279話
野球部引退の翌日、俺は間違えてエナメルバッグを持っていきそうになった。
「もう、使わねぇんだよな」
肩にかけたところで気づき、独り言をつぶやきつつ肩から下ろす。
「山田高校野球部」と金色の刺繍が施された野球部専用のエナメルバッグ。使ったのは一年ちょっとだったが、だいぶ汚れている。
今日からは、もう練習はない。練習中はあれだけ嬉しかった部活無しが、今では苦痛に思えてきた。
「英兄、おはよう」
「おうおはよう」
恵那が寝ぼけ眼で俺に朝の挨拶をする。
あくびを掻く恵那。可愛い。さすが我が妹だ。
一方、もう一人の妹はどたどたと朝から騒がしい。リビングに入ってきた千春は食パンを加えながら慌ただしくバッグの中身を確認している。
「千春、お前は朝から騒がしいな」
「うっさい! この後駅で待ち合わせしてんの!」
食パンを加えながらも器用に怒鳴る千春。
その様子を見ながら、俺は食パンにジャムをぬっていく。
「待ち合わせ? 誰だ?」
「べ、別に誰だっていいでしょ!」
赤面しながら怒る。何故そこで赤面する?
「ははーん、さては彼氏だな」
「うっさい! そんなんじゃない!」
からかう兄博道に顔を真っ赤にして怒鳴りながら、兄のすねを蹴飛ばす千春。
大袈裟に痛がる兄貴。朝から騒がしい連中だ。
それにしても千春、あの様子を見るに相手は……。
「千春」
「なに!!」
「恭平によろしく伝えておいてくれ」
不敵に笑いつつそんな言葉を千春にぶつける。
ただでさえ赤かった千春の顔はさらに赤くなっていく。やっぱり恭平なのね。あのクソ野郎。
「うっさい! 黙れ!」
そうして俺のすねまで蹴飛ばす千春だった。
「まったく、千春の奴。野球やめたとはいえプロに行く逸材のすねを蹴飛ばすとは…」
「いやはや、まさかあの千春に彼氏とはねー。っで英雄、相手は誰なんだ?」
ニヤニヤ笑いながら聞いてくる兄博道。
父はすでに出勤していないが、この場にいたら兄同様、ニヤニヤ笑いながら聞いてくる事だろう。血は争えないものだな。
「知らねーよ。俺は絶対に認めねーからな」
「その様子を見るに、お前の親しい友人だな? あーそういえばさっき恭平って言ってたな。本当に恭平なのか?」
ニヤニヤ笑いながら聞く兄。その笑顔に舌打ちをしつつ「あーそうだよ」と答える。
「マジかー! あいつ俺の義弟になるのか!」
「いや、俺はぜってー認めねー! あいつが俺の義理の弟になるとか絶対に認めねーかんな!」
なぜか嬉しそうにする博道。俺は絶対に認めない。絶対に認めないからなぁ!
朝飯を食べ終え、制服に着替え終えてさて出発というところで、玄関で恵那と出会う。
「あ、英兄! 英兄も今から?」
「おぅ」
「じゃあ一緒に行かない!」
無邪気な笑顔を見せる恵那。可愛い。さすが我が妹。さすがすぎる。
もし彼女に尻尾が生えていたら、今頃子犬のように振り振り尻尾を振っている事だろう。いかん、想像しただけで可愛すぎて殺されかけた。さすが我が妹だな。
「いいけど、友達とかと行く予定あったんじゃないか?」
「大丈夫大丈夫!」
なんて輝く笑顔なんだ。さすが我が妹。
「行ってきまーす!」
恵那が元気な声を出して玄関から出る。次いで俺も出る。
ちなみに俺は返事をしていない。別に恵那が俺の分もしてくれたはずだ、多分。
のんびりと山田高校へと続く道を歩きながら、恵那と久しぶりに兄妹で会話をする。
懐かしいな。小学校の頃は千春と哲也も入れて、四人でよく小学校に行ったものだ。
「あれ? 佐倉先輩じゃないっすか! チィース!」
そんな兄妹水入らず通学していると、目の前に現れたのは秀平。
それを俺は無視して通り過ぎる。
「待ってくださいよ佐倉先輩! 照れないでくださいよぉ!」
俺の右腕を掴みながら、秀平がニヤニヤしている。
こいつの狙いは大体把握している為、余計に連れて行きたくない。
「おはよう恵那ちゃん! 今日も一段と素敵だねぇ!」
次いで俺の隣を歩く恵那に挨拶する。恵那は屈託のない笑顔で挨拶をする。
そう秀平の狙いは、俺の妹だ。
まったく、野球部の連中は、なぜ俺の妹を好むのか。
小一時間、いや小十時間問い詰めたい所だが、面倒なのでやめておこう。
「お前、恭平みたいな事したら分かってんだろうな? 市中引き回しの刑どころか、世界一周引き回しの旅が始まるからな」
「えへへ、分かってますよ。佐倉先輩の前ではしませんから」
ニヤニヤした顔のまま、秀平が走り去る。
文句を言う前に逃げられてしまった。悔しい。
「英兄、新座くんがどうしたの?」
「…いいや、なんでもない。ちなみに恵那は秀平のこと好きか?」
「え? うーん、友達としては好きだよ。面白い話知ってるし、いつも笑顔で楽しいし。あっでも、恋愛感情とかは無いからね」
そう言って笑顔を浮かべる恵那。
良い発言だ。思わず頭を撫でそうになった。
