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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
7章 怪物の休日
314/324

313話

 2月11日。

 先日、山田市にも雪が積もった。

 と言っても道路に積もる事はなく、屋根や草木をうっすら白くさせる程度だったが。

 隣町に住む僕、野上哲也の家の屋根にもうっすらとだが雪が積もっていた。だがそれも翌日の昼には溶けきっていて、わずかばかり興奮した程度だったが。

 それでも季節は確実に進んでいるのだと感じる。季節は進み、気づけば今日は酒敷美大の合格発表日となっていた。


 列車に乗って酒敷市まで向かう。

 車内から見える空ははどんよりとした曇り空。予報では夕方から雪予報。今回の雪は路面にも数センチ積もるかもしれないと言われるぐらいには降るらしい。

 視線を車内からクロスシートの向かい席に座る沙希へと向ける。椅子に座っている彼女はそわそわとしていて、どこか挙動不審だ。これから合否を見に行く。気が気じゃないだろう。

 そんな彼女が愛おしくて、頬を緩ませた。


 「なんか、今日の列車遅くない?」

 「そうかな。いつも通りだと思うけど」

 沙希の言葉に僕は思わず苦笑い。気が急いているせいで列車のスピードすらも遅く感じるのだろう。


 「そんなに早く結果が見たいなら、インターネットで済ませればよかったのに」

 「それ、何度も言ったけど、自分の目で確認したいの」

 そうして彼女は渋い表情。

 うん、これは何度目かの質問だった。どうやら僕も緊張しているようだ。

 ちなみに僕の合格はすでに決まっている。だから今日は沙希の付き添いだ。


 沙希は合格しているのだろうか? いや、合格していないと困る。

 じゃなきゃ、わざわざ美大を選んだ意味が無くなってしまう。僕が酒敷美大を選んだのだって九分九厘、彼女と同じ学校に行きたいがためだ。

 だからこそ彼女には合格してほしい。でも……。


 「もし、不合格だったら……」

 弱気な発言をしてしまう。こればかりはどんなに頑張っても直せない僕の性分なのだろう。


 「不合格ならそれはそれで……。すっぱり絵を諦められるから」

 彼女の落ち着いた声が聞こえた。

 視線を彼女へと向ける。車窓のほうへと首を向ける彼女の横顔は微笑んでいた。先ほどまで空を覆っていた厚い雲の切れ間から太陽光が差し込み、彼女の顔を照らしている。


 絵画のような景色だと無意識に思っていた。

 僕はまた一つ、彼女に恋した理由が出来た気がした。



 酒敷美術大学に着いた。合格発表の張り紙がされている広場へと向かう。

 沙希は緊張した面持ちで僕の隣を歩く。先程車内の中で見せた微笑みはない。


 彼女にしてみれば今まで頑張ってきた結果が突きつけられる。きっと今日は、彼女にとって人生の岐路なのだと思う。

 そこに僕は立ち会う。出来る事なら僕は彼女の笑顔が見たい。



 広場へと到着すると人だかりが出来ていた。

 かなりの人だかりだが、インターネットが普及する前はもっといたと考えると、この程度優しく思える。


 僕と沙希も人々の間を割って入り、張り紙の前へと向かう。

 張り紙の前に来ると、沙希は手にもつ受験番号と張り紙を交互に見比べながら、自身の受験番号をぶつぶつと呟く。

 おかげで、僕も沙希の受験番号を知り一緒に探す。



 「…あった」

 そうして最初に受験番号を見つけたのは沙希本人だった。

 一度、彼女の顔を見て、彼女の視線の先へと顔を動かす。

 確かにそこには、彼女の受験番号があった。


 「沙希! おめでとう!」

 僕は沙希の背中を軽く叩きながら、笑顔で褒めた。

 沙希は目を見開き、ずっと張り紙に書かれた自身の受験番号を見つめる。


 そうして鼻をすすり始めた所で、口元に手を当てた。

 その数秒後、目から雫がこぼれた。


 「やった……やったよ……」 

 涙を流しながら沙希は自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。

 感極まって泣く彼女の表情を見て、僕は愛おしいと感じた。


 前よりも僕は沙希の事が好きになっている。

 何気ない表情一つ一つを愛おしいと感じるようになった。彼女の一挙手一投足に目を離せなくなった。

 そんな彼女とこれからも同じ学校に通える。 新しい日々が始まり、新しい挑戦が始まり、新しい環境が始まっても、彼女がそばにいてくれる。それはきっとどこにいる誰よりも幸福な事なんだと思う。

