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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 三、 鍵のないたからばこ
19/19

 稽古場まで走るなか、目指す先と去った後方それぞれで赤い火柱が立った。燃えている。そして強い鉄の匂いが充満し始めたことに気づいた。非戦闘員である使用人たちが赤光に傷つけられたとなると、高い割合で感染してしまう。それは避けねばならない――そんな考えを巡らせ辿り着いた先、世七の目を引いたのは、稽古場の畳の上にぶちまけられたペンキのように広がった赤黒い染みの数々だ。ひたん、ひたん、と、水が滴り落ちる音が聞こえる。音の出所を確かめる世七の首が、まるで、油の乾いた機械のようにぎぎぎ、とゆっくり動いた。


 奥は火が回り始め、赤い。稽古場の手前に何人もの人が横たわっている。誰もが血溜りを気にしていないように沈黙したまま、赤に塗れて。そんな稽古場の惨状の中で、ただ一人だけまっすぐに立っている人間が見えた。その人間の手にしている白い刀の先から落ちる血の雫が、先ほどの音の出所だと世七は判断する。


「――どういう、ことだ……」


 唖然とした表情で稽古場の入口に立ち尽くしたまま、世七はその人物を見やった。白い柄を握りしめ、一滴も返り血を浴びていない理世が、世七を無表情で見据えた。至極鬱陶しそうな表情を浮かべた青年は、稽古場を出、屋敷の玄関へ続く砂利の敷かれた道へと降り立つ。


「待てよ!」


 慌てて世七も彼を追った。そして、世七が地に降りた直後、ガラガラと音を立てて稽古場が燃え崩れていく。火の手の届かないところまできてようやく、理世は世七を振り返った。


「……赤光はすべて始末したのか?」


 そして淡々と問いかけられた言葉に、世七は血が頭に上るのを感じる。倒したはずだ。大元は絶った。そういえばすべて終わるとでも思っているのか、この男は。先ほどの異様な光景をどう説明するつもりなんだ。どれもこれも言葉にならず、世七の口から出てきたのは小さな疑問だった。


「おまえ、何してたんだよ」


 分からないことはたくさんあった。推測だけならば何とでも言えよう、たった一滴落とされた墨がじわじわと水面に広がっていくように、世七の脳内で広がっていく。父が死んだ現場にいち早く居た理世のこと、理世が去った場所で赤光が出現したこと、そして、先ほど稽古場で複数名の監視者と思しき者らを殺していたこと。何もかも不透明で、しかし疑念の残る要素が散りばめられている状況の中、理世への不信感はピークに達していた。


「殺したのは、加苅か」


 一つ、問う。それに理世は口の端をつり上げてわらった。


「ああ、そうだね」

「次は俺か?」

「ははっ」


 ついに息を漏らして理世が笑う。


「笑えることを言うな。そっくりそのまま返してやりたいくらいだ……はあ……――」


 赤茶の目が冷たく細められた。


「だからおまえが嫌いなんだよ。甘ったれた考えのガキだから」


 吐き捨てるようにそう言いながら、理世は刀に付着した血を振り払うように刀を振る。ひゅっと、風切り音が響いた。理世の瞳は何処までも冷めていて、世七を見下しているような闇を湛えている。初めて理世から世七に送られた彼の素直な感情に、世七は一瞬気圧されたようにじりっと半歩下がった。


「おまえの考えそうなこと、当ててあげるよ。俺が赤光を発生させて六代目もお前の父親も殺したとか、あとは何だ? 屋敷に赤光をばらまいて、自分に楯突く加苅の奴らもついでに始末、それで? これは俺にどう利益がある」


 二人の立っている屋敷の入口だけが静まり返っている気がした。炎は屋敷を順調に飲み込んで行っているようで、世七は先ほど別れた玲紗や自分が今まで探していた紗七の安否が気になっていた。しかし、それよりもっと、目の前にいる理世の血濡れた刀への憤りの方が大きい。


