230話
細田にホームランを打たれて6対13の7点差まで引き離されてたところでタイムがかけられた。
マウンドに集まる内野手たち。
「…佐倉先輩、野上先輩…」
マウンドに行くなり、今にも泣きそうな顔で俺と哲也を見てくる亮輔。
点差が大きく離されたせいか、マウンドに集まった連中の空気が重い。
「あいつら俺を差し置いて打ちやがって…空気よめねーとか童貞かよー」
恭平が空元気を装う。こいつなりの思いやりだろう。
だが恭平のこういう態度が余計に絶望感を覚えされた。
重たい空気だけが流れる。この流れを変えるには一つしかないだろう。
ベンチを見る。佐和ちゃんと目があった。
さすがに遅すぎる。もうこれ以上はまずいだろう。普段の佐和ちゃんならとっくのとうに俺をマウンドに上げているはずだ。何を考えてるのか分かんねーけど、もう亮輔は限界だ。
俺は小さくうなずいた。佐和ちゃんも少し遅れてからうなずいた。
まもなくベンチから鉄平が飛び出し、審判のもとへと向かう。続いて西岡がベンチから飛び出してこっちに走ってきた。
「監督から伝令です。佐倉先輩、お願いします」
「あぁ」
秀平の手には俺のピッチャー用グラブ。
それを受け取りながら、俺は返事を返す。代わりに秀平から借りていたファーストミットを彼へと手渡した。
「さ、佐倉先輩…ごめんなさい…ごめんなざい…」
ついに亮輔が泣き出した。
右手を顔に当てて、エグエグと嗚咽を繰り返す亮輔。あふれ出る涙と泣き声にこの場の雰囲気は一気に重くなった。
その姿を見て俺は深いため息を吐いて、そして亮輔を抱きしめた。
「大丈夫だ。あとは俺に任せろ」
正直、男を抱きしめるなんて趣味じゃないが、後輩の情けない姿なんてこれ以上見たくない。ここは少し格好いい先輩を世間に見せておく狙いもある。
こういう行動が、のちに高校野球の名場面として残るわけだ。俺の株も上がりまくりというものだ。
「え…英雄…お前…嘘だろ…」
なんか恭平がドン引きしているが無視だ。
お前、こういうのが青春なんだぞ? 理解できないのか?
亮輔は女みたいに俺の胸元で泣いている。勘弁してくれ。女だったらまだしも男に胸元で泣かれるとか複雑なんだけど。
「なるほど、だから今まで女と仲良くしてる割に彼女いなかったんだな。納得だ」
ぎこちなく言葉を繋いで勝手に納得する恭平。
だからそうじゃねーよタコ。
「うっせー恭平。てめーは黙ってろ」
「わ、悪い。俺はお前がどんな趣味であっても仲良くするぜ…うん、俺は範囲外だよな?」
「だから黙ってろ! ちがぇっつうの!」
恭平と俺のいつものやり取りでだいぶ他の奴らの表情が和らいだ。
そうして胸元から亮輔を引き離す。まだ顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
「ざぐらぜんばいぃぃぃぃ…」
もう何を言っているのか分からないぐらいに鼻声だ。
その姿を見て苦笑いが出た。これが相手が女子なら最高のシチュエーションなんだがなぁ。
深いため息を吐きそうなのを堪えて、亮輔の頭に左手を置いた。
「よく頑張った。あとは俺に任せろ」
もう一度亮輔にそう告げて、不敵に笑って見せた。
「さて、とんでもないことになったな」
亮輔はベンチへと走っていった。彼の力投に一塁側スタンドからは労いのような拍手が送られる。
その中でマウンドに集まった俺達は顔を見合わせる。
「7点差か。しんどいな」
「だな」
「大体、佐和野郎遅すぎだろ。先に俺をマウンドに上げろっての」
それぞれが現状について意見を口にするが、今はこんな話をしている場面じゃない。
「それで英雄。投げれるの?」
哲也だけが俺に質問をしてきた。
俺は右手で左肩を軽くもんだ。疲れはまだある。だが投げれないわけじゃない。
「もちろん。俺を誰だと思ってんだ。弁天紀州なんて打線、俺の敵じゃねぇよ」
いつものように大口発言をしてにやりと笑う。
その言葉に哲也は渋い表情をした。こいつとは長い付き合いだし、俺が疲れているのを察したのだろう。
「分かった。でもくれぐれは無理をしないように」
「あぁ」
「それじゃあみんな、よろしく!」
そう言って一番に守備位置へと駆けていく哲也。
「そんじゃあ英雄、打球は俺のところによろしくな!」
「いやいや俺のほうにしろ! 恭平は頼りねぇからな!」
「んだと誉!」
なんて軽口を叩きあいながら、恭平と誉も去っていく。
「英雄、無理はするなよ」
「あぁ」
「佐倉先輩、今までファーストありがとうございました!」
「おぅ」
最後に中村っちと秀平も定位置へと戻り、一人マウンドに残された。
上体を仰け反らせるぐらいに大きく深呼吸をした。重い空気だ。だがまだ切り替えられる。
≪山田高校、選手と守備の交代をお知らせします。ピッチャー榛名君に代わりまして、新座君がファーストに入り、ファースト佐倉君がピッチャーに入ります≫
場内アナウンスが選手と守備の交代を告げる。
その瞬間、スタンドの空気は一気に変わった。
一塁側スタンドから起きる歓声と拍手、バックネット裏に座る高校野球ファンの拍手と歓声。
わかっていた。俺がマウンドに上がれば試合の空気が変わると、誰もが俺を待っていたんだ。マウンドで投げる姿をな。
投球練習は球数が少ないのでボールの状態だけ確認するにとどまった。
そして試合が再開される。
打席には五番程野が入る。この回、9得点の口火を切った先頭バッター。
気づけば打者一巡の猛攻となっており、程野はこの回二度目の打席となる。
息を吐いて、新しい空気を体内に取り込む。
意識を研ぎ澄ませ、哲也のみを見据える。
7点取れなきゃ俺達の負けなんだ。この試合が俺にとって高校野球最後の試合になるかもしれない。ならばのこり2イニングとちょっと。スタミナの出し惜しみはせず全力で投げ込んでいくのみ。
見てろ弁天紀州、忠岡のクソ野郎。
九回完投を気にせず短いイニングを全力で投げる俺のボールをお前らが打てるとは思えねぇ!
