32話 天才、崩れる
翌日、9月26日。
酒敷市営球場、第二試合。
今日は昨日に続き県大会二回戦。相手は昨日の佐久陽との試合の後に行われた第二試合で勝利した理大付属と対戦する。
相手は夏ベスト4にもなっており、夏の主力メンバーは二年生中心、夏の強さを今でも誇っている。
試合前、しっかりとアップをこなす。
昨日のことを思い出して自己嫌悪になる。昨日の崩れ方は最悪すぎた。思い出しただけで恥ずかしくなって死にたくなる。あんな情けないピッチングは生まれて初めてだ。
球場は第一試合に行われた斎京学館と寛成学園の試合の熱気が残っている。
試合は斎京学館が6対1の快勝だ。川端が九回を1失点の好投を演じている。
斎京学館ということは、もしかしたら鵡川が観戦してるかもしれないな。
だが、今の俺には関係ないことだ。
さて、今日は俺が先発。まぁ理大付属相手だ。亮輔には荷が重すぎだろう。
今日も負ける気がしない。地区予選で丸野港南、荒城館、兼光学園と強豪、中堅を破っている自信が、俺にはあるんだ。
試合が始まった。先攻は理大付属。
打席に入る一番バッターを一度見てから、サインを確認する。
初球はインコースへのストレート。俺は小さく頷いた。
昨日のような失態はしない。
いつものように集中して、いつものように振りかぶり、そしていつものように放った。
自画自賛するほど最高の一球。さすが俺、一日でしっかりと修正してきたぜ。相手はセーフティバントを試みてきた。
しかし球威に押され、打球はピッチャー……俺の正面。
マウンドを駆け下り、打球へと向かう。
完璧に相手のバントミスだ。昨日の最終回を見て、俺の弱点はフィールディングと判断して狙ったつもりだろうが、まずはバントの練習からやり直してこい!
こんなクソバント、簡単に処理できる!
俺はボールを掴み、素早く送球体勢に……。
「うっ……」
瞬間、ぞわりと背筋に冷水をかけられたように寒気が走った。
バキバキと体が石になっていくような錯覚を覚えた。指先が凍っていく。感覚が消失する。ファーストベースまでの距離が遠のいていくような幻覚すら見えた。
「……っぐ!」
まただ。
また脳裏にあの日のミスがフラッシュバックし、体が一瞬にして力んだ。
だけど、こんなクソバントで出塁を許したら、相手に舐められる。
俺は強引に体を動かし、ファーストへスローイングする。
だがボールは山なりの軌道を描き、ファーストを守る大輔の頭上へ。大輔はジャンピングキャッチをするも、バッターランナーはすでに一塁ベースを踏んでいた。
「嘘だろ……」
俺は思わず自分の左手を見た。
まただ。またこれだ。おいおい、勘弁してくれよ……。
「ヘイヘイ! ピッチャー狙い目!」
「次も行けるよ!」
相手ベンチからの野次。
震えが始まった。またこれだよ。本当になんなんだ……!
左手を握り締める。唇を噛み締め、悔しさにこらえる。
ミスするなんて最低すぎるぞ俺。しかも過去のトラウマが原因のミスなんて、エース失格だ。
エースはチームの責任を背負って投げる者。チームを勝利に導く者だ。
そんな俺がこんなミスをしてどうする。
チーム全員の責任背負ってるんだぞ。情けない……。
息を吐いて、マウンドへと一歩、一歩と上がる。
これ以上ミスできない。俺がミスしたらチームは負ける。
山田高校が、ここまできたのも俺のおかげだ。だから、俺が崩れるわけにはいかない。
何のためにマウンドにいる? 何のために俺はエースを務めている?
