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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
7章 怪物の休日
291/324

290話

 生徒のいない夕方の外廊下。

 体育館は催し物を終え、生徒の姿は一切ない。辺りは静寂に包まれ、校舎の方から聞こえる喧騒が耳に入る。

 そんな静かな外廊下に食堂の出入り口のほうから女子の嗚咽する声が聞こえる。

 一歩、一歩と声のほうへと近づいていきながら、覚悟を決める。静かに深呼吸を一つする。

 ずっと、ずっと逃げてきた事柄から向き合うときだ。



 食堂出入り口のドアの前で女子生徒が一人。

 こちらに背を向け、肩は小刻みに震え、押し殺したように泣いている。

 その姿を見て俺は唇をかみしめる。胃が縮こまっていくのを感じる。

 この場からすぐさま立ち去りたい。そんな衝動にかられるが、すぐさまそんな衝動を否定する。


 逃げるな。逃げるな。逃げるな。

 三度その言葉を胸に刻み、再び静かに深呼吸を一つ。嫌に緊張してきた。胃が縮こまりすぎてズキズキと痛む。それでも逃げるという選択肢は選ばなかった。

 依然彼女は俺に背を向けて泣いている。俺の存在に気づいていないようだ。いっそのこと、声をかける前に振り向いてくれれば、勢いで話を始められるのにな。そんなことを考えながら、最後にもう一度深呼吸を一つ。

 目を瞑りながら肺がからっぽになるぐらい深く長く息を吐いて、吐ききったところで目を開く。覚悟は決まった。今日、ここで終わらせる。

 


 「沙希」

 俺に背を向けて泣く少女の名前を告げる。俺の声を聞いた瞬間、彼女の肩がびくりと大きく揺れた。

 そしてゆっくりと振り返り、俺と目が合った。


 「…ひどい顔だな」

 自然と出た言葉がこれだった。目元は真っ赤で顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。

 彼女は俺と目が合ってもなお、大粒の涙が目から零れ落ちていく。


 「ひで…お…」

 声を出すのも一苦労のようで、俺の短い名前すらもとぎれとぎれで口にする。

 彼女の泣いている姿なんか見たくはない。今すぐ彼女の涙を拭いてやりたいと思ったが、彼女をこんな姿にしたのは俺が原因なのだと気付き、何もせず彼女と向き合う。


 「沙希、話があるって言ったよな? その話を聞きたい」

 彼女が俺と話したいことがあるなんて一つしかない。

 それはずっと俺が逃げてきたこと。聞きたくなかった言葉。避けてきた彼女の想い。


 「……いいよ、もう」

 そういって彼女は顔を逸らし、目元を拭いながらぼそりと呟いた。

 その言葉に俺は唇をかみしめる。


 「私の…想いは…口にしても届かないだろうから…」

 「それは…」

 届かないだろう。いや、俺は受け入れないだろう。

 無責任に彼女を励ませない。無責任な言葉はかけられない。だから俺は唇を強くかみしめるしかない。


 嫌な沈黙が流れた。

 彼女を追いかけてきたこの選択は本当に正しかったのだろうか? そんな考えが浮かぶ。

 あのまま鵡川と一緒にいれば、こんな嫌な空気を吸わなくてすんだのではないだろうか? そんな考えすらも浮ぶ。だがこちらはすぐさま否定し、それは逃げだぞ英雄と自戒する。

 目の前で落ち込み涙をぬぐう彼女になんて声をかければいい? どんな言葉を送ればいい? そんな言葉すら浮かばないなんて……なにが天才だ。


 「…でも、この想いを口にせず終わらせたくない…」

 何時間経過しただろうか? いや、たった数秒だったのかもしれない。とても長く感じた沈黙を破ったのは沙希だった。

 俯いていた彼女がゆっくりと顔をあげる。再び目を合わせたときには、先ほどまで見せていた弱々しい顔ではなかった。覚悟を決めた顔、覚悟を決めた瞳。その眼はジッと俺を見据えている。

