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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
6章 Extra Inning
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268話

 9月2日、昨日から二学期が始まった。だけど英雄は教室にはいない。

 彼と三村君は今、神奈川のほうで高校野球のアジア大会に行っている。それも昨日で終わっている。どうやら今日も休みのようだ。

 明日からは土日だし、英雄が教室に戻ってくるのは来週の月曜になってからだろう。


 「おはよう沙希ちゃん!」

 「おはよう!」

 梓ちゃんが挨拶をしてくる。その挨拶に私は出来る限り自然が笑顔で答える。

 だけどやっぱり、朝見た英雄たち日本代表がアジア一に輝いたという新聞の記事を思い出して表情が暗くなってしまう。

 いや、いまさらだろう。英雄はもう、私の手の届かないところにいるのだから。


 「沙希ちゃん?」

 そんな私に梓ちゃんは不安そうな顔をしてみてくる。

 慌てて表情を戻し「なに?」と首をかしげてみた。


 「調子悪いの?」

 「うーん、まぁちょこっとだけ」

 「そう。調子悪かったら保健室に行ったほうが良いよ?」

 「分かってるよ」

 そういって私は作り笑いを一つ見せた。



 昼休み、私は屋上でぼんやりと空を眺めていた。

 座っているベンチはいつもの特等席。塗装がはげてボロボロになっているベンチ。ここだけはどの生徒も座らないから、私だけの特等席になっている。

 ぼんやりと空を眺めながら、英雄の事を考えては陰鬱な気分になる。

 去年の今頃、こんなことになるとは思ってもいなかった。まさか英雄がここまで遠い存在になるとは思わなかった。

 月曜から私はどんな顔をして英雄に会えばいいのだろうか?


 「沙希」

 嫌な事ばかり思い浮かんでいると聞き慣れた声が私を呼んだ。

 声の方へと振り向く。案の定そこには哲也が立っていた。


 「哲也。どうしたの?」

 「いや、ちょっとね。…隣座ってもいいかな?」

 「もちろん」

 そういって私は少しだけベンチに端による。空いたスペースに哲也が「ありがとう」と言いながら遠慮がちに座った。


 「どうしたの?」

 「いや、本当ちょっとした事。…沙希の事だし、英雄が優勝したの知ってるよね?」

 英雄の名前が耳に入り、ぴくりと私の肩が震えた。哲也は私を見ていないから今の動作と私の心象は見抜かれてはいないだろう。

 だけど、ここで英雄の名前が出てくるという事は、哲也なりに私の今の状態を察しているのだろう。


 「知ってるけど…」

 「英雄、今日の昼過ぎにはこっちに帰ってくるってさ」

 「そうなんだ…」

 哲也と私の間に沈黙が走る。

 哲也の要件はこれだけだろうか? こんな事を言う為に哲也はここまで来たのだろうか?


 「英雄が帰ってきたし、来週の月曜からまた騒がしくなりそうだね」

 「そうね…」

 哲也が沈黙を破っては私がそっけなく返答してまた沈黙が訪れる。

 そんなやり取りを数度した後、哲也は申し訳なさそうに立ち上がり「それじゃあまた」と言って屋上を後にした。

 残った私は、先ほどよりも嫌な気分に満たされながら空を見上げる。



 放課後、私は美術部に顔を出すことなく自宅へと向かう。

 今日の気分では絵を描く気にもならない。それに大学進学に向けての準備もしていかなきゃいけない。大学進学のほうも上手くいってなくて、なんだかここ最近の私はダメダメだ。


 「はぁ…」

 帰りの道中、深いため息を吐く。

 最後の曲がり角を曲がる。後はこの道を少し歩けば私の自宅だ。…っと、自宅の前に見知った顔があった。


 「お、来たか」

 その人は私に気づくなり左手をあげた。


 「…英雄」

 自然とその人物の名前を口にしていた。



 9月2日。昨日でアジア大会も終わり、今日は帰るだけ。

 わずかばかりではあったが共に戦った仲間たちと握手したり一言交わして別れを告げる。選手の多くとは連絡先を交換した。ここに集う選手の多くはプロ志願者だし、彼らとはプロ野球チームに入ってからも交流が続きそうだ。