生まれた時から才能に恵まれていた。家柄に恵まれていた。
そんな俺をリトルリーグの監督は、中学校の監督は認めてくれた。一番に努力させるべき存在だと判断してくれた。だからこそ厳しく鍛えられた。
俺だって一番である自負はあったし、それだけの覚悟を持っていたはずだ。
それが、今はどうだ? たった一度のミスにうなされ、悪夢のような状態に陥っている。
情けない。不甲斐ない。エースとしての責務も、天才としての責任も果たせていないじゃないか。
しっかりしろ。今は崩れる場面じゃない。
俺を怪物にすると言ってくれた佐和ちゃんの言葉を忘れたのか?
こんなところで崩れてしまったら、怪物になんかなれないぞ。
続く二番バッターもセーフティバント。完璧に俺が狙われている。
それを分かっていても、体は強張り言う事を聞かない。
急いで打球を処理しても、体の強張りと緊張は増すばかり、腕を振ってもボールは変な方向へと転がっていく。
ノーアウト一二塁。どちらも俺のエラーからの出塁。
ふざけるな。クソすぎるぞ俺。
一度相手ベンチを睨む。
ベンチに座っている監督であろう老将は、口元に手を当てている。
だが、確かにしたたかに笑っているのを目視できた。
「あの野郎……」
はなっから俺狙いかよ。ナメた真似してくれるな。
だが賢い。崩せる場所から崩していくのは戦の常套手段だ。山田高校で一番崩しやすいのが俺だと判断されたのは屈辱だがな。
なんとか鼻を明かしてやりたい。あのニヤけ顔をギャフンと言わせてやりたい。
悔しさはあるし、屈辱感もすさまじい。見返してやりたいという思いはある。だけれど、体は言うことをきかない。
なんとか立ち直りたいと思っていても、体の震えは、体のこわばりは治まってくれない。
悔しさと自身への嫌悪だけが増すばかり。
続く三番バッターをフォアボールにしてしまったところで、哲也がタイムをかけた。
マウンドには内野手全員が集まる。
「英雄! 大丈夫?」
哲也の第一声。
こいつには絶対弱い自分を見せたくない。
ずっと天才だと吹聴し、ずっと俺の過酷な研鑽を見てきたこいつにだけは、絶対に……。
「大丈夫だ。ってかどうした? こんな集めて」
「だって……英雄が……」
哲也が何かを言いかけたところで、俺が睨みつけた。
それを見て哲也は黙る。
「俺がどうした? なんだ? もしかして俺がビビってると思ってんのか?」
口元を無理に笑わせながら虚勢を張る。
こんな惨めな俺をこいつらに見せるわけには行かない。
俺はここまでチームを連れてきたんだ。その俺が崩れるわけにはいかないんだ。
「哲也、俺が極度のピンチフェチだって知ってんだろう? だから安心しろ。ここから巻き返してやる」
無理に口角をあげて大口をたたく。
それを見て、哲也は一度ベンチに視線を向けた。
ベンチから走ってくるのはテニス部主将の前田。伝令のようだ。
「佐和先生からの伝言」
ベンチにやってきた前田がそう告げた。
「5失点まで許すだって、それまでに立ち直れとも……」
前田が遠慮がちに伝える。
その伝言を聞いて、俺はベンチを睨みつけた。
佐和ちゃんは腕を組んで大あくびを掻いている。だが、あの人は俺の現状を把握しているらしい。相変わらず勘が良いおっちゃんだな。
「前田、佐和ちゃんに伝えろ。余計なお世話だってな」
そう無理して不敵に笑いながら、前田に伝言を任せる。
「英雄、あまり無理するなよ」
マウンドに集まった選手たちが各ポジションに戻る中、大輔が最後にそう言ってからファーストへと戻っていく。
無理するな? 何を言ってるんだ大輔? 俺はいつだって無理してきた。溢れ出る才気に期待されて生きてきた俺は、無理をしながら生きてきた。そしてその全てを乗り越えてきた。
