305話
俺と英雄の一騎打ちで幕を下ろした球技大会の後、俺は里奈の家に来ていた。
野球部を引退してから毎日のように彼女と遊んでいる気がする。彼女の家にも何度も訪れていた。
里奈の家では、何をするでもなく、壁にぴったりとつけられたベッドに座り、壁にもたれながら並んで座り、里奈は読書をしていて、俺はボーっとしていたり、会話をしていたりする。
ゆっくりと流れる時間。この時間が俺は特に好きだった。
今日もいつものように並んで座りながら、里奈の手元から一定間隔に鳴るページをめくる音を聞きながら、今日の球技大会での英雄との勝負を思い出した。
今思い出しても魂が震えるのを感じる。
あの勝負は、これまで全ての勝負の中で一番興奮したし心震えた。
そして思い出した。好投手を打ち砕いた時の興奮と快感。打球がホームランとなった時の喜び。あの夏、ずっと感じ続けていた昂ぶり。
俺は、あの興奮と快感と感動に満ち溢れた世界から今手を引こうとしている。ずっと目を逸らしていたこの事実を今突きつけられて、心が揺り動いていた。
英雄よりも凄い奴らがプロ野球という場所でいる。
そんな凄い奴らと戦うチャンスが俺にはある。なのに俺は今手を引こうとしている。
きっとスリルもない、興奮もない、ちょっとばかしの快感と感動しかない平々凡々な日々へと身を投じようとしている。
今が人生の転換期なのだとすぐさま直感する。俺はどうするべきなのだろうか……。
……いや、なにを考えているんだ俺は。
少し大げさに首を左右に振るって我に返る。
どうするもこうするもないだろう。俺は里奈と約束した。高校時代は毎日野球ばかりだったから、大学では一緒に学生生活を楽しもうと。
「大輔くん」
「うん?」
本を読んでいた里奈が俺の名前を呼んだ。思わず隣に座る彼女へと視線を向ける。
「本当に野球辞めちゃうの?」
里奈のこの問いは何度目だったか。
俺が野球を辞めると決めてから、定期的に聞いてくる質問だ。そのつど俺は「辞める」と即答していた。
これ以上彼女に迷惑をかけられない。だから未練なんてないように即答してきた。
だけど、今日ばかりは口から「辞める」という言葉が出なかった。
英雄との対決を思い返す。
あの時の興奮が波のように押し寄せ来て、俺の魂を熱く震わせる。
「大輔くん、やっぱり野球は辞めないほうがいいよ」
口を閉じていた俺に彼女が優しく語りかけてきた。
「なに言ってるんだ。大学ではお前と毎日普通の日々を楽しむ。これ以上迷惑をかけられないさ」
俺の本心。
彼女に野球を辞めると告げてから、ずっと決めていたこと。
「大輔くん、そのことなんだけど」
どこか言いづらそうに里奈は一度視線を逸らすと、決意したようにこちらを見てきた。
「私は一度も迷惑だって思ってないから」
「え?」
思ってもいない回答が彼女の口から出てきて、思わず困惑してしまう。
「毎日お弁当作るの楽しかったし、野球で会えない日は寂しかったけど。だけど私は大輔くんの野球する姿が好きだから」
笑顔を浮かべて彼女は俺へと語りかける。
どこまでも優しいその声は、すっと俺の胸へと入っていく。
「でも、寂しかったんだろう。なら…」
「私は大輔くんが野球をやってないほうが寂しい」
里奈は普段めったに出さない大声で俺の言葉をさえぎった。
「私、野球とか詳しくないけど、でも、大輔くんの野球する姿、とっても格好良くて、あの姿がもう見れなくなるのは寂しい」
寂しそうに呟く彼女は、俺を見ると優しく微笑んだ。
「今日の佐倉君との対決を見て改めて思ったの。大輔くんは野球をしている姿が一番格好いいって。だから野球やろう? ……えっと、その……大輔くんの気持ち次第だけど……」
最後の最後で弱気になる里奈の姿が愛おしくて、思わず俺は彼女の頭を撫でていた。
彼女はどこか照れ臭そうに、でも嬉しそうに頬を緩ませる。
胸のうちにあった重たい何かが一気に粉々に壊れたような気がした。
「ありがとう里奈」
彼女の頭を優しく撫でながら、重たい何かと代わるように生まれた目標を口にする。
「決めた。大学で野球やるよ。そんでもってプロって奴を目指してみる」
俺の目標を聞いた里奈は今日一番の笑顔を浮かべて「えへへ」と嬉しそうに笑う。
その笑顔が尊くて、愛おしくて、俺まで頬を緩ませた。
「これからもお前に迷惑をかけると思う」
「大丈夫、私は大輔くんの彼女だから、いくらでも迷惑かけて」