 うん、決めた。大学在学中にやりたい目標が出来た。



 酒敷美大の最寄り駅へと向かう帰り道。

 彼女はさっきからニコニコと笑っている。かといって何か話すわけでもない。

 幸福感に満たされた沈黙。

 そんな中で僕は意を決して口にした。


 「沙希」

 「なに哲也?」

 彼女の声はどこか楽しげで浮ついている。

 その声を耳にするだけで僕まで気分が高揚しそうだ。


 「僕決めた事があるんだけどさ……大学にいる間に沙希に伝えたいことがあるんだ」

 「うん? 今言えない事?」

 「うん、まだ……口にはできない」

 そして僕は苦笑い。まだ今の僕にはこの言葉を口にする自信はない。

 そんな僕を見て沙希は不思議そうに首を傾げた後、ニコッと笑顔を浮かべた。


 「じゃあ待ってる。英雄が言いそうな胸キュン台詞期待してるから」

 普段の沙希では言わなさそうなセリフが彼女の口から出た。

 僕は呆気にとられたあと、口元を緩ませた。


 「前向きに頑張るよ」

 英雄ならここで胸キュン台詞を吐いていたのかもしれない。

 でも僕にはそんな事出来ない。でもそれでいいんだ。

 僕は、僕のやり方で彼女と付き合っていけばいいんだから。


 そうだろう? 英雄?


