216話
八回の裏、山田高校は一番恭平から続く一転攻勢で3点をあげて、無事逆転を果たした。
4対2で迎える九回の表、阪南学園最後の攻撃だ。
二番バッター芝本、三番ピッチャー松井は簡単に抑えた。
どちらもまだ試合を諦めていない様子だったが、心の底で敗北を感じ取っていたのか。前の打席までの精彩が全くと言っていいほどなかった。
「つまらん…」
松井を三振に打ち取ったところで、俺は吐き捨てるように悪態をはなった。
お前らそれでも選抜準優勝校のキャプテンとエースか? それとも俺が凄すぎて打てるイメージが沸かなかったか? 前者なら納得できんが後者なら納得してやろう。
まぁここまではあくまで前菜。このメインディッシュに備えて気分を揚げる為の存在にすぎない。
ロジンバックに一度指先を触れた。
そうしてバッターと向き合う。右打席に入る男の表情、動作、雰囲気。あらゆる部分を観察した結果、あの男はまだ諦めていないと見た。
バットの先を小突きながら男はこちらを睨みつける。あぁ、良い表情だ。そうじゃなきゃつまらない。
≪四番サード吉井君≫
アナウンス嬢が打席に立つ男の名を告げた。
阪南学園のスタンドからは吉井の応援歌が流れ始める。
吉井がホームランを打とうとヒットを放とうと、阪南学園がここから逆転するのは絶望的だ。俺のボールを吉井の後続が打てるとは思えん。ましてやツーアウトから2点だ。吉井のホームランでしか点を取れていない阪南学園打線が、俺から2点ないしは3点取るなんてのは絶望的。
だから吉井。ここは男と男の一騎打ち。さしで勝負だ。
ゆっくりと吉井がバットを構えた。
睨みつける顔も、構えるフォームも、そしてその体があふれんばかりに感じる殺意にも似た闘志も、どれも俺のピッチングを引き立てる材料でしかない。
体があふれるんじゃないかと思うぐらいに俺の胸には闘志とアドレナリンが沸いている。
武者震いするほどに興奮している。甲子園という最高の舞台で、こんな最高のバッターと対決できるとは、怪物冥利に尽きるというものだ。
哲也のサインを確認する。
初っ端からインコースへの真っすぐと来たか。マジで最高だなお前。
投球動作へと移る。ワインドアップモーションからのオーバースロー。今日の試合すでに球数は100球をとうに越しているが問題ない。
この状況、このバッターを相手にして、俺が全力を出せないわけがない。
左腕を振るい、まず一球。
インコースをえぐるようなストレートに吉井のバットは出てこない。
乾いたミットの音が、ここぞとばかりに球場に鳴り響いた。
そして球審も「ここが俺の見せ場だ!」と言わんばかりに右手を力強く突き上げて、大声でストライクを宣告する。
甲子園球場のバックネット裏の観客席を陣取る歴戦の高校野球ファンすらも唸り、歓声をあげ、拍手する。今の一球は俺も納得できる一球だった。さすがの吉井も手が出せなかったか。
さて二球目、今度は俺から攻めさせてもらう。
帽子のつばを小さくつまんだ。これは哲也のサイン。マスク越しの哲也は小さくうなずきミットを構えた。全国大会初お披露目のフォークだ。
ここはボール球になってもいい。吉井が知る俺の球種はスライダー、カットボール、チェンジアップ、そしてストレートの四つのみ。この土壇場で第五の変化球がきたら、吉井を混乱させられるかもしれん。
俺のフォークは伝家の宝刀として去年の秋頃から覚え、磨き上げてきた。
まだ伝家の宝刀と自信を持って言えるほど精度は高くないが、こうして強打者の目くらまし、あるいは勝負を決める時には使える。
左腕を振るい、人差し指と中指で挟んだボールを投げ放つ。
低め。吉井のバットが動く。そしてボールはバットから逃げるように落ちる…!
吉井のバットが空を切った。応援歌と声援で喧騒に包まれる球場で、まさかバッターの空を切る音が耳に入ってくるとは思わなかった。
なんて凶悪な一振りなんだお前。もし仮にフォークを失投していたら、またスタンドに運ばれていたかもしれん。
だがここは俺が勝った。これでカウントはノーボールツーストライク、追い込んだ。
「すぅぅ…はぁぁぁぁ…」
投げ終えて、哲也からの返球を受け取ったところで、俺は緊張を吐くつもりで長いため息を吐いた。
楽しんで投げてるつもりなんだが、まだ緊張しているようだ。
頭の片隅に先ほどの吉井のバッティングを思い出した。悪いイメージというほど悪いイメージでもない。それだけ吉井のあのバッティングが美しかったからだろう。
吉井が女だったら今頃惚れてるなこれ。そんな軽口を胸の内で叩いて気を楽にさせる。
三球目、今度は外一杯のストレート。
ここでも吉井のバットが回った。
「っつ!」
背筋に寒気が走った。
来た。このスイングだ。大輔の野郎に引けを取らないぐらいにやばい一撃。
バットから発せられる金属音は轟音となって球場に轟く。歓声と悲鳴が沸いた。慌てて打球の行方を追う。ライト方向へと飛んで行った打球は大きな放物線を描き、そうしてそのまま、ファールゾーンのライトスタンドに飛び込んだ。
ライトポール右わずか10m程といったところか。歓声は一転して落胆のため息に代わり、悲鳴は一転して安堵のため息に代わった。
今のコースももうちょい内側に入ってたらスタンドに運ばれてた。
吉井の奴、マジで俺の親父の名を冠して佐倉二世なんてダサい名前で呼ばれるバッターじゃねぇだろ。同年代最強のバッター、あるいは今期最強のバッターと評価されたほうが、まだ正当な評価だ。
…まぁ吉井の上を行くバッターがうちにもいるし、今大会ナンバー1スラッガーは吉井じゃないらしいしな。今年の高校野球、噂通りのレベルの高さだ。
追い込みはしたが、逆に俺が追い込まれているような気がしてならない。
どうも吉井という男からマウントを取るのは難しいようだ。
阪南学園の応援団が陣取る三塁側スタンドの応援はさらに過熱する。
エースと四番の対決は野球の醍醐味の一つだ。それは当然この高校野球においても当てはまる。
むしろこの場面で応援が過熱しなきゃおかしい。阪南学園はここ数年古豪から復活したばかりだが、やはり往年の名門校だけある。応援団は一糸乱れぬ応援で選手たちを奮い立たせる。
それは相手チームの俺ですら奮い立たせた。
最高。マジで最高。こんな最高な場面をこの夏、俺は何回経験すればいいんだ!?
