242話
悲鳴が私たちの後ろのほうから起きた。
八回の裏、ついに均衡が破れた。英雄は打たれ、打球はレフトを守る三村君の前に飛び、三塁ランナーはホームインした。私は呆然とその様子を見ていた。
3対4。横浜翔星が九回を前にして勝ち越したのだ。
「そんな…」
隣で応援していた梓も言葉を無くした。
先ほどまで気にならなかった太陽の光がうっとうしく感じた。まとわりつく汗が気持ち悪く感じる。
英雄が打たれた。あの英雄が?
私も言葉を無くして、ただ呆然と立ち尽くす。
そばで応援していた女の子が泣き始めた。まだ負けてないのに、なんで泣いているんだ。
そういう私も視界がぼやけてきた。まだ負けてないのに泣くなんて最低だ。応援している私が先に泣いてどうする。なのに涙がこぼれそうで、慌てて目元をぬぐう。
「英雄君! 頑張れ!」
敗北ムードが漂う中で、梓だけが声を張り上げている。
そうして彼女に呼応するように応援団も必死に声を張り上げて応援する。
どこかやけくそな応援になっている。でも、私たちが先に諦めてしまっては選手に失礼だ。私たちは必死に応援する。
英雄はこの後、次のバッターをサードフライに抑えてマウンドを降りた。
九回の表、山田高校最後の…いや、九回の攻撃が始まる。
もしこのまま無得点で試合が終わったら、私は一体どうなるのだろうか。泣きたくはない。だって私はあくまで応援していた身だから。敗北に涙するのはプレイヤーだけで良いと思う。でもきっと泣いてしまうと思う。
「まだ、負けてないから」
一方、梓は強い。
両手を組み祈るように試合を見守る梓。
私も彼女に倣うように両手を組んだ。
一塁側スタンドから起きたやけくそな応援に呆れ笑いが出てきた。
あいつらきっともう試合諦めてんだろ。なんだよあの適当な応援は。馬鹿にしてんのか。
マウンドを駆けおりつつ、そんなことを胸の内で毒づいた。
ベンチへと戻ると、重苦しい空気が流れている。
弁天学園紀州の時も九回をビハインドで迎えたが、あの時よりも絶望感が凄い。
あの時は亮輔が馬鹿みたいに泣いていたが、今日は誰一人泣いていない。だが誰一人として口を開かない。
恭平すらも口を開いていない。先ほどの打球を捕れなかったことに苛立っているのか。どこか乱雑にグラブを置いて、珍しく険しい表情を浮かべて腕を組んでいる。
そこまで苛立つ必要もないのに、恭平は十分頑張っているし、十分助けられている。だけど今そんな事を言った所で恭平の事だから逆切れしそうだし、ここは放置しておくに限る。
ベンチの空気がどんどん重くなっていく。
点差では弁天学園紀州の時の方が離れていた。
だが弁天紀州から5点取るよりも、横浜翔星から1点取るほうが難しい。
今日の試合、俺達は嫌というほど横浜翔星の強さを思い知らされたからな。
紙コップにスポーツ飲料を入れて一気に飲み干す。
体が潤っていくような感覚、どうやら知らぬ間に水分を求めていたらしい。
「英雄、ごめん」
そうしていると哲也が謝ってきた。哲也のほうへと視線を向ける。
ってお前、今にも泣きそうじゃないか。キャプテンが最初に泣いてどうするんだ。
「僕がチェンジアップなんか要求しなければ…あそこはスライダーするべきだったんだ。くそ、悔やんでも悔やみきれないよ」
そうして今にも涙がこぼれそうなぐらい涙目になる哲也。
勘弁してくれ。涙目の野郎なんか慰めたくないんだが。大体なんでこいつこんなに落ち込んでるんだ。
「まだ負けてねーのに落ち込むなよ」
「英雄…」
「使い古された言葉でいうなら、諦めたらそこで試合終了だろ? キャプテンのお前が最初に諦めてどうすんだよ」
哲也を叱咤する。キャプテンが諦めたらチームの雰囲気が余計に悪くなる。
ここはむしろ哲也が率先して声を出して、応援するべきだ 。
「あと泣くな。貴重な水分を体から放出するな。水分補給しっかりしとけよ。ただでさえ防具つけて暑苦しいんだから。お前が熱中症になって途中退場なんかしたら勝てる試合も勝てなくなる。頼むぜ」
そういって俺は軽くプロテクターを叩いてやる。
ほほ笑みは忘れない。こういう局面こそ笑顔を浮かべるべきだ。笑顔は力になる。
俺の言葉を聞いた哲也は袖口で目元をぬぐった。
「…うん!」
そうして力強い一言。良いぞキャプテン。
哲也は優柔不断なところがあるが、一度決めたら曲がらなくなる。少なくともこのイニングは勝つ為に全力で挑むだろう。
「英雄」
もう一杯スポーツ飲料を飲もうとしたところで佐和ちゃんが声をかけてきた。
