Ⅴ
きれいに磨かれた飾り棚が無残に散らばった部屋は、一日も経てばすぐに片付いた。文机で書き物をしていた老女は、ひと息つくために緑茶を口にする。皺のよった眉間に指を当て、軽く揉んでほぐす。時は変化を強いられていた。
「辰濃」
「此処に」
障子の向こうに声をかければ、すぐに返事が返ってくる。すらりと障子が開き、控えていた当主付使用人の一人である初老の男性が坐して命を待っていた。
「政府の者を呼べ。できるだけ柔軟に話が通じる奴がいい――佐伯が空いていれば一番だな。日時調整がついた時点で世治もだ。仕事の割り振りが入っていたらずらせ」
「は。直ぐに」
一礼し、辰濃は颯爽と去っていく。座椅子の背凭れに体を預けさせ、誰も気配がなくなった部屋の中、紗倉は大きく溜息を吐いた。身体的疲労感というよりも、精神的な徒労の方が大きい。目を閉じて今後起り得る騒動の一つ一つを想像し、どのように潰していくか、より良い代替案が無いのかを逐一検討した。
「不安要素は大きいが、仕方ない……代替わりだな」
ひぐらしの声が、カナカナと物悲しく鳴いている。陽は沈み始め、そろそろ赤光が出始める時間だ。橙に染まり始めた部屋の中、飾り棚の奥に掲げられている封鎖地区の地図に視線を送る。八つに区切られた地図は、左側からじわじわと染みのような赤い色で塗りつぶされていた。既に零区の西半分、そして暁区のほとんどは土と化し、次に埋めるとしたらきっと夜更区か。年々縮小している封鎖地区の住地区はこの百年余りで四分の三ほどになった。
「さて、御上は潮時をいつと定めるのやら。果たしてそれまで繋げるかのう」
差し込む斜陽に照らされた年老いた女の声が、空っぽの部屋に霧散した。
姉弟が謹慎となって三日目。紗倉の命により、時間のほとんどを世七の部屋の前で過ごす理世に声をかけたのは、世治だった。この大人が自分に対してやりづらそうな態度であることを、察しの良い理世は見抜いている。なけなしの教育期間も、仕事に出た後も。理世を見る赤茶色の視線が何処か濁っていて、この人から話しかけられる時は決まって何かがあるときだ。
「五代目が呼んでいる。此処は私が受け持つから、行きなさい」
世治の言葉に、理世は微笑んで会釈をする。去っていく理世の姿を、世治は複雑そうな目で追った。十八を迎えた青年の後ろ姿は彼の兄によく似ている気がした。
老女と青年は向かい合って座っていた。互いの正面左に、辰濃が茶の入った湯飲みを置く。そして、廊下へ出て障子が閉められれば、この部屋には二人しか存在しなくなった。
「お前を紗七とつがわせようと思う」
口火を切ったのは、紗倉だった。視線を上げた理世は、平静な顔で返事をする。
「あのこには俺よりも相応しい者が居るのでは?」
「ほう?」
理世の言葉に、面白いと言わんばかりの声音で紗倉が続ける。
「誰が相応しい、申してみよ。……ふん、様子見のために安い口上を述べるな」
紗倉は青年の前にひとつ、冊子を放った。紺地に銀の装丁がされた本。監視者記録と、くすんだ字で書かれていた。
「既に読んだな。では、この家の仕組みは理解しておろう」
紗倉の言葉に、理世は何も答えない。只管暗く視線を寄越すだけの青年に構うことなく、淡々と、常陸家現当主は続けた。
「血を絶やすな。我々が百余年言われてきた言葉だ。同じことを紗七にも強いる。その片棒を担ぐのはお前だ、理世」
「――それは、俺が」
言葉を重ねるようにして、理世が口を開いた。
「何と呼ばれているかご存じの上で、それでも血を残せと?」
「愚問だな。どうせ血統に固執する加苅らが煩いのだろう。お前の技量を見れば常陸であることを疑う方が難しいというのに、哀れなものよ。それに、そうだとしたら猶更、紗七がつがいであれば黙る者も多かろう、なあ?」
念押しするように畳み掛ける紗倉の言葉に、小さく理世はそうですかと返事をする。曖昧な様子の青年にふむ、と一度前置きし、紗倉は顎に手をやった。その様子を見た理世は息を吐く。
「何ですか。まるで俺が喜び勇んで承諾すると思っていたような顔ですね」
そしてここでようやく理世の表情が皮肉っぽい笑みに変わる。
「そうさなあ」
しかし。青年の表情よりもずっと皮肉を込めて口端をつり上げ、老女は笑った。
