3話 始まりは突然に
ドアが力強く開く音が聞こえて目を覚ます。
相変わらずドアを開けるのがうるさい男だ。あっという間に眠気が吹き飛んだ。
「悪い遅れた! さぁ始めるぞ! ってまた居るのか佐倉」
目を開けて体を起こし、ドアのほうへと視線を向けると、やはり合唱部顧問の佐伯隆平が立っていた。
年齢26歳。山田高校の教師の中で最年少の若さを持つ佐伯先生は、今年からこの学校に配属されたばかりだ。男子からは兄貴分として、女子からは憧れの先生として、今人気急上昇中の教師でもある。
我がクラスの社会科全般を受け持っており、たまに授業前とかに雑談をしたりする程度には仲がいい。
教師の中だと一番話しやすい。一番歳が近いってのもあるし、佐伯先生のきさくな性格も影響していると思う。
合唱部の顧問でもあるが野球部の副顧問でもあるらしい。野球の話はしたことは無いが。
「おはようございます!」
「もう放課後だぞ。とりあえずいつもの事だが聞く。何故ここに居る?」
「黙秘権を行使します!」
いつものように冗談交じりに回答をする。
佐伯先生の顔は呆れ笑い。あちらもいつもの事だからもう半ば諦めているようだ。
「少しは勉強したらどうなんだ? 前回の定期考査も全科目赤点だったんだろう?」
「全科目じゃありません。先生が担当している現代社会は31点だったんでギリギリ赤点回避してますよ」
佐伯先生は表情を暗くさせて頭を抱える。ふふっ、社会科だけは得意なんだぜ。
一部の女子がクスクス笑っている。だがそれを気にしないのが俺だ。いややっぱりちょっと気になる。
「もう良いや。んじゃ発声練習から適当にはじめてくれ」
「これこれ佐伯君。顧問が適当とはどういう事だね? 私が親だったら教育委員会に訴えてますよ」
「とりあえず、あいつは無視して良い。始めろ」
「うわっ! ひでぇ! 教師が生徒にすることかよ!」
なんて冗談交じりの悪態をついて、ふて寝することにした。
ぼんやりとし始めた脳が合唱部の練習する声を感じ取る。それが後押しとなって、いつものように睡魔に飲み込まれた。
………………
「…うぅ…ふああああぁぁぁ」
大あくび一つ掻きながら、俺は大きく背伸びした。教室前方の壁上部につけられた時計で時刻を確認する。一時間ほど寝ていたようだ。
どうやら合唱練習を中断して休憩中らしい。女子どもの雑談する声が聞こえる。
「起きたか佐倉」
ふと隣に椅子に座る佐伯先生。
手には本。今世間から一番人気の推理作家が最近出した推理小説だ。
いつも彼は部活動中読書にいそしんでいる。部活の顧問なのになんて体たらくだ。
「おぅ佐伯ぃ! 彼女とは仲良くやってるかい?」
「相変わらず馴れ馴れしい奴だな。まぁ仲良くやってるよ。それより野球部顧問の佐和先生知ってるよな?」
佐和先生は俺のクラスの隣のクラスの担任だ。
数学を受け持っていて、年齢は32歳。どちらかと言えば好きな教師に入る。授業中でも無駄話が多いうえにその話も中々面白いから好きだ。しかも相手は俺を気に入っている。困った奴だ。
さらに怒る事が滅多に無いのも好感度を上げる要因の一つとなっている。
「ええ」
「それで佐和先生から召集が来たぞ」
「召集?」
佐伯先生の言葉に首をかしげる。
「野球部の助っ人だよ。今年の野球部の部員は8人しか居ないから、大会の助っ人で出てくれないかだってよ。どうやら野上からの推薦らしいぞ」
「哲也が?」
あの野郎、なに推薦しとんねん!
