303話
打席でゆっくりとバットを構える大輔。その姿を見て緩み切った頬はさらに緩んだ。
ジリジリと皮膚に感じる痛みは、大輔が発する威圧感のせいなのか俺には分からない。だが、これだけは言える。
大輔は今まで戦ってきたバッターの中で一番恐い。
どのコースに投げても打ちそうなイメージがある。
おそらく大輔と長く同じチームにいて、彼のバッティングに救われてきたせいもあると思うが、それでも大輔ほど恐いバッティングを見たことが無い。
だからこそ楽しい。俺は無類のピンチフェチだ。こういうバッターは対面しただけでも興奮しちまう。
まず一球目。
哲也のサインはアウトコース低めギリギリのストレート。
やはり哲也も警戒しているのだろうか。確かに初球インコースなんて恐怖の沙汰だぜ。
けどよ、大輔相手に弱気が一番いけない。
俺は首を左右に振った。
一度哲也はマスク越しからでも分かるほど、驚いた表情を浮かべたが、すぐさまニヤリと笑うと、インコースへのストレートへとサインは変わった。
いいぞ哲也、10年以上バッテリーを組んできただけある。俺の考えを瞬時に理解したな。
それでこそ俺の相棒だ。お前にだけは、俺のリードを任せられる気がする。
俺は一度頷くと、深呼吸を一つ。身体から空気が抜けていくたびに意識も一つにまとまっていく。すでに観客の姿も見えない、叫び声も聞こえない。見つめるのは一点、哲也の構えるそのミットのみ。
意識がまとまり、感覚が研ぎ澄まされていく。
筋肉のわずかな流動、血液の流れすらも感じ取れているような、それぐらい意識を研ぎ澄ましていく。
そうして直感で、ここだというタイミングで投球動作へと移る。
大きく腕を振りかぶる。
胸の鼓動は落ち着いて、一定のテンポを刻む。
ふと思い出したのは入部テストの時の大輔との対戦。あの時はあいつの威圧感に飲み込まれたが、今の俺は落ち着いていた。
どこを投げても打たれる気がするのに、抑えられる自信に満ち溢れている。
投球動作の全ての箇所に異常なし、指先の感覚も正常、肩の状態文句なし、足腰は最初から十全な状態だ。
ならば投じるボールに一切のミスはない。最高の一球をここに投げ込む。
左腕をしならせて、力いっぱい腕を振り下ろしボールを投擲した。
矢となった白球が大輔のふところを貫いた。
大輔は反応する事が出来ず、あろうことか体を少し反らせていた。
「ストライク!!」
だが判定はストライクだ。大輔は一度、球審の佐和ちゃんを見てから、こちらを見つめる。
判定など些末な事と大輔は判断したのだろう。大輔の顔は笑っている。きっと、今の俺との戦いを楽しんでいるのだろう。
俺だって、大輔との戦いを楽しんでいる。油断したら口元がほころんでしまいそうだ。
二球目。
ボールからストライクへと入っていくアウトコースへのスライダー。
俺は素直に頷き、緊張しないように気を付けながら息を吐く。油断するとつい力んでしまう。それぐらいこの勝負にかける思いが強いともいえる。
ただの勝利じゃダメなんだ。
プロ入りする以上、三振以外の結果は敗北。さらにそのうえで、大輔の野球への熱を再燃させるようなピッチングじゃないといけない。
ただ抑えるだけなら簡単さ。インコースにカットボールを投げ込む。金属バットならまだしも、木製バットなら詰まらせられる自信がある。いくら大輔の怪力でも内野ゴロないしはフライ、最悪外野フライに打ち取れるだろう。
でもそれじゃダメなんだよ。
納得いく勝ち方をしたいし、負けるにしても納得できる負け方をしたい。
意識を研ぎ澄まし、投球動作へと移る。
大輔の視線が先ほどよりも鋭くなった気がする。大輔の視線を、大輔の表情を、そして大輔の構えを見るたびに背筋をゾクゾクと寒気が走る。
まったく、バット構えてる姿見るだけで楽しいとか、やべぇだろお前。マジで高校で野球を辞める選手じゃねぇよ。
考え直せ! 大輔!
