232話
九回の表、弁天学園紀州の攻撃が始まった。
先頭バッターの一番忠岡が入る。
奴には先ほどの借りがある。あの時しっかりと煽った以上、ここで打たれるわけにはいかない。俺を睨みつけ闘志を燃やす忠岡。前五人のバッター以上に気合いを入れて投じる。
「しゃあああぁぁぁ!! 来いやぁ!」
犬のように吠える忠岡。うるさい奴だ。お前は静かな闘志というものを見せられんのか?
大体、ギャアギャア喚く奴ほど、大したことがねぇってのは相場で決まってんだよ。
初球はインコースへのストレート。
ゆっくりと振りかぶる。
鵡川良平、中村、松井、吉井、門馬。今まで戦ってきたバッターたちと比べる。大したことない。俺を怖がらせるほどの威圧感も無ければ、打たれそうという雰囲気すらもない。
これで俺を煽ってくるとはな。笑わせるなよ。
俺はお前なんかよりも高いレベルのバッターを抑えてきてるんだよ。
放った瞬間、白球は0コンマのスピードでマウンドかキャッチャーボックスまでの18.44mを駆け抜ける。そうして乾いたミットの音を響かせた。
忠岡はまったく動きがない。タイミングすらとっていなかった。
先ほど一塁上でやり取りした時の態度を思い出す。さっきの威勢はどうした?
興味は薄れた。もうちょい歯ごたえのあるバッターかなと思っていたが、大したことない。この程度なら俺の敵でもない。
二球、三球とストレートで押す。三球目はファールにしたが、あの様子ではヒットにするのは難しいだろう。
一球ストレートでボールにした後のラストボールはチェンジアップ。
投じた瞬間から忠岡がタイミングを外したが見えた。まもなく情けないスイングで空振りをする忠岡を捉える。
情けない表情で情けないスイングをする姿は悪くない。先ほどのこいつの煽りとニヤニヤした笑いが拍車をかけて実に滑稽だ。
さて忠岡の情けない三振もいただいて満足したし、残り二人もちゃちゃっと抑えちゃいますか。
二番田坪も力で押していく。
そうして追い込んでからのスライダー。今日はスライダーの切れも良い。今日七個目の三振に打ち取り、早くもツーアウト。
先ほどの守りで流れと勢いを引き寄せた弁天紀州だが、この回も三者連続三振に終われば、その流れと勢いもこっちに引き戻されるだろう。
歯ごたえがないな。大会ナンバー1の打線と言われているから、吉井や中村クラスのバッターがゴロゴロいるもんだと期待していたが、大した事がない。
≪三番ショート、西川君≫
「来たか」
弁天学園紀州の打線にがっかりしている中で、ついに今日のメインディッシュが左打席へと入ってきた。
ロージンバッグに触れつつ、にやりと口角を上げた。
西川雅紀。一年の夏から今年の夏まで五季連続でスタメンとして甲子園出場を果たしている甲子園の申し子。たぐいまれなバットコントロールと目を覚ますような鋭い打球を放つ今大会ナンバー1ショート。
やはり、前七人とは違う雰囲気をまとっている。ピリピリと静電気ような刺激が背筋を走る。
思わず俺はロージンに触れながら打者を見た瞬間、背筋がピリッとした。
打席に入る打者。さっきまでのバッター達とは違う雰囲気。
俺が弁天紀州のバッターに求めていたのはこれだ。中村や松井と同等、あるいは吉井や門馬クラスのバッターが並ぶ実力者。
意識を変えるように、深く息を吐き、今度は大きく吸って新しい空気を体に取り込む。
準備完了。さぁ勝負だ西川。
プレートを踏みしめて、帽子の位置を調整する。
わずかな感覚のズレも許さない。奴に一球たりとも甘い球は投じない。今日の試合で一番納得いくピッチングをここで決める。
バットを構える西川は威嚇のように吠えはしない。今まで戦ってきた弁天紀州のバッターの中で一番落ち着いているように見える。
五季連続で甲子園に出場し、甲子園の土を踏みしめてきた経験の差か。
哲也のサインを確認する。インコースへのストレート。俺は小さくうなずいた。
これまで以上に正確無比なコントロールで、これまで以上の球威をもって抑える。
1ミリのズレも許さない。完璧なピッチングフォームから完璧な一球を投じる。
左腕を力強く振るう。そこから放たれるストレート。それを西川は打ちに来た。
ボールはバットの上部をかすめ、わずかに軌道がズレた。そうして勢いを残したままバックネットに直撃する。
西川は打球の行方を気にすることなく、ジッとこちらを睨みつける。
二球目、今度はアウトコースへと逃げていくように変化する高速スライダー。
打たせるつもりはない。ここも空振り三振に仕留める。
左腕を振るい、哲也のミットめがけて投じる。
ストレートに近い速さで鋭く曲がるスライダー。それを西川は豪快な空振りをした。
さすがにこれを打ち返せないか。初見で俺のスライダーを打てるバッターは早々いない。それは西川も例外ではない。
