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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 一、 虫篭のこどく
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 狭い納屋の中央で、姿形のそっくりな二人の子どもたちが向かい合っている。年頃は五つほどだろう。二人の(なり)は瓜二つといえど、身に纏う衣類の新旧、そして浮かべている表情の差は天と地ほどの差があった。身綺麗な子どもは輝かんばかりの笑みを湛え、期待と喜びに満ち溢れた表情を浮かべている。他方はと言えば、突然の来訪者の姿に目の奥に不安と怯えを潜ませ、処理しきれない情報に混乱を極めた表情をしていた。


「さな、あいたかった!」


嬉々とした表情の子どもが声を弾ませる。小さな男の子の手が、ぎゅうと怯えた子どもの手を握り締めた。布団に包まり続けていたというのに、手はひんやりと冷たいまま。包み込んでくる手は温かく、指先から温度が染み渡ってくるようで、他方の子どもはようやく思考することを始めた。男の子の言葉の意味を噛み砕き、ゆっくりと小さな頭の中で、既存の情報と照らし合わせ、ようやく首をことりと傾げる行動へつなげる。言葉にすれば「分かりません」だが、子どもが発することができたのは「……さな?」という言語の復唱による問いかけだった。


「さなってきみの名前でしょ? お父さんに聞いたよ」


 正しく相手の意図を汲み取った男の子が、穏やかな笑顔のまま言葉を紡ぐ。しかし、他方の子どもの表情は困惑のまま晴れず、傾げられていた小さな頭はゆるゆると横に振られた。


「……ぼくの事を言ってるの? ちがう、僕は()()だよ」


 呼びかけられた単語は名前だという。しかし、自分の知っている情報と噛み合わない。分からず否定をする幼子に、男の子は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。だが直ぐに首を横に何度も振って、否定する。おんなじ顔が、おんなじ動作をした。


「『せな』は、僕だよ。君は『さな』。だって、さなはぼくのお姉ちゃんなんでしょ?」

「おねえちゃん? 僕は……」


 困惑した表情のまま、子どもは記憶を照会する。『おねえちゃん』は部屋にあるくたくたになった絵本にも出てきた。おんなじお父さんとお母さんから自分より先に生まれた、女の子のこと。ならば否定をせねばならない。なぜなら自分は『せな』で『男の子』だ。だって、お母さんだって、自分をそう呼んでいた。納屋の小窓から見える美しい庭ではしゃいで転んだ時に、この小さな男の子にお母さんは笑いかけながら言っていたのだ「世七、泣かないの、男の子でしょ」と。それと同じ言葉を、自分にかけていたはずで、そうするのならば自分は――


紗七(さな)


 有無を言わさず響く低い声に、ぎくりと幼子の体が硬直する。頭に被っていた布団がずるずると滑り落ちて、赤い虹彩の瞳が入り口に立つ男性を捉えた。手を握ってくれている男の子が、嬉しそうに「お父さん!」と呟いた。


「お前は『紗七』だ。世七ではない」

「……でも、ぼくは」

「紗七だ。何度も言わせるな」


 自分のものであろう単語を呼ばれて、子どもは身をちぢこませる。絵本で読んだ物語の中では、『おとうさん』も『おかあさん』もにこにこ笑っていた。しかし納屋の入り口に立つ男性はちっとも笑顔ではない。


「……おかあさん。……おかあさんはどこ……」


 鼻の奥がつんと傷むのを誤魔化そうと、小さな声で子どもが囀る。それまで包まれていた温かい手を緩く振りほどき、色褪せた着物の袂をきゅっと握った。しかし、もう一度追いかける小さなもみじが冷たい手にそっと触れる。


「さな、おかあさんに会いたいの? じゃあ行こう? 今日はね、ぼくもまだ行ってないからいっしょにいこうね」


 ついに明確な意思を持って握られた手が引っ張られ、じんじんと痛んだ。自分が『紗七』という単語であるという実感も『お姉ちゃん』であるという実感も沸かない。だから母親に会って、「世七」と呼んでもらえたら。いいや、母親に「紗七」と呼んでもらえたら? ぐるぐると思考で息が苦しく、納屋から出た子どもは手を引かれ喘ぎながらも小さな背を追うように進んだ。


「おかあさん、さなだよ」


 そして、『せな』に連れられて来た場所に生身の女性の姿は無い。ただ、額に縁取られた笑顔の写真があるだけだった。


「……おかあさんは?」


 子どもはまた、問う。なぜ、自分の手を握る男の子が母親のもとへ連れて来てくれなかったのか、不思議でたまらなかった。


「これがおかあさんだよ。おかあさん、死んじゃったんだよ」


 死んだ? 子どもは頭の中で言葉を反芻した。

 あの部屋で読んでいた絵本では、『死んだ』ひとをどうしていただろうか?


「……『やかれて、きえてしまいました』」


 子どもの呟きは、隣の少年にも、離れた先に立つ大人たちにも聞こえることなく消えた。ただただ、物語の一説がふゆりと小さな声に乗り、線香の煙と共に立ち上って霧散してゆく。

 自分を出迎えてくれたあの笑顔が冷たい額縁のなかに押し込められたまま、幼子を見つめていた。呆然としたまま子どもは写真の中の笑顔を見つめる。ゆらゆらと立ち昇る線香の煙。色とりどりの綺麗な花――それらの何一つ、子どもの()()()を刺激するでもない。幼子は写真のなかの母親を見つめたまま、立ち尽くしていた。何とか頭の中に事実を押し込み、そして理解したのだ。自分は母の言っていた男の子でも、「せな」でも無かった。そうして、「紗七」は産み出された。



 一方、()()()男の子――世七せなは、ようやく小さな納屋から自分の片割れを連れ出すことができたことにほっとひと息を吐いた。母亡き後、庭から見える格子の嵌められた窓の奥に、自分と同じ顔をした存在が居ることを見つけ、どれほど歓喜したことだろう。これからは独りぼっちで居る必要はない。一緒に虫を追いかけて遊びたい。得物を絡めとる蜘蛛の巣が朝露に濡れるといかにきらきらと美しいか、行列を為して進む蟻たちの隊列が如何に規則正しいか。これまで納屋に閉じ込められてきた片割れに教えてあげたいことがたくさんあった。


「紗百合は死んだんだ、もう許しておやりよ。お前の子じゃないか――」


 障子の奥では、年老いた声が聞こえる。聞いたことのある声だ、『おばあさま』のものであると、子どもはその声を聴き分けた。


「貴重な血だ、みすみす死なせるわけにはいかんよ」


 そして『おばあさま』の言葉に被せるように、低く唸る怒りの声――ゆるすものか。繋いだままの小さな手をきゅっと握り、握り返される。ただそれだけを、何分もの間二人の子どもたちは繰り返していた。



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