 新横浜駅から新幹線に乗って、我が地元を目指す。

 最初の一時間は隣の席の大輔と馬鹿話をしていたが、大輔がいびきを掻いて寝始めた頃、俺は何気なく携帯電話を開く。


 「うん?」

 メールが何件かきている。適当に見ていく。そのメールの一つに哲也から来ていた。

 メールを開いて内容を確認する。優勝おめでとうと言うメッセージと、今日の授業に参加するのかというメールが来ていた。

 頑張れば最後の時間の授業は受けられるかもしれん。だが頑張る必要もない。俺達の二学期は来週の月曜日からだ。

 適当にメールを送り返した。



 時刻が13時を過ぎ、新幹線ももうまもなく大阪に到着する。そこからは別の新幹線に乗って最寄りの駅まで向かわないといけない。

 ふと携帯電話が震えているのを感じる。慌てて開くと着信がきている。哲也だ。


 「なんだ?」

 首を傾げつつも立ち上がる。隣では大輔がいびきを掻いて寝ている。ちょっとだけ席を外すか。

 通話デッキまでやってきて、こちらから哲也に電話をかける。数度のコールの後、哲也に繋がった。


 「もすもす?」

 ≪あ、英雄。ごめん急に電話しちゃって≫

 「気にすんな。それで何用だ?」

 ≪実は…沙希の事なんだけど…≫

 沙希の名前が出てきたので俺は口を閉じる。

 だが次の言葉が聞こえない。なので促してみる。


 「沙希がどうした?」

 ≪えっと…英雄が疲れてるのは分かるんだけど、今日の放課後に…沙希と会ってくれないか?≫

 「分かった」

 即答する。前々からアジア大会が終わったら沙希と一度話そうとは思っていた。

 どうせなら早いほうが良い。


 ≪あ、うん…それじゃあ、よろしく≫

 「おぅ」

 ≪あと優勝おめでとう。国体も頑張ろう≫

 「あぁ」

 こうして通話を切る。

 よし、家に帰ったあとの目的も決まった。早く家に帰らねばな。



 新幹線と在来線を乗り継いで山田市まで帰ってきた。

 山田駅で降りる俺と海前駅で降りる大輔とで別れる形、先に列車は山田駅に到着したので大輔とここで別れる。

 ちなみに佐和ちゃんと佐伯っちへの報告は明日でもいいとの事なので、大輔と話して明日の練習に参加しつつ優勝報告をすることにした。

 そうして山田駅から自宅へ。まだ千春も恵那も学校からは帰ってきていない。母に一言告げて俺は沙希の家へと向かった。

 時刻は六時間目終了してから数分ほど経過している。今頃帰りのホームルームでもやっている事だろう。



 沙希の家へと到着した。

 時刻を確認する。沙希はそろそろ帰ってくるだろうか? いや美術部に寄っていたら夕方まで帰ってこないのでは? …うーん、一言沙希に連絡しておくべきだっただろうか?

 少し悩んでから待つ事を選択する。哲也から頼まれたんだし、哲也の奴も一言ぐらい沙希に言伝しているだろう。

 そうしていると、曲がり角の向こうから俯きながら歩く沙希の姿が現れた。そうして顔をあげた沙希と目が合った。


 「お、来たか」

 左手を軽く上げる。沙希はあっけにとられた表情を浮かべながら俺の名前を呟いていた。



 急に押し掛けた形となったが、沙希は快く部屋へと招いてくれた。

 彼女が用意した冷たい麦茶を飲みつつ、彼女に甲子園からアジア大会優勝までの出来事を話す。

 その話を沙希はニコニコと笑いながら相槌を打っているが、その笑顔はどうにも自然さがない。いやこれを自然な笑顔という奴は鈍感ってレベルじゃないぐらいに鈍いだろう。彼女は明らかに作り笑いを浮かべている。

 そうして思い浮かんだのは阪南学園戦前日の出来事。だがあの話をここで切り出すのもあれだ。まずは順を追って話すべきだろう。


 「これで俺のここ数週間の話は終了だが、沙希、質問あるか?」

 ここまでずっと俺がしゃべり続けていたから一つ彼女に聞いてみる。

 彼女は首を左右に振った。


 「ううん、ただ英雄は凄いなって」

 「まったくだな。我ながら己の凄さに身を震わせてるよ」

 軽い調子で言うと彼女は乾いた笑いを浮かべる。貼り付けたような笑顔は変わらない。

 ここで嫌な沈黙が訪れた。だがその沈黙はすぐに俺が打ち破る。


 「それでだ沙希」

 「…なに?」

 「俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」

 真っすぐに彼女を見つめて聞く。

 沙希は肩をびくりと震わせた。先ほどまで見せていた笑顔が崩れていく。そうして彼女は視線を泳がせる。


 「そんなの…ないよ…」

 「甲子園二回戦の前日、あの話はどうしたの?」

 彼女は俺を見て、また視線を逸らす。彼女もあの日一件を思い出したのだろうか。顔を赤くしていく。いざ面と向かって言うとなると恥ずかしくなったのだろうか?

 俺は別に彼女に羞恥プレイをしたいわけじゃない。あの日から続いていた嫌な距離をここで無くしておきたい。


 「…言えないよ。だって…」

 俺の目を見る事無く、視線を逸らしながら彼女は弱々しい言葉を繋ぐ。

 顔は依然赤い、いや時が経つにつれて頬はより紅潮し、耳はすでに真っ赤だ。


 「英雄は…遠い存在だから…」

 かすれた声を絞り出し、沙希は本心を口にした。

 なんて返答しようか悩む事を言ってきたなお前は。遠い存在じゃなかったら、彼女は俺にあの日言えなかった言葉を伝えるのだろうか?