千春に彼女の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
学校に登校し、友人と話す。
俺がエナメルバッグじゃない事に驚き、引退した事を言うと、みんな揃って「お疲れ様」と労ってくる。
そんなやり取りをすると、改めて野球部を引退した事を実感する。
まぁいつまでも感傷に浸っている余裕はない。俺達野球部は進路決めが他の連中に比べて遅れているだろうし、頑張って追いつかないとな。
席へと向かうと、恭平が崩れた笑顔を浮かべてなんか箱を見ている。
「よぉ恭平、なんだそれ?」
「あ、お義兄さん! おはようございます!」
「は? ぶっ飛ばすぞ」
とっさにそんな言葉が漏れた。前もお義兄さん呼びでひと悶着あったが、前のように関節技を決められない。
そうあの体育祭のあと、千春と恭平は交際を始めてしまったのだ。認めたくないが恭平の口から聞かされたし、認めたくないが千春からもぶっきらぼうに言われた。
いまだに信じたくない事実だが、悲しいけどこれ、本当なのよね。
「英雄でいいよ、お前にお義兄さんとか言われると、お前の関節二つか三つ外したくなるから。それより、なんだそれ」
「あぁこれ? これなんだと思う?」
そういって箱のパッケージを見せる。北海道で有名な銘菓だ。
そういえば先日、二年生は修学旅行で北海道に行っていたっけか。
「千春の奴がさー野球部引退お疲れ様ってさー修学旅行土産くれたんだよねー」
そういってデレデレとした笑顔を浮かべる恭平。
なんで俺は、友人と妹の惚気話を聞かされなきゃいけないんだ。
「これもう一生食えねぇよ。家宝にするしかねぇ!」
「腐るぞ」
「ふふっ何を言ってるんだよ英雄、例えこのお菓子は腐っても、俺と千春の愛は腐らないんだよ」
そういってキメ顔を浮かべる恭平。
なんだろう。最高に目を潰したい。
「クソが」
「キレんなよ英雄、確かに大事な友人がどこの馬の骨か分からない女に取られるのは辛いかもしれない。だがな、あいつは本当良い女だ。お前も一度会ってみれば分かる」
「逆だ逆! クソみたいなボケすんじゃねぇ! 大体お前なんかどうでも良いんだよ! 俺は千春がどこの馬の骨かも分からない奴にかっさらわれるのが嫌なんだよ! いや、どこの馬の骨かは分かってるけども…!」
クソが、どこの馬の骨か分かってるのが余計にタチ悪い。
そんな怒り狂う俺を恭平は無い前髪をかきあげながら「ふっ」と鼻で笑う。本気で関節外したろうかてめぇ。
「それより英雄、放課後用事あるか?」
「は? いや、ないけど?」
恭平が笑顔で俺に聞いてくる。なんだ? 彼女の紹介でもするとかいうのか? そんな事言い始めたらマジで一本骨取るからな。
「じゃあさ放課後、三年の野球部員一同でファミレス行かね? 誉と話してさ、一度みんなで会って進路の話とかで盛り上がろうって話になってさ」
「なるほど、それなら構わない」
確かに進路の話は一度しておきたかった。
野球を続ける者、野球を辞める者、野球と関わる道を選ぶ者、野球部も引退したしここらで部員たちの将来を聞いてみるのも悪くないだろう。
それに大輔。昨日の長田や一昨日の神田との会話での様子。一度あいつの進路について聞いてみたいと思っていた。
別段断る必要もなかったし、俺は素直に頷いた。
放課後、山田駅近くにあるファミレスに集う部員たち。
窓際の席を陣取り、一通り注文をし終える。
それぞれが、それぞれの会話をする。俺は恭平や誉と話す。
まさか龍ヶ崎まで来るとは思わなかった。しかも龍ヶ崎、しばらく見ないうちに岡倉と仲良く会話できるようになっているし、他の部員ともコミュニケーションがしっかりと取れている。だいぶ成長したな龍ヶ崎。
「それでさ、今日集まったの進路の話なんだけどさ、みんな進路どうすんだ?」
注文も届き、一度会話の流れが分断されたところで誉がみんなに聞いた。
「ちなみに俺は教員免許取るから伊原大学に進学予定」
「あれ? 山田大学にも確か教育学部あったよな?」
ちなみに山田大学は中国大学野球リーグの二部だが、硬式野球部が存在している。
甲子園優勝校のセカンドだったし、大学から野球推薦とかありそうだけどな。
伊原大学は隣町にある大学だ。野球部はなかったはず。
「いやぁ、野球ある所行ったら、勉強に集中できないからな。俺こう見えても、将来は教師になるのが夢だし」
そう夢を語る誉。こいつならきっと良い教師になれるだろう。
頭良いし、面白いし、きっとこいつの授業、さぞ面白い授業になるんだろうな。
「じゃあ将来は佐和先生二世か?」
「いやいや、高校の教員免許も取る予定だけど、目標は中学校の教師。…まぁ佐和先生みたいに高校野球の監督やるのも悪くないけどな」
そういって笑う誉。
佐和ちゃん二世か。案外、誉も監督になったら良い監督になるんじゃなかろうか?