「お前の利益なんか知らない。でも」


 理世をまっすぐに睨み付けて、刀を握った手に力が入った。ぐっと左手で鞘を掴み、刀を引き抜こうとする。世七の動作を察し、それよりももっと早く、ひやりとしたものが首筋に当てられた。紛れもなく銀色に輝くそれは理世の刀で、先ほど人を何人も斬ったとは思えないほどの禍々しい輝きを帯びたそれは、世七の首に違うことなく当てられている。しかし、世七は言葉をやめなかった。


「お前に紗七はやらない。絶対に、紗七はお前のものにはならない……ッ」


 鞘から引き抜いた刀で理世の刀を弾く。ありったけの怒りを、憎しみを込めて世七は理世を睨んでいた。彼の握りしめた黒い柄から伸びる白銀が、稽古場を燃やし始めた炎を照らして茜色に光る。それはまさしく世七の瞳が燃えているような赤い色だと代弁しているかのようでもあった。


 そして、世七の呟きに今度こそ理世から表情が消えたのが良く見えた。笑うでも怒るでもない。本当の、無。ただ冷めきった理世の目が斬りかかってきた世七を捉え、振り翳された世七の刀を理世が思い切り弾き飛ばした。カチャ、と、理世が白い柄を鳴らす。理世は何も言わなかった。何も言わない分、世七にはよく分かった。理世は世七を殺したいのだ。怒りと殺気が同居していた。

 弾き飛ばされて咄嗟に受け身をとり、息つく間もなく振り下ろされた理世の刀を世七は辛うじて頭の上で受け止めた。重い太刀筋だ、びりびりと腕が響く。理世の強さなど世七は身に染みて分かっていた筈だけれど、この時の刺すような殺気が一番世七を威圧していた。足に力を入れ、一気に踏み込む。理世の懐に入ろうと、刀を右から水平に振った。刹那、世七の目の前に黒い闇が躍る。狭い視界に飛び込んできた影に、世七の勢いが削がれた。


 金属同士がぶつかり合う音が、何故か遠くに聞こえる。鈍い感触が手のひらから、指先から伝わって来た。まるで細かい虫たちが血管を這いずり回って心臓まで遡ってくるようなおぞましい感覚が、手先から一気に世七を包み込む。それは喉元までせり上がって息苦しいような、嘔気を催すような、とにかく一言で表せば『ひどい』感覚だった。


 感覚が全身を包み込んだところでようやく、世七は目の前の光景を頭の中に取り込むことができた。彼の目の前にあるのは背中だ。細い、背中。その右腰部分に裂けた帯が見える。そして、直線上には着物の裂け目、埋めるような赤い線。音も立てずにどろりどろりとそこから溢れ出る赤い血が刀身を染めていた。


 触れ合った金属の音は、世七の刀が発したものではない。今世七の目の前に立つ人物の刀と、理世の刀。それがかち合った音だ。


 世七はゆっくりと、理世の左手が世七の刀身に添えられるのをただ見ていた。抜身のままの刀に戸惑うこともなく、理世は刃を握りしめる。赤く染まった部分から離すように、ぐぐっと力が篭って、それは刃の刺さった柄を持つ世七の手にダイレクトに伝わって来た。


「――……こんな時に、何してるの」


 異常なまでに熱くなった空気を冷やすような穏やかな声は紗七のものだ。言葉は咎める内容だったはずなのに、声は酷く優しかった。その時初めて世七は、本来自分が斬ってかかろうとしていた相手であったはずの理世のことが見えた。カチャリ、と音が聞こえる。理世が刀を引いた音だ。振り翳された理世の刀を受け止めたのは紗七の刀だ。理世と世七の間に紗七が割って入ったということが、世七にはようやく理解できた。


 その時世七が一番印象に残ったのは、理世の表情だった。いつも何を考えているか分からない薄ら笑みを浮かべている理世が、世七にあれほど冷たい視線を寄越していた青年が、その時、酷く衝撃を受けたような、そんな表情をしていたのだから。


 きっと世七も彼と全く同じ表情を浮かべたのだろう。気づいてしまった。世七に対して振り下ろされた理世の刀を受け止めたのは紗七の刀であって、世七自身が理世へ向けて振り下ろした刀が一体誰を裂いたのか。理世がその手を添えて世七の刀を外そうとしていたのは、何のためだったかを。