 「そういえば英雄に後で連絡しないとだね」

 「そうだね。そういえば英雄、今日から対外試合だっけ? プロで通用するのかな英雄は」

 「通用するでしょ。だって英雄だから」

 何気ない会話をしながら僕と沙希は並んで歩く。

 重たい雲の切れ間から再び太陽光が降り注ぎ、僕と彼女の周囲を照らした。



 2月11日。沖縄県沖縄市。

 市内にある運動公園内の市営球場ではシャークス今季最初の対外試合がおこなわれていた。

 広島シャークスと名古屋ダイナソーズの練習試合である。

 ダイナソーズといえば、楠木と山田高校最初のプロ野球選手池宗さんの所属チーム。ただ池宗さんは今日出場しておらずベンチの奥で暇そうに試合観戦をしている。

 楠木も今日は登板していない。向こうのブルペンの様子を見るに今日は登板することはないだろう。

 現在試合は五回の裏、シャークスの攻撃中。俺は次の回から登板する。


 「いやはや、まさか岩田(いわた)さんがキャッチャーしてくれるなんて、なんと言えばいいのやら」

 「ははは、緊張するなルーキー。お前の実力なら十分通用するさ」

 隣に座るのは岩田幸哉(いわたゆきや)さん。今年で35歳。

 ここ十数年、シャークスで正捕手を任され続けているベテランキャッチャーだ。

 二年前に行われた世界大会では日本代表にも選出されているし、その年に鵜城さんが沢村賞を獲得しており、最優秀バッテリー賞も受賞している。

 そんな御仁と早々にバッテリーを組めるなんてな。


 「それにしても、まさか初戦で岩田さんが出場するなんて」

 練習試合初戦だし、レギュラー格よりもレギュラー半ぐらいの選手たちを出すものかと思ったのだが。


 「監督に言われたんだよ。ルーキーの実力を測ってこいってな」

 ニヤリと笑う岩田さん。

 その笑みを見て、俺の表情は一瞬固まった後、ニヤリと笑い返す。


 「なるほど、ではしっかりと測定お願いします」

 「あぁ、任せろ」

 実力を測られるか。まぁどっちにせよまだまだ寒い。全力投球は控えて、5割から7割の力で投じていこう。



 六回の表、ダイナソーズの攻撃。

 そしてこの回から俺がマウンドに上がる。

 場内アナウンスが俺の名前を告げると、スタンドにいる観客が歓声が上がった。

 練習試合とはいえ注目の大物ルーキーのプロ初登板。

 そう、俺は岩田さんや監督だけじゃない。ここにいる観客からもその実力を測られているんだ。


 左手を背面に回し、ユニフォームに刻まれた数字を撫でる。


 「さぁ、楽しみますか」

 気負わず背負わず。俺は俺のピッチングをする。

 通用するかしないかは今から分かる事。

 深く考えない。


 息を吐き、意識をスイッチする。

 意識は一瞬で研ぎ澄まされた。さぁピッチングスタートだ。



 ……夜、ホテル。


 「はぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 深いため息をつきながらベッドに横たわる。

 程よい疲労感と確実な充実感。


 結果を言ってしまえば、今日のピッチング内容は申し分なかった。

 2イニング投げて、被安打は0で無四死球、奪三振は4。

 相手選手もまだまだ調整の時期だからこの結果に浮かれるつもりはないが、とりあえず監督、岩田さん、そして観客からは及第点の評価をもらえた。


 数日後の練習試合にも登板が決定。今度は先発登板だ。

 その結果次第ではオープン戦起用も十分見えてくる。



 ふと携帯電話の着信音が室内に響く。

 机に置かれた携帯電話を掴んで、着信相手を確認する。

 どうやら沙希のようだ。


 「もしもし?」

 ≪もしもし、私だけど今大丈夫?≫

 「おー、どうした?」

 電話の向こうからは数週間ぶりに聞いた沙希の声。

 声の調子的に問題はなさそうだ。というか心なしか声が浮いている気がする。


 ≪あのですね。わたくし、この度酒敷美大に合格しました!≫

 もったいぶることなく、彼女は俺に合格発表をした。

 なるほど、どうりで声のトーンが楽しげなのか。

 なんだろう。彼女の嬉しそうな声を聞くと俺まで嬉しくなってくる。思えばここまで彼女の嬉しそうな声を聞いたのは久しいな。


 「マジか。おめでとう」

 電話越しで彼女の合格を祝福する。電話の向こうからは彼女の嬉しそうな声が耳に入る。


 ≪英雄には世話になったから、これだけは伝えておこうと思ってね≫

 「ふふ、そうか。律儀な奴め」

 なんにせよ彼女の合格は俺も嬉しい出来事だ。

 哲也もさぞや狂喜乱舞した事だろう。

 ベッドから起き上がり、窓際へと近づく。窓には室内と俺の姿が鏡のように映し出される。窓に反射する俺の顔は笑顔だった。


 ≪私、頑張るから、英雄も頑張って≫

 「あぁ」

 短いやり取りを終えて通話が切れた。



 みんな、一歩一歩進んでいく。

 季節が確実に進んでいく。新たな季節、新たな環境、新たな挑戦。

 人も物もみな変わっていく。

 そこまで考えたところで頭に梓がよぎった。表情がゆがむ。


 「あーくっそ」

 ここ数日、彼女の事は意識の中から消え去っていたのにな。

 なんとかしなくちゃとは分かっていても、彼女に向ける意識すら惜しい。

 今はとにかく野球に全てを注ぎたい。プロという厳しくそして心を常に昂らせてくれる世界を楽しみたい。

 だから梓の存在は……。


 「…馬鹿が」

 邪魔だと脳裏で言葉を続けようとしたところで、自分に言い聞かせるように悪態ついた。


 深いため息。窓に反射する俺をもう一度見る。 

 先ほどまであった笑顔はとうに消え、苦悶とした表情に変わっていた。

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