「中村っちはどうすんの?」
続いて誉が横に座っていた中村っちに聞く。
「俺は頭悪いし別に大学行く理由ねーし、家も金ねーから就職予定。ここらへんで野球部ある会社って、県庁のほうまでいかないとないし、毎日そんな遠くに行けないから、市内の会社に入社予定。クラブチームとかで出来れば良いかなって思ってる」
中村っちは、自分の進路を照れくさそうに語る。
「俺はラーメン屋継ぐ予定かなぁ。まぁ華の大学ライフは過ごす予定だから、山田大学入学希望!」
そう話すのは鉄平。
「マジかよ、ラーメン食いに行くぜ」
「頼むぜ英雄。プロ野球選手が常連とか最高の宣伝になるしな」
「マズかったら、クソマズいってヒーローインタビューの時に宣伝しとくわ」
「そこは激うまって宣伝しといてくれよ」
そういって軽い調子で笑う鉄平。
「鉄平、食い物に妥協はするなよ」
「お、おぅ」
凄い真面目な顔をして鉄平にアドバイスする大輔。
さすが食事にこだわる大輔。友人相手でも妥協は許さないようだ。
「そういや山田大学に入るって事は、野球部に入部するのか?」
誉が質問すると、鉄平は大袈裟に右手を左右に振り、「入らない入らない」と答えた。
「華の大学ライフに泥臭さはいらねぇよ。まぁ友人と草野球チームとか作るかもしれんけど、もうガチで野球をやる事はないと思う」
「そうか、まぁ人それぞれだしな」
次の進路先に野球を続ける者もいれば、高校野球で野球から遠ざかる者だっている。それぞれの理由、思いがあるんだ。
共に野球をしてきた仲とはいえ、他人であることは変わりないし、他人がそいつの進路をグチグチ言うのも野暮というものだ。
「はーい! 私も山田大学進学希望でーす!」
そういって右手を高々とあげる岡倉。
「お前の頭で大学受かるのか?」
「英ちゃん酷い! それに最近は達也君とお勉強してるから、だいぶ賢くなってます! えっへん!」
そういって胸を張る岡倉。その行動が凄くバカっぽいぞ岡倉。
龍ヶ崎を見る。みんなの前でそんな発言をされたからか、どこか照れ臭そうにしている。
「龍ヶ崎のほうは、もちろん野球やるよな?」
俺が龍ヶ崎に聞く。龍ヶ崎は「あぁ」とさも当たり前と言わんばかりにうなずいた。
「プロ志望だが、俺の高校の実績だと指名があるか分からん。志願届は出したが、指名されなかったら、カードリーム丘城に就職だな。推薦来てるし」
カードリーム丘城は県内で唯一企業が運営する社会人野球チームだ。
創部したのはここ数年前だったはず。新進気鋭の野球部で、ノンプロの名将を招聘しているとか。
「先方はドラフトが終わった後も待っててくれるらしいし、まずはプロを目指す」
そういって龍ヶ崎は真剣な表情を浮かべた。
龍ヶ崎もプロ志願か。確かに龍ヶ崎の肩なら十分プロでも通用する気がする。
問題はバッティングか。木製バットに合わない選手はとことん合わないからな。龍ヶ崎はどうなのだろうか?
