母はそう言いながら紗七の眼前に右手を差し出す。先ほど叔父が胸に手を当て刀を引き抜いた時同様の赤い光の粒が祖母の手に集まり始めたのが分かり、慌てて紗七は着物の袖を引き上げて刀を受けようとしたが、祖母の「素手で構わん」という言葉にぱっと手を出し受け取った。光はあれほど赤かったのに、祖母が生んだ刀は純白の色をしている。受け取った紗七も、そしてそれを見ていた世七も、興味深そうにしげしげと刀を見遣った。


「常陸家当主、つまり監視者総統と認められた刀は白いのさ」


 孫らの表情から汲み取ったように祖母が言う。真剣とそう重さは変わらないはずのそれが、急にずしりと重量を増したように感じら、思わず紗七は祖母を見る。しかし、祖母は一つ頷くだけで言外に孫へ「握れ」と命じた。紗七の手にあってもその白い刀は輝きを失わず消滅することもない。


「おやり」


 端的なその言葉に、紗七は白い柄を握りしめた。「さな」と、隣の世七が呟く。心臓が煩く跳ねているのを感じ取り、少女は一度目を伏せ、ゆっくりと息を吐いて――開ける。赤い瞳が昏く煌めくときには、驚くほど気持ちが凪いでいた。


「――承知いたしました」


 下段の構えは紗七の慣れた型だ。世七との手合わせでも、よくこの型から入る。少女の右足がじり、と演習場の土を踏みしめ、そして、一瞬で中央の柱まで距離を詰めた。


 正しい殺し方などないと叔父は言う。しかし、今まで散々叩き込まれてきた成果だろう、人体の急所を如何に狙うのかは嫌というほど体に染みついていた。一瞬赤い光が散り、大きく光る。同時に中央の赤光が目を見開いて叫んだ声が、嫌に耳についた。腹から胸にかけて、踏み込んで切り裂く。充分だった。裂いた傍から砂や土と化していくそれが、姉の頬を撫でる。不気味なほど美しくて、世七はとてつもなくそれが厭だった。


「ようやった」


 すぐに祖母の元へ戻った紗七は、白い刀を返す。少しだけ祖母の口の端が上がっていて、純粋に孫娘を褒めたい様子が見て取れた。しかし紗七は委縮したように小さく礼をし、すぐに世七の隣、半歩後ろに戻る。世七には姉の行動の理由が分かった。祖母のみならず、姉弟の父、吠世(はいせ)までもが演習場に現れたからだ。いつからか父と紗七の間に埋められぬ確執があることは幼い世七にすら分かっていたし、当事者である紗七本人は殊更敏感だった。

 着流し姿の吠世は、演習場の二つの砂山、そして残された一体の赤光に目をやり、鬱陶しそうに眼を細める。


「世治、はやく始末しろ」

「吠世……。今は稽古中だ」

「煩くてかなわん。それにまだ世七は赤光の対処に回すには早い」

「知識は必要だろうよ」

「ならば座学で充分では――……チッ」


 父の言葉に被せるように、右の柱に括られていた女の赤光が喚き声をあげる。相当その喚き声が耳障りだったのか、それとも単純に自分の言葉を遮られたことに腹を立てたのか、吠世は俊敏に腕を振り上げた。その動作に、紗七の体がぎくりと強張る。しかし吠世の振り上げた手には一瞬で赤い刀が出現し、それを違うことなく放って最後の赤光に突き立てた。兄の短気さに、世治は額に手を当て溜息を吐き、祖母紗倉(さくら)は呆れたように目を細めた。


「あんなもの、すぐに殺してしまえ。ああ、稽古だったか。ならばこれも知らねばなるまい」


 常に怒りを湛えたような声で吠世は淡々と言葉を紡ぐ。土と化した赤光の元から自身が放った赤の刀を取り上げ、呟いた。


「これは赤光だって、ただのヒトだって、殺せる」

「――吠世」


 見かねた紗倉の声がかかったが、吠世は言葉をやめなかった。


「俺ら常陸の血筋だって殺しちまえる代物だってな」


 そう語る赤い視線は、間違いなく娘に注がれている。きゅっと喉の奥が締まる心地を抱く紗七の姿を父親から遮るように、世七が位置を変えた。


「下がれ、吠世」


 響く祖母の声。父親は振り返りもせずに演習場を後にしてゆく。


「……事前に話を通しておくべきでした、すみません」

「いや、事前に告げたら了承などせんだろう、あいつは。何せ、世七も紗百合のように囲おうとしているのだからな」


今度こそ祖母も溜息を吐いた。その様に、叔父が苦笑を浮かべている。ようやく空気が氷解してきた気がして、世七は紗七の手を握った。冷たい手だ。紗七の手はいつだって冷たくて、世七は毎回温度を分けるのに必死だった。


