292話
振替代休も終わった翌朝、登校日。
ボチボチと学校へと到着し、昇降口へと向かう。
同じ制服をまとった生徒たちがガヤガヤと話しながら歩いている中、俺は一人黙々と歩く。
「ねみぃ…」
大あくびを描いてからぼそりと呟いた。
今日は午前中、文化祭の後片付けだ。片付けほど面倒くさいものもないが、こういう事も人生最後になっていくかもしれない。楽しんで片付けるか。
「あ」
昇降口に入り下駄箱まで来たところで、沙希を見かけた。
彼女も俺に気づいたようで俺を見て硬直する。
二人の間に気まずい空気が流れる。沙希は俺を見たまま固まっており、俺もどう声をかければいいか分からなくて口を固く閉じている。
「あ、えっと…おはよう…」
「お、おぅ。おはよう…」
先に声を出したのは沙希のほうだった。ぎこちない挨拶をする彼女に、これまたぎこちない挨拶で答える俺。
そうして再び沈黙が訪れた後、沙希はぎこちなくその場を立ち去った。
彼女の姿が見えなくなってから、俺は深いため息を吐いた。
だから嫌なんだ。どんなに取り繕っても元の関係には決して戻れない。元通りの関係に出来る奴は何も考えてない脳天気野郎だけだろう。
「おはよう英雄」
ボケッと下駄箱の前で立っていると聞き慣れた声が耳に入る。
視線を向けると真剣な表情を浮かべた哲也。
「おっす」
「ちょっといい?」
ジッと俺を見つめる哲也。睨まれているような目力だ。
俺は無言でうなずく。何を話すのかなんて大体想像がつく。
哲也のあとをついていき訪れたのは屋上。
朝の屋上は誰もいない。ここ最近一気に冷え込んできたのもあり、風通しのいい屋上は冷たい風が吹きすさび、あまりの寒さに肩を縮めた。
下界から聞こえる生徒達の賑わいを耳に傾けつつ、俺は冷たい空気を吸い込み深く吐いた。
「それで哲也、こんな人気ない場所に呼んで何の用だ? 愛の告白か? 勘弁してくれ、俺はそっちの趣味は「英雄、ふざけないで。英雄なら呼んだ理由分かってるでしょ?」
俺の冗談を哲也は不機嫌そうな声で遮った。
哲也を見る。ジッと俺を睨みつけている。その表情を見て、俺は軽口を叩くのをやめる。
「分かったよ。どうせ昨日の事だろう? むしろ俺から聞きたいわ。俺がアシストしたんだ? しっかり決めたんだよな?」
「そのことなんだけど…」
そう一言哲也は前置きすると、一つ深呼吸をしてから口を開いた。
「英雄、もう一度考え直してくれないか?」
「はぁ?」
「沙希の事。もう一度考え直してほしい」
はぁ?
「今、沙希に必要なのは、僕と言う存在じゃなくて、英雄と言う存在だ」
「そんな事知らん。俺は断った。俺が彼女を支える資格はない。お前が胸を貸してやれ」
哲也のふざけた頼みに俺は即答していた。
俺にはもう彼女を支える資格はない。なにより彼女をそんな状態にしたのは他でもない俺だ。そんな俺が彼女を支えるだと? そんなの絶対にありえない。
大体、俺はお前がいるから手を引いたんだ。そんなお前が俺に助けを求めてどうすんだよ。
「…頼む英雄。僕じゃ英雄の代わりになれない」
今度は哲也は弱々しそうな表情に変わり俺に懇願する。
「おいおい、弱気になるなよ」
そんな哲也を俺は励ます。相変わらず大事なところで弱気になるなお前は。この場面はお前にとって大チャンスだろうが、なんで俺に助けを求めるんだよ。
俺は必死に哲也を奮い立たせようとするが、彼はかぶりをふった。
「ううん。これは弱気じゃない。本当にそうなんだよ。僕じゃ英雄みたいに沙希を元気にさせることは出来ない。沙希を笑わせる事も、沙希を喜ばせる事も…」
どんどんと哲也の顔が俯いていく。
お前、それを弱気っていうんだぞ。
「僕は沙希の事が好きだ。だけど沙希は英雄の事が好きだ。僕は僕の想いよりも彼女の想いを優先したい」
哲也が自身の想いを吐露する。
「だからお願いだ! 沙希の傍にいてあげてくれ!」
ガッと顔をあげて俺を見つめる哲也。今にも泣きそうな顔を浮かべている。
その顔を見て俺は視線を逸らす。
無理だ。俺が沙希と付き合うなんて無理だ。
そんな言葉がすぐさま思い浮かんだ。
哲也が沙希の事が好きだからという理由が第一だと思う。だけどもう一つ理由がある。沙希への恋の熱が前よりも落ち着いているんだ。俺は今、別段彼女に恋心を抱いていないんだと思う。
