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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
7章 怪物の休日
302/324

301話

 球技大会を明後日に控えた夜、僕、野上哲也は普段の帰り道とは違う道を歩いていた。

 だけどこの景色は見覚えがある。いやまったくあの頃と変わっていない。

 高校生になる時に引っ越す前まで、毎日見ていた光景だ。小学生の頃彼の家へと向かう道のり、中学生の頃彼の家へと向かう道のり。あの頃と何一つ変わっていない。

 本当にまったく変わり映えがしなくて…。


 「なんだかなぁ…」

 こうして親友だった男の家の前に立った所でそんな言葉がこぼれた。

 この住宅街は何一つ変わらないのに、僕と彼の関係性は変わってしまった。

 ずっと親友だと思っていた。これから進む道は違えど、それでもずっと一緒に笑いあえる仲だと思っていた。


 なんでこんなことになってしまったのか。正直誰にも責任はないんだ。

 彼は彼の想いを貫いた。沙希は沙希の想いを貫いた。そして僕も、僕の想いを貫いている。


 今日ここに来た理由は一つしかない。

 彼のここ最近の行動に一言物申したかったからだ。

 いや、彼は彼の選択をした。そしてその選択した結果を楽しんでいる。…だけどそれじゃあ沙希はどうなる?

 彼が鵡川さんと交際を始め、僕や沙希の近くから離れていってから改めて痛感させられた。僕では沙希を支えられない。僕では沙希を笑顔に出来ない。彼女を笑顔に、そして幸せにできるのは…英雄、君しかいないんだ。


 英雄の家を見上げる。相変わらず立派な一軒家だ。

 英雄のお父さんは地方公務員で、仕事は忙しいけどそこそこ稼ぎは悪くないらしい。僕や英雄が生まれる前は郊外のアパートで暮らしていたらしい。

 …なんで今こんなことを考えているんだ。早く呼び出しベルを押して英雄を呼び出すんだ野上哲也。

 そう自分に言い聞かせているのだが、いざ目の前に来ると気後れしてしまい、チャイムを押そうとする指が動かない。


 今彼と会って何を話せばいい?

 鵡川さんと別れて沙希と付き合ってくれというのか? そんなの絶対に「無理だ」と一蹴されるにきまっている。

 じゃあなんていえばいい? 正直なところ、未だに僕の頭の中の整理はついていない。

 言いたい想いはある。伝えたい感情はある。だけどそれは言葉としてまとまっていなくて、今それを口にしてしまったら支離滅裂な言動になってしまう気がする。

 …だからと言って、ここまで来て帰れるわけがない。僕だって沙希だってもう限界だ。特に沙希なんかはここ最近ずっと表情が暗い。彼女のあの優しい笑顔を見る事が無くなってしまった。

 好きな子の暗い表情を見たくなんてない。だからこそ英雄には沙希と話し合ってほしい。


 「哲也?」

 英雄の家の前で尻すぼみしていると、一つ男の声が聞こえた。

 思わず肩が跳ね上がる。知っている声だ。いや聞き飽きてしまう程に毎日聞いていた声。

 僕は一つ深呼吸をしてから、声のほうへと振り向いた。


 「英雄」

 そこには案の定、佐倉英雄が立っていた。

 マフラーにコート。どこか寒そうに白い息を吐いている。


 「よぉ」

 軽く右手を挙げる英雄の顔はどこか嬉しそうだった。

 まるで待っていたぞと言わんばかりに嬉々とした表情。…僕のこの行動を待ちかねていたという事だろうか?


 「こんな時間まで…鵡川さんと遊んでたの?」

 「あぁそうだ」

 断言する英雄にイラッとしてしまう。

 僕や沙希がこんなに苦しみ悩んでいるというのに、君は…彼女なんて作って遊んでいるのか?

