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CIPHER  作者: 川昌 幸(かわうお)
 三、 鍵のないたからばこ
13/19

 佐伯が車を走らせて辿り着いたのは、封鎖地区の東に位置する黄昏区だった。


「此処にも研究所があるんだ」

「どっちかってーと此処は医療業務がメインだったと思うがな。来た事ねえか」

「そうだね、まだ西の方ばかりだ……」


 春の日差しに照らされる、古びたコンクリートの大きな建物。その後ろに広がる海が見えて、ふらふらと引き寄せられるように世七はそちらへ近づいた。


「やめとけ。海水浴なんざできる所じゃねーぞ」

「流石にしないよ。それにこっからじゃ――」


 防波堤のへりに手をつき、少し身を乗り出してみる。びっしりと貝殻のついたテトラポットに打ち寄せる波。高さが大分あるし、此処から海に入るとしたらそれは最早投身自殺だ。苦笑交じりの声音で否定しようとした矢先、建物の方から焦った声がかけられた。


「おおおい! 君、ちょっと何してんの!?」


 まさに誤解を招いたに違いない。白衣を着た、恐らく研究所職員であろう人物がひとり、バタバタとこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。


「ちょ――……ッ、あぶ、ないでしょ……!」

「見てただけです。飛びません……」


 世七は落ち着いた様子で防波堤に腰かけ、淡々と説明する。そして、おやと思った。慌てて駆け寄ってきたこの職員、見たことのある顔だ。相手も切らした息を暫くぜいぜいとさせていたが、落ち着いてきてようやく世七の姿をじっくり確認できたらしい。


「あれ? 君、朝未研究所によく来ていた子だね?」

「はい」

「えーと、たしか……セナくん」


 世七は相手に名前を言い当てられたことに驚き、そして若干の警戒心を表した。色素の薄い、茶色の髪の毛を持つひょろりとした男。年齢は二十代後半といったところか。この男性職員の顔を世七は知ってはいても、話をするような間柄ではない。常陸家からの使いであるとしか言わないし、名乗ったことなど一度もない。なぜ自分の名を知っているのだと、世七が怪訝そうな表情を浮かべた時だった。わたわたと手を振り、男は慌てて口を開いた。


「あっそうだよね何でお前知ってんだって感じだよね!? えーと、まず僕は能登秋廣(あきひろ)って言います。快人ってやつ、覚えてるかな? 親戚でね。よく君の話をしてたんだよ」

「よしひと……カイトの!?」


 懐かしい名前に、世七は表情を緩めた。能登の言葉をすべて鵜呑みにして信用するにはまだ早いかもしれないが、それでも大事な過去のひと時だ、嬉しくないわけがなかった。


「名前、合ってます。常陸世七です」

「そっかあ。まあ朝未研究所に血液運ぶくらいだからサイファー個体の子だとは思ってたんだけど、常陸の大元の子だったかあ」


 能登の言葉の端々に知らない単語や事実が散りばめられており、世七は首を傾げる。気になる点はいくつかあったが、一つに絞った。


「血液……?」

「えっ! あー……ごめん、今のなしね。あっ政府の人がいらっしゃる!? セーフにしてもらえます?」


 どうやらそちらは不味いことだったようで、口を手で塞いだり佐伯の姿に頭を下げてみたり、何とも忙しい男だ。問いかけられた佐伯がひらひらと手を振り「へーきへーき」と適当な言葉を返していたことに、快人は安心したようだった。あまり周りにこういった大人がいないので、世七にとっては新鮮でもある。


「能登さん? は、異動でこっちに?」

「まあそんなものだねえ。ちょっと合わなくなっちゃってね」

「大変なんだ」


 先ほどのこともあるし、あまり詳細は尋ねない方が良いのだろう。世七の言葉を労いと受け取ったのか、能登は「ありがとねえ」なんてまたへにゃりと笑ってみせた。


「あの。カイトは、その……元気?」


 警戒心の薄い笑い方に、気になっていたことを問うた。あれから一年と半年。少年たちの姿を見かけることはなかった。


「元気だと思うよ。俺も半年前くらいにはこっちに赴任してきちゃったから、最近は直接会ってないけどね。あいつ、君に会ってからめちゃくちゃ勉強するようになってさ。理由を訊いたら恩人の役に立ちたいからってさ。君のことだね」