今更無理するなと言われて止まるつもりはない。いくらだって無理はしてやる。その末に乗り越えて「やっぱり俺は天才だ」と豪語してやる。
エースは無理してナンボだ。何のために最小の正の整数である1番を背中につけている? それはチーム全員の責任を背負う立場だからだ。
誰よりも無理して、誰よりも苦難を乗り越え、誰よりもチームを勝利に導く立場だからだ。
ここで無理しなくて、いつ無理するってんだよって話だよ。
自分を奮い立たせる。これまでの経験を胸の内で数える。「だから大丈夫」だと震える声で呟いた。
四番が打席へと入る。
俺は依然、集中できず、意識がまとまらない。先ほどに比べたら少しはマシになったとはいえ、それでもまともに投げれる状態ではない。
それでもマウンドから降りるつもりはない。なんとかしてこの状況から立ち直らなければ。佐和ちゃんは俺に期待しているんだ。怪物ならここを一人で乗り越えると。
見てろ佐和ちゃん、俺はあんたのいう怪物だってのを証明してやる。
クイックモーションからストレートを放つ。
ボールはストライクゾーンから外れてボール。
まだだ。
二球目、今度も外れてボール。
もっと気合を入れろ。集中しろ。
三球目、今度はホームベース手前でワンバウンドするボール球。
こんなんじゃダメだ。こんなんじゃ……怪物にもなれやしない。
四球目。腕を振るう。
投じた瞬間から分かるボール球。俺は投げ終えた状態で苦い表情を浮かべた。
四連続ボール。
四番バッターは悠々と一塁へと走って行き、三塁ランナーがホームインする。
押し出しによる先制点。
深く息を吐く。もっと集中しろ。もっと神経を研ぎ澄ませろ。
哲也からの返球を受け取る。
こんなんじゃ怪物はおろか、天才ですらない。ただの凡人だ。
何のために大口を叩いてきた? 何のために強気な発言をしてきた? こんな風に終わらないためだろう?
立ち直れ俺、天才だったら、ここを乗り越えてみろ……!
自分自身に向かって叱咤激励し、鼓舞する。
五番バッターが打席へと入る。
依然ノーアウト満塁。なんとしても一つアウトが欲しい。
一個のアウトで気持ちの切り替えができると思う。
あーちくしょう、どんなに集中しようとしても集中できない。
それどころか、いつもどうやって投げているのかすら浮かんでこない。
意識が散漫としていて、哲也のミットが普段よりも遠く感じる。
一球目、ボール。
二球目、ボール。
三球目、ボール。
四球目……
「ボール! フォア!」
審判の判定に相手ベンチが沸いた。
俺は深く息を吐いて空を仰ぐ。
「へいへいピッチャービビってるー!」
「いくらでも点とれるよー!」
相手の野次がうるさい。
普段の俺なら、こんな野次すら耳に入らないぐらい集中しているというのに……。
これで2点目。
息を吐く。早くどうにかしてくれ。
ラッキーなアウトでもいいから、早く終わってくれ。
バッターは六番。左打席に入りバットを構えている。
ニヤニヤと口元をほころばせている。
笑うな。笑うな……。
哲也のサインを理解できないぐらいに、俺の頭の中は真っ白になっていた。
何も考えられず、ぼんやりとしている。
それでも投げなくちゃいけない。バラバラになった意識を研ぎ澄ませて集中する。
クイックから、左腕を振るう。
瞬間、指先に失投したときの感覚が走った。
ボールはあらぬ方向へと飛んでいき、そしてバッターに当たった。
デッドボール。これで3点目。
これで四人連続四死球。さすがに哲也がタイムをかける。
マウンドには哲也だけがやってきた。
「英雄、本当に大丈夫?」
「心配性だな哲也。大丈夫だ。任せろ。もうこれ以上、相手に得点はやらせない」
虚勢を張っている。
大丈夫じゃないのに、今すぐマウンドから逃げたいのに、なんで虚勢を張る?