 逆恨みだとは分かっている。分かっているけど、この感情は抑えきれなかった。


 「それで、俺の家に何の用だ?」

 今度は英雄のほうから質問をしてきた。

 覚悟を決める。ここまで来たら引けない。僕はジッと英雄の顔を見ながら答えた。


 「英雄に用があるんだ。ちょっと付いてきてくれないか?」

 僕の言葉に、英雄は何も言わずに頷いた。

 そうして僕らは、寒風が吹き荒れる夜道を歩き始めた。



 着いた場所は住宅街から少し離れたところにある運動公園だ。

 程よく自然もあり、中心部は道路や住宅地などからも離れて喧騒が遠くに聞こえる。

 昼間はたくさんの人達で賑わう公園だが、今は人っ子一人居ない。

 そこで僕と英雄は対面した。


 「んで哲也、ここまで来て何の用だ?」

 「とぼけないでよ」

 声に怒りの感情が乗っていた。英雄の表情は変わらない。どこか飄々として、まるでこれから先の展開が読めているような余裕な表情。

 …それが酷く僕の感情を逆なでしていく。


 「英雄分かってるだろう? 君なら見えてるはずだ。沙希が毎日どんな顔をしているかを!」

 「あぁそれか。それならお前に任せてるだろうが。それとも何か? あいつの好意をないがしろにした俺が慰めろってか? それこそ沙希の気持ちを傷つけるぜ?」

 分かってる。英雄の言っている事は正しい。悪いのは僕だ。英雄に「沙希は任せた」と言われながらも沙希を笑顔にしてやれない不甲斐なさ。

 この収まらない苛立ちは英雄ではなく僕自身に向けられているものぐらい分かってる。

 …だけど、それでも…。


 「僕は、君を見ている沙希の姿に惚れたんだ」

 英雄と話している時の嬉しそうな沙希の笑顔、英雄のバカに呆れる沙希の顔、からかう英雄に怒る沙希の表情。

 僕が恋した彼女の顔は、僕に向けられた物じゃなくて英雄に向けられた物なんだ。そして今、僕にその顔を彼女に作る事はできない。


 「…ふざけた話だとは分かってる。自分勝手だしわがままな事を言っているのは分かってる。だけど、それでも…沙希を…救ってあげてくれ…」

 深々と僕は頭を下げた。最後は懇願になっていた。

 もう彼女を救えるのは英雄しかない。だから今日は…絶対に英雄に「沙希を救ってやる」と言わせてやる。


 「ふざけた話も限度があるぜ哲也。いい加減にしてくれよ。俺はお前の使い勝手のいい道具じゃねーんだぞ」

 だけど僕の期待していた言葉は聞こえてこなかった。

 そうなるだろう。分かっていたさ。英雄は絶対に「分かった」とは言わない。

 苛立ちがつのっていく。自分自身に向けられたそれは、やがて目の前の英雄へと向けられる。逆恨みも重々承知だ。だけど、どうしても、これだけは、沙希の事だけはなんとかしてあげたいんだ。


 「俺は沙希の想いを断った。沙希は覚悟を決めて告白したし、俺も覚悟を決めて断った。次はてめぇの番だぞ哲也。覚悟決めて沙希と向き合えよ」

 「向き合え…だって?」

 英雄の言葉にぷつんと頭の中の何かが切れた気がした。

 それが堪忍の緒だと気づいたのは、彼を殴り飛ばしたあとだった。


 無意識のうちに拳が飛んでいた。格闘技をやっている人から見たら呆れてしまうような情けないパンチ。

 だけど英雄は拳が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。僕の弱々しいパンチをモロに食らい、鈍い音と自身の右手に走る激痛に顔を歪めながら、英雄が尻もちをつく姿を見つめる。


 「ふざけるな! 僕は沙希と向き合ってる! 英雄のほうこそ沙希と向き合え!」

 ぐちゃぐちゃな思考から出てくる横暴な一言。

 分かってる。こんなの言うべきじゃないと分かってるんだ。だけど、口が勝手に動いてしまう。もう止められない。もう分からない。どうすれば解決するかなんて。

 殴られた英雄に対する罪悪感も後悔もなかった。尻もちをつき殴られた左頬を押さえながら英雄はマジマジと僕を見つめる。


 「沙希の事をなんも考えないで、一人だけ鵡川さんと付き合って…! ふざけんなよ!」

 ぐしゃぐしゃな思考から出てくる言葉をぶつける。


 「…ふざけんな…だとぉ…」

 立ち上がった英雄。彼の顔は怒っている。久々に彼の怒った表情を見た気がする。

 歯を食いしばる。殴った以上、僕も殴られる覚悟を決める。単純な殴り合いなら英雄のほうが絶対に強い。さっき拳が入ったのはあっちが油断していたからだ。今度は上手くいかないだろう。