「何せお前にとって利益しかないと踏んでいたものでね。……ああ、なるほど。だからか」
くく、と喉の奥で笑いながら紗倉は湯飲みを手に取る。程よく冷めたそれをぐっと飲み干し、赤い視線で理世を貫いた。
「なるほど、まったく。お前は常陸の人間だよ。まさしくな」
紗倉の言葉に、暫く理世は黙っていた。そして、ゆっくりと首を垂れ、跪拝の姿勢を取る。青年の行動は、この命を受諾することを意味していた。
他方。理世と見張りを交代した世治の元に、部屋から出て恐る恐る近づく世七の姿があった。結局吠世の乱入によってあの場が有耶無耶になった後、二人がまともに相見えるのは初めてだ。無言のまま、おずおずと少年は叔父の斜め左へと座る。固い廊下の床は、蒸している夏場といえどひんやりとしていた。
「……師範、ごめんなさい」
少年が頭を下げる。移動中には一瞥もしなかった世治は、そこでようやく甥へと視線をやった。はあ、と重たい溜息が頭上から降ってきても、世七は顔を上げることをしない。少し後に、ごつんと一発、重たい拳骨が降ってきた。
「言った矢先にどうなってる、まったく」
「はい」
「今のお前に対する信頼度はゼロだ」
「……はい」
「だが、これきりもう言わん。よく分かっただろう。……本当に、無事で何よりだ」
拳骨を落とした同じ手で、世治は甥の頭を撫でた。二度、三度。滑らかな指通りの黒髪を撫で、もう一度よかった、と。囁くように呟いた。
「俺、こんな名前付けてもらったのに、駄目です。俺は判断を間違えるし……」
すっかり自信を失った世七の言葉に、世治は穏やかに笑った。
「なに、この先どうせ判断と決定の連続だ。ひとつも間違えない者などいない」
「でも俺」
「世七」
頭を撫でていた手は、少年の肩に置かれた。がっしりと大きな手に掴まれ、痛いくらいだ。先ほどまでの笑みの名残がありつつも何処かその目は真剣で、世七は口を噤んだ。
「大丈夫。お前が七代目を継ぐんだ」
それまで、この叔父から家督のことについて触れられたことはない。しかし、この家の中で誰よりも規律に厳しく、重んじているのは、世治だ。怖いくらいの気迫が伝わってきて、世七は少しだけ、上体を引いた。
「ど、どうして。俺よりもよっぽど紗七の方が」
「基本的には男児が継ぐ。五代目は男児が居なかったから、母が継いだがね」
「でも、それなら理――」
「血だ」
言いかけた言葉をぴしゃりと遮られる。
「純粋な血筋は、お前しかいない。心配するな、私が生きている内は」
なんだ、それは。血の気を失った少年は問いかけたかったが、それは新たな気配によって遮られることになる。隣の部屋の障子がすらりと開き、世治の娘でもある玲紗が出てきたことによって。決して大きな声で喚き散らかしていたわけではない。しかし、此処は廊下だ。隣の部屋に居た玲紗は元より、背後の部屋で臥せっている紗七に聴こえているかもしれないという懸念が頭に過ぎり、世七はごくりと唾を飲み込んだ。
「あら、兄さん。丁度よかったわ。そろそろ姉さんの包帯を替える時間なの。少しの間お引き取り願えるかしら。ついでに何か食事でも持ってきてもらえると嬉しいのだけれど」
猫のような瞳を細め、玲紗はにこりと笑ってみせた。彼女の母に似た、有無を言わさぬような笑い方だ。これは世七にも効くが、当然ながら実父である世治にも効く。ぱっと世七の肩を掴んでいた手が離れ、ほぼ同時に世七は立ち上がった。
「分かった。紗七をよろしく」
「任せてちょうだい」
世七はやや早歩きで廊下を逃げるように去った。聊か呆然とした様子の父を横目で見、片方の眉をつり上げて玲紗は口を開く。
「ねえお父さん。これから中で着替えをするの。見張り番は廊下の入り口で充分じゃないかしら」
「玲――」
「それから話はもう少し声を落としてするべきだわ。養生になりやしない」
「――紗。……すまなかった」
深い声で謝罪をし、去っていく世治は聊かとぼとぼと歩いているようにも見える。はあ、と大袈裟に溜息を吐きながら、着替えを手にして玲紗は部屋に入った。彼女の想像通り、紗七は布団から身を起こしている。玲紗が入ってきたのを確認した紗七が柔らかく微笑んだのが見え、玲紗もまた、困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「まったく、男って気が回らないのね。我が父親ながら最高に不愉快な話題だわ」