 …来るか。自然と背筋が伸びた。表情も引き締まっていく。


 「分かった。俺も、もうお前の想いからは逃げない」

 俺の言葉に沙希はどこか嬉しそうに頬を緩ませた。

 それもほんの少しの間、すぐさま彼女の表情が引き締まると、目を瞑り数度深呼吸をする。俺も息を吐き溜まっていた緊張を解いていく。

 タイミングは彼女に任せる。俺は彼女のどんな想いも受け止めるまでだ。


 脳裏に中学時代からの彼女との思い出がフラッシュバックする。

 哲也と彼女と馬鹿やっていた日々を思い出す。…彼女を想いを聞いたら、もうあんな日々は戻ってこないんだろうなぁ…。それだけが少しばかり残念だ。


 「英雄。私は…私はね、英雄のことが…」

 ゾクリと胸の中で何かがうずく。心臓の鼓動が聞こえる。縮こまった胃がさらに縮こまっていくように感じた。

 逃げたい衝動は今日一番を迎える。それを奥歯を強く噛みしめて必死にこらえる。逃げるな英雄、もう逃げるな。向き合え、受け止めろ。


 彼女を見据える。真っ赤に染まる山口沙希の顔。彼女は大きく息を吸い…。


 「好き!!」

 吠えるように彼女は想いを告げた。

 彼女の想いの乗った言葉は思った以上にドカンと俺の頭に響いた。


 「好き! 私は英雄の事が好き! 愛してる! 私は、英雄の事が好き!」

 今まで堪えていた想いが堰を切ったように真っ赤な顔の沙希の口から吐き出されていく。

 なんて情熱的な告白だ。ここまで好きと言われると俺の顔まで赤くなっていく。


 「だから…私と付き合ってください。お願いします」

 一通り想いを叫んだ彼女はそう最後に言って深く頭を下げた。

 その様子を俺はジッと見つめる。


 バクバクと心臓がありえないほど激しく鼓動している。

 沙希が、俺に愛の告白をした。そう考えると余計に顔が熱くなっていく。

 俺は…沙希の事が……。


 「…ごめん」

 自身の気持ちと向き合い、選ぶべき言葉を選び、それを搾り出すように口にする。

 俺の選んだ言葉を沙希は頭を下げたまま耳にする。


 「俺は…お前の想いを受け入れる事はできない」

 お前よりももっと大事な奴がいるんだ。そいつがお前の事が好きなんだ。だから、お前の想いには応えられない。


 しばらくして彼女はゆっくりと顔をあげた。顔は笑っていた。

 まさか笑っているとは思わなくて、ポカンとしてしまった。


 「あはは、だよね。そうだと思った」

 沙希は笑う。だけどその表情は…作り笑いだ。

 彼女が無理しているのはすぐに分かった。だけど俺は何も言えない。断った俺が何かを言えるはずがない。


 「うん…良かった。むしろ受け入れられたらどうしようかと思った。英雄が私の事好きになるなんて…そんな事…あるはずないもん」

 だんだんと彼女の顔から笑顔が消えていく。顔はどんどんと俯いていく。


 「沙希、俺は…「ごめん英雄。もう行って」

 言葉を続けようとして彼女がそれを遮る。すでに顔を確認できないほどに俯いていた。


 「…そうか。分かった。ごめんな沙希」

 「ううん……。それよりも…明日も…明日からも…私と…友達でいてね…」 

 俯く彼女からの最後の言葉。

 俺はその言葉に返答する事はなく、その場を立ち去った。



 外廊下を通り、校舎内まで戻ってきた。

 そうして近くの壁にもたれて天を仰ぎ、深いため息を吐いた。

 左手で胃をさする。ズキズキと痛んでいる。


 「…あぁ終わってしまった」

 ずっと逃げてきた事柄と向き合い終わらせたのに、そんな言葉が出てきた。

 逃げていたのは、避けていたのは嫌だったから。今までの関係が壊れてしまうのが嫌だったから。沙希と距離ができるのが嫌だったから。

 俺は…沙希のことが…。


 「おっ! 英雄はっけーん!」

 壁にもたれかかっていると聞き慣れた声が耳に入った。ゆっくりと顔を声のほうへと向ける。

 そこには大輔、恭平、哲也の姿があった。


 「よぉ…どうした?」

 「元気ないな英雄。どうした?」

 ニヤニヤ笑う恭平。こいつ、もしかして何かを知ってるな? まぁ聞くのも面倒くさい。ここは適当に流しておこう。


 「別に…ちょっとな。それより俺を探してたようだけど、なんだ?」

 「あぁ、佐和監督からの伝言だ。今日の後夜祭の後、部員全員で花火大会やるらしいから、今日は後夜祭終わっても帰るなって」

 「なるほど、それを言うために、俺を探していたと」

 「そうそう、携帯電話に電話しても繋がらなかったからな。もうすぐで終わりで暇だったし、みんあで回ろうと思ってな」

 そういって大輔は笑みを浮かべる。

 ずっと見てきて日常と化した親友の笑みを見て、少し胃の痛みが治まった気がした。


 「それでこの後みんなで回るのか?」

 「あぁ、龍ヶ崎と岡倉にも連絡つかないからな。そっちも探してる途中だ」

 「なるほど、同行しよう」

 あいつらもあいつらで何かをしているのだろう。

 正直二人のところに茶化しに行く気分ではないが、一人でいるよりかはマシだ。


 「…そうだ哲也」

 ふと妙案が浮かび哲也のもとへと向かう。


 「なに英雄?」

 「ちょっといいか?」

 そう言って哲也の肩に腕を回すと、恭平と大輔から少し離れる。


