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執務室の椅子に腰掛けた辺境伯アルベルトは、両手で頭を抱えて、「う"あ"あ"」と無様な唸り声を上げていた。その理由は、大切な娘のエレナに、初めての婚約者が出来たからだ。
それも女性の婚約者だ。あろうことか、女性と女性が婚約を交わしたと妻が言うのだ。まあ、要するに百合である。
その事実をルファーナから聞かされたアルベルトは、平静を欠いてひたすら狼狽えていた。
「いや、確かに僕はエレナに好きな人と結婚していいって言ったよ。それは認める。けどね、さすがに女の子同士で結婚するなんて普通は思わないよ。ていうか、本当にエレナとクロネ様が二人とも婚約に同意したの!?」
「だから、何度もそう言っています」
ルファーナが面倒臭そうに言葉を返した。このやり取りは、今のを合わせて四度目になる。
自分の娘が女の子同士の世界ーー百合に傾倒した事実を受け入れられないアルベルトが、同じ質問を繰り返しているのだ。
その度にルファーナが肯定するという、終わりのないループに入っていた。
そして、いい加減ルファーナが同じような問答に辟易してきた頃、部屋にコンコンとノックの音が響いた。
「失礼します。食事の準備が整いました」
長く続いた無益な会話を終わらせたのは、侍女長のアンナだった。
アンナの言葉にアルベルトとルファーナの二人は顔を見合わせると、同時に腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「あら、もうそんな時間なのね……」
アルフハイム辺境伯家の食事は、家族が揃って皆で摂ると決まっている。
新たな客人ーー黒龍クロネが滞在していても、その決まり事は変わらない。
邸内にある部屋の位置関係から考えて、エレナとクロネが居る客室は、アルベルトやルファーナが居る執務室よりもダイニングルームに近い。
つまり二人は、既に食卓に到着している筈である。
ならばと、ルファーナとアルベルトは、一先ず二人が待つであろうその場所へと向かうことにしたのだ。
「この際だ。僕は、二人の関係を直接確認させてもらう!」
突然、アルベルトが力強く叫んだ。
すると辺境伯夫妻のために恭しく扉を引いていたアンナが、慇懃な態度とは裏腹に、冷たい目を彼に向けた。
「僭越ながら申し上げます。干渉はほどほどになされた方がよろしいかと。今度ばかりは確実に、エレナお嬢様から嫌われることにーー」
「いやあ、やっぱり恋愛は自由でなくちゃね! 僕は、二人を応援するよ!」
「……左様ですか」
見事な手の平返しであった。こうして侍女長アンナに促されて、ルファーナとアルベルトは、子供達二人が待つダイニングルームへと向かった。
◇◇◇
ーー時を少し遡って、クロネの部屋にルファーナが訪れていた頃の話。
ルファーナが責任云々の説明としてエレナに語ったのは、クロネがエレナを愛しているか否か、という内容だった。
呆れ気味にルファーナが告げる。
「あのね、普通に考えて、友達同士で口付けなんてするわけないでしょう」
正論だった。普通ならば、そう考えるだろう。友達同士でキスなんて有り得ない。
「でも、それは魔法契約でーー」
咄嗟に出たエレナの言葉を遮るように、ルファーナが一気に畳み掛ける。
「魔法契約だとしても、わざわざ口付けで契約する意味は? 事情があるならともかく、他に幾らでも方法があるのに? 貴女、好きでもない人と意味もなく口付けで契約できる?」
「……」
無理だ。エレナは深く悩むまでも無く、心中で即答した。
クロネ以外とそういった行為に及ぶなど、エレナには考えられなかった。
その違いは、好意の有無だ。誰が好きでもない相手とそんな真似が出来るだろうか。いや、出来る筈がない。
エレナは自問自答する。
(そうだよ、好きでもない相手と口付けなんて絶対無理だ。じゃあ、逆に考えて、誰となら出来る?)
そんなもの、好意を抱く相手しかいないとエレナは考えた。そして、その論理をクロネに当て嵌めれば、彼女はエレナに好意を抱いているという答えが導かれる。
成程と、エレナは納得した。
「クロネ様は貴女に好意を抱いているわ。それも、友達以上の好意をね」
「……うん」
「なら次は、クロネ様の立場に立って考えてみなさい」
「クロネちゃんの?」
「そうよ。魔法を使えるようにする対価が単なる甘味だけ。しかも、お金は自分で負担する。それも、圧倒的な力を持つ龍が。あまりに偏った契約内容だとは思わない?」
この契約を客観的に観て、損をしているのは明らかにクロネだけだ。
エレナが差し出したものは何ひとつ無い。
「貴女と契約することで、クロネ様は一体何を得たのかしら?」
「何って……」
言葉に詰まるエレナ。その胸を、ルファーナは得意顔で指差した。
「答えは、意中の相手との交誼。つまり、エレナーー貴女との繋がりよ」
「あた、し……?」
ルファーナの言葉は、不思議なほどにエレナの心に深く浸透した。
本当に正しいのか。否、間違っていないか。暫く悩んだが、今までのルファーナ説明には、何処にも矛盾や破綻が見付からなかったからだ。
確かに、本格的にクロネが泣き出したのは、エレナが契約を解除しようかと申し出た瞬間からだった。
その事に思い当たったエレナは、今度こそ心から納得した。
「そうだったんだ……」
そうしてルファーナに言いくるめられたエレナは、次に己の失言を悟ることになる。
大切な“友達”では駄目だったのだ。クロネが望んでいるのは、より深く繋がった、そして親しい関係。
つまり“恋人”なのだと。
そう結論付けた途端、エレナの顔付きが凛々しいものへと変化した。
「ーー理解したみたいね?」
「うん。あたし、分かったよ!」
ルファーナが確認を取ると、今まで自信無さげにしていたのが嘘のように、エレナが元気良く答えた。
それを見たルファーナは、もう心配は要らないと判断したのか、踵を返して部屋の外へと向かう。
「後は若い二人に任せるわ。食事の時間はいつもより二刻遅らせます。それまでにきちんと仲直すること」
「ルファーナお母様、ありがとう!!」
言うや否や、ルファーナが扉から出て部屋を後にした。
その木製の薄い扉が閉じると、部屋に残されたエレナとクロネは二人きりになる。
すぐさまエレナは、クロネが腰掛けるベッドに駆け寄った。
正面から様子を窺うと、クロネは泣き止んではいたが、ぼんやりと虚ろな目で中空を眺めている。
そこに、控え目な声でエレナが呼び掛けた。
「待たせてごめんね」
今気付いたように顔を上げるクロネに、エレナが微笑みながら告げた。
「話があるの」
「む……?」
「あ、あのね……」
「なんじゃ?」
「……」
少しの沈黙。それに反して、エレナの鼓動がうるさいほどに大きくなっていく。
やがて意を決したエレナは、上目遣いでクロネを見つめて頬を真っ赤に染めて、大きく息を吸って言い切った。
「ーーけ、結婚しよ?」
「ふえぇ!?」
クロネの高く裏返った声が、廊下の端までよく響いた。