ぷりぷりと怒りながらも、その手は作業を次々に進めていく。従妹の鮮やかな段取りとミスマッチな表情に紗七はつい笑った。
「大丈夫、気にしてないよ」
「私が厭なのよ」
「ありがとうね」
れーは優しい、と呑気に響く声に、心底呆れたといった表情で玲紗は溜息を吐いた。
「姉さんったら。このままじゃ貴女、この蜂の巣の女王にされちゃうのよ」
「うまいこと言うなあ」
「茶化さないでちょうだい」
ぴしゃんと小気味よく叱られても、紗七はつい笑ってしまった。そもそも、自分が女王蜂になるよう強いられていることは紗七も分かっている。あの小さな納屋に居た時からお前が生かされる価値などそれしかないのだと、散々吠世に言われてきた言葉だった。しかし、自分を心配して世話を焼いてくれる目の前の少女に、自分と同じ道を辿らせるのはひどく心が痛んで、不快なことに思えた。この時ようやく紗七は、先ほどの話題になぜ玲紗が怒りを覚えたのかを少しだけ理解できた気がした。
「ああ、なるほど……」
「なに?」
「ううん。そっか、いや……何でもないよ」
ふうん、と不思議そうな表情を浮かべたものの、玲紗はそれ以上何も訊かなかった。手際よく古い包帯を取り、打ち身に軟膏を塗って、新しい包帯に替えて。体を拭いて清潔な浴衣を紗七に着せる。
「血だ何だ煩いのはもうたくさんよ。赤光が殺せれば何だっていいじゃない。男の方が生むことにこだわるなんて、滑稽だわ――よし。理世、戻ってきたの?」
きゅっと仕上げに紗七の帯を締め、玲紗は廊下へと声をかけた。数拍置いて、人影が障子に映る。戻ってきたよ、と穏やかな声が外からかかった。
「姉さん、少し外の風にあたりましょ。理世の手でも借りて縁側に行きましょうか。入ってもらって大丈夫?」
完璧に隙が無いほど配慮が行き届いた玲紗の言葉に、従姉は圧倒されてぱちぱちと目を瞬かせる。その後、紗七は少し微笑んで頷いた。
やや時を遡ると、厨にて紗七のための果物とお茶をもらい、世七は来た時よりもずっとゆっくりと廊下を歩いていた。先ほどの従妹の一喝の方が背筋が冷えたが、いつもと雰囲気の違う叔父の剣幕はよっぽど不気味だった。紗七は少しずつ回復しているし、ゆっくりと部屋の中を歩けるくらいにはなっている。陽が暮れれば少しは暑さも和らぐため、部屋の外で涼みに出るのも良いかもしれないと考えながら部屋に戻ろうとしている少年に、背後から声をかけてくる者がいた。
「おや、常陸の坊ちゃん。謹慎は解けたのかな?」
声の主が誰か分からず振り向いて、そして世七は瞬時に後悔した。以前からちょこちょこ突っかかってくる加苅の一人で、名を留衣という。金茶の鮮やかな髪を持ち、左の虹彩は赤い。長めに伸びた髪で隠れているが、その右目は世七たち常陸の者と違い、黒だ。二十歳を少し過ぎた辺りの青年は、こうしてたまに世七を見つけると戯れに揶揄おうとしてくる。大体いつも癪に障るようなことしか言わないため、世七はこの男が好きではない。この日も相手にするのが億劫で、振り向いたその流れで再度進行方向へ向き直り歩き始める少年を、笑いながら後ろに留衣がついて歩いた。
「常陸の居住区に入っちゃいけないんじゃないの」
「まだ此処は違う。そうだろ? いいじゃん、少しお話しよーよ」
正面に回り込まれ、世七は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。しかし、そんなものは微塵も気にならないのだろう。留衣はけらけらと笑い、目を細める。縦長に切れた瞳孔が、蛇のように見え、不吉に感じられた。
「例えば、ほら、あいつとか」
馴れ馴れしく肩を組まれそうになり、世七は盆を持っていない方の手で留衣の手を叩き落とす。しかし、反対の手で指を差す方向には目をやってしまった。留衣の指し示す先にいるのは高梨の人間だろう。世七は話をしたことはないが、自警団の一人だ。つい先日、世七の無茶に招集された理世や祖母と共に来ていた自警団の中に、その姿を見たことを思い出した。
