235話
「英雄」
就寝直前で哲也が切羽詰まった顔をして話しかけてきた。
ポットからコップに水を注ぎつつ対応する。
「なんだ?」
「えっと…その…」
言いづらそうに視線をキョロキョロさせる哲也。
なんだそのもったいぶった態度は。男のお前がやっても可愛くなんかないからな?
呆れつつもコップを口元に運びのどを潤す。
「…沙希と喧嘩でもしたの?」
そうして意を決したように真剣な表情を浮かべて哲也が聞いてきた。
水を飲む動きが止まってしまった。何故こいつはこんなことを急に言うんだ? 思わず動揺したしまうが、それを悟られぬ様にコップをテーブルに置いた。
「喧嘩はしてない」
「…でも、沙希がどうも、英雄の話避けてる気がするんだ。それに電話越しの沙希もなんか元気ないし。もしかしたら英雄と喧嘩したのかと思って」
言いづらそうに理由を答える哲也。
その言葉に俺は何とも言えない表情を浮かべる。
「英雄、やっぱり何かしたの?」
「まぁ、ちょこっとぐらいはな。この夏が終わったらどうにかしようとは思ってるよ」
「そっか。確かに今は野球で忙しいもんね」
「あぁ」
どこか哲也と薄い壁がへだててしまっているような感じだ。
気まずい空気が流れる。
哲也の奴、なんで今のタイミングで話してきた?
いや、理屈や理由なんてない。哲也は沙希が困ってるからどうかしたいと思っただけだろう。
逆に考えれば、哲也がこのタイミングでも話さないといけないぐらいに沙希の様子が変だったという事か。そういえば阪南学園との試合前日の電話から、俺は沙希と一切電話をしていない。
「でもさ英雄。野球で忙しいの分かる。だけど、沙希は今苦しんでるんだ。なんとかしてほしい」
今、それを言うか。
恋は盲目と言うが、それはまさにこの事を言うのだろうか?
哲也には今、横浜翔星の事は見えていない。沙希が心配で仕方がないのだろう。きっと試合が始まれば、試合に集中してくれると思うが、頼むぜキャプテン。お前がここで野球より恋愛をとったら、うちの優勝は難しくなるんだからな?
だが哲也が心配する気持ちも十分わかる。問題を先送りにしている俺だって、ひとたびを気を抜けば、沙希を心配しているし、罪悪感だってある。
ここは哲也が格好良く沙希を励ましてくれたほうが俺としてはありがたいのだが、問題の当事者としてはどうにかしないとなぁ。
「分かった。なんとかするよ」
「うん、お願い。沙希を救えるのは英雄だけだから」
そういって乾いた笑顔を浮かべる哲也。
救えるなんて大げさな奴だ。大体、沙希をこの状況にしたのは俺だろうに。
そんな哲也の対応に呆れつつも、さてどうしたものか。
問題の先送りは、これ以上難しい。
一度沙希と話し合うか? いや、電話越しで話し合った所で、沙希の気持ちを変えられるとは思わない。むしろこの前の発言もあるし、あっちに気を使わせてしまいそうだ。
…なんで俺は、明日明後日で勝負が決するっていう大一番を前にして、女の事で悩まなきゃいけないんだ…。
――5人のアピールを宙ぶらりんのままにするのは良くないんじゃないか?
いつぞや大輔に言われた言葉を思い出した。
女子への対応を先送りにし続けてきたツケが今回ってきたという事か。
ベッドに腰かけ頭を抱えて悩む。俺に問題解消の依頼をしてきた哲也はすでにベッドの中でおねんねタイムに入っており、耳をすませば静かな吐息が聞こえてくる。
寝顔を見る。なんて穏やかな寝顔なんだ。俺が発端の問題とはいえ、その問題解消を依頼してきた奴がこんな穏やかな寝顔で寝てるのが何とも腹立たしい。
一番の方法は哲也に任せる事だ。
俺は哲也と沙希がくっついてほしいと思っているから、ここで哲也の株を上げてほしいのだが、先ほどの様子じゃ哲也は依頼を受けないだろう。むしろ説教してきて、英雄がなんとかしろと言うはずだ。
でも俺が電話で何を言っても沙希には苦痛になるだけだろう。
悩み、悩んで、頭を抱えて大きくため息を吐く。
こんな事になるんだったら、あの時もっと話し合いをしっかりしておけばよかった。
こうなったら沙希の友人である女子達に依頼するしかないか。
沙希の友人で、俺の知り合いの女子を思い出す。
…どいつもこいつも、相談役になれそうな奴がいない。そもそも知り合いの女子自体少ないし、そのうえ沙希との知り合いなんて数える程度にしかいない。
「…あ」
途端に思い出す。一人いた。
頼れる女子がいる。彼女ならきっと相談役にもなれるはずだ。
でも、彼女に俺の面倒ごとを押し付けるのか。
「なんか、気が引けるなぁ」
なんて言いつつも、メール画面を開きてきぱきと文字を入力する。
相談したいことがある。
短い一言の文章を書き終えて、一度時刻を確認し、数分メール送信に悩んでから、やっとのこと送信した。
一通りの行動を終えて長いため息。明日に備えて高まっていた気分はすっかり萎えてしまった。目も覚めてしまったし、どうしたものか。
まもなく、あっちから電話がかかってきた。
