258話
夏の甲子園決勝戦、春夏連覇を狙う隆誠大平安高校と甲子園初出場初優勝をかけて挑む我が校、山田高校。
夏の王者が決まるこの試合もすでに九回、最後の攻防が始まる。
スコアは2対0で我が校がリードをしている展開だ。だが相手は春の覇者、2点リードしていようと裏の攻撃で一気に逆転される恐れだってある。この点数では油断はできない。
マウンドで投球練習をする楠木を見つめる。
最終回も依然楠木に変化はない。淡々とボールを投げている。
ひどく落ち着いている。表情が変化することはなく常に無表情。汗こそ流しているが疲れている様子は一切ない。本当に機械なんではないかと思ってしまう。
あの様子ではこの回も我が校は三者凡退か。楠木からまともにヒットを打てているのは大輔のみ。今日出た4本のヒットのうち、3本は大輔のバットから出ている。
この回の先頭バッターは二番の耕平君。大輔にも打席が回る。今日3打数3安打と楠木からヒットを放ちまくっている男だ。
「大輔、この打席で打つ自信は?」
バッティングの準備を始めている大輔に俺は話しかけていた。
大輔の表情に慢心はない。すでに真剣な面持ちで打席を待ち構えている。
「あまりない。楠木はそれぐらいいいピッチャーだ」
三打席連続ヒットを放っている大輔ですらそう語る。
「英雄と同等クラスのピッチャーであることは間違いないだろう。それだけに気は抜けない」
そういって大輔はバットケースからバットを一本引き抜いた。
「……なぁ英雄」
「なんだ?」
大輔はバットをじっと見つつ俺の名前を呼んだ。
俺の位置からでは大輔の表情は確認できず、背中につけられた7という数字を凝視する。
「楠木との対決、楽しんできていいか?」
「はぁ?」
何を言ってんだこいつ?
「勝つとか負けるとかそういう次元じゃなくて、ただ単純に楠木との対決を楽しんできたい。英雄的にはもっと楽な点差にしてほしいと思ってるだろうからさ、聞いておきたくて」
そういって俺の方へと振り返る大輔。
その表情は笑っていた。先ほど見せていた真剣な顔はなく、無邪気に笑う子供のような天真爛漫な笑顔だった。
野球を覚えたばかりの子供のような笑顔。心底野球を楽しんでいなければこんな表情は生まれてこない。きっと大輔にとって、野球をやってきて一番楽しい相手なのだろう楠木という男は。
自然と俺の顔にも笑みが浮かんだ。
「そんなの俺に聞く事じゃないだろう。楽しんでこいよ」
元々野球なんか興味がなかった知りもしなかった大輔が、今こうして野球を楽しんでいる。ならば俺が止める理由なんてない。とことん野球を楽しみつくせばいい。
大輔が楽しんだ末に打ち取られようとも俺は何も文句を言うつもりはない。
「ありがとう」
そういって笑う大輔を見て、俺も穏やかに笑った。
ちょうどこの時、二番バッターの耕平君が打ち取られた。ネクストバッターサークルにいた龍ヶ崎が打席へと歩いていく。
大輔もそれを見て、ネクストバッターサークルへと歩んでいく。
「佐和ちゃん的に、大輔許せます?」
そばで俺と大輔のやりとりを聞いていたであろう佐和ちゃんにも意見を聞いてみる。
「許すに決まってるだろう。この場面、楽しめるなら楽しんだほうがいい。この時この瞬間は人生に一度しかないんだからな。楽しんだもん勝ちだ」
そういって佐和ちゃんはにやりと笑った。
あぁ、今の一言は佐和ちゃんらしい。やっぱりこの人を信用してついてきて正解だった。
英雄と話し、俺はゆっくりとネクストバッターサークルで腰を下ろした。
こんなにも気分が高揚しているのは初めてだ。きっと生まれてきて一番俺は興奮し、楽しんでいる。
心臓の高鳴りは止まない。打席に入る龍ヶ崎を見ながら、俺の出番はまだかまだかとウズウズしてしまう。
楠木との対決は楽しい。この一言にただただ尽きる。
俺の心をここまで震わせ、闘争心を煽ったピッチャーは今まで一人しかいなかった。だからこそ、ここで楠木と巡り会えたのは本当に嬉しい。
龍ヶ崎はフルカウントまで粘ったが、最後は低めのスライダーが空振りとなり三振に終わった。
