34話 天才の転落
「……もうこんな時間か」
俺は思わず時計を見る。時計の針は「7時」を指していた。
カーテンからは朝の光が差し込んできていた。
あの試合が終わって2回目の夜が過ぎ、現在9月28日。一睡も出来ない。
眠気もない。トラウマが俺を蝕み、胸が苦しい。
まさか、俺の心がここまで弱いとは思わなかった。
「英雄! いい加減学校行きなさい!」
下の階から、母親の怒号が聞こえる。
行きたくない。学校なんて行きたくない。絶対行ったら馬鹿にされる。
今の俺は励ましの言葉すらも絶対に腹立たせてしまうだろう。だから行きたくない。
「引きこもりなんて絶対させないからね!!」
さらに母の怒号は続く。
うるさい。分かったから、もう行くから黙ってくれ……。
重たい体を起こし制服へと着替える。
久しぶりに感じる日の光。
今までカーテンを閉め切った部屋に居たからだろう。久しぶりに光を浴びた気分になる。
重たい体を強引に学校へと向ける。
二日も寝ていないせいか頭がぼんやりとしている。
まるで理大付属の試合の時のようだ。そう考えたら悔しさがこみ上げてくる。
今すぐ何かに当たりたい気分になったが、それを堪えて飲み込む。
苛立つな。あれは俺の責任だ。何かに当たるなんて真似はできない……。
学校に到着し、クラスへと向かう。
俺の顔を見る生徒たち。なんだ? 俺の顔になんか付いているのか?
俺を嘲笑いたいのか? 試合で失態を見せた俺を笑いたいのか?
笑うな。笑わないでくれ……。
腹の奥底から怒りがこみ上げて、それを飲み込む。
悔しい。悔しくて何かに当たりたい。だけど、あの試合の負けは俺の責任だろう。物に当たる権利など俺にはない。
教室に入ると俺を皆が見ている。ひそひそと話す生徒もいる。
ここもそうか。俺を嘲笑うつもりか?
「よぉ英雄! 負けたらしいな! まぁドンマイ! 夏頑張ろうぜ!」
友人が俺に声をかけてくる。励まそうとしているのだろうか。
それが癪に障った。ずっと堪えていた苛立ちが一気に奥底からこみ上げてきて溢れ出す。
プツンと何かが切れた気がした。
これまであった理性が蒸発する。抑えようとしていた怒りが、堰を切ったように溢れ出した。
なんて事のない友人の一言だったのに、普段の俺なら笑って聞き流せる言葉だったのに、俺は鞄を地面に投げ捨て、いつの間にかそいつの胸倉を掴んでいた。
「おぉ!? どうした英雄!?」
「うるせぇ! こっちだって好きで負けたんじゃねぇよ!!」
俺はそいつの胸倉を掴んだまま怒鳴る。
教室がシーンと静まりかえる。
「わ、悪い英雄! なんかごめん!」
謝るそいつを見て、悔しさが溢れ出る。
勢いよく胸ぐらを離した。
危なかった。一瞬残った理性がなんとか胸ぐらを離すという選択肢を選んでくれた。
あのまま胸ぐらを掴んでいたら、間違いなくあいつを何発か殴っていただろう。
だが、この行動で最後まで残っていた理性が全て消え失せた。
ここが教室だと、公衆の面前だと分かっているのに、俺は怒りを顕にしてしまった。
あの試合から、いやその前日佐久陽との試合から溜まっていた不快な感情は堰を切ったようにあふれ、激流となって俺を襲う。
怒りは俺を支配し、ただただ物に当たりたくなった。
「クソォ!」
獣のように吠え、傍にあった椅子を蹴飛ばした。
椅子は机に激突し、けたたましい音を響かせた。
女子の悲鳴が教室にこだまする。
そこまで理解したところで、俺は頭が真っ白になった。
「おい英雄!! 落ち着け!」
誉がやってきた。
その言葉を聞いて、俺は誉を睨みつける。
「……クソが……クソ! クソ! クソ! クソ!」
二日間溜め続けていた怒りは、溢れ出したらもう止まらなかった。
どこにぶつければいいか分からない憤りの矛先は物へとぶつけられた。先程まで止めていた理性はもうない。
机を蹴り飛ばし、椅子を壁へと投げつける。
「止めろ英雄! 落ち着け!」
誉が必死で俺を引き止める。
背中から腕を絡めとり、そのまま教卓に押さえつけられた。
「クソが!!」
そのまま俺は思いっきり教卓に頭を叩きつける。
悔しさや羞恥、自分の未熟さを忘れたいと願いながら、頭を叩きつける。こんな事じゃ人は死なないと普段なら分かるのに、頭ではしっかりと分かっているのに、怒りに任せた体は止まらない。
このまま意識を失い、目覚めたとき、記憶喪失になることを願いながら、何度も何度も教卓に頭を叩きつけた。
「おぉっ! 教卓にヘディングすんな。教卓はボールじゃねぇぞ!」
軽い調子の声が聞こえた。この場面でこんなこと言う奴は一人しかいない。
ドアの方へと睨みつける。そこには佐和ちゃんを含む数名の教師がいて、そばには哲也が不安そうに見ていた。お前か、お前が佐和ちゃんを呼んだのか。
教師たちは俺へと掴みかかり、取り押さえようとする。
怒りは最高潮に達していた。自己嫌悪からくるこの怒りは、とにかく暴れることでしか発散できなかった。
俺を捕らえとする教師たちに向かって、何発か殴った気がする。
結局、さらに数名追加し、暴れても動けない状態のまま、俺は指導室へと連れて行かれる。