画面を見る。「鵡川」と書かれた文字と電話番号を確認してから発信ボタンを押した。
「もしもし、鵡川か?」
≪うん! それより相談って?≫
彼女の声を聴いて気持ちが穏やかになるのと同時に、不安そうな彼女の声に罪悪感を覚える。
面倒ごとを任せてしまうのが、凄く申し訳ない。
「すまん、お前には無関係な事なんだけど…」
そう切り出して、彼女に用件を伝える。
電話の向こうの鵡川は、相槌を打ちながらも、しっかりと話を聞いている。
≪そっか、沙希ちゃんが…≫
「あぁ、俺の問題ごとだとは分かってるんだが、今の状況で鵡川に頼む以外対応策が浮かばなかった。小間使いにしてるようで、本当ごめん」
≪大丈夫だよ。私も沙希ちゃんの事心配してたから…≫
そういって彼女なりの最近の沙希について話していく。
どうやら沙希は、阪南学園との試合以来、応援にきていないらしく、前々から心配していたとの事。
「そうか、あいつ来てなかったのか」
≪うん。だから、私にも関係ある事だから任せて! 英雄君は明日明後日、頑張ってね≫
「あぁ、ありがとう」
彼女の優しい言葉に、俺は胸の内で何度も感謝をする。
少しの沈黙が訪れた。お互い何かを言おうとして、口に出せないような空気。
≪…その、沙希ちゃんの事好きなの?≫
「えっ?」
電話越し、周りが音であふれていたら聞き取れるかどうか分からないぐらいの小さな声で鵡川がつぶやいたのを聞き取る。
その言葉に少し悩んだ。一度哲也を見る。寝てるな。
「好きだよ。…っと言っても恋愛感情とかじゃないからな。それは無いから」
≪そっか、それなら良かった。…じゃあね!≫
「お、おぅ? じゃあな」
まもなく鵡川との通話が切れる。
通話が切れた携帯電話の画面を見ながら、ため息を吐く。
とりあえず問題は全て鵡川に押し付けた。あぁ、なんて最低な男なんだ俺は。
試合前日なのになんとも気分が落ち込んでいる。日付が変わる前に寝れるか怪しいなこれは。
鵡川との電話も終わりだ。倒れるように俺はベッドに寝転がるのだった。
英雄君との電話を切って、私はベッドから起き上がった。
そうして胸のドキドキを押さえつつ、一つ息を吐いた。
恋愛感情の無い好きか。沙希ちゃんがちょっと可哀想だな。
私は英雄君が好きだし、どう思ってるか知りたい。とても極小の確率でも、英雄君が私の事を好きだと思ってるかもしれない。まだそういう期待がある。
でも沙希ちゃんにはそんな希望はない。きっと沙希ちゃんも英雄君の感情をうすうす感づいているはずだ。
期待なんか出来ない。ぜんぜん進展しない関係。どんどん有名になって凄い記録を打ち立ててて遠ざかっていく英雄君。
きっと、沙希ちゃんも焦ってるんだと思う。
英雄君が見知らぬ誰かと付き合ってしまわないか? 英雄君が手の届かない遠い存在になってしまわないか? もう英雄君と話すことができなくなってしまうのではないか?
そんな不安が、きっと沙希ちゃんに付きまとってると思う。
私だって、英雄君の事を思い出すと、そんな嫌な考えしか浮かんでこない。私ですらこんな状態なのに、ずっと好きだった沙希ちゃんは、いつもそんな事を考えて苦しんでるんだと思う。
だから、せめて力になってあげたい。
ゆっくりと携帯電話を操作して、画面に電話帳を開いた。
そして「沙希ちゃん」と書かれた文字へと、操作してボタンを押す。
沙希ちゃんの電話番号を押して、発信をする。ゆっくりと耳元に携帯電話を押し当てた。
数度のコールの後、沙希ちゃんと電話がつながった。
≪もしもし? どうしたの?≫
声を聞いた瞬間、彼女の言葉に元気が無いのをすぐに察した。
英雄君の言う通りだ。こんな状態になるまで私は気づけなかったのか。
「もしもし? いま大丈夫だった?」
≪うん、布団に入って考え事してただけだから…≫
「そっか…。どんな考え事? あっ別に話さなくても良いんだよ。私は、ただ沙希ちゃんの力になりたいと思ったから」
この話題切り込みかたは、わざとらしかっただろうか?
でも沙希ちゃんは気づいていないようで、少しの沈黙のあと、ゆっくりと話し始めた。
≪…私ね、英雄に告白しようとしたんだ≫
その言葉を黙って受け止める。
英雄君からはある程度の流れは聞いていた。沙希ちゃんと気まずい空気になっていると、俺が問題を先送りにしたことで沙希ちゃんは傷ついていると。
きっと、英雄君が言っていた問題の先送りとはこの事なんだと思う。
≪もう、ずっと想うことに疲れちゃって、どうせなら告白して玉砕して、諦められればと思ったの…そしたら、あの馬鹿。言う直前に「余計な事考えさせるようなことを言わないでくれ」とか言い出したの≫
そう言ってため息を吐く沙希ちゃん。
≪英雄にとって、私の想いは余計な事なんだなって、そりゃそうだけど…ちょっとがっかりしたというか≫
力無い沙希ちゃんの声は、聞いている私すらも悲しませた。
なんとか元気づけたいけど、私はなんて言えば良いんだろうか?