コップにスポーツ飲料を注ぎ、一気に飲み干す。
「なんです」
そうして佐和ちゃんの対応をする。
「お前は諦めているか?」
「は? 喧嘩売ってるんですか? ふざけた事言ってると監督だろうとぶん殴りますからね」
佐和ちゃんのふざけた質問に即答する。
それを聞いた佐和ちゃんは「ふふっ」と含み笑いをした。
「良かった。お前の心は折れてるじゃないかと心配してた」
「はは、一発ぶん殴ってほしいんですか? 殴りますよ本気で」
そういって笑顔で左こぶしを掲げて見せる。
俺の様子を見て佐和ちゃんは今度は大笑いをしてみせた。
「すまない。ジョークだ」
「つまらないジョークですね」
そうして軽い調子のやり取りをする。
なんだか懐かしい。ここ最近の佐和ちゃんはどこか切羽詰まっていたからな。窮地に追い込まれて吹っ切れたのだろうか。
「園田に敬遠の指示を出して悪かったな」
「別に、あそこではあれが最善策だったでしょ。結果的に失点しちゃいましたけど、あれは俺の力負けですよ」
「疲れはあるか?」
「もちろん。でも俺は今日の試合絶対投げぬきますよ」
もしこの回で終われば、もう俺は投げる事はない。
だが、そんなのは俺が認めない。まだ試合は終わっていない。この攻撃が準決勝最後の攻撃にはさせない。
この回でも決めてもいい。延長戦に突入しても良い。絶対に俺達が勝つ。試合終了のサイレンが鳴り響く時、俺は絶対に笑顔を浮かべていたいんだ。
「うん、今日は最後までお前に任せる。勝とうが負けようがな」
「勝ちますよ。絶対に」
そうして俺は視線をグラウンドに向けた。
箕輪が最後の一球を投げ終えた。右打席そばにはこの回の先頭の四番大輔が立っている。
「そうか、なら仕事を頼む」
「なんですか?」
「大輔に檄を飛ばしてこい」
そういってにやりと笑う佐和ちゃん。
その笑みを見て、俺も頬をほころばせ「お安い御用で」と軽い調子で答えた。
攻撃開始前にタイムを取り、大輔を呼び寄せる。
「どうした英雄?」
「大輔、箕輪から打てそうか?」
マウンドでこちらを見ている箕輪を一瞥してから、大輔へと視線を向ける。
大輔の表情は変わらない。
「五分五分だな」
「マジか」
大輔ですら五分五分の確率か。
箕輪も相当疲れているから、大輔なら打てそうな気がするんだが…。
「あいつらが勝負を避けたら打てないからな。だから五分五分だ。安心しろ、あいつらが勝負をしかけてきたら必ず打ってやる」
そういって大輔は自信満々の笑みを浮かべる。
お、お前、その発言格好良すぎるぞ。俺が女なら確実に落ちてた。
「英雄のほうこそ、思ったよりダメージ受けてないな」
「ショック受けてる余裕もねーよ。大輔、ホームラン打ってくれるとめっちゃ助かるが、ヒットを打ってくれれば、俺が必ず返すから、いつも通り頼む」
そう言って俺はこぶしを突き出した。
「あぁ任せろ」
にやりと笑いながら大輔は、俺のこぶしにこぶしを軽くぶつけた。
そうして打席へと向かう四番。その背中は相変わらず頼りになる背中だ。
「大輔ー! 頑張れー!」
大輔の背中に見惚れていると、女子の声が聞こえた。
この声は三浦さん? 声のほうへと視線を向ける。一塁ベンチのすぐ上のスタンド、フェンスのすぐそばで三浦さんがいた。
大輔を見る。立ち止まり三浦さんの方へと視線を向けた。そうして「任せろ」といわんばかりに小さく右こぶしをあげた。
これであいつは、つまらない凡退にはできなくなったな。彼女が見てる中で情けない結果は残すなよ大輔。
頼む。ヒットでもいいから出塁してくれ。そしたら必ず俺がホームまで返してやるからな。
「最終回! 勝つぞぉ!」
横浜翔星のキャッチャー長塚が声を張り上げた。
最終回と言ってろ。とっとと追いついて、逆にお前らを追いつめてやる。
スタンドの応援団の応援が始まる。
前の回よりもどこか乱れている感じが否めない。お前ら選手より先に諦めてどうするんだよ。思わず応援が始まった瞬間ずっこけるかと思ったわ。
ここは一糸乱れぬ応援で選手たちを鼓舞する場面だろうが、やっぱり頼りない応援団だな。
「大輔! 一本やっちまえ!」
「大輔ファイトぉ!」
もう応援団は頼りにならない。ベンチの俺達が盛り上げねぇと。俺と哲也が声を張り上げる。
それにつられて、落ち込んでいた選手たちが声を上げ始めた。それで良い。うちの四番の気合いを高めてくれ。
≪九回の表、山田高校の攻撃は、四番レフト…三村大輔君≫