 能登の言葉にじいんと胸が熱くなって、唇を引き結ぶ世七に、気の抜けたような笑みが向けられた。親戚、という言葉に大分引き摺られているだけかもしれないが、その笑い方がかつての友人のものと重なったように見えた。世七の警戒が解けたことが感じられたのだろう、うんうんと一人納得するように頷いて、能登は口を開いた。


「もう世七君は監視者になったのかな?」

「……一応は」

「そっかあ。おっと……あんまり長居してるとサボってんのばれそうだから、僕はそろそろ」


 ぺこりと頭を下げ、快人は去っていく。ひらひらと揺れる白衣の裾を見、世七はもう一度海に視線を戻した。


「……遼ちゃんは、こうなるって分かってて俺を連れてきたの?」

「それができるなら俺は神だな」

「ふは……ねえ、面白いよね。あの人俺が此処で自殺するんじゃないかって思ったんだ」


 話をする前だ、知人ですらない。それでも慌てて声をかけて、勘違いではあるが死ぬのを待てと止められたことは、少年の冷えた心を温めた。懐かしい名前が、そうさせたのかもしれない。


「まあ今のお前、悲壮感すげーもん。目ぇ死んでるし」


 笑い交じりに言いながら、佐伯は煙草に火を点ける。いくら外とは言え、研究施設のすぐ側で良いのだろうかと疑問には思ったが、世七は特に何も言わずぼんやりとしたままだ。数年前のようにじゃれついてくるわけではなくなったとはいえ、あまりにも様子が変わった少年を見、佐伯は細く紫煙を吐いた。短く名前を呼んでみる。しかし、少年はぼうっと海を見つめたままで、なるほど先に研究職員が慌てて声を掛けるのも納得の状態だった。


「お前、最近紗七と話してるか?」


 佐伯の出した名前に、今度こそ少年が緩く反応を示した。俯きがちだった顔を僅かに上げ、ゆっくりと佐伯に視線を遣る。そして、少年はゆるゆると首を横に振った。この約一年間。いや、それよりも少し前からだ。姉が理世とつがいになると決められたことをきっかけにして、姉弟の間には妙な距離が生じてしまった。単純に世七がそう捉えただけなのかもしれない。しかし、今まで世七にとって自分の片割れであり、もう一人の自分のようにすら感じていた紗七が、自分とは違う者と共に生きるのだと思えてしまって、それが嫌だった。


「気になったから訊くけどさ。お前、自分が紗七とつがいになって子を作ると思ってた?」


 しかし、唐突に投げかけられた佐伯からの問いに、世七は思い切り顔を顰めた。


「はあ? 思うわけないじゃん。きょうだいだよ?」

「……まあそうだよな」

「いやおかしいでしょ。そんなこと普通思わないし」


 世七の言葉に、佐伯は軽く笑い声を漏らした。そうだな、と短く告げ、煙草を防波堤で押し消している。


「そんなんじゃない。俺と紗七は、そういうのじゃない!」

「分かってる。悪かった、ごめんな」


 最後にはあやすような声音になった佐伯を、世七は軽く握った拳で小突いた。こういうことをしても許してくれると分かっていたし、案の定佐伯は笑って少年の頭を乱暴に撫でてくれる。


「紗七が、お前のこと心配してるぜ」


 そしてかけられた言葉に、世七は再び黙り込んだ。


「……俺が、いつまで経っても刀を生めないから。心配かけてるのなんて知ってるよ」

「そうじゃ……ああー、そういうのを丸ごとしっかり話し合えって言いたいんだよ」


 最近、世七は先回りをして紗七の声を遮るばかりだ。大丈夫、心配ない、放っておいて。いつしか顔を合わせてもすぐに去るようになっていて、しかし反比例するかのように心は寂しくてつらい。自分を心配していることなど分かりきっていたけれど、色々な出来事が重なった世七では処理しきれず、今の今まで来ているという自覚はあった。


 わしわしと撫でられながら、世七は佐伯を見上げる。相変わらずニヒルに笑う大人は、いつもよりも優しい顔をしているように見えた。


「焦んなって。視野が狭くなると拗らせちまうぞ? さ、そろそろ戻るか」


 促され、世七は再び車に乗った。


「……話、してみるよ。紗七と」


 そう、ぽつりと呟いた少年に、そうだなと肯定する大人の声が重なった。

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