≪なんで、こんな事になっちゃったんだろう…≫
ぼそりと、電話越しで呟いた沙希ちゃん。
何も言えない。言ってはいけない。今は聞くに徹する。それだけでもきっと沙希ちゃんは元気になってくれるはずだから。
≪英雄の笑顔を素直に見れなかった。ついついに反抗しちゃって、嫌な事ばっか英雄にやって…≫
自分の嫌な部分を、ぶつぶつと言っていく沙希ちゃん。
コンプレックスと言う言葉が、頭の脳裏に浮かんだ。
≪…自分が嫌な女だって分かってる。きっと英雄は、私の事が嫌いなんだと思う≫
「えっ?」
なに言ってるの沙希ちゃんは?
≪いつも暴力的で、何事も否定してて…≫
英雄君が、友達を嫌いになると思ってるの?
≪素直になれなくて≫
私が見ていた英雄君は、沙希ちゃんや、野上君や、三村君に裏表の無い笑顔で接する所だった。
だから英雄君は、沙希ちゃんの事嫌いじゃない。じゃなきゃ…。
「英雄君は沙希ちゃんのこと、絶対に嫌いじゃないと思う。じゃなきゃ、英雄君が私にこんなお願いするはずがないもん」
思わず感情のままに口にしてしまった。
きっと、これ以上沙希ちゃんが、自暴自棄になるところを見たくなかったのだと思う。
≪お願い? お願いって何?≫
「えっ?」
あっ…思わず口に出してしまった。
電話の向こうからの無言の威圧。仕方なく、英雄君から依頼されていた事を話した。
≪そんなことを英雄が…≫
「うん。別に騙すつもりは無かったの。私だって、今の状態の沙希ちゃんを無視できなかったし」
電話越しで弁明する。英雄君からは俺から依頼されたことは言うなよなんて言われてたから、凄く申し訳が立たない。
≪…本当に、英雄は…酷いよ≫
すすり泣く沙希ちゃんの声が、電話を通して聞こえた。
≪酷い。酷すぎる。あっちが嫌いになってくれなきゃ…私が嫌いになるしかないじゃん…≫
悲痛な声で沙希ちゃんは告げる。
離れなければ英雄君への想いは消えないのに、英雄君は離れてくれない。沙希ちゃんが可哀想だ。
「本当に英雄君の事嫌いになれるの?」
私の問いに彼女は黙ってしまった。
嫌いになれるはずがない。きっぱりと断られてもいないのに嫌いになる事も、諦める事も、避ける事もできるはずがない。
「私が言うのもあれだけどさ。嫌いになれないなら、避けられないなら、まだ諦めちゃ駄目だと思う。先のことはどうなるか分からないから、英雄君が沙希ちゃんの事を好きになる事だって、絶対にあるから。諦めちゃったらそこで何もかも終わっちゃうから」
自分に、そして沙希ちゃんに言い聞かせるように思いを吐露する。
私が沙希ちゃんと同じ状況なら、きっと諦めてしまう。英雄君から距離をとってしまう。彼を拒絶してしまう。だけど、そしたら何もかもが終わりなんだと思う。
それに今諦めたら、沙希ちゃんは一生後悔すると思う。だから、ここで諦めてほしくない。
しばらくの沈黙が訪れた。
すすり泣く沙希ちゃんの声だけが電話の向こうから伝わってくる。
私も何も言わないし、沙希ちゃんも何も言わない。
そんなことが数分ほど続いた後、電話の向こうから声が聞こえた。
≪ごめん。ありがとう、落ち着いた≫
「うん」
先ほどよりかは幾分元気な声になっていた。
彼女がどういう選択をするのかは分からない。でも私は言葉を続ける。
「まだ沙希ちゃんも私もどうなるか分からないからさ。諦めるべきじゃないとよ。想う事は自由だから
≪想う事は自由?≫
「うん。想う事は自由だよ。迷惑はかからないと思う」
≪…そうだよね、想う事は自由だよね≫
電話の向こう側で、沙希ちゃんの嬉しそうな声が耳に入る。
そこで私もやっと頬が緩んだ。
その後、少し会話をして電話を切る。
電話を切り終えて、重たい荷物を下ろしたように体が軽くなって、深く息を吐いた。
私もお人好しだ。
あのまま諦めさせれば、ライバルの数は少なくなっていたのに。
そうしてそんな考えが浮かんだ事に嫌悪する。
時刻を確認する。まもなく夜10時を迎える。明日に備えてもう寝よう。
英雄君は、もう寝ただろうか? …寝ててほしいと思う反面、今回の一件のことを考えて寝ててほしくないと思う私もいるのだった。