「紗七、大丈夫?」

「うん。……なんだか、まだ実感が湧かない。私、本当に斬ってた?」

「え?」


 紗七の答えに世七は一瞬面食らった。少年は父親の態度について紗七に質問したのだが、姉から返ってきたのは赤光を斬り払ったことについてだったからだ。


「あ、ああ、うん。もちろん斬れてた。怖くなかった?」


 なので、世七もそれに合わせた。父の態度に関して姉は触れたくないのだ、そう判断して。案の定世七の質問に対し、紗七は柔らかく微笑み世七を安心させる言葉を紡いだ。大丈夫だよ、と。





 その後、演習場から場所を移した世七と紗七は祖母の自室で正座をしていた。師範もその場に同席しているが、単純に世治から紗倉へと教鞭を執る者が変わったともいえる。紗倉は澄んだ赤い目で孫たちへそれぞれ視線を送った。


「赤光とウイルスのことは、先ほど知ったな」


 呟く紗倉の言葉に、世七も、紗七も頷いた。


「では我々『常陸(ひたち)』の成り立ちについても教えねば。赤光とは切っても切れぬ縁なのでね」


 ふうと祖母が息を吐く。きっちりと正座をした姿勢の老女は、湯飲みを手に取り、ゆらゆらと中身を少し揺らした。


「もう百年も前の話になる。私ですら始まりを見ていないのだから、お前たちには物語のようかもしれんな」


 ぬるくなった緑茶を一口。こくりと嚥下したのち、ゆっくりと湯飲みを机に置いた紗倉は二人の子どもたちの前に地図を広げてみせた。


「ここの地図だ」

「そうだ、よく知っているね世七」


 祖母から褒められたことに世七が気恥しそうにもじもじとした。


「これは『三途(さんず)』地区の地図。今我々が拠点としているのは、ここ――(ぜろ)地区だね」


 とん、と紗倉の皺のある指が地図の右下を指す。ぐるりと囲まれた『三途』全域の最も西に位置する場所だった。


「ここで、初めての赤光が出た。さっきの言葉通り、百年以上前の話だがね」

「ここで……?」

「そうさ。だからゼロ地点と名が付いたんだ」


 現在自分たちが住んでいる場所に、あのバケモノが。一気に空気が冷え、怯えた声を出す世七に笑い交じりに祖母が応えた。


「先ほど赤光を見たね? あやつらはヒトを襲う、凶暴で俊敏な物体だ。ただの刃物では殺せず、光る体を消し飛ばすこともできぬ。――刀を生める我々のみが対処できる。常陸家はこの三途地域から赤光が漏れぬよう『監視者』としての務めを果たさねばならぬ」

「かんししゃ」

「そうだ、監視者」


 祖母の単語の端を取って復唱した紗七に、念押しするように紗倉はもう一度単語を重ねた。


「赤光が溢れれば世は混乱し、この小さな三途地区だけには留まらぬようになるだろう。我々はこの世になけなしの秩序を与える役割なのさ」

「かっこいい」


 きらきらと目を輝かせた世七に、紗倉は小さく「そうか」と呟いた。重ねるように世治が笑い、「地獄の門番のようなもんだがね」と呟くが、世七にはその意図が良くわからなかった。


「常陸家の始祖は赤い虹彩を有し、刀を生むことができた。おまえたちもきっと十五になるころには生めるようになるだろうね。そうして、今の今まで血を繋いで――つまり、始祖の直系にあたる家系が我々『常陸』の一族さ」