 ……さて、なんて返そうか。


 「遠い存在か。否定はしない。きっとこれからも俺はどんどんお前を置いていくだろう」

 きっとそうなのだろう。俺はこれからどんどんとやらないといけないことが出てくる。叶える目標はきっと一般人として生きていく沙希にはあまりにも遠いものだ。

 プロ野球選手になって、プロ野球で活躍して、メジャーリーガーになって、メジャーリーグで活躍する。そのどれもが俺の目標だ。この目標が位置する場所はあまりにも沙希には遠い。

 だからきっとこれからも彼女を俺は置いていくのだろう。


 「だけど、お前は俺にとって大事な友人の一人だ。会う回数も話す回数も減るかもしれない。だけどきっとこれからもずっと仲良くしていたい」

 沙希が本心を口にするように俺も嘘偽りのない本音を口にする。

 彼女には何度も助けられた。だからこそ彼女とは友人であり続けたい。出来る事なら親友の嫁さんになってもらいたところだ。


 「遠い存在だとお前は勝手に思ってるだろうが、お前が思ってるよりは俺は近い存在だからな。そこは安心しろ」

 そうして最後まで本音を語ったところで口を閉じる。

 さて俺の本心、沙希さんにはどれくらい響いたのだろうか。


 「……やっぱり英雄は、私の事…友達だと思ってるんだ…」

 沙希の声。どこか色っぽく聞こえた。

 彼女が俺の目を見た。赤い頬と潤んだ瞳がどこか妙に色っぽくて目を奪われそうになった。


 「私はさ…私は…。英雄の事…」

 震えた声で彼女が言葉を続ける。息をのみ、その言葉を待つ。

 電話では逃げたが、ここでは逃げない。面と向かって言われる以上は受けて立つのみだ。

 ここで沙希が一度視線を逸らした。目を瞑り一つ深呼吸をしてから彼女は決心したように俺を見てきた。顔は今にも爆発しそうなほどに真っ赤だ。それでも彼女の目にはもう迷いはない。


 「す…「姉ちゃん! 腹減った!」

 そうして彼女が言葉を言おうとした瞬間、バンッ!と大きな音を立ててドアが開く。

 ドアのほうへと視線を向ける。沙希の弟の大智が立っている。


 「あ! 英雄だ! なんで姉ちゃんの部屋にいるんだよ!」

 そうして俺を指差し驚く大智。


 「お前……マジかよ……」

 思わず俺は左手で顔を覆いながら俯く。 

 なんて良いタイミングでお前は部屋にくるんだ。大智、今のお前は恭平以上に空気読めてないぞ。あぁ駄目だ…あまりに空気の読めない大智の来訪に笑いが込み上げてくる。

 ちらりと沙希を見る。俯きプルプルと震えている。


 「大智!」

 「うおっ!?」

 怒鳴る沙希に急に怒鳴られて驚く大智。

 ダメだ…笑うな…ここで笑ったら俺まで何されるか分からん…。俯きながら腹の奥底から込み上げてくる笑いに堪える。プルプルと肩が震えた。


 「ちょっと出てなさい!」

 「え!? え!? なんで!?」

 戸惑う大智の声が聞こえた。そらそうだ。あの年齢ではまだ色恋沙汰なんて深く理解できないだろう。ましてやこの微妙な空気感を察するなんて、あの年頃の男の子には無理な話というものだ。


 「悪いな大智。お前の姉ちゃんとの話はすぐに終わらせるから、リビングで待ってろ」

 「良く分かんないけど分かったよ! 早く話終わらせてね!」

 訳も分からず怒られている大智は、どこか不機嫌そうに部屋を後にする。

 そうして残ったのは俺と沙希の二人。

 沙希を見る。がっくりとうなだれていた。それを見て、俺はゆっくりと立ち上がった。


 「沙希、仕切り直すか?」

 「…いい」

 うなだれながらも彼女は首を左右に振った。


 「大智を怒鳴って少し気が晴れた。…今日はやめとく」

 「そうか」

 落ち込む沙希と立ち上がり、彼女を見下ろす俺。


 「なんにせよ、俺はもうお前のその言葉から逃げるつもりはない。お前のタイミングで言ってくれ」

 「…英雄」

 俯いていた彼女の顔が上がり俺と目が合った。


 「あと念を押して言うが、俺は遠い存在じゃないからな。また遠い存在だのなんだの言い始めたら今度こそ胸揉むからな。恭平仕込みのテクニック覚悟しとけよ」

 「…サイテー」

 俺の軽い調子の下ネタに沙希は呆れ笑いを浮かべた。

 だけどその笑顔は、先ほど見せていた貼り付けたような作り笑いよりも断然素敵な笑顔だった。

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