Ⅳ
当然ながら、車で屋敷まで帰って自分の部屋になど戻れるはずもない。世七も紗七も、そのまま母屋の祖母の部屋まで引き連れていかれた。
「良い、理世、お前も此処に居なさい」
引き留められたのは理世も同様で、少し不思議そうな表情を浮かべたものの、彼は文句も言わず部屋の入り口付近に立っていた。一方の姉弟は、祖母に短く座れと命令を受け、一も二もなく正座した。
「まずは証明書を」
淡々と普段通りの要求をされることが逆に恐ろしい。紗七はリュックサックの中に入れていた証明書を取り出し、祖母に手渡した。
「さて。もう充分怒られる準備はできている、といった風だな? ――紗七。説明を」
祖母の声に、一瞬姉の体が強張ったのが世七にも分かった。紗倉はこの姉弟の性質をよく分かっている。世七は黙り込んでその場を凌ごうとする傾向があるが、紗七は常陸の上の者からそうしろと言われれば割と素直に白状する傾向がある。この時も、きっと世七が指されていたのなら、世七は黙っただろう。しかしそれは許されないということを、姉弟共に悟ることとなった。
「研究所を出、零区へ帰る途中にサイレンを聴きました。零区に戻るか、シェルターへ行くかを検討していた際、民間人が赤光に襲われそうになっていることに気づきました」
三つ指を付きながら、淡々と紗七が口を開く。すべて正しいわけではないが、間違っているわけでもない、大分詳細を端折った説明だった。
「私が、元々出現情報で聞いた一体を零区の方へ誘導してみせるから、世七には残った民間人をシェルターへと護送するようにと」
「……ッちがう!」
しかし、淡々と続けた紗七の言葉に世七は我慢ならず口をはさんだ。紗七が指示を出したのではない。世七の我儘に、紗七が付き合ってくれたのだ。そこを庇ってもらおうとも、もらいたいとも思っていなかった。一度決壊してしまえば、言葉は容易に溢れてくる。世七は膝立ちになりながら声を荒げた。きっと、紗倉はこうなることを見越していたに違いない。
「俺が! 紗七に協力してくれって頼んだんだ!」
「世七、もうよい」
「俺が言いつけを破って、結局赤光も倒せなかった俺がぜんぶ」
「もうよい――静かになさい」
祖母の言葉には凄味があって、思わず世七は口を噤む。そして、力が抜けたように再び正座の姿勢へと戻った。姉弟交互に見遣りながら、紗倉は一度溜息を吐く。
「正に昨日、世治から勧告を受けたばかりではなかったかえ?」
「……はい」
「今回は運が良かったとしか言えぬ。守りきれたなどと思うな。もし我々が合流できなかったら? 紗七がもし撒けなかったら? 刀を生めなかったら? お前たち二人だけでどうにかなったと、それでも思うか」
答えは「いいえ」しかなかった。世七も、紗七も、それは理解している。普段二人が赤光を斬ることができているのは、ひとえに監視者の刀があるからだ。まさに刀無しの状態で、あれほど苦戦するということがすべて想像の範囲内であったかと言えば、嘘になる。どうにかなるだろうという驕りは確実にあった。
「もう過ぎたことだ、反省しろとしか言い様がない。怒鳴るのも疲れる……二人とも一週間は謹慎だ。外出も稽古も不可。良いな」
念押しするかのような祖母の言葉に、姉弟は揃って首を垂れ、申し訳ありませんとそれぞれ口にした。
「では、部屋に戻れ。……紗七、着替えたらすぐに世七の部屋に居なさい。悪いが理世、私が行くまで――」
祖母の言葉がそこでふつりと立ち消えた。なぜならば、廊下から複数の足音が聞こえる。争うような声。無事だと言っただろう。煩い。聞き覚えのある声たちが、荒い足音と共に近づいているのが誰しも分かり、小さく紗倉が溜息を吐いたことに気づいたのは、この部屋の中でたった一人だけだった。
「吠世、落ち着け!」
「世七は!」
ほぼ同時に、半ば二人とも叫びながら入室してきたのは、姉弟の父と叔父だった。きっと世治は吠世を止めようとしていたのだろうが、強引に振り切った吠世は世七の元へ近づき、その顔を両手で包み込んだ。驚きに見開かれた息子の目など全く気にすることなく、脈打つ首の血管、血の通った顔を確認し、「無事なんだな」と呟く吠世の声が若干震えている。安堵したような父の顔を見、少年が目を丸くした。そうして、そのまま。息子の顔を包んでいた右手を俊敏な動作で振り上げ、男は隣に坐していた少女の頭を殴りつけた。あまりに一連の動作が流れるようで、反応する隙も無かったといえよう。紗七の軽い体がいとも簡単に部屋の隅まで飛ぶ。奥の飾り棚を巻き込んだ派手な音を立ててようやく、部屋の中の者たちは行動をすることができるようになった。
「紗七!!」
「吠世、やめんか!」
叫んで、世七は父の手を振り払って姉に駆け寄った。どうにか体を起こそうとする姉に手を添える。既に顔の右半分が赤く腫れ始めていた。紗倉と世治によって拘束された父は、怒鳴りつけるような声で言い放つ。
「お前が居ながら! 何をしていたんだ!! 引き摺ってでも無事に連れ帰るのがお前の役目だろうが!!」
大きな声に、当事者である紗七は当然のことながら、世七もまた小さく震えた。やめてくれ、と言いたかった。紗七は俺を助けてくれたんだ、紗七が居なかったら俺は死んでいたんだ、と、姉の潔白を証明したかった。それなのに、少年の喉は涸れてしまったのか、姉の震えに同調してしまったのか、一切言葉となって出てくることはなく、はくはくと唇が震えるだけだ。