 「哲也、てめぇのほうこそふざけんなよ!」

 今度は英雄が僕を殴りつけていた。

 警戒していたのに、僕は英雄のパンチを避ける事出来なかった。



 英雄に殴られたと気付いたのは、左頬に感じる激痛と、英雄に見下ろされているときだった。


 「てめぇは、俺がいなきゃ、なんもできねぇのかよ!」

 見下ろす英雄が僕を怒鳴りつける。

 うるさい…分かってる。だから言わないでくれ、やめてくれ。


 「俺はお前に沙希を任せたんだ! だったら俺じゃなくててめぇの力で沙希を幸せにしてやれよ! あいつの事好きなのにそんな事もできねぇのかよ!」

 うるさい黙れ…。自然と腕に力が入っていく。

 好きと、幸せにするは同義じゃないんだ。僕じゃ…僕では…。


 立ち上がる。かわされる覚悟でもう一発、英雄に拳を飛ばした。

 かわされると思っていた。だが英雄は甘んじて僕の拳を頬で受け止めていた。今度は英雄は尻もち吐くことなく、立ったままで僕を睨みつける。


 「英雄は…沙希が悲しむ姿を見たいのかよ!」

 「…んなわけ…ねぇだろうが…」

 ジッと僕を睨みつける英雄に僕はあふれ出る感情を口にしていく。


 「僕じゃ、沙希を幸せに出来ないんだ! 英雄じゃないと出来ないんだよ!」

 「…てめぇ」

 低く呟き程度の小さな英雄の声。

 だけどその声に僕は黙りこくっていた。

 英雄が本気で憤っている。こんなに彼が憤っているのはきっと…小学生以来だ…。 

 そう思った瞬間、僕の体は一瞬、宙を浮いた気がした。



 地面に叩きつけられたとき、僕は殴られたのだと理解する。

 英雄が僕を見下ろす。近くの電灯の逆光で彼の顔は見えない。だけど怒っているのは分かった。


 「僕じゃ沙希を幸せに出来ない? 俺じゃないと幸せに出来ない? 勝手に決めつけてんじゃねぇよ」

 立ち上がろうとした瞬間、僕の上に英雄が乗りかかってくる。

 そうして僕の胸倉を掴んだ。


 「いい加減覚悟を決めろ哲也! 自分と向き合え! 沙希と向き合え! 幸せにできない? なら幸せにできるよう努力しろよ! 今までは俺がいたから、俺があいつを笑顔にさせてたのかもしれない。だがこれからは俺がいないんだよ。だったら! てめぇが! あいつを幸せにしろ!」