俺は野球をキッパリ辞めた男だ。いまさら野球をやらせようとか、まだ諦めてないのかあいつは。
確かに哲也は事あるごとに野球に戻るよう勧めてくる。先ほどの野球空を勧めてきたのもそれが理由だ。だが一度辞めるといった物に戻るつもりはない。
「可愛いチアガールと可愛い吹奏楽部の女子と可愛い女の子が応援に来るなら考えても良いですよ」
「欲望丸出しだな」
「なに言ってるんですか佐伯先生。本当に欲望丸出しなら、これにプラスして麗しい女子大生のお姉様がたと、女の子全員のメアドも欲しい限りですわ」
「確かにお前らしいな。まぁいい。こちらから適当に手配しておくが、期待するなよ」
おぉ! 物は言ってみるものだな!
「楽しみにしてます」
「あぁ、だから出場しろよ」
「それは前向きに善処する方向で」
俺の回りくどい回答に佐伯先生は苦笑いを浮かべた。
「というか佐倉。お前野球得意なんだな」
「得意という程得意ではないですけど、まぁしいて言うなら大得意ですけど」
野球を辞めはしたが、野球は俺が唯一自慢できるものだったのは確かだ。こうして離れた今でも野球に関するとついつい見栄を張りたくなってしまう。
「大得意か。なるほど、だから野上がなんとしても呼べと念を押してるわけか」
「はぁ?」
「野上が佐和先生に言ったらしいぞ。英雄ならすぐさまエースで四番でもいけますってさ」
佐伯先生は冗談話だと思っているらしい。
確かに何も知らない人が聞けば冗談話も良いところだ。俺も思わず笑いが込み上げてきた。
哲也の奴、相変わらず俺を過大評価してるな。
確かに哲也の言葉通り、山田高校クラスならエースで四番をやる実力があるのは認めよう。それぐらい自分の能力に自信はある。だが俺には一年のブランクがあるんだ。
この一年間、俺はずっと野球から離れていた。やっていた事と言えば友人の恭平と大輔の二人と馬鹿やっていた事ぐらい。硬式のボールを握ってすらいない。
そうしてこう野球の事を考えると、中学時代の俺が幻影のように脳裏に思い浮かぶ。試合というものに興奮し、打者との一球一球との対決に昂ぶり、勝利を狂信的に追い求める野球選手としての俺の姿。
……やっぱり野球部の助っ人に行くのは止めよう。
ここはいくら幼稚園の頃からの友人であるてっちゃんでも無理な要望だ。
「誠心誠意をもって助っ人召集の件はお断りいたすでござるでざます」
「なんかよく分からん敬語になってるが、野上から伝言だ」
伝言? ふふ、まさか俺を脅すつもりだな。だがあいつの脅しだ。どーせ初めて俺が自慰行為をした日を言うつもりだな。馬鹿にするな! 俺は平均的な小三の時だからな。ぬかったな哲也!
「幼稚園からの借りを出場したらチャラにするだとよ」
……そうだった。
俺は幼稚園の頃から金がないと、良く哲也から借りていた。ざっと10万近くは借りているだろう。しかも分が悪い事に、哲也はその頃から俺に貸した分の金額を書き溜めているもんだから困っていた。俺の弱みの一つだ。
しかし、たかが試合に出るだけでチャラだと! 出るしかないべ!