西川は優れた選手であることは確かだが、何かが足りない。大事な何かが欠けている。
夏春夏春夏と高校三年間で五回連続で甲子園に出場しながらも、優勝旗とは無縁な三年間、それが西川が一つ何か足りない事を象徴しているだろう。
西川雅紀、高校三年間で誰よりも甲子園の土を踏んだ男。
甲子園の申し子ともてはやされながらも一度も優勝旗を手にしていない無冠の秀才。
門馬を越えるミート技術も無ければ、大輔に並ぶパワーも持っているわけでもない。吉井のような優れた打撃力もなければ、園田ほどの本塁打記録があるわけでもない。
優れた選手ではあったが、あと一歩、何か一つあれば、優勝に手が届いていたかもしれない。
ノーボールツーストライク。遊び球はいらない。ここで決める。
プレート踏みしめる。
三球目、最後はアウトロー一杯のストレート。
西川のバットは動いたが、俺のボールをかすめる事はなかった。
彼の空振りを見ながら、乾いたミットの音を聞く。
空振り三振。弁天学園紀州の九回の攻撃も三者連続三振で終わらせる。
ベンチに戻る。九回の裏の攻撃が始まる。
点差は4点差。泣いても笑っても同点に追いつけなければこれが最後となる。
亮輔がまた泣き出した。ベンチにもほのかに敗戦ムードが流れている。
この回の先頭バッターが八番の哲也だからだろう。まだ俺達の攻撃は始まったばかりなんだがな。
「まだ負けてねーだろ。諦めんな」
泣いている亮輔に声をかける。同時に負けるような空気感を払しょくするように俺は言葉を続ける。
「スリーアウトが宣告されるまで、俺達の攻撃は終わってねぇ。うちなら4点差ひっくりかえせる。泣く暇あるなら応援しろ。泣くのは負けてからでいいだろ」
「英雄の言う通りだ。俺まで回してくれれば俺が打つから、俺まで回してくれ」
さらに大輔も援護射撃をするように言う。
本当頼りになる一言だ。大輔なら打ってくれる気がする。
そう。八番哲也からの打順だが、ツーアウトからでも一番恭平に回る。そこから打線を繋いでいけばいい。まだ試合は終わっていない。まだ負けてはいない。
試合終わる前から勝利を諦める事は、スポーツにおいてもっとも愚かな行動だ。
八番哲也が打席へと入る。次の誉はすでに代打石村が出ることが決まっており、ネクストバッターサークルには石村が腰を下ろしている。
ここで代打で西岡を出せれば心強いのだが、奴は序盤で使ってしまったので使えない。佐和ちゃんには珍しい采配ミスだな。まぁ佐和ちゃんは今日の試合、色々と思い悩んでいたみたいだし、采配ミスが起きても仕方がないか。大体、過去を悔やんでいる余裕はない。
エース前久保はこの回もマウンドに上がる。怪我をおしての登板ながら、堂々としたピッチングで哲也を追い込んでいく。
そうしてツーボールツーストライクからの変化球を打たせてショートゴロに仕留めた。
まずはワンアウト取られた。相手のスタンドの熱が高まっていくのを肌で感じる。
九回4点ビハインド。早速先頭が打ち取られ、山田高校のサポーターはお通夜モードだ。応援歌もどこかバラバラで声量も小さい気がする。
サポーターがプレイヤーより先に勝利を諦めてどうすんだよ。
九番は代打の石村が入る。
ここで経験の浅い一年生しか代打に送れない所が山田高校の弱点であり、選手層の薄さを露呈させてしまっている。
石村は誉よりかはヒットを打てる可能性があるが、それも五十歩百歩だ。正直期待はできない。
ツーアウトで恭平か。
追いつめられてきたな。やっぱり亮輔が打ち込まれてもなお続投させたのは悪手だったな佐和ちゃん。これで負けたら俺達じゃなく佐和ちゃんに責任転嫁するからな。
なんて冗談を言ってるうちに石村もセカンドゴロに倒れツーアウト。
勝利を確信し大いに盛り上がる弁天学園紀州の応援席。かたや敗北を確信し応援が小さくなってしまった山田の応援席。
試合の流れは弁天学園紀州に傾いている。相手チームのプレイヤーもどこか勝利を確信しているだろう。俺達山田高校のプレイヤーの中にはどこか敗北を確信している奴がいるかもしれない。
試合終了直前の空気の緩み。
もし甲子園の魔物がいるとしたら、今この状況こそが現れるには絶好の場面だろう。
「まだ負けてないな」
大輔がつぶやいた。あぁ、まだ負けていない。
高校野球の長い歴史において、九回ツーアウトからの逆転劇は幾度となく起きている。ならば今度は俺達が起こす番だ。
「あぁ、まだ負けてない」
大輔の言葉に同調する。
ここで諦めてしまえば、それこそわずかに残った勝利の可能性はついえる。
勝利の女神は最後まで諦めなかったものに微笑むし、甲子園の魔物は最後まで諦めなかったものに味方する。
だから、俺達は決して諦めない。




