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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
7章 怪物の休日
318/324

317話

 「梓……」

 「……友達と遊ぶんじゃなかったの?」

 いぶかしげに俺を見てくる梓。そうだよな、やっぱりそうなるよな。

 朝吐いた逃げる為の嘘がしっぺ返しのように俺に突き刺さる。


 「あー…えっと、別の用事ができたらしくて…」

 なんとも情けない嘘を口にしているんだ俺は。

 もう彼女に視線を向けられない。情けないほどに視線は泳ぐ。こんな自分の姿、見たくなどなかった。


 「そっか! じゃあ一緒に帰ろう!」

 だけど、俺の丸わかりの嘘を追及する事も呆れる事もなく彼女は優しい笑顔を浮かべる。

 その笑顔が余計に俺の心を苦しめるし、裏があるのではないかと勘繰ってしまう。

 自然と俺の表情は曇っていく。


 「いや、ごめん……この後別の奴と用事があるから……」

 逃げるな馬鹿野郎。

 今の自分の情けなさに自己嫌悪してきた。


 「それじゃあ、少しだけでも一緒に歩かない? 英雄君、傘無いんでしょ?」

 とことんまで情けなくてダメダメな俺に梓は優しく語りかける。

 彼女の表情を見る。相変わらず優しい笑顔を浮かべていて、その笑顔を一秒と見る事はできなかった。

 ……今の俺に彼女の笑顔を見る資格なんてない。



 雨は依然強い。傘に当たる雨の音は強く、隣同士歩く梓の声も普段より聞き取りづらい。


 「そういえば英雄君とこうして相合傘するの初めてだね」

 「……そういえばそうだったな」

 どこか楽しげに、そしてどこか無理しているような梓の明るい声に対し、俺の声はどんよりと沈んでいる。

 まるでこの空を覆う雲のようで、一向に晴れる気がしない。


 「プロ野球はどう? 楽しい?」

 「え? あぁまぁ…それなりには…」

 いきなり返しづらい質問をされた。

 彼女の連絡を無視してまでこなしていた野球。正直この話題には触れてほしくなかった。


 「そっか、そうだよね。英雄君は野球が一番だもんね」

 まるで俺を責めるような言い方に俺は口元を歪ませた。

 先ほどまでの彼女の様子を見て緩んでいた緊張が再び張っていく。そうだよな、やっぱり怒ってるよな。


 「…ごめん梓。連絡とか…その、無視して」

 「ううん、気にしてないから大丈夫」

 優しい梓の声。彼女の表情を確認する。横顔からは憤りや悲哀は感じない。いつものような優しい微笑みを浮かべている。

 その優しさが逆に俺を苦しめる。いっそのこと怒鳴ってほしかった。涙を流してほしかった。俺を罵倒してくれれば、俺だって猛省して彼女に何度も何度も謝罪を重ねた事だろう。

 だが彼女の今の一言で、俺は俺の気持ちが晴れるほどの謝罪が出来ない。それが凄く…気分が曇っていく。



 気まずい空気が二人の間を流れていく。

 言わなきゃいけない謝罪の言葉がたくさんあるのに口からは出てこない。いや、搾り出したところでこれ以上の謝罪の言葉は彼女の気分を害するだけのものになるかもしれない。

 でも、やっぱりもう少し謝罪を重ねるべきか? 自身の気分を晴らす為に多くの言葉を投げるべきか?


 ……あぁ、まったく読めない。どうすれば彼女は喜ぶ? どうしたら彼女は許してくれる? いや、ここで喜んで許してもらった所で、卒業式を迎えた後はまた俺は彼女を悲しませ怒らせることになるだろう。

 俺は……君のそばにいられるほど出来た男じゃない。

 君を幸せにすることは出来ない。


 「梓、その……まだ、俺の事が好きか?」

 「なにその質問?」

 「いや、広島に行ってる間、ずっと君の連絡を無視してたから、怒ってるじゃないかとか…失望してるんじゃないかとか…悲しんでるんじゃないか…とか思ったから」

 読めない、分からないなら聞くしかない。


 「私はまだ英雄君の事が好きだよ」

 俺が予想していない答えが彼女の口からこぼれた。

 思わず目を見開き彼女を見る。傘の中棒を挟んだ向こうに見える彼女の表情は穏やかな笑みを浮かべていた。

 本当に? 本当にまだ好きなのか? 彼女の表情から偽りは感じない。だとしたら本当に、まだ俺の事が好きなのか?