「寂しい思いをさせる時もある」
「それはちょっと困る……かな」
「でも、その分お前を別のタイミングで幸せにする」
「……うん」
彼女とやりとりをしながら、目標は決意へと変わっていく。
「だから里奈、これからも俺を支えてくれ」
「もちろん!」
最後は待っていましたと言わんばかりに彼女は明るく答えた。
この時点で、先ほどまであった野球への消極的な感情は消えうせた。すでに目標は英雄の待つプロ野球界へと目が向いている。
人生の転換期は良いほうか悪いほうか、どちらに傾いたのだろうか? 今の俺には分からない。だけど少なくとも今は良いほうに傾いたと思ってる。
里奈に感謝するように、彼女の肩を抱き優しく抱き寄せる。
そうしてもう一人、感謝をしたい男を思い浮かべる。
佐倉英雄、俺はまたお前と対決したいと思った。
次の対決の舞台はプロ野球だろうか? なんにせよ、彼と対決したい。またあのボールを打ち砕きたい。
あいつは俺がいないとプロ野球は退屈だと言った。良いだろう。なら俺がプロ野球とやらに行って楽しませてやる。
そんな言葉すら浮かぶほどに、俺の将来は明るく見えた。
翌日、学校に登校するなり俺は英雄のもとへと向かった。
英雄は朝っぱら恭平の下ネタ話に辟易しているようで、だけどどこか呆れ笑いを浮かべていて、昨日の真剣勝負が嘘だったかのように気の抜けた顔をしている。
「おはよう英雄、恭平」
俺が一つ挨拶をすると英雄と恭平は少し驚いたような顔を浮かべてから笑顔で挨拶をしてくれた。
「おはよう大輔。珍しいな。朝っぱらから俺らのところに来るなんて」
「なんだ大輔? 俺の性なる絶技の教えをこいたいのか? しょうがねぇな。親友の頼みだ。俺の絶技をだな」
「恭平、お前それ千春の前で言ってたらマジで覚悟しとけよ」
英雄と恭平のやりとりを聞いているだけで頬が緩んでしまう。
高校三年間、誰よりも同じ時間を過ごした親友。
「それで大輔、なにようだ? まさか本当に恭平に教えをこうつもりじゃないだろう?」
話題を戻した英雄は俺へと聞いてくる。
「あぁ。うん、英雄、昨日はありがとう。色々と考えたんだけどさ」
一つためを作る。次に出る言葉だけはしっかりと伝えたい。噛まないように早口にならないように、しっかりと言葉にする。
「俺、大学で野球をやる事にした。そんでもってプロ野球って奴を目指してみる」
俺の回答。英雄と恭平はキョトンとした顔を浮かべた後、互いに顔を見合わせ……ほぼ同時に相手頬を力強くつねった。
「ってぇな! 何すんだよ英雄!」
「てめぇのこそ痛ぇぞ! 夢かどうか確認するならてめぇの頬をつねろや!」
「それはこっちのセリフだ!」
相変わらず騒がしく口論する二人を見て俺は思わず「ふふっ」と小さく笑い声をあげてしまった。
「っつうか、大輔それマジか? 冗談じゃねぇよな?」
「冗談じゃねぇよ。本気だ。本気でプロってのを目指すよ。英雄が退屈しないようにな」
そういって俺は不敵に笑って見せると、英雄は再びキョトンとした顔を浮かべた後、一気に破顔を浮かべて大笑いをした。
「わはははは! そうか、そうか! そりゃ最高だ! 大輔、その言葉を待ってた!」
そういって右手を差し出す英雄。
俺はそれに応じるように彼の手を握りしめる。
「ちなみに心変わりは誰のおかげか? もちろん、俺との一騎打ちだよな?」
「それもあるけど、やっぱり里奈だ。あいつと話して決めた」
「マジかぁ……お前の闘志に火をつけるためにあんだけ頑張って投げたんだけどなぁ、やっぱり最後は彼女さんかよ」
「安心しろ。お前のおかげで俺の魂は十分火がついたよ」
お互い笑顔を浮かべながら軽い調子でやりとりをかわす。
「いやはや、やっぱり俺の予想通りになったな。さすが俺だ」
「恭平お前、前に大輔の好きにさせるって言ってなかったか?」
「なにをいうか! 俺はずっと前から大輔に野球を続けてほしかったさ!」
冗談交じりの恭平の言葉に呆れ笑いの英雄と笑顔の俺。
あぁこいつらの前でこんな自然な笑顔を浮かべたのは懐かしいな。野球を辞めると決めてから、こいつらの前で自然に笑顔を浮かべられなかったからな。
なんだろうか、俺の胸の内にあったわだかりがスッと消えていく。
窓から見える青空は昨日までよりも明るく美しく見えて、それはまるで俺の未来のようで、凄く綺麗だった。