騒ぎは周囲のクラスにも波及していたようだ。クラスから生徒たちが不思議そうに俺を見ている。その中には大輔や恭平、鵡川の顔なんかもあった。
水道場に設けられている鏡を見る。先ほどの頭突きで切れたのか、額からは血が流れていた。
生徒指導室に運び込まれた頃には怒りも収まり、陰鬱な気分になっていた。
また失態を晒してしまった。あぁ惨めだ。なんとも惨めだ。
やっとまともに思考できるようになった気がする。対面する佐和ちゃんをぼんやりと見ながら、俺は息を吐いた。
「どうだ? 落ち着いたか?」
「……はい」
佐和ちゃんが俺に問う。
俺は小さく頷いた。
「天才は打たれ弱いって、前にお前が言っていたが、まさにその通りだな」
「………」
対面に座る佐和ちゃんがそう真面目に話す。
「……俺は天才でも、怪物でも無いですよ……。俺には才能なんて無かった。少し実力があったからって、調子に乗ってた凡人でした……」
「そうか……」
苛立ちはもう消え失せたが、今度はどうしようもない自己嫌悪が襲ってくる。
指導室に沈黙が訪れる。
「お前がそんな態度じゃ、まったく噛み合わないな。もうちょい、普段みたいに俺様な感じでいけないのか?」
「俺は……凡人以下ですから……」
「おいおい、さっきよりランクダウンしてんぞ」
佐和ちゃんの軽口でさえ、今の俺には気分を悪くするだけだった。
だけど、何も言う気が起きない。怒りは先ほどの行動で流しつくした。しばらくは怒号をあげることはないだろう。
「まぁこのまま、日ごろの恨みをこめて、お前にグチグチいうのも悪くねぇが、一応野球部監督でお前を指導している立場だからな。生徒指導の蔵田先生の代わりに俺がお前の生徒指導をしてやる。さっそく本題に入ろうか。今回のお前の指導だが……」
そう佐和ちゃんは指導について話していく。
「……なぁ~にが、景色見て心を落ち着かせろだぁ……」
俺は屋上のベンチに座りながら、フェンス越しに見える景色を見ながらぼやいた。
現在四時間目の授業途中、俺は4時間近くずっと景色を眺めていた。
こうなったのは、佐和ちゃんの下した生徒指導の内容が原因だ。
「お前は別に何日も停学にするほどの問題を起こしてないからな。いや正確には教師の何人かをぶんなぐってるけどな。でもまぁどいつもこいつもお前を許してる。だから停学にするにしても、良くて1日ぐらいかな?
だが、そんなの指導じゃない。
それよりももっと指導になるような事をさせてやる。とりあえず屋上のベンチ座って景色を見て心を落ち着かせて来い。そーだな……4時間以上、ずっと見てれば気持ちも落ち着いて、悟りの境地に達するんじゃないか?」
などと生徒指導室にて、佐和ちゃんに言われたのが9時前。
そして現在時刻、12時32分。
まもなく4時間目も終わり、この屋上も生徒であふれかえるだろう。
山田高校は屋上の出入りが自由になっている。
ともかく、ここで一人でたそがれていられるのも時間の問題だろう。
「結局……気分は晴れねぇし、イライラはおさまんねぇし、打開策も思い浮かばなかったじゃねぇか……」
そう一人しか居ない屋上で、ポツリと呟いた。
俺は、ここまでの人間なんだろうな。本当の天才なら、打開策なり、立ち直りなりしているはずだ。俺は所詮ちょっとした才能で天才だと勘違いしていた凡人でしかなかったのだろう。
四時間目終了のチャイムが聞こえる。
あぁ……もう12時40分か……。あと20分経ったら戻ろう。
空はいつものように青く澄んでいた。
俺の心も、あんなモヤモヤの無い澄んだ心でいたいものだ。
……このまま俺、野球辞めてしまうのだろうか?
バント処理一つ出来ない上に、それが原因で崩れてしまうピッチャーって、役立たずにも程があるじゃないか
いっそのこと外野手にでも転向するか? それともマネージャーにでも転向して岡倉と仲良くしちまうか? いや、教室であんな恥ずかしいところ見せちまったんだ。このまま退学して、中卒として生きていくのも悪くないか。
あまりにも暇なので、様々な案が浮かんできた。
なるほど、少しばかり佐和ちゃんの言ってる事を理解した気がする。悟りとは違うと思うけれど。
屋上には続々と生徒がやって来る。
俺の座っているベンチは、塗装が剥がれ、少々年季の入ったボロボロのベンチだし、誰も座りたがらないだろう。
そのせいか、俺の隣に座ろうとするアホは居ないわけだ。
屋上は生徒たちの和やかな空気に包まれているが、俺の周りには、俺から出ている負のオーラが取り巻いている。そのおかげか知らないが、俺の近くに誰も来ない。
まぁ良いか。このまま根暗キャラにクラスチェンジするのも悪かねぇな。
「あぁ、空は綺麗なのに、なんで俺の心は曇ってるんでしょーか……」
「あんたが、いちいち引きずってるからでしょ?」
思った事をつい呟いてしまう。まぁ周りに人は居ないし、誰にも聞かれていないだろう……。
「……はぁ?」
なんか今、俺の独り言に相槌を打った奴がいたぞ?
辺りを見回すと、後ろに沙希が立っていた。手にはペットボトルのお茶が2本。
俺に1本投げ渡してきた。
反射的にそれを受け取ると、沙希はそそくさと俺の隣に座った。