 「英雄君は? 英雄君は私の事まだ好き?」

 今度は彼女が同じ質問をしてきた。

 そんなの決まっている。


 「当たり前だろう。…いや、広島にいるときは連絡を無視したけど、好きだって気持ちは変わらない。これは本当だ」

 言葉を重ねれば言い訳くさくなるのは分かっていても、矢継ぎ早に言葉がこぼれていく。

 そんな言い訳のような俺の答えを聞いても、彼女の表情は崩れない。


 「良かった」

 優しい声。その声に俺の荒れた心が穏やかになっていく。 


 「あのね英雄君」

 「なんだ?」

 彼女の答えに気分を良くした俺は少し浮いた声で応対する。


 「私たち、別れよう」

 そして彼女のこの言葉を聞いた瞬間、俺の中に生まれていた浮いた感情は一気に霧散し、頭は真っ白になった。



 「……は?」

 数秒の沈黙ののち、俺の口からはそんな言葉がこぼれた。

 え? 何を言ってるんだ? 何を……いや、今俺達好き同士だって再確認したところじゃん?

 彼女を見る。先ほどまでの穏やかな笑みはない。どこか悲しそうに暗い表情を浮かべている。


 「英雄君、私気づいたの」

 俺の返答を待たずして彼女は口を開き語り始める。

 頭が真っ白なままの俺は、その彼女の言葉をただ聞くしかできない。


 「初めて英雄君を見た時、英雄君への想いを募らせた時、今こうして思い返して浮かぶ英雄君の姿は、どれもこれも野球をしている時の英雄君だったの」

 傘に当たる雨の音が大きくなった気がする。その耳障りな音に混じって、彼女の穏やかな声が耳に入ってくる。


 「私が恋した英雄君は、誰よりも野球に一生懸命で、誰よりも野球の事だけ考えてて、野球に一筋……そんな男の子だった」

 彼女の表情が変わった。哀しみを帯びた顔から決意した時に魅せる表情へと。


 「私は英雄君にとって余分な存在なんだって気づいたの。このまま付き合ってても英雄君を苦しめるだけなら、いっそ」

 「待ってくれ!」

 やっと声が出た。焦燥感から早口に叫ぶような大声。

 心臓が嫌なほどに早く動いている。春先の寒さを感じさせないほどに汗が流れ出る。


 「俺は、お前のことを余分な存在なんて思った事はない!」

 「なら、なんで電話に出てくれなかったの?」

 冷たい彼女の声。情けなく大口を開けた状態で硬直する。


 余分な存在なんて思った事はない。

 そんな嘘を吐くなんて俺は最低だ。広島にいる時、沖縄で春季キャンプをしている時、何度彼女の連絡を面倒くさいと感じた、何度煩わしいものだと思った?

 そうだ、彼女の言う通りだ。梓という存在は余分だ。今の俺は、ただ野球というスポーツに身を投じたいと思っていただろう?

 自問自答を繰り返す中で、彼女は優しい笑みを浮かべた。


 「私は、野球に一生懸命な英雄君を見ていたい。これからも応援していたい。だから別れましょう」

 「梓……」

 かろうじて搾り出た彼女の名前。

 優しくニッコリと笑う彼女の目から一筋の涙がこぼれた。


 「別れようなんて言うな。もう少し考えてくれ」

 そう言葉が出せるならよかった。

 きゅっとしまった喉を動かしてなんとか搾り出そうとして、志村さんの言葉が脳裏をよぎった。


 ――佐倉は野球と同等に……いや、野球よりもその子に意識を向けられる?


 口からは吐息だけが漏れて言葉が出なかった。


 「どうか…これからも…私の好きだった英雄君でいてください…」

 鼻声混じり彼女の最後の言葉は絞り出したかのような掠れた声。

 それを言い終えたのち、彼女は独り雨の中を走っていく。

 引き留める言葉も、追いかける気力も沸かなかった。

 傘を握りしめた左腕のだらりと下ろす。春の冷たい雨が俺の身体へと当たり濡らしていく。



 地面に当たる雨の音はノイズのように俺の心音すらもかき消す。

 なにをやっているんだ俺は? この結末を俺は望んでいただろう? 何度梓と別れたいと思った? 何度梓から離れたいと望んだ?

 やっと、俺の願いは実現しただろう? もう何も苦しむことはない。何も悩むことはない。これでやっと野球に打ち込める。野球だけにのめり込んでいける。



 雨の中立ち尽くしてどれほど経っただろうか?


 「は、はは…」 

 ふと乾いた笑いが口からこぼれた。

 やっと別れることができたと無理に喜ぼうとしたのに、まったく嬉しくない。

 むしろなんだ? なんだこの……虚無感は?


 「あーくっそ」

 これなら別れないほうがまだマシだった。

 嫌な虚無感、まったくやる気が起きない。


 こうなった時、どうすれば良いのかを俺は知っている。

 嫌な事、苦しい事、辛い事があったときは誰かに話す。自分で抱え込むより吐き出した方が楽だ。

 雨の中、俺は携帯電話を取り出した。そして連絡先から一人の人物へと電話をかける。


 「もしもし俺だけど、今暇? いや暇だろ? ちょっと付き合え。今からいつものレストラン集合な。あ? 無理? いやそこを何とか頼む。俺の一生に一度の願いだ。……あぁありがとう。それじゃあ」

 電話の向こうの男に感謝を告げて通話を切る。

 持つべきものは友。こういう時は男友達にさっさと吐き出しちまったほうが気が楽だ。

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