「ってかカードリーム丘城って俺行くところじゃん」
「マジで!? お前就職希望なの!?」
ここで恭平が声をあげた。思わず驚きの声をあげてしまった。一同も驚いている。
恭平なら女子大生目当てで大学に行きそうだったんだが、驚きだ。
「いやぁー早く一人暮らしがしたくてね。ついつい就職にしちゃったよ。まぁ大学行っても、出会いとかもう必要ないしな」
そう言ってこちらをニヤリと笑い小指を突き立てる恭平。その動きに一同歓声をあげるな。こらこら歓声をあげるんじゃない。恭平が調子に乗るから、お兄さんは認めないからな。
「それに早く養ってやりてぇんだよな。いつでも俺の家に来れるよう準備しておきたい。これが愛って奴なんだろうな」
なんかキメ顔かまして語る恭平。
こいつ、俺が思ってる以上に千春に惚れてるのかもしれない。でもまぁ結婚するためにしっかり地盤築いておきたいという発言は悪くない。絶対に俺は認めないがな。
「哲也は、どこ行くんだ?」
「えっと、その…酒敷美術大学に…」
「あれ? 哲也って、絵描くっけ?」
誉が哲也に聞く。その発言に哲也は言葉を濁す。お茶をストローで吸いながら遠くを見つめる。
察してやれよ誉。
「誉、哲也はあれだ。酒敷美大が大学野球リーグで四部だから、それを一部まで引き上げるのが夢なんだよ。なっ哲也」
「え? あ、うん! そうそう!」
「マジかよ。哲也攻めるなぁ!」
仕方がないので、俺が哲也のフォローをする。
確か哲也は中国地区の結構な大学から推薦が来てたはず、多分酒敷美大の野球部からも来てるんじゃないか?
ちなみに哲也の本心はあれだ。沙希と同じ大学に行きたいだけだ。
沙希も酒敷美大に行きたいとか言ってたからその為だろう。
視線で感謝をする哲也を見る辺り、俺の考えは合っているようだ。
「英雄はもちろん、プロだろう?」
「あぁ、今日の昼休みにプロ志願届けを校長に提出したからな」
その俺の発言に、それぞれが「おぉ~!」と歓声の声をあげた。
「大輔も、プロ行くだろう?」
この発言に乗じて、俺は大輔へと質問する。
だが大輔の表情は曇っていて、国体の時に見せた表情を思い返した。
「……いや、俺は行かない」
少しの間を置いてから、俺の質問に答える大輔。一瞬にして場が静まり返った。
「え、なんで?」
驚いてそんな言葉しか出てこなかったのは鉄平。
誉や恭平、龍ヶ崎は察していたのか何も言わず、中村っちや哲也は驚いた表情を浮かべて固まっている。岡倉も「えー! なんでよー!」とギャーギャー騒いでいる。
この発言は驚いて当然だ。
だってあの大輔がプロに行かないのだ。甲子園をならした大輔が、甲子園の本塁打記録を塗り替えたあの大輔がプロに行かない。そんなことがあってはならないだろう。
「俺は、これ以上最高の仲間に出会える気がしないんだ。本当、楽しかったんだ。だから、変にプロ入って、野球に失望したくない。だから、もう野球はやらない」
大輔の野球を辞める理由。
…なんて、なんてもったいない事だろう。
きっとスカウトだって、俺よりも大輔が欲しいはずだ。
そんなの誰だってわかること。俺だって悔しいけど認める。
大輔ほど、即戦力は居ないと。
彼がプロに入ったらどうなるのだろうか? 日本の本塁打記録を塗り替えるのではないか、メジャーリーグで本塁打王を狙えるのではないか? きっと誰もがそんな期待をしているだろう。
だからこそ、ここで大輔が野球を辞めるのはとても、とてももったいない事だ。
だけど、俺が大輔に言える事はなかった。
大輔だって悩んで出した答えだろう。きっと佐和ちゃんや佐伯っちにも相談したはずだ。そのうえで選び出した答えなのだろう。
だからこそ、他人の俺がどうこう言うつもりはない。
「そうか……まぁ人それぞれだしな。彼女と同じ大学行って、楽しい大学ライフを楽しめよ」
本心は隠してうわべだけの言葉をかける。
その言葉に大輔は笑みを浮かべた。
「おぅ」
大輔はうなずき笑う。俺は作り笑いを浮かべるのに必死だった。
今ここで否定すれば何かが変わるのだろうか?
……やめておこう。大輔の目は覚悟を決めた目をしている。
いまさら俺がどうこう言ってどうにかなるはずがない。
もし考え方を改めるとしたら、それはきっと大輔の内から来る感情だろう。
どうすれば大輔の心を動かせるだろうか?
そんなことを考えながら、今日という日は終わりを告げるのだった。