一年前、二年前ならここまで懇願されたのなら「分かった」と覚悟を決めていただろう。
だけど今の俺はそうはならなかった。きっと今の俺は…沙希への想いが冷めてしまっているのだろう。
「…無理だ」
自身の考え、想いと向き合った結果、その言葉が俺の口から出た。
今の俺は沙希と付き合いたいとは思っていない。
「なんでだよ!」
俺の答えを聞いた瞬間、哲也は声を荒げながら俺の胸倉を掴んできた。
とっさの出来事に、俺は交わすことはできず、むしろ驚いて「うおぉ」っと情けない声が漏れた。
「僕じゃ駄目なんだ! どう頑張っても、沙希を君と一緒にいる時の彼女のような笑顔を作れないんだ…。英雄! 沙希は君の事を愛してるんだ! 君じゃないと駄目なんだよ! 僕は君だから、沙希を任せられる! 大輔でも、恭平でも、誉でも駄目なんだ!! 沙希の隣には君がいないと…駄目なんだ…。だから、だからお願いだ英雄…。今からでも良い。沙希と付き合ってくれ…彼女の隣に立ってくれ…」
俺の胸倉を掴んだまま、顔を下に落とす哲也。
その必死の懇願に俺はただ黙りこくるしかなかった。
…これが哲也の想いか。
ずっと溜め込んでいた哲也の想い。俺への不満。
だが哲也、それは違う。それは違うんだ。お前は俺にはなれない。だけどお前は俺になる必要はない。
「哲也」
「…なんで、なんで英雄は山田高校に来たんだよ」
胸倉をつかまれたまま、彼を諭そうとしてボソリと彼の弱々しい声が耳に入った。
その言葉に心臓が一度だけ力強く跳ねた。
「英雄が来なければ、僕も沙希も、こんな辛い思いはしなかった。英雄が来なかったら誰も悲しまなかったのに…!」
「…哲也」
俯く哲也を見ながら、俺はもう一度哲也の名前を呼んでいた。
それで我に返ったのだろうか? ハッと顔を上げた哲也は、一気に胸倉から手を離した。
「…英雄、ごめん」
「…いや」
二人の間に沈黙が訪れた。
「僕は、英雄のことが好きだ。英雄が先に死んだとしても、死ぬまで親友だと思ってるつもりだ。だけど、沙希の事も好きだ。今は、君よりも沙希のほうが大切かもしれない」
哲也の声が聞こえた。
俺は哲也のほうに顔を向けようとせず、ただ黙り続けるだけ。
「わがままだって事は分かってる。自分勝手だとも分かってる。君の気持ちを考えず沙希と付き合えって言ってるんだからね。だけど、英雄だって、沙希の悲しい顔は見たくないよね?」
そんなの当然だ。好きだった女の悲しい顔なんて見たくはない。
「…ごめん」
だけど俺の出せる言葉はこれしかない。
哲也は何も言わず、少しの沈黙の後、無言で屋上から出て行った。
哲也が消えたところで深いため息。
「ふざけんな馬鹿野郎」
そうして一人であることを確認してからそんな悪態を吐いていた。
朝のホームルーム開始を告げるチャイムが校舎内から聞こえたが、教室に向かう気が起きず、近くのベンチに腰を下ろした。
「ふざけんな馬鹿野郎」
そうしてもう一度同じ悪態を吐いていた。
頭に浮かんだのは先ほどの哲也の言葉。
――なんで、なんで英雄は山田高校に来たんだよ
「ふざけんな馬鹿野郎」
三回目。今はこの言葉しか口にできない気がする。
哲也の野郎。頭に血が上っていたとはそんな言葉を口にしやがって。
「あぁくっそ! あの馬鹿野郎が」
思い出せば思い出すほど腹が立ってきた。
あいつにとって、あの夏の興奮よりも感動よりも、女のほうが大事だってのか。
「ふざけんな馬鹿野郎が」
四回目の悪態を吐いたところで、目元を手で覆いベンチに寝転がる。
最低最悪な気分だ。確かにこんな気分になるんなら、山田高校に進学するんじゃなかった。
手の隙間から見える冬の青空を見つめながら、苛立つ感情を落ち着かせていく。
「最悪だ」
一番嫌な展開だ。
親友と、バッテリーを組んだキャッチャーと女を取り合う。いや取り合いというよりは押し付けあいか。
挙句の果てには共にあの夏を戦い抜いた相手に対して「なんで山田高校に来たんだ」と言われる始末。
だから色恋沙汰はあまり好きじゃないんだ。
「やってらんねー」
吐き捨てるような言葉を口にして目を瞑る。
今から文化祭の片づけをする気分も起きない。サボってしまおう。
なんだかなぁ、本当…なんだかんぁ…。




