2話 日常の喧騒
「英雄! あんた昨日もサボったんだから、今日はちゃんとやりなさいよ!」
呼び止めた女子生徒は、さらに声を強めて俺に説教する。小さく舌打ちをしてしまった。
一度隣に立つ誉を見る。いつの間にか消えていた。ありえん。逃げるの早すぎだろ。いやまぁ確かにこのまま一緒にいたら飛び火してただろうし、最善と言えば最善だが……。
「英雄! 聞いてるの!?」
さらに後ろから声。表情を見なくても声で怒っているのが伝わる。
クソアマめ、こっちは眠くて眠くて仕方ないんだぞ。今から合唱部が活動する教室で惰眠をむしゃむしゃしてやろうと思っていたのに。
「はぁぁぁぁぁぁ~…」
わざとらしく深いため息を吐く。相変わらず面倒な奴だ。
こういうところで心遣いが出来ないから、今まで彼氏のひとつもできないんだ。
なんて事を口にしたら、間違いなく殺されるので、口にはせず振り返る。そうして声の主である女子生徒を見る。相も変らぬ顔をしていた。
我がクラスの出席番号32番。山口沙希。
彼女とは中学時代からの付き合いだ。付き合いといっても交際しているわけではなく、普通のお友達だ。
この学校では男子に結構人気があるらしい。事実、哲也も彼女に絶賛片思い中。
俺はこいつの良さを理解するつもりはないし、こいつとだけは付き合うつもりはない。
ショートヘアーに凛々しい顔立ち。見た目はスポーツ少女と言う印象だが、実際は美術部というスポーツとは無縁の部活動に入っている。
とはいえ運動神経が良く、一年生の頃運動部から勧誘を受けていたのを思い出した。
「英雄、聞いてるの!?」
「悪いな。沙希の顔に見とれてた」
歯の浮くような発言をしてご機嫌を取ろうと思ったが、効果はいまいち。沙希の表情は変わらない。
ちなみに下の名前で呼び合っているが、好きあっているわけではない。現に沙希は哲也も下の名前で呼んでいる。まぁ下の名前で呼び合う程の悪友と言った所だろうか。
「そういうのは今はいい! あんたさっき蔵田先生に言われて返事したでしょうが!」
「返事したって何が?」
「だから! さっきから言ってるでしょ! 掃除当番!」
「あーそれか。悪い! 今日は今から子猫ちゃんとデートだから。すまないな」
右手の小指を突き立て、顔の近くに寄せて下世話な笑みを一つ浮かべてみる。
だが彼女の表情は変わらない。憤怒という言葉が一番しっくりきてしまうほどに彼女の顔は怒っている。
「英雄にそんな人いないでしょうが! 冗談言ってないで早くやりなさいよ!」
「なんだ嫉妬か? 見苦しいぞ沙希。確かにお前は子猫というよりは化け猫に近い顔付きをしているがな。そういう顔にも時には需要があってだな…」
「は?」
沙希がギロリと睨みつけてくる。
「まぁあれだ。とりあえず落ち着こうぜ。沙希にそんな怒った顔似合わないぜ。もっと笑顔浮かべようよ。レッツゴースマイル! オーケー?」
ちょっとトレンド俳優っぽい台詞を選びつつ、ハリウッド主演男優のように決め顔を作って、彼女を諭す。
「あんたがもうちょい真面目に掃除当番やってれば、ここまで怒る必要ないんだけど?」
顔は相変わらず般若の如き表情。今の発言は効果が今一つのようだ。
一度時計を見る。早く合唱部の教室に行きたい。ってか眠い。
「英雄は知らないと思うけど、いつも私が代わりに掃除当番引き受けてるんだからね?」
「そうか、お前も大変なんだな」
他人事のように返答したところで、彼女の怒りがついに爆発した。
「大変なんだな、じゃないわよ! なに他人事のように言ってんのよ! あんた何日掃除当番サボってると思ってんのよ! 今月に入ってから一度もやってないでしょ! いい加減あんたの代わりに掃除するのはうんざいなのよ!」
ものすごい声量で俺に怒鳴る。思わず一歩退いてしまった。
「うるせぇ! 怒鳴るな!」
「あんたがもうちょい真面目に掃除やってればこんなに怒らないわよ! 分かったらさっさとやる!!」
近くの机をバンバン叩きながら沙希が怒る。
机の主である佐々木くんを一瞥する。なんか沙希の怒ってる様子を見て興奮してる。変態か。
「今度ラーメンおごってやるから、今日のところは鞘を収めてくれないか?」
「あんた前にもそれ言っておごってないでしょうが!?」
常套手段でなだめようとしたが失敗。
本当にこいつ人気の女子生徒なのか? すぐ癇癪起こすし、面倒くさい事この上ないぞ。いや、確かに可愛いとは思うが……。
このままだと本当に清掃当番やらされそうだ。嫌だ。面倒くさい。ここは沙希をおだてて難から逃げる「褒めちぎり作戦」で行こう。
「話変わるが沙希。今日のお前は一段と素敵だな! 惚れちまいそうだ! おっと、もう惚れちまってたか!」
「その発言、前にも聞いた」
呆れた表情を浮かべる沙希。あれ? 前にも言ったっけか?