「理世。二人を連れていけ」
吠世を押さえながら、口早に紗倉が指示を出す。相変わらず平静な顔をしていた理世は、短く肯定の返事をし、部屋の奥まで歩む。世七の腕を引いて立ち上がらせ、そうして紗七に声をかけた。
「歩ける?」
紗七は頷く。しかし理世は少女の背と膝裏に手を添え、抱いて部屋を出ることを決めた。未だ部屋の中では大人たちが喚く声がしている。部屋を出、姉を抱える理世の後を足早に追いながら、世七は拳を握った。恐怖と悔しさと、不甲斐なさでどうにかなりそうだった。
「折れてはいないだろうけど、恐らく左足首は変な捻り方をしてる。あとは打ち所が気になるかな。世七、部屋に医者を呼んで。お前の部屋だ」
「わかった……も、もし、来たら、」
何が、とは言えなかった。自分の父があれほど恐ろしいと目にしたのは初めてで、世七自身ひどく動揺していた。これまでも紗七に対する態度は冷たいし、きつい物言いをしていたこともあったが、実際手をあげた場面に少年が遭遇したことはなかったからだ。帰路の車内よりもずっと狼狽えている様子の少年に、理世は淡々と告げた。
「そのための俺の配置だろうが。いいから行け」
短く告げられた言葉に頷いて、世七は駆けだした。廊下を走ってはいけないなどという普段の規則は、到底守られそうにもない。そうでもしなければ、叫び出しそうだった。遠ざかっていく足音を聴きながら、理世は考えを巡らせる。まずは玲紗に声をかけ、紗七の着替えを優先させるべきか。手当が先か。いずれにせよ、玲紗は呼ぶべきだろうと判断した。すると、どうだ。腕に抱えた少女が息を漏らす。泣いているのだろうかと思ったが、どうやら笑っているようで、状況と不釣り合いな紗七の行動に理世は不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしたの」
短く問いかける。片頬が腫れあがって、きっと咥内は切れているだろう。にもかかわらず、紗七は口を開いた。
「……ごめんね、驚いただろ?」
「まあ、それなりには」
謝罪を口にするのはきみの役割じゃないのでは? 疑問には思ったが、出すことはしなかったらしい。代わりに、理世は今回と同様のことが頻回にあるかを確認した。
「最近はない。ずいぶん久しぶりで……油断した」
どうやら紗七の笑いは、自嘲だったようだ。こうなることを推測することはできていた自分が、咄嗟に反応をできなかったことへの、自嘲と謝罪。理世はついわらった。
「この家の中に居る方が死にそうだね」
その呟きに、紗七は小さくわらうだけだった。
常駐の医師に紗七の手当をしてもらい、着替えは玲紗を呼んで手伝ってもらった。当然ながら男どもは廊下の外に放り出されてしまう。世七の自室にも関わらずだが、玲紗の言い分に逆らえる者などいないのだ。追い出された合間に、赤光とやりあった際に頬に掠り傷ができただけの世七も、念のためだと言われ血液のみ採取される。玲紗からの許可が出、部屋に戻れば、既に布団に寝かされた紗七が居た。
「私、一応隣の姉さんの部屋に居るわ。何かあればすぐ呼んで」
玲紗はそう言い、宣言通り紗七の部屋で夜を越す用意をしているようだった。理世は廊下に居る。部屋に入らないのかと世七が問うたが、「此処でいい」と断られたので、世七は障子を閉め、布団の傍に座り込んだ。紗七の頬には湿布が貼られ、赤く腫れているのが痛々しい。なぜ父が、姉にこれだけつらくあたるのか、理由は知らない。しかし、その要因の一端を世七が担っていることだけは分かった。世七は姉の手を握る。自分の何かが、少しでも姉に移ればいいのにと、そう思った。
「俺の所為だ」
ぽつりと零れるのは、自責の言葉。俺が、カイトたちと遊んでいたから。俺が、助けたいと言ったから。俺が居るから、こんなに紗七は傷つくことになっているのだ。そう思って疑わない弟の耳に届いたのは、くすくすと笑う姉の声だった。
「……世七、私、今嬉しいんだよ」
姉の行動の意図が分からず、不安そうな表情で弟はなんで、と掠れた声で囁く。満足に片方開かない目が、優しく細められた。
「世七がちゃんと生きてる。……間に合って、よかったあ」
心の底から安堵したような姉の声に、世七は思わず手を頬に摺り寄せた。そうすれば、姉の手が優しく自分を撫でてくれると分かっていたし、そうしてほしかった。せな、と。柔らかく自分を呼ぶ紗七の声に、視界が滲む。
「さなが」
情けなく声が震えていた。
「紗七が俺を助けてくれなければ、俺はいま、ここに居ないんだ……」
震えながら、精いっぱい思いの丈を呟くしかできない少年に、緩く首を振る姉が見える。
「世七がいなければ、私だって今此処に居ないんだよ。あの人も似たようなことを言ってたね。世七はすごいね」
姉の表情が、言葉が。そんなの、まるで自分は死んでも構わないと言っているように聞こえて、恐ろしかった。そして、口に出すことはできないのは、言葉にしてしまったが最後、紗七がにっこり微笑んで肯定してしまうのだけは見たくなかったからだ。もう何も言えなくなって、世七は手を握ったまま姉の隣にころんと横になった。