 「どうしたの英雄?」

 最初はいつものように冗談話でもするのかと呆れた表情を浮かべていた哲也だが、俺の真顔を見て、すぐさま表情を変えた。


 「哲也、沙希に告白された」

 俺が先ほどの出来事を口にするが哲也は思いのほか驚いていない。

 もしかしたら沙希から今日告白する事を聞いていたのかもしれない。


 「そして断った」

 「…なんで?」

 「そこらへんは今ゆっくりと話すことじゃない。沙希は今…食堂の前で泣いてる…」

 泣いてるかどうかは分からない。だけどきっと泣いている。あいつは、俺にもう泣いている姿を見せたくなくて、俺を追い出したのだろうから。


 「…英雄」

 ジッと哲也が俺を睨む。


 「お前も言いたいことはあるだろうが、それは後回しだ。今は…あいつのアフターケアを頼む。その役目はもう俺にはないから」

 そういって俺は口元を緩める。作り笑いになっているかは知らない。それでも、笑わないといけない気がした。


 「これからあいつを支えるのは、俺じゃなくお前の役目だ。…よろしく頼む」

 「……分かった」

 俺の頼みに哲也は少し間を置いてからうなずく。

 それを見て、やっと俺の頬は自然と緩んだ。

 そうして彼は食堂のほうへと走っていく。

 そんな哲也の後姿を見届けて、俺は大輔と恭平と一緒に歩き出す。


 大輔と恭平は何かを悟ったのか、哲也の事で何も聞いてこない。

 親友と何気ない雑談をしていくたびに先ほどの出来事が嘘のように感じていく。だがあれはまぎれもない事実だった。

 こうやって目を背けるなんて最低な行為だと思う。だけど今だけは目を背けて心身の安定を図りたい。


 今まで逃げてきた事柄と向き合う事となった高校生最後の文化祭は、こうして終わりを告げる。

 いや、俺の高校生最後の文化祭は、か。沙希のもとへと向かった哲也の高校生最後の文化祭はまだ終わっていない。頑張れよ哲也。今沙希の傍で支えられるのはお前しかいないんだからな。



 高校生最後の文化祭ももうまもなく終わる。その最後の最後で、僕の心は乱れていた。


 「沙希…!」

 親友の英雄に後押しされるように僕は渡り廊下を走り、食堂へと向かう。


 そうして見つけた沙希の後姿。

 顔は俯き、肩を震わせており、一定の間隔で鼻をすする音。時折嗚咽する声も聞こえた。

 そんな彼女を見て、一瞬ためらいが出来た。だけど一度目を瞑り、覚悟を決めて彼女へと声をかけた。


 「沙希」

 拳を握りながら、僕は沙希の名前を呼んだ。

 一度、沙希の肩がびくりと大きく跳ねてから、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 目から涙を流し、歯を食いしばって泣き声を押し殺している沙希の顔。

 その顔を見て今まで考えていた言葉が一気に吹き飛んだ。


 「哲也!」

 そう沙希は僕の名前を言うと、有無を言わせぬまま、僕の胸元へと飛び込んできた。

 驚きと動揺が一気に押し寄せる。頭は真っ白になり、ひたすら顔の下から聞こえてくる、沙希のくぐもった泣き声を耳にしていた。



 少しの間を置いて、やっと停止しかけた脳が動き始めた。

 そうして状況を理解していく。だけど理解すればするほどに混乱が深くなっていく。

 まさか沙希が僕の胸を借りて涙を流すなんて思ってもいなくて、想定の範囲外だった。


 どうすれば彼女は泣き止むのだろうか?

 どうすれば今の彼女を笑顔にすることが出来るのだろうか?


 なんて声をかければ良い? なんて励ませば良い?

 「大丈夫」なんて言葉は安っぽく感じるし、「英雄は最低だね!」なんて言えば、きっと沙希に嫌われてしまうだろう。


 英雄…。君だったら、なんて言って沙希を泣き止ませる?

 なんて言って沙希を慰める? なんて言って…沙希を笑顔にさせるんだ?



 何も言葉が出てこない。何をすればいいのかも分からない。

 ただただ彼女は泣くばかりで、僕はそれをどうすることもできず、虚空に浮いた両手の行き場すらも分からない。

 英雄だったら、きっとここもスマートに解決してしまうのだろう。僕みたいにどうすればいいなんて考える事もなく、正しい手順で彼女を笑顔にさせるのだろう。


 …あぁ、やっぱり僕は英雄の代わりになれない。

 分かっていたけど、やっぱり心の片隅では、もしかしたら英雄の代わりになれるかと思った。

 だけど今、身をもって痛感した。僕じゃ英雄の代わりになれない。


 沙希を笑わせる事も、沙希を喜ばせる事も、沙希に頼ってもらう事も、僕には絶対不可能だろう。

 英雄だからこそ、沙希は笑顔でいられて、いつも楽しそうで、いつも可愛かった。

 果たして僕に、そんな器量があるのだろうか?


 やっぱり、英雄は凄い。

 僕じゃ、沙希に対して何も出来ない。僕じゃ英雄の代わりは務まらない。

 沙希は、英雄といるほうがお似合いだ。僕じゃ物足りないだろう。


 空を見上げる。

 西日の赤い空が、僕の瞳に映る。

 沙希が泣くしばらく間、僕は空を見上げる事しか出来なかった。

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