「いやいや、今日はさらに一段と素敵だ! 一段と惚れてる! だから今日は……な?」
「な? じゃないわよ! そんな気持ちのこもってない言葉で私が代わり引き受けるわけないでしょうが! 早く掃除やる!」
そういって彼女は無理やりほうきを手渡した。
「悪い。今の俺知能指数めっちゃ低下してるから、この棒きれの使い方分かんないわ」
「あんた、どんだけやりたくないのよ」
深い溜息をついて頭を抱えた沙希は、ゆらゆらと佐々木くんの椅子に座った。
佐々木くんを一瞥する。凄い嬉しそうにしている。沙希が帰ったあと、沙希が座った椅子の臭いとかかぐつもりだろう。変態め。
「早く合唱部の練習を見に行きたいんだよ」
「なんで?」
「そりゃお前、あずにゃんがいるからに決まってるだろう」
冗談交じりにそう答えた。
あずにゃんとは、鵡川梓のあだ名だ。一部の彼女を崇拝する男子たちからそう呼ばれている。
「あずにゃん?」
彼女は誰か理解していないようだ。
まぁ沙希は鵡川さんと接点ないしな。
「ってか英雄、好きな人できたの?」
「ふふっ、秘密だ」
ほうきで適当に床をはきながら、冗談っぽく話を続ける。
「意外。前は年上のお姉さん系が好きって言ってたのに」
「好みはいつだって変わる。今のマイブームは同い年系女子だ」
中学の頃から俺のこのノリを受け続けた沙希は、だいぶ受け流し方を身につけている様子。
呆れたようにため息をついた。
「そういえば、もうすぐで夏の大会だね」
「あぁそうだな」
話題を変えてきた沙希に合わせる。正直恋愛の話題はあまりしたくないし、ちょうど良かった。
さて、ここでいう夏の大会とは、間違いなく高校野球の夏の大会だろう。
「野球部勝てるかな?」
「いや負けるだろ」
部員8人しかいないんだぞ? そもそも出れるかすら怪しい人数なんだぞ?
別の部活から助っ人を呼んだところで勝てるはずがない。高校野球はそんな甘いものじゃないと、部外者ながら思っている。
「英雄即答はいくらなんでも無いんじゃない? 仮にも幼馴染の哲也がいるんだし」
「どう頑張っても勝てねぇよ。高校野球はそんな甘くないっぺさ」
エセなまりを交ぜつつ、深刻な話にならないようわざと冗談っぽく答えた。
「じゃあ、英雄が入ったら?」
沙希が真っ直ぐに俺を見据えて聞いてきた。
冗談交じりに即答しようとして言葉に詰まる。
俺が入部したら、どうなるだろうか? 少し悩んでしまった。
「いや負けるだろ」
だが、結局答えはこれに至った。
「あら? 英雄の事だし、俺は天才だー俺がいれば甲子園は確実だーとかいうと思った」
「それは中学の時の話だろ? 今の俺は常識をわきまえたからな。そんな中二病みたいな恥ずかしい事言えませんわ」
「常識わきまえてたら、掃除サボったりしないからね?」
軽口を叩く俺を受け流しながら、沙希は佐々木くんの椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、わたし部活行くから」
「おぅ」
「サボんないでね」
「おぅ!」
にっこり笑いながらグットサインにした右手を向けた。
そんな俺を訝しげに見る沙希は何度目かの呆れたようなため息をついて、教室を後にした。
「佐々木、沙希は消えた。存分に臭いを嗅げよ」
「え!?」
沙希が消えたタイミングで佐々木君に声をかけておく。めっちゃ大袈裟に驚いている。ふふ、お前がやろうとしている事は分かってる。俺もちゃちゃっと掃除を終わらせてやるから、思う存分嗅げよ。
なんてふざけたことを考えながら、適当に掃除をこなして、合唱部の活動場所である多目的室へと向かった。
多目的室へと続く廊下。窓の向こうにはグラウンドが見える。
そして練習をこなしている選手たちを遠くから見つめる。
部員8人。試合すらままならないチーム。良くまぁあんなチームで哲也は一年間頑張ったものだ。去年は三年引退してから試合もろくに出来なかったと言っていたのを前に聞いたな。
どう頑張っても初戦突破は無理だろう。相手チーム次第になるがコールド負けが関の山だろう。
―じゃあ、英雄が入ったら?