「しょうがないな。バット引きだったら俺様が出てやる。光栄に思えよ」
「バット引きぐらいでえばるな。まぁ良いや。今日中に佐和先生に伝えておくから。明日にはグラウンドに来いよ。俺も夏大前だからあっちにも顔を出すかな」
なんか話が転々と進んでいるな。まぁいいや。どーせ俺はバット引きをやるしな。
「おっしゃあ! 練習開始だぁ。鵡川はここ最近声が出てないぞぉ! 声出さなきゃ合唱は出来んぞ! リーダーまとめてけ!」
うーむ。硬式野球は初めてだ。まぁ適当にやればいい。俺は所詮助っ人なんだから……。
ノイズのように中学時代の俺が浮かび上がる。
一球の恐怖心を抱いたあの日の敗北が、栄光を前にして届かなかった悔しさが、無敵だと思っていた自分の心の弱さに気づいてしまった絶望感が、そして植え付けられたトラウマが、じわじわと体にまとわりついてくる。
「アホくせぇ」
ぽつりとつぶやく。その言葉が先ほどまであった不安を打ち消した。
なにを考えてるんだ俺は。もう終わった事だろうになにを考えてるんだ。
さぁて寝よ寝よ。
夕方、空もだいぶ赤みを帯び始めた頃、合唱部の練習は終了する。
「よーし、今日はこれぐらいにすっかぁ。明日は俺が野球部の方に顔出すから各自適当にやっておいてくれ」
しかし佐伯先生、相変わらず顧問らしからぬ発言ですね。
まぁうちの合唱部の目標、コンクールとかで賞を取るとかじゃなくて、文化祭で良い合唱ができるようにとか、そういう感じの意識低い目標だったはずだし、これぐらいがちょうど良いのかもしれないな。
「佐伯先生、具体的にどうすれば良いんですか?」
あまりの顧問放棄ぶりに、ひとつ上の先輩が手を上げながら佐伯先生に質問した。
そりゃあそこまでいい加減な事言われたら質問するわな。
「具体的にかぁ。そうだなぁ、まぁいつもどおりの練習でもいいし、自分らで調べた練習をするもよし。あ、あと外で歌うのなんかも良いんじゃないかな? 一つの手だな。んじゃ、またな」
そうアドバイスになってるか怪しい助言をしてから佐伯先生は教室から出て行く。
いくら学生時代に合唱部に所属していなかったとはいえ、いい加減すぎるぞ佐伯先生。
彼の適当な様子に呆れつつも、俺は一つ背伸びをしてから立ち上がる。
「おっし誉! 帰りにナンパしてくか!」
「お前が居ると成功率が著しく低下するからやめておく」
うわっ! ひでぇぞ誉の野郎! こう見えても俺は友人T君から「英雄はビシッとすると格好良いよね」って言われた程だぞ! 気分はそこらのアイドルに双璧をなしてるっての!
誉も帰宅の準備が終わったので、並んで教室を後にする。野郎二人が並んで帰宅か……華の高校生が虚しい。
ふと視線を感じ、後ろへと振り返る。談笑する女子たち、そのなかで鵡川梓がこっちを見ているような気がした。
佐倉君の背中をおっていたら、ふと振り返り私と視線があった気がして、慌てて逸らしていた。
まもなく教室のドアが閉められる音が聞こえて、誰にも聞かれないような小さなため息をついた。
また話すことができなかった。ここ最近、やっと挨拶はできるようになったけど、そこからが繋がらない。
私は佐倉君に淡い恋心を抱いている。恋した理由は中学の頃までさかのぼる。
中学の頃、弟の野球の試合の応援に行ったら、偶然対戦相手のピッチャーが佐倉君だった。
その佐倉君の真剣な表情に惚れてしまったのだ。
彼に惚れてしまった私は、彼が通う中学の女の子と塾で知り合い、彼女から聞いた情報で山田高校に入学した。
一年生でいきなり同じクラスになったが、佐倉君の前だと緊張して何も喋れなかった。もちろん気持ちは彼には届かなかった。今だって、何も変わっていない。
高校に入って何度か、彼の真剣な表情を見た。彼の真剣な表情を見れば見るほどに彼のことが好きになっていった。
佐倉君はイケメンだと思う。だけど周りの評価はあまり良くない。確かに普段は気が抜けているというか、だらしないように見えるけど、顔は普通に格好いいと思う。
高校野球をやっていたら、間違いなく佐倉君のファンクラブはできていただろう。それぐらい野球をしている時の佐倉君は凄い格好いい。
あと彼がモテないの交友関係も結構災いしてると思う。
佐倉君の周りは騒がしいせいか、その中心人物である佐倉君を敬遠する女子も多い。だけど本当の佐倉君はうるさいわけじゃないし、女子にも優しいし、細かいことは気にしない豪放磊落な性格をしていると思う。
「梓。帰ろ」
「うん」
友人が声をかけられ、私はスクールバッグを肩にかけた。
そんなわけで二年生になり、毎日のように部活に来る佐倉君に気をとられて部活動にも集中出来ず、声が出てない。
もうすぐで夏休み。
休みが明けたら待っているのは体育祭に文化祭に修学旅行……。仲良くなれるといいなぁ。
そんな気持ちを抱きながら私は教室を後にした。