 紗倉の言葉に、紗七が考えるそぶりを見せた。現在少女の知る限りで『常陸』と名乗る親族を頭の中に思い浮かべてみたのだろう。数えてみたものの、紗七の知りうる限り七人しかいない。内三人は紗七や世七、玲紗といった刀を生めない子どもたちだ。


「おばあさまたちは、たった四人ですべての赤光を退治しているのですか?」


 いくら三途地域一つとしても、端から端まで自動車を使っても一時間以上かかることは知識として得ている。その範囲を、たったの四人ですべて賄えるものだろうか? 疑問を呈した紗七に、紗倉は口元に手を当てて笑った。


「まさか! 流石の我らも難しいだろうよ。しかし良い着眼点だ。そうさね、純粋に常陸を名乗れるものはごく僅か、限られたものだけだ」

「常陸以外にも監視者がいるの?」

「世七、その通りさ。監視者というのは組織であって、役職だからね。どれ、紙に書いた方が分かりやすいか」


 呟きながら、紗倉は文机から紙とペンを持って机に広げる。白い紙の上中央に、『始祖』と文字を書いて丸で囲んだ。そこから左へとペンを滑らせ、もう一つ丸を描く。始祖と左の丸を繋いだ線の中央から線を垂らし、その先に『常陸』と文字を書いた。


「始祖の直系、我々のこと」


 続いて、始祖の左隣の丸をとんとんと指で叩く。


「始祖のつがいとなったもの、そちらの家族の系譜がこちらに存在する。始祖の血、つまり常陸の血が入っていない『高梨(たかなし)』。そして、常陸の子孫と交わってできた『加苅(かがり)』」


 左の丸の下に、二本線が引かれ、左の方に『高梨』、常陸の文字に近い方に『加苅』と文字が加わった。


「この人たちも監視者?」

「ちと違う。監視者と呼べるのは常陸と、加苅の一部のものさ。始祖の血が混ざっているとはいえ、加苅全員が刀を生めるわけではないからね」

「じゃあ、刀を生めない――高梨、と、加苅の人たちは?」

「後方支援の役目がある。例えば、この屋敷で身の回りの世話をしてくれている者たち、あれはほとんど高梨の者たちよ。それに三途地区各地で赤光の出現報告を我々監視者に飛ばす者もいれば、腕の立つ者であれば監視者到着まで前線を任される者もいる。分かりやすく言えば、街の取り締まりだね。何せ赤光以外が味方というわけでもない。民間人が混乱を起こさず三途の中で生きていくための整備が必要だからな」

「難しいよ」


 つらつらと続く祖母の言葉に、ついに世七が音を上げる。弟の様子に紗七はやや焦ったような表情を浮かべたが、祖母も師範も少年を叱ることはなかった。


「まあ、そうさな。今のおまえたちに望むのは強さだけだ。強くおなり。常陸として在り続けるために」


 この日の講義を締め括った祖母の言葉は、それまでの小難しい流れから一転してひどくシンプルで明確だった。





 祖母の部屋、母屋を出て二人の子どもは自室へと戻る。世七が紗七を()()()()日から、二人で一緒に使っている部屋だ。道着から手早く部屋着に袖を通し、気を緩める。この家の住民は須らく着物を好んで着用しているが、世七も紗七もどちらかといえば洋装の緩やかさを好んでいた。とはいえ、洋装で部屋の外に出ると周りの大人が叱るものだから、専ら二人だけの部屋のみで着ることが世七と紗七との暗黙の了解になっていた。



「なんだか、今日はすごい日だったね」


 姉の言葉に、世七は大きく頷いた。


「でも、すっごいよ。ぼ……俺たちが刀を生んで、バケモノを斬るなんて――カッコいい。あーあ。あと五年もあるのかあ」

「ふふ」

「何で笑うの」

「だって。『俺』だって」


 急に背伸びをしたくなった弟の、些細な変化を姉は見逃してくれない。くすくすと笑う穏やかな顔に気恥しさと悔しさが同居して、世七は頬を膨らませてみせた。その様子も、両手で顔を挟まれてしまえば空気の抜ける間抜けな音、それに潰されたひよこのような顔。たまらず、二人とも同時に笑い転げることになった。きゃらきゃらと嬉しそうな二人の笑い声が、小さな部屋を満たす。赤く傾く太陽。演習場の土塊は、風に吹かれて消えていた。



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