 ガツンッ! と鈍い音が響いた。

 額に鈍痛が走った。頭が揺れる。英雄の頭突きに僕は顔を歪める。


 「でも…僕じゃ英雄みたいに沙希を笑顔に出来ない…」

 「なんでいつもお前は、俺みたいになろうとしてんだよ! お前は俺じゃねーだろうが! お前はお前の方法で彼女を笑顔にしろよ!」

 僕の自己嫌悪を英雄は大きく強い語気で押し払う。

 再び英雄の胸倉を掴む力が強くなる。 やばい、また頭突きがくるかもしれない。


 「なんで、ガキみたいに俺に頼ろうとしてんだよぉ!」

 案の定、頭突きが飛んできた。鈍い音が静まり返った公園に響き、 意識がぐらんぐらんと左右に揺れる。


 「どーせ、てめぇの事だから、なんでもかんでも、「英雄だったら」とか考えてるんだろ?」

 正解だ。いつだって僕は英雄だったらどうするかを考えている。

 それはきっと、今まで見てきた誰よりも英雄の行動がスマートで格好良くて…きっと憧れているんだ。英雄みたいな生き方に、英雄みたいな人生に。


 「馬鹿野郎が、お前は俺じゃねぇーんだぞ! 誰かが俺になれって頼んだのか! 沙希が俺になれって言ったのか!」

 言うはずがない。言うわけがない。

 沙希がそんなことを言うわけがない。僕は唇をかみしめる。


 「誰もそんな事言ってねぇだろうが! お前にはお前の良さがあるんだから、それを沙希に見せてやれよ! 今、沙希が求めてるのは、俺じゃなくてお前だ!」

 英雄は声を荒げながらも僕を説教する。

 彼の言葉一つ一つがスッと僕の胸に入っていく。


 「ここまでアシストしてやったんだから、とっととシュートを決めろ! タコスケ野郎が!」

 そして三度目の頭突き。



 思わず僕は泣き出していた。

 激痛が原因でもあるし、久しぶりに見た英雄の激怒にもあるし、何よりも英雄がずっと僕の事を考えていてくれた事にもだ。

 あぁ、前にも英雄に怒られた気がする。小学生の頃、弱気な事しか言わない僕に英雄が激怒したんだっけか。

 その時も同じ事を言われたな。「お前は俺になれない。だけど俺には無い良さをお前は持ってる。ならそれを伸ばせ」と。



 心から迷いはなくなり明瞭となった。ぐしゃぐしゃになった感情の糸がほぐれていく。

 やりたい事、やらなきゃいけない事が見えてきた。


 ありがとう英雄。まだ自信は無いけど、沙希を励ましてみる。


 泣きながら声にもならない声で英雄に告げた。



 「本当、馬鹿野郎が」

 泣き止んだ僕、怒鳴り荒れた息を整え終えた英雄。

 どこかに行ったと思ったら近くの自販機で飲み物を買ってきたらしい。手渡されたのは缶の炭酸飲料。英雄の手にも同じ缶があって、彼は僕に殴られた頬にあてがっていた

 彼に真似るように僕も英雄に殴られた頬にあてがる。熱を帯びていた頬に冷たい缶が触れるとピリッとした感覚が走った。


 「こんな簡単な事で殴り合わないといけないとは思わなかったよ」

 「…ごめん」

 英雄の言葉に謝る。

 どうすればいいか分からなくなっていたとは言え、彼を殴り飛ばしたのはいけなかった。こうして言い争いが終わったところで、やっと殴った罪悪感や後悔が出てきた。


 「それよりも先に謝る事あんだろう?」

 と、彼はそんな事を口にした。

 謝る事? なんだ?


 「前にお前、俺になんで山田高校に来たんだって言ったよな? 来なければ良かったとも言ったよな? あれ、今もまだ最高にムカついてるんだが? 謝罪の言葉もねぇのか?」

 …忘れていた。勢い余っていたとはいえ、あれは言ってはいけない言葉だった。


 「…ごめん、ごめんなさい」

 素直にここは謝る。

 英雄は鼻を鳴らすと手に持っていた缶をプルタブを開けて開封すると勢いよく飲んだ。


 「甲子園を共に戦った相棒に、あんなこと言われるとは思わなかったよ。あれはこれからも根に持つからな」

 「ごめん…」

 謝る以外、僕には何もできない。

 彼から手渡された缶をじっと見つめる。


 「まぁそれはそれとして、今日か明日、さっそく沙希に声をかけろよな。いい加減俺も見るに堪えん。お前がなんとかしろ」

 「…うん!」

 先ほどまであった感情はない。

 もう英雄には頼らない。僕の力で彼女を笑顔にしてみせる。


 「よし、さっきよりも良い面構えだ。それでこそ俺の相棒だ。改めて沙希を頼むぜ」

 「うん!」

 英雄の優しい笑顔に僕も笑顔を浮かべる。

 こうして英雄と僕の間にあったいざこざは幕を下ろした。



 翌朝の学校、僕は少し緊張しながら学校へと向かう。


 「いたた…」

 昨夜、英雄に殴られた頬をさする。あの後腫れ始め湿布を張ったのだが治らない。

 何度も頭突きされた額も痛む。こんなに痛いのなら昨日あんなことしなきゃよかった。


 「おはよう哲也」

 っと後ろから聞き慣れた女子の声が聞こえた。

 思わず肩が跳ね上がる。この声は…間違いない、いや間違えない。彼女の声だけは絶対に間違うはずがない。

 僕は一つ深呼吸をしてから、声のほうへと振り向いた。


 やっぱりそこには山口沙希がいて、今日も変わらずどこか感情のない笑顔を浮かべている。

 それがとても痛々しくて、僕は思わず視線を逸らす。

 …英雄ならきっとここで目を逸らさなかっただろう。そしてここまで考えたところで、昨日の英雄とのやり取りを思い出して、沙希に悟られないよう小さくため息を吐いた。

 そうだね、英雄ならじゃない。僕は僕で良いんだ。


 「って哲也、めっちゃ顔腫れてるじゃん! どうしたの!?」

 自己嫌悪している僕に対し、沙希は素っ頓狂な声をあげた。

 思わず顔をあげて彼女を見る。心底驚いた表情を浮かべている。

 久々に作り笑いと無表情以外の彼女の表情を見た気がする。そして彼女の驚いた表情がどこかおかしくて、そして愛おしくて、かわいらしくて…。思わず僕は噴き出して含み笑いをする。