そんなの、哲也に弱いところを見せたくないだけだ。
「だけど……」
「5失点までは許すって佐和ちゃんが言ったんだぜ? 大盤振る舞いすぎるだろう? せっかくそこまで言ってくれたんだ。1点2点ぐらいくれたってかまいやしないだろう」
普段ならこんなことは言わない。
相手に1点でもくれてやるなんて俺の主義に反する。
そんなこと哲也も分かっているはずだ。だからこの言葉が強がりなのは相手もすぐに分かっただろう。
「英雄……」
「戻れ哲也」
これ以上はなにも言わせない。一言、俺は強い口調で言って哲也を睨みつけた。
哲也は何も言い返すことなく、ベンチへと戻っていく。
バッターは七番。右打席で構えている。
もういい加減、ボールばっかなのもつまらなさすぎる。
エースらしく、ここらで断ち切ってやるぜ。
「……はは」
なんて軽口叩いたけど、全然集中できてねぇや。
いつもの闘争心がない。いつもの感覚が無い。いつもの……。
一球目、ボールになり、二球目もボールになった。
三球目外れて、カウントはスリーボールノーストライク。
一度プレートから足を離し、ロジンバックを掴んだ。
いい加減ストライク入れてくんねぇかな。マジで観客も見てて飽きるだろう。
「……くそっ!」
ロジンバックを握り潰す。白い煙が、俺の左手の周りを舞う。
たかがバントだけで、ここまで動揺してしまう自分が悔しい。
そして再びプレートを踏む。哲也のサインは、もう見えない。
とにかくストライクを入れよう。そうじゃなきゃゲームすら作れない。
俺は乱れる呼吸のまま、哲也のミットへと投じる。
「あ……」
投げた瞬間、ボールがど真ん中へ向かったと察した。しかも力のこもってねぇクソみたいな棒球だ。
瞬間、相手バッターは豪快に振りぬいた。
快音が脳内で木霊する。
マウンドで空を見上げる。
打球は勢いよく飛んでいき、その勢いを落とすことなく、レフトフェンスを越して、そのままスタンドに飛び込んだ。
満塁ホームラン。
スコアボードは「3」から「7」へと数字が入れ替わる。
天を仰ぐ。気持ちがプツリと切れてしまったのを感じた。
あー、これもうダメだわ。
マウンドに駆け寄ってくる内野陣。
≪山田高校、選手の交代と守備の交代をお知らせします。ピッチャー佐倉君に代わりまして中村君がレフトに入り、レフト龍ヶ崎君がライトに入り、ライト榛名君がピッチャーに入ります……≫
場内アナウンスがそう告げる。
ベンチから中村が飛び出し、ライトの亮輔がマウンドへと走ってくる。
そうして佐和ちゃんは俺を見て、戻って来いと合図する。
……悔しい。
ただただその感情に埋め尽くされ、俺は天を仰いだ視線を地面に落として、小走りでベンチへと向かった。
この後、俺はベンチでずっと試合を見守ることとなった。
佐和ちゃんは俺に何も言わなかった。ベンチいる奴らも誰ひとりとして俺に声をかけようとしなかった。
岡倉は心配してたようだったが佐和ちゃんに止められていた。こればっかりは佐和ちゃんに感謝だ。今の俺が岡倉のふざけた言葉を聞いたら手が出ていたかもしれない。それぐらい、今の俺は精神的に限界を迎えていた。
哲也も攻撃の合間に声をかけようとしていたが、それを止めたのは恭平。あいつなりの配慮なのだろうか。
恭平にまで気を遣われるとか、俺ダメダメだな。
試合はその後、二番手亮輔が五回まで投げて1失点。
六回からはスタミナが切れた亮輔に代わり、龍ヶ崎がマウンドに上がるも4失点し、結果は12対5で七回コールド負けを喫した。
打撃では龍ヶ崎、大輔がホームランを放つも、結局敗北。
新チームの連勝は4でストップしたという事だ。
なにより、俺にしてみれば高校初黒星となる。それも俺の責任で負けた。
その事実が、俺に大きくのしかかるのであった。




