Ⅴ
瞬く間に伝わった吠世の死は、監視者内に大きな衝撃をもたらした。不幸なことに、六代目常陸である世治も時同じくして行方知れずになってしまったのだ。結局、大量発生していた赤光の出所は燃え盛り、調査班は施設の処理及び調査に入ったが、焼け跡から出てきたのは数人の遺体、そして斬り合ったような痕跡だった。憶測が飛び交い、世治と吠世が仲違いの末に斬り合い、世治が今も逃げているという説が最も有力だと噂された。しかし、これに関して世七含め常陸家の人間は一様に疑問の方が大きく、信憑性に欠けると判断していた。なぜなら、まともにやり合ったところで世治が吠世に勝てる見込みはほとんどない。不意を突かれた、大人数でと仮定を立てたとしても、不可能に近いのではということだ。そもそも、あの二人は決して仲が良いわけではないが、憎み合うほど嫌いあってもいない。吠世の方は特に弟への関心は薄かったし、規律に厳しく秩序を重んじる世治が有力な常陸の一員である兄を殺そうとするなど、あまりに早計だからだ。
そして憶測が憶測を呼ぶ状況の中、もう一つの説が水面下で広がっていく。現場を発見した理世が、吠世を殺したのでは。世治に重傷を負わせ、世治は逃げているのではないか。案の定これを支持するのは加苅の人間で、理世が七代目の椅子を狙っているという憶測を根拠としているようだった。
どれもこれも不安を煽る噂でしかないが、しかしながら、主力二人が欠けたという事実は重い。五代目である紗倉が再び指揮を執り、世治の捜索及び原因の究明、配置の見直し等に奔走する日々が始まっていた。蟀谷に手をやり、眉間に皺を寄せた老女は考えを巡らせる。実力の確かだった息子の一人は、昨日焼かれ灰になり消えた。あれほど手を焼いた息子は、ちっぽけな骨としてしか残らなかった。何から手を打たねばならないのか考えるものの、どれもこれも喫緊で優先順位を上げろと迫ってくるようだった。
「理世は……ああ、今日は任務だな。この状況だ、動かすわけにもいくまい。とすれば、紗七だ。辰濃、紗七を此処へ。あとは……実紗子も連れてきてくれ」
従順な側近は短く返事をし、去っていく。この状況で何ができるだろうか、考えた挙句の行動が非人道的に思え、老女はひとり自嘲する。
「今更、何を怖れる……」
小さく呟く声音は、ひどく疲れ切っていた。
母屋に通され、正面に正座する孫娘を見遣る。暫くすると、姪も来たようだ。表情から実紗子は要件を察したようで、紗倉はまた自嘲した。常陸家に女として生まれるというのは、こうも生きづらい。
「紗七。お前の任務を減らす」
第一声を告げると、驚いた表情の紗七と目があった。自分が仕事をこなせないと判断されたのだろうかと、不安気ですらある。しかし孫娘の疑問は受け付けず、老女は続けた。
「前回の月のものはいつだ」
「え……、せ、先週です」
「ならば今すぐに始めるのが良いな。実紗子、離れを十六夜睦儀用に整えておくれ」
かしこまりました、そう呟く声と、紗七が祖母を呼ぶ声が重なった。ゆっくりと視線を逸らし、紗倉は言葉を紡ぐ。
「お前の仕事は、新たな常陸を生むことだ。よって現在の赤光討伐の任務は減らす。今日から二週間は理世と過ごせ。お前は離れから一歩も出てはならぬ。良いな」
「おばあさま」
「子ができるまで繰り返す。来月も、その次もだ」
紗七の顔からは血の気が引いて、その表情だけでも拒否したいという意思が見て取れる。それもそうだ、まだたった十六かそこらの娘である。しかし、有無を言わさぬ口調で言いきり、紗倉は会話を閉じた。命じれば、この家に従順な孫娘はきっとそうするだろう――確信があった。
あれよあれよという間に紗七は離れへと押し込められてしまった。必要な着替えや食事はすべて女性の使用人が運ぶようにすると叔母に告げられる。未だ現実感が湧かず、戸惑ったままの紗七に、叔母は困ったように笑った。自分も経験したことがあるのだと、小さい声が届いた。
離れには厠に風呂、そして二つの座敷が設けられている。ぽつんとひとり離れに残され、奥の方の座敷に既に布団が敷かれているのを見た時には眩暈がした。とっぷりと日は落ち、もう一人押し込められる予定の理世は今夜は任務で不在だ。しかし、夜明けにはきっと此処にくる。
「どうしよう……」
思わず漏れた声が震え、紗七は咄嗟に口を手で塞いだ。どうしよう、など。選択肢はない。やるしかない、そうしろと散々言われてきたはずだ。そうするのが正しい。理世のことは嫌いではない、なら良いだろう。――お前の生きてる理由など、そんなものだ。ころりと畳に背を預け、紗七はひとり天井を見上げた。
「世七になりたい」
本物の男の子だったら。あまりに自分がくだらなくて、自嘲が漏れた。これに付き合わせてしまう理世の方にも申し訳ない。胸の奥底が重たくて、息がしづらいなか、少女はそっと目を伏せた。
そして、数時間後か数分後か。落ち着いた足音が近づくのが聴こえ、紗七は身を起こす。正座をし、迎え入れる姿勢を取った。すらりと障子の開く音。やや体が硬直したため、少女の肩から一房の髪の毛が零れ落ちた。
「紗七。顔を上げて」
声がかかり、紗七はゆっくりと顔を上げた。今自分がどんな表情をしているのかは分からない。以前指摘されたように、気持ちとそぐわない、ちぐはぐな表情をしているかもしれなかった。
「妙なことになったね」
困ったように笑う理世が居て、紗七も同じように笑ってみせた。小さな行灯で照らされた部屋に、二人は向かい合って座っている。どうしようか、と、理世が問いかけた。
「……任務後だし、りいは疲れてるだろ。私が、全部するよ」
伏し目がちに呟く少女を見ながら、理世は「ふうん」と相槌を打つ。衣擦れの音が響かせ、青年は少女のすぐ側に膝をついた。冷たい手を取り、もう片手で少女の頬を撫でる。刀を握る武骨な手が、白い頬を滑った。
「どうすればいいか知ってるの?」
「い……一応は」
「はは、そう。一応はね――」
理世は一度、息を長く吐く。そして、ひどく甘ったるい声で囁いた。
「紗七が望むなら俺が全部してあげるよ。優しくするし、ひどいことはしない。充分とかして、たくさん好くなれるようにしてあげる」
こんな声は聴いたことがない。紗七の瞳が戸惑いに揺れ、ぎゅっと唇を引き結ぶ。そして、赤い唇を震わせながら言葉を紡いだ。
「――そう、しなくちゃ」
その様を見、青年が笑う。
「紗七、どうしたいの。俺に言ってごらん」
雁字搦めの糸を解くようなその笑みに、紗七の唇が緩んだ。小さく掠れる声で囁かれた言葉に、理世は頬を滑らせていた手を離し、両手で自分よりも小さな手を包み込んだ。