 「え、えっと…哲也、大丈夫?」

 困惑する彼女の表情すらも愛おしい。

 …うん、やっぱり僕は山口沙希が好きだ。英雄と仲良くしている彼女の表情に恋したのは確かだ。だけど今は、沙希のすべてが好きだ。


 「うん、ごめんごめん。久々に沙希の驚いた顔がおかしくてつい」

 「って、なにそれ。それかなり失礼だよ哲也」

 「だからごめんって、うん、でもやっぱり作り笑いの笑顔より全然良いと思う」

 僕は笑いながら彼女へと告げる。

 彼女は狐につままれたような顔を浮かべた後、また作り笑いを浮かべて視線を逸らした。


 「あ、そう。そんなに私、作り笑いだったかな」

 「うん。今も凄い作り笑いだよ沙希」

 僕の言葉に沙希は思わずこっちを見てきた。

 なんだろう。そんな動作すらも愛おしく感じる。


 「なんか、今日の哲也凄いからかってくるね」

 「そうかな…いや、そうかも」

 沙希は呆れ笑いを浮かべている。


 「昨日さ、英雄と殴り合いの喧嘩をした」

 「え」

 英雄の名前を聞いて驚いたのか、それとも殴り合いの喧嘩をした事に驚いたのか。

 でも今はどっちでもいい。


 「沙希の事考えろっていう僕の意見をさ、英雄はふざけんなって一蹴して、お前が沙希を守ってやれって」

 なにも沙希は言わない。僕から視線を逸らし、そのまま下へと落ちていく。


 「沙希、色々といえない事もあると思うけどさ、もっと…僕にも頼ってほしい」

 そんな彼女に、ずっと言えなかった、そしてずっと抱けなかった決心を吐露する。

 落ちた沙希の視線がまた上がって僕を見つめる。驚いた顔をしている。そりゃそうだ。僕の柄には合わない言葉だ。


 「正直頼りにならないかもしれないけど、…英雄に比べたら情けなく見えるかもしれないけど、それでも僕は、沙希の力になりたいんだ」

 決意の告白。

 沙希は僕をじっと見た後、サッと視線を逸らした。

 そんな彼女の様子に思わず戸惑ってしまう。


 「え、えっと…駄目かな?」

 「ううん、すごく嬉しい。ただ、哲也からそんな事言われるとは思わなかったらちょっと焦った」

 「あ、そうだよね。僕の柄じゃないもんね…」

 そうだ。僕は頼ってくれなんて言わない。そういうことを言うのは英雄のほうだ。

 …やっぱり僕は無意識のうちに英雄を理想像に掲げてしまうのかもしれない。きっとこればかりはこれからの人生にもつきまとっていくんだろうな。


 「うん、でも本当に嬉しい。ありがとう」

 自己嫌悪にさいなまれかけたところで、彼女の優しい声が感情を和らげた。

 彼女を見る。そこには、ずっと見たかった彼女の本当の笑顔がそこにあった。

 …あぁ、うん。やっぱりアレだな。うん…僕は山口沙希が好きだ。この笑顔に僕は恋したんだ。


 「それなら、良かった。でも僕はあんまり頼りにならないからね」

 「そんなことないよ。いつだって哲也は私の為に全力で協力してくれたじゃん。頼りにしてるからね」

 先ほどよりも可愛い笑顔を向けてきて、思わず顔が熱くなってしまう。

 今、僕の顔は真っ赤になっているのが容易に想像できた。


 「なんだか哲也のおかげで楽になった気がする。ありがとね」

 「う、うん。それなら良かった」

 確かに先ほどの彼女よりも足取りが軽く見えるし、気分も高揚しているようにみえる。

 少しだけでも彼女の為になれたようだ。


 なら、勇気を出して彼女に声をかけて良かった。

 そして、この道を指し示してくれた英雄にも感謝を。やっぱり君は、唯一無二の大親友だ。

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