先ほどの沙希の問いが頭の中によぎり、歩みが止まった。
うっすらと窓に反射する俺の顔は無表情。そんな顔をじっと見つめる。
潮騒のように思い浮かぶのは中学時代までの自身の姿。マウンドというちょっとばかし小高い所で怖いもの知らずと言わんばかりに大胆不敵に躍動する俺の姿。
「いや、負けるだろ」
沙希はもういないのに、誰に問われたわけでもないのに、俺はぼそりと呟いた。
きっとこれは自分自身への答え。火は消え、くすぶったままの野球選手として自分を殺すための一言。
これでもう終わりだ。グラウンドで練習を始めた部員にも、潮騒のように思い浮かんだ昔の俺の姿も興味は失せた。さっさと合唱部のところに行こう。
「よぉ英雄ぉ。遅かったな!」
多目的室に入ると、ニコニコと爽やかな笑顔をふりまく誉が迎えてくれた。
こいつは合唱部の時だけ100万円スマイルを見せてくれる。ちなみにクラスだとせいぜい5千円程度のスマイルだ。
まぁ無理もない。鵡川梓と言う彼の片思いの相手が居るからな。
ちらりと合唱部女子の一団へと視線を向ける。鵡川梓の姿はすぐに見つかった。相変わらず目立つ女子だなあいつは。
鵡川梓は我が山田高校において、一番可愛いのではと噂される美少女だ。というか昨年度の文化祭にて行われた「着物が似合う女子コンテスト」「山高水着コンテスト」「ミス山高」の全三部門で優勝したほどだ。まさに文化祭は鵡川梓のためにあるのかと思ってしまうほどだった。事実上、山高一の美少女だ。
黒髪ロングに端正な顔立ち、スタイルも良く容姿端麗と言う言葉がぴったりの女子生徒。
その上成績良し、運動神経抜群、性格も文句なしと抜け目が無い。通称「ミスパーフェクト」と呼ばれている。
そんな完璧超人な為か、幾人もの男どもが彼女に愛ラブリーを伝えたが、どいつもこいつも、面白いように玉砕している。俺の男友達も何人か玉砕していた。
その事から、彼女の数ある二つ名の中には「男キラー」というのも存在しているほどだ。
俺は別段、彼女に興味は無い。いや可愛いとは思うし、目立つ女だな程度の認識はあるから、興味がないわけではないけど。
それでも好意という好意はないと思う。彼女は完璧すぎるが故にどうも恋愛対象になれない。やはり完璧超人の女の子は一つくらい抜けている所がないとな。
「こんにちは佐倉くん」
「こんにちは」
俺を見かけた鵡川が挨拶してくる。一応昨年は同じクラスだったし、何度もここに足を運んでいるから、今では顔見知り程度の関係だ。
俺も適当に挨拶を交わして、後ろに集まっている机と椅子を引っ張り出し、椅子に腰掛けてホッと息を吐いてから、机に上体を寝そべる形に入った。
「英雄。帰宅部なんか辞めて合唱部入ろうずぇ」
ふと誉が話しかけてくる。
冗談じゃない。何で好き好んで女子10人と仲良くお歌を歌わないといけないんだ。しかも男子がこいつしか居ない。そんな馬鹿なことするんだったら、幽霊部員が8割を占める漫画研究部に入部したほうが、はるかに有意義だ。
「断る」
「何でだよ。お前なら男の声10人ぐらいカバーできるだろう?」
「人を拡声器みたいに言うな」
「お前が入部したら俺に何してくれたって良いぞ……たとえば……肉体関係なれと言われても……恥をしのんでやってやる!」
「ごめん、お前は無理だわ。金髪カタコト美少女になってから出直してこい」
そう言って机に突っ伏す。眠気は直ぐに襲ってきた。
誉がなんかグチグチ言っているが無視だ。眠気に勝てるほど俺は優秀な男ではない。
もうじき合唱部の顧問もやってくる。それまでしばしの休眠だ。