「ちがう」


 がくん、と、まるで足が折れるかのように世七は一歩後ろへ引いた。自分が何をしたのか理解するのは一瞬で、震えながら刀を離そうとする。刀身を素手で握っていた理世が力を緩めたことで姉の体から刀は解放されたが、理世の手のひらが刃に触れて赤く染まっているのも、刀身に着いている血が理世のものだけでないことも、世七に事実を突き付けるのには充分だった。


「……れ、いさが、すべての人員を、厨付近に集めてくれた。負傷者、は……いない。辰濃さんを司令塔に、遺体は、燃やして――」


 現状報告をする紗七に、理世が刀を下したと分かると、紗七も息を漏らようにして刀を下した。いや、刀が消えたという表現が正しい。彼女の背後にいた世七には泡沫のように紗七の刀が赤く散るのが見え、そして姉の身体が膝から崩れ落ちていくのがまるでスローモーションのように見えた。糸が切れたかのように膝をついた姉の姿に咄嗟に世七は手を伸ばす。


「さな……っ――!」


 しかし彼の手が姉に届くより早く、崩れ落ちる紗七を抱きとめたのは理世だった。大げさなほどの音を立てて自分の白い刀を投げ捨ててまで、理世は紗七の身体が地面に触れるのを許さないかのようにその腕に抱きとめた。


 対して、世七はその瞬間まじないにでもかかったように身体を硬直させた。紗七を腕に抱きとめた理世が、先ほどの斬り合いの時に世七に向けていた冷たい瞳よりももっと、もっと憎悪の籠った瞳で世七を睨んでいる。まるで蛇に睨まれた蛙の如く世七はびくりと肩を震わせた。


「……きえろ」


 一粒、ふたつぶ。雨が落ちて地面を濡らしていった。燦燦と照っていた太陽はすっかり姿を隠して、黒い雲が空を覆っていた。空の暗さに、屋敷を焼く赤い炎が反射している。雨が降り始めたというのに炎は一向に小さくなる気配を見せないけれど、世七は炎の音に紛れた理世の小さな呟きしか聞こえなかった。絞り出すような、低い声だった。理世から発された憎悪の籠ったこんな声を聴くのは初めてで、世七は初めて、理世に叱られた気分になった。一歩後ずさりしてようやく自分が砂を踏みしめる感触が蘇る。ようやく今自分はまさしく地面に立っているということを再認識し、目の前で血まみれで倒れている姉の姿は紛れもなく自分の手によって為されたものであるということを実感した。


 これは 夢でもなんでもない。


「今すぐ、俺の目の前から、消えろ……!!」


 そうでもなければ、殺してしまいそうだ。理世の声なき声が伝わってくるようで、世七は弾かれたように屋敷の門を出た。監視者の数が減ったこんな時に、自分は何をしているのだろう。ふと我に返るが、それも一瞬で、手に持つ血濡れの刀でしてしまったことの罪悪感と自己嫌悪で逃げ出したい気持ちの方がよっぽど強かった。


 世七の姿が消えたことで、理世は大きく息を吐く。怒りと焦燥感をどうにか宥めたいが、うまくいかないようだった。傷口を強く押さえながら、軽い体を抱える。まだ温かい、大丈夫。大丈夫だ。何度も言い聞かせた。





 走って、走って。日の暮れる時間には、二つ区を越えていた。コンクリート造りの桟橋まで辿り着き、世七はようやく思い出したように刀を鞘に納めねばと考えた。しかし、未だ刀は血で濡れている。洗い流さなければ、すぐに、すぐに――普段ならば有り得ないと一蹴する筈なのに、世七はこの時、眼下に広がる海にこの刀を浸して清めねばと信じて疑わなかった。


「ぅあ……っ」


 急に刀が重たく感じられ、桟橋から体が滑り落ちる。あっと思ったときには、既に冷たい水に包まれていた。刀が重たい。これを手放してしまえば、きっと楽になれるだろう。でも、手放してはいけない――沈みゆく世七が最後に見たのは、泡沫を砕く大きな手だった。


第二章「渡河」編へ続きます

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