仲間の三振を見たのに、俺は残念だと思う事はなかった。むしろやっと順番が来たと喜んでしまった。
「三村、頼む」
龍ヶ崎とすれ違う瞬間、悔しそうに表情を歪めながら俺へと思いを託した。
だが、今の俺は龍ヶ崎の思いを背負うつもりはない。俺はただ、俺が楽しむために打席へと入る。
「よろしくお願いします!」
抑えきれない興奮は声になって現れた。
普段なら何事もなく言う一言も、今日はやけに声が大きくなってしまった。
それぐらい俺は今、興奮に身を任せている。口元のニヤケを抑えるのに必死だ。
≪四番レフト三村大輔君≫
場内アナウンスが俺の名前を告げた。
スタンドにいる応援団は龍ヶ崎の応援歌から俺の応援歌へと切り替わる。
楠木を見る。前の打席よりも表情が引き締まっているように見える。そして相変わらず奴が纏っているオーラは英雄と酷似していた。
やっぱりあいつは英雄とそっくりだ。マウンドにいる時の立ち振る舞いも、一球一球にこめる闘気も、打席で立っているだけで背筋に寒気が走るのも、何もかも似ている。
大きく深呼吸を一つして構える。自然と意識はまとまり、楠木の一挙手一投足に集中する。
先ほどまで聞こえていた球場の喧騒は耳に入らなくなった。
自身の筋肉の何気ない動きすらも感じ取る。余分な力はいらず必要な力のみで楠木を待ち構える。
ここからは何一つもミスは許されない。わずかなミスすらも命取り、今の楠はそれぐらいのレベルの次元だ。
楠木が動き出した。彼のわずかな動きすらも知覚する。
初球は何で来る? 直球か、変化球か。いや考える必要はない。
来た球を打ち抜く。
それは俺が野球部に入部してからの二年間、ずっとやり続けてきた事だ。
深く考える必要はない。いや俺には不要だ。来た球に対応すればいい。
さぁ来い楠木。お前の初球を打ち砕く。
洗練された投球フォームから投げ放たれる第一球。
彼のピッチングフォームはかつて見た英雄のピッチングフォームを連想させた。
そのフォームから放たれたのはストレート。コースはインコース。
コース、球威、どちらも申し分ない一球。それを俺は打ち抜く。
空振りを恐れる事無く精一杯の力でバットを振りぬく。
両腕には確かな衝撃。金属バットの快音が球場に鳴り響く。
打球は高々と打ちあがり、レフト方向へと飛んでいく。
だがまもなく左へと大きく逸れていき、最後はレフトのファールスタンドに飛び込んだ。
マウンドに立つ男は、打球の行方を確認すると、すぐさまこちらへと顔を向けた。表情に笑みはなく、今日の試合ずっと見せてきた無表情は変わらない。
だが今投じたボールは、前の打席よりも明らか球威があった。俺を抑えようと躍起になっているというところか。そいつは面白い。いやそうじゃなきゃ面白くない。
楠木将成、お前の全力を見せてくれ。そのうえで俺が打ち砕く。
バットを握りなおす。先ほどよりも心臓の鼓動が速くなっているような気がする。次の球はまだかとソワソワしてきた。焦るな。すぐ次のボールは来る。
無駄についてしまう力を解きながら、次のボールを待ちわびる。
二球目、右腕から放たれた球はインコース高め、顔面スレスレに向かってきた。
それを俺は動じず見送った。顔面の真横を通り過ぎて、後ろのキャッチャーのミットに収まる音が響く。
キャッチャーがわずかに舌打ちしたのを聞き取った。ここは仰け反ってほしかったのだろう。だがこれぐらいの脅しで俺が動じるわけがない。
この打席は俺にとって一つの集大成でもある。この夏の最後の思い出になるはずだ。だからこそ、中途半端なバッティングはしたくない。
三球目、四球目と共にスライダーとフォークの変化球が低めに外れてボールトなった。カウントはスリーボールワンストライクとなる。
息を吐く。自然と肩の力が抜けていく。どうやら知らぬ間に肩に余分な力が入っていたようだ。
一度集中を解く。耳にスタンドの応援歌が入ってくる。
「かっとばせー大輔ぇ! 大輔ぇ! 大輔ぇ!」
吹奏楽部の演奏、手拍子、声援、どれも足並みそろった応援だ。県大会緒戦の頃はあんなにバラバラだったのにな。応援団もこの夏を通じてレベルを高めているようだ。