そんな思いを乗せて、俺はボールを投じる。
打者の手元で鋭くそして大きく斜めに曲がる俺のスライダーは、哲也曰く高速スライダーらしい。
放たれた球は、ボールゾーンからギュッと曲がり、ストライクゾーンへと入っていく。
それを大輔はためらいもなく鋭いスイングで打ち返した。
木製バットの小気味良い音が、俺の耳の中で何度も反響する。
慌てて打球の方向へと振り返る。ライト方向へと飛んで行った打球は、流し打ちだと言うのに、鋭く速いライナーで空を切り裂いていく。
結局、ファールゾーンにある体育倉庫に直撃した。
直撃した際の爆発音にも似た巨大な音が、その打球に秘められたパワーの量をあらわした。
「ありえねぇだろ」
本来、流し方向ってのは引っ張る時よりも、打球にパワーが入りづらい。さらにアウトコースってのは長打が出づらいとも言われている。
だと言うのに、大輔の打球は、まるでインコースの球を引っ張ったかのような一撃だった。
「右に引っ張るって奴か?」
プロで本塁打王にも輝いた事のあるスラッガーの言葉を思い出した。
おいおい、まだプロの連中と対戦する前だってのに、そんな芸当が出来る奴と出会うとはな。いやいや、大輔なら可能だろう。
大輔は誰かのスイングでも見て、その技術を盗んだんだろう。あるいはこうすれば打球が良く飛ぶと自分で見つけたのかもしれない。…まったく、あいつは本当に天才だな。
俺も天才だと思っていたが、あそこまで才能を見せつけられると不安になってくる。実は俺才能ないんじゃないかってね。
でも大輔なら許せちゃう。あいつなら仕方ないって言えちゃう。
…あぁ本当に野球やめるなよ大輔。お前はさ、もっと夢を与えるべきなんだ。そのバッティングで、その力で活躍してさ、ガキどもにプロ野球選手になりたいって思わせてくれよ。
まぁ、そんな事ぐずぐず考えたって意味はない。これでカウントは一応追い込んだことになる。
だが、今の一発でアウトコースに逃げる事も出来なくなった。
追い込んではいるが、まったく優位に立っているとは思えない。
三球目。
哲也は悩んでいるようだが、まもなく出てきたサインは、インコース高めへのストレート。
ここはボールになっても良いから、大輔を踏み込ませないぐらいの体スレスレの球だな。
俺はコクリと頷き、深呼吸を一つこなす。
脳裏に先ほどの大輔の一振りが浮かんで表情がゆがんだ。
暴風の一撃。まさにその言葉がふさわしいまでに大輔のスイングは恐ろしかった。
背筋が凍り付き、一気に鳥肌が立った。心臓も一瞬止まった気がして呼吸ができなくなった。
怖い。単純な恐怖心が俺の中を駆け巡った。
スイング一つでピッチャーを飲み込むほどのバッターなんて、現役選手で何人いるのだろうか? きっと全世界探しても指で数えられる程度だろう。
だからこそ、楽しまないとな。この勝負を。
恐怖心はある。打たれる不安に包まれている。だけどそれよりもこの対決の興奮が先行していて、まったくピッチングに影響が及ばない。
何も問題はない。なら抑えるだけだ。
三球目を投じる。
体スレスレに決まるインコース高めへのストレート。
しかし大輔、仰け反るどころか何事もないように普通に構えたまま見逃した。
「なんだよお前、もうスイッチ入ったのか」
一球目は大したことないボールで体を反らせていたのにな。
こういうバッターが一番面倒くさい。
踏み込ませない為に投げた球が無駄になってしまった。
カウントはワンボールツーストライクか。
さっきの球で避ける動作を一つでもしたら、アウトコース低めいっぱいにストレートで決まりだったんだがな。
高低、内外はやった。なら次にやるのは緩急。そうなるとチェンジアップ。
やはり哲也も、チェンジアップのサインを送ってくる。コースはアウトコース低めに外れるチェンジアップ。打たれてもあそこならフェアゾーンには飛ばないだろう。
俺は頷いて、四球目を投じる為に投球フォームへと移る。