「高梨の人でしょ。それがなに」
「あいつ含めて、数人の自警団がさ。赤光くずれに傾倒してんだよ。知ってるかい?」
留衣の言葉に世七は眉根を寄せた。「その言葉は嫌いだ」と反論したものの、嫌いな言葉の後に続いた意味を噛み砕けなかったためだ。留衣は冷めた目で、先ほど自分が指した人間を見遣る。は、と笑いながら吐き捨てるように言った。
「あいつら、夢見てんだよ。いつか自分たちも刀を生めるんじゃないか――常陸の血に目醒めるってさ。馬鹿馬鹿しい。常陸は砂から産まれやしない。純粋な血統でのみ受け継がれる」
その単語には聞き覚えがありすぎた。
「なんだよ、それ……純粋だ何だ、って」
「何って、そのままの意味しか無くない? あーあ、吠世サマ、あんだけ強いのにそういうの気にしない御方だしなあ。あんな赤光くずれ、常陸に入れる前に殺すべきだったんだよ。雑ざっちまうだろ。そう思わない?」
問いかけられたとしても、世七には何も答えられない。情報が雑多すぎるというのも理由であるし、言葉の端々に侮辱的と言えばいいのか、それとも盲目的な信仰のようなものが混ざっていることは感じ取れた。しかしなぜそう思うのか理由も分からず、そしてこの青年が世七に何を意図して伝えんとしているのかも分からないまま、一方的に話は続いた。
「けどさあ、殺さなかったってんだからワケがあるんだろうなと思うじゃん。しかも、加苅でなく常陸に配属なんて……近い所の落とし子としか考えられねぇよなあ?」
にたり、と三日月のように目を細めて笑う男に、世七は絶句した。よくもまあ、常陸本家である当人にそんなことが言えたものだ。怒りと呆れと、ほんの少しの「まさか」ということ。世七自身が考えないようにと避けていたことに真正面から直面させられたような感覚で、不快極まりなかった。
「あんた、そう考える癖に赤光くずれとか言うのかよ。矛盾してんじゃん」
「はは! そこは気持ちの問題ってやつだね。ぽっと出で常陸に居座られるのがむかつくだけさ――でもさあ、気をつけなよ、坊ちゃん」
世七の肩に手が置かれる。振り払うよりも早く、耳の近くで留衣が囁いた。
「この家、雑ざりモノに乗っ取られちまうぜ」
それだけ言うと満足したのだろう。青年はもう興味を失ったかのように、去っていこうとする。残った世七は、暫く呆然と立ち尽くしていた。どうにも点と点がつながらない。先ほど彼の叔父である世治は、世七に対して「お前が七代目になるんだ」と言った。純粋な血という言葉も。しかし今同様の言葉を口にしたのは加苅の青年。どちらかと言えば、世七の父である吠世の圧倒的な強さに惹かれている者だ。
訳が分からないまま、世七は再び歩き始める。部屋の近くまで来ると、部屋に居ると思っていた紗七は少し離れた外廊下に面した縁側にいるのが見えた。隣には玲紗、そして近くに理世も居る。当然彼の期待通り、世七の姿に真っ先に気づくのは紗七で、手を挙げて彼を迎えてくれた。姉の傍に林檎とお茶を差し出して、玲紗と反対側、紗七の隣に少年は腰かけた。
別に彼にとっては、家督や血筋などこれっぽっちも重要ではない。ただ、この先も、ずっとこうして姉と居られれば、何も文句はなかった。ちっぽけな虫篭の中しか知らない少年が、虫篭の外に広がる封鎖地区でバケモノを倒すという使命を負う彼が、変わらぬ安定を求めた時、行きつくのはそれしかなかったのだ。
そして姉弟が謹慎を受けていたこの一週間の間、現常陸家当主は様々な調整を行い、重要なことを二つ決めた。一つは、常陸家に属する理世と紗七とをつがわせること。そして、もう一つは、六代目常陸として世治を据えるということだ。
この決定により、当人らよりも反応を示し、火を燃え広がらせたのは六代目となった世治、そして候補者の一人でありその兄である吠世の取り巻きともいえる加苅、高梨の人間らだった。紗倉にとっては想定の範囲内の火種のひとつに過ぎないと思っていたそれは、その半年後に更に新たな火種を得て燃え盛ることとなる。
十五を迎えた世七が刀を生めないという衝撃の事実は、百余年守られ続けてきた常陸の純粋な血統を今、揺るがせようとしていた。