あの中に里奈がいる。あいつもきっと声を枯らして応援している事だろう。彼女に無様な結果は見せたくない。
だが今の俺はそれよりも自分の想いを優先したい。俺は自分が納得できれば無様なアウトになっても構わない。今はとにかく楠木とのこの対決を楽しみたい。
五球目に入った。
腕を振り上げる楠木、その筋肉のわずかな動きすらも見過ごすことはなく、俺はバットを握りしめる。
何一つ乱れのない完璧なフォーム。そこから投げ放たれるボールはアウトコースへのストレート。
ピクリと反応したがバットは振り出せなかった。そうして鳴り響くミットの乾いた音。
「ストライク!」
球審が声を張り上げる。
今のボールは手が出なかった。楠木を見る。彼の口元がわずかに緩んでいた。してやったりと言いそうな笑みだ。楠木が笑っているのを見たのはこれが初めてかもしれない。
フルカウントになった。ここからが本当の勝負。バッターと相手バッテリーの読み合い。直球勝負か変化球勝負か。
深く考えるな。いつも通りだ。三振になってもいい。打ち取られても構わない。満足いくスイングで締める。
「大輔ぇ! 楽しめよぉ! 後ろには俺が居るからなぁ!」
ネクストバッターサークルから俺の名前を叫ぶ英雄。
顔は疲れ切っている。だが今日はそれを感じさせないほどにピッチングが輝いている。どこにそんな体力があるんだ。まったく英雄は凄い奴だ。
あいつがいなければ、今ここに俺はいない。あいつが野球を勧めなければ、俺は怪物として世間を騒がしていなかっただろう。
英雄を見ながら俺は小さくうなずく。英雄は左手の親指を立てて笑顔を浮かべる。
目を瞑り、大きく深呼吸をする。
この時、この瞬間はもう二度と無い。ゾクゾクと興奮に身を震わせる。
楽しい。こんなに楽しい事があったのだろうか。
バットを構えなおす。目に見える景色が今まで以上に彩られているよう感じた。
グラウンドの土も、楠木の着るユニフォームも、その向こうに見える甲子園球場の緑も、空の青も、雲の白も、何もかもが美しく見えた。
俺は今、最高の時を過ごしている。
この景色を俺はきっと忘れる事はないだろう。
マウンドにいる楠木がゆっくりと振りかぶった。
力がスッと抜けて、リラックスしたような状態になる。だが決して必要な力は抜けていない。
来た球を打ちぬく、それが俺だ。俺がやってきたバッティングだ。
左足を振り上げた楠木の目から感じる闘争心。
完璧に抑え込もうとしている一球。
左足が地面に突き刺さると同時に、右腕が円弧を描く。
そして右腕から白球が解き放たれた。
世界が遅くなっていく。白球を目で捉えながら、全身全霊の一撃で迎え撃つ。
右足が回転し地面を深くえぐる。その力を腰が胴体が両腕に伝え、最後に両手で握る金属バットへと伝わった。
両手に確かな衝撃と重みを感じた。さらに力をこめてバットを振り切る。
聴覚が金属バットの快音を聞き取る。両手には気持ちの良い感触だけが残る。視覚が飛んでいく白球を収めた。体に残ったのはやり切ったという満足感のみ。
グングンと伸びていく打球を目で追いながら、俺はバットから手を離し走り出す。
歓声がどんどんと大きくなっていく。やがてそれは地鳴りのように球場を震わせる。
打ちあがった打球は隆誠大平安の選手たちが追うのを諦めるほどに高く飛んでいき、やがてレフトスタンド最上段に飛び込んだ。
今日二本目のホームラン。だが喜びはない。俺はあの打席の一振りでもう満足していたからだ。
ただ楽しかった。夢のような一時だった。心の奥底まで俺は興奮し幸福に満たされた。きっとあんな楽しい勝負は二度と訪れないのだろう。
俺は一つの答えを得た気がした。ここが俺にとっての野球の終着点なのかもしれない。
三塁ベースを蹴飛ばす。ホームベース近くに英雄が笑顔で俺の到着を待ち望んている。
その笑顔を見て俺も笑みを浮かべた。ありがとう英雄、俺を野球を勧めてくれて、英雄のおかげで俺は今を楽しんでいる。
ホームベースを踏みしめて、俺は英雄とハイタッチをした。