左腕をうならせて初球を投じる。
右バッター程野の胸元をえぐるようなストレート。程野のバットは出ない。
お前らが力で押し潰すというのならば、それ以上の力でねじ伏せるまでよ。
唸る。左腕が唸る。
何度も乾いたミットの音を響かせ、バッターが無様な空振りする姿を捉える。
一球投げるごとにスタンドの歓声は大きくなっていく。球場が熱を帯びていくのを実感する。
五番程野は三振にした。そして六番則藤も。
最後もストレート。低めいっぱいに決まるストレートに則藤のバットは出なかった。
「ストライィィィィクゥ!」
俺が登板して六度目のストライク宣告は二者連続三振を告げる宣告となる。
唖然とする則藤を一瞥して、俺はマウンドを駆け降りる。
スタンドからは拍手が起きた。
あそこまで弁天学園紀州に流れていた勢いは一気にこっちに引き戻された。マウンドへと向かおうとする丹羽を見つめる。
「エースってのはこういうもんだ」
ぼそりと呟いて、ベンチへと走っていく。
一塁側スタンドに陣取る応援団からこれでもかと祝福の拍手をもらいながら、ベンチへと引っ込んだ。
ベンチにに戻った瞬間、最初に見たのは亮輔の慟哭だった。
人目をはばからず号泣する亮輔。誰もが気まずそうに視線を逸らしている。
「おいおい、なに泣いてんだよ亮輔! たかが7点差だろ。俺らに任せとけ!」
「そうだ。俺に任せろ」
そんな亮輔を恭平が励ます。
さらに大輔が続く。こいつほど、今の一言が頼りになる男はいない。
このほか、龍ヶ崎や耕平君なんかも亮輔を励ましている。
「7点差。俺はまだいけると踏んだ。お前らなら残りの回で十分逆転できる。俺はお前らを信じる」
ここで佐和ちゃんが声を出した。
佐和ちゃんと目が合った。表情に迷いがあるのを感じた。その表情は普段は見ない監督の情けない顔で、なんとも腹が立った。
「なぁ佐和ちゃん。今回の交代遅すぎね?」
「…そんなことはない。点差が広がってるほど逆転した時の勝利は格別だろう?」
不敵に笑う佐和ちゃん。だが普段に比べて力がない。
佐和ちゃんが悩んだ理由は分かってる。分かってるからこそ、今言うべきだ。
「佐和ちゃん、俺を甘く見るなよ」
「………」
「これぐらいで壊れるなら、俺はそれまでだっただけの話だ。この夏を乗り越えてこその怪物だろう? あんたが先にビビってどうすんだよ」
低く鋭い声で感情をぶつけた。佐和ちゃんは無表情になった。
きっと佐和ちゃんは俺の将来を心配したのだろう。それは勝利と俺を天秤かけるほどに。
「俺の将来を決めるのはあんたじゃなくて俺だ」
さらに感情を投げかける。その言葉に佐和ちゃんは苦い顔をして、弱々しくため息を吐いた。
「…そうだな。俺も初めての大舞台でビビってたようだ。…だが、これで体を壊してプロ入り断念、あるいは現状の力を発揮でなくなるかもしれないんだぞ?」
「その時はその時だ。安心しろ野球できなくなっても落ちぶれねーよ。俺は一度野球離れてるからな」
ニヤッと笑う。ここでやっと佐和ちゃんの顔にも笑顔を見えた。
「あぁ、じゃあ任せた」
「おぅ!」
そうして佐和ちゃんとこぶしをぶつけ合う。
6対13で始まる七回の裏の攻撃。
俺達はまだ負けてない。勝負はここからだ。