四球目。
アウトコース低めに外れるチェンジアップは、またも無駄球となった。
大輔は緩急に惑わされる事は無く、踏み込んだ体勢で見送った。判定はもちろんボール。
マジで規格外だな大輔は。昔の力任せに振る凶暴なスイングも怖かったが、こうしっかりとボールを見極め確実に仕留めるスイングも怖いものだ。
しかし追い込んでからの、二球連続ボール。
そろそろ哲也も勝負してくるだろうが、もう抑えられる球は、あいつしかない。
哲也も分かっている様だ。サインを確認する。
低めにフォークボール。
今の今まで初見で打たれたことなど無かった魔球。
だからここでもこいつで決める。いくら大輔でも釣られてスイングするだろう。
勝負の一球だ。今まで以上に神経をとがらせて投球動作へと入った。
五球目。
左腕から投じるのは魔球フォークボール。
ボールが指から離れるまでずっとリリースを意識していた為、放たれた瞬間の解放感は爽快だった。指先に残る感覚も納得のいくものだった。これは間違いなく打たれない。
打者の手元ですとんと落ちるフォークボール。
初見で打った者は存在せず、幾度となく高校野球屈指の好打者のバットの空を切らせた、俺の真のウイニングショット。
この球にはさすがの大輔も打てないだろう。
だが大輔は、そのフォークボールを簡単に打ち返した。
さも当然と言ったように振りぬかれたバットだったが、速く振り抜いたせいか、打ちあがった瞬間からファールボールになる当たり。
それでもレフト方向にぐんぐんと伸びていき、最後は校庭を取り囲む数mほどの大きなフェンスも悠々と飛び越えていった。推定飛距離130メートルといったところか。
「どうやったら、初見であの球打てんだよ」
マジで大輔って規格外。面白いけど、ここまでチートだと、さすがに強すぎてつまらなくなるだろう。
なるほど佐和ちゃんの言っていた言葉はこれなのか。
大輔には頂が見えてしまったのだろう。自身と双璧を為すピッチャーがいない事がつまらないんだと思う。アジア大会での圧勝も拍車をかけたのかもしれない。
世界のレベルを知って、大輔は落胆したはずだ。楽しめるピッチャーがいないと。
だから辞めるという選択肢を選んだのかもしれない。もちろん他にも理由はあると思う。だけどこれもきっと辞める理由の一つになっているのだろう。
「ならそれは間違いだ大輔」
お前が戦って楽しいピッチャーがいないというのならば、俺が楽しいピッチャーになってやる。双璧をなすピッチャーがいないというのならば、俺が双璧をなすピッチャーになろう。
だから、高校で野球を辞めるなんてもう言わせてやるものか。
六球目。サインはインコース低めへのストレート。
強気な哲也のリード。あぁ嫌いじゃない。大好物だ。
これが本当に勝負の一球になる。これがもしボール球になったのなら、その時はもう俺の敗北だ。大輔に土下座してあいつのスパイクを舐めてでも野球をやるよう頼み込んでやる。
大きく深呼吸をしてから大きく腕を振りかぶった。
大輔の表情を捉える。相変わらず恐ろしい顔してんなお前。
伊良部竜平、鵡川良平、中村浩太、吉井優磨、松井一輝、門馬秀作、西川雅紀、園田良太、奈川英雄。
あんな化け物だった奴らよりも化け物だぜ大輔。
本当、お前が味方で本当良かったよクソッタレ。
「っらぁ!」
投げる瞬間、獣の彷徨のような声を無意識にあげていた。
放たれたストレートは驚くほど指にかかって、かつてないまでに鋭く切れのあるボールとなって、インコース低めに構えられた哲也のミットへと向かう。
最高の一球をさらに二段階ぐらい上回る一球。
インフレも良い所だが、これはもらった。これで打たれるのなら、俺はそこまでの選手という事。怪物の領域に至る為に、また一から鍛え上げる他ない。
最高で最高の一球。
その一球はミットの音を響かせることはなく、山田高校のグラウンドに、木製バットの小気味良い快音が響き渡った。