丘城の伊良部、斎京学館の鵡川良平、城南の中村、そして阪南学園の吉井優磨。
この熱い一騎打ちはこの夏あと何回経験できるだろうか? いやこれからの人生、あと何回経験だろうか?
魂まで燃え尽きてしまいそうなほどに熱い戦い。体の奥底から沸き上がる興奮。紙一重の戦い。
このままだと決着つける前に魂が燃え尽きてしまう。この一騎打ちの空気を楽しむのも程ほどにしなければな。
四球目、今度は高めに外れるストレート。
ここでも手は抜かない。吉井のバットがつられて出てしまうような一球を投げ放つ。
吉井の体がピクリと反応したがバットは出てこない。ミットの乾いた音だけがむなしく響き、ボールの判定となった。
これでワンボールツーストライク。遊び球はもういらないか。
打席に立つ吉井へと視線を向ける。次が勝負だぜ。
「…あぁ?」
っと吉井の顔を見た瞬間、素っ頓狂な声が出てしまった。
吉井の奴が笑っていた。どこか嬉しそうに、野球を覚えたての子供のような純粋な笑顔を浮かべている。
なんだよお前、そんな表情もできるのか。てっきり堅物な超生真面目野郎だと思っていたが、お前はどうやら俺と同じ穴の狢のようだ。
試合の結果とかどうでもよくて好投手との対決が楽しくて楽しくて仕方がない特殊性癖なんだろう?
「良いぜ変態。最後は王道の一球だ。前の打席のイメージしっかり持っとけよ」
ラストボールは九回の守りの前、ベンチから飛び出す前に哲也と軽く話して決めていた。
マスク越しの哲也の表情は一瞬曇ったが、悩みはそれで終わり。俺へとサインを送りミット構える。
ラストボールは低めへのストレート。先ほど吉井の野郎に打たれたコースに投げる。
どうしても先ほどの一撃が納得いかない。だからここに投げ込むと決めた。
これで吉井がヒットやホームランを打ったら、もう認めるしかない。幸い、先ほどの回で野手たちの活躍で2点のリードがある。
吉井のソロホームランだけなら、十分勝てる。
さぁ、お互い胸の中にある闘志や魂が燃え尽きないうちに決着をつけよう。
今回のお前の対決は最高に痺れたぜ。これならこの打席の結果がどうなろうと俺は素直に受け止められるだろう。
投球モーションへと移る。
視界は哲也のミット一点を捉えた。
両腕はゆっくりと振りかぶり、肩、腕、腹、背中、腰、尻、太もも、ふくらはぎ。体のあらゆる部位の筋肉は完全な一球を放つために必要な分だけ動き力を加えていく。
右足は上がり、左足一本で支えられる体はわずかのブレも起きない。
1mm、いやそれ以下の単位でブレやズレは許されない。
前へと突き出される右足は、寸分狂わぬ地点のマウンドを穿つ。
力は左手が握りしめるボールへと流れていく。
余すことなく力をボールにこめて、思いも乗っけて投じる一球。
ラスト勝負だ吉井。お前の一撃、見せてみろ!
「っぉら!」
言葉にもなっていない雄叫びを口から発しながら左腕を振るった。
投じた瞬間、体全体に伝わるビリっとした衝撃と指先のわずかな痺れ。この感覚は自身が最高の一球だと自画自賛できるときの感触。
放たれたボールは真っすぐに低く、低く、哲也のミットを目がけて走る。
迎え撃つは佐倉二世吉井優磨の一撃。大輔に負けず劣らずのスイングは、先ほどのホームランにさせた一撃を思い出させた。
ボールどころか、俺すらも打ち砕くつもりで振りぬいたんじゃないかと錯覚するほどの一振り。
背筋には先ほどから嫌な寒気が走っている。だが同時にその一振りに興奮する俺がいた。
轟音として球場に鳴り響いたのは……哲也のミットの音だった。
右打席上でバットを振りぬき硬直する吉井とミットを受け止め硬直する哲也。
ほんの一瞬の静寂が訪れて、球審が「主役は俺だぜ!」と言わんばかりに声を張り上げながら、右手を大きく空へと突き上げた。
「ストライクゥゥゥ!!!」
球審の判定。そして山田高校のスタンドからは地響きのような大歓声が沸き起こった。
吉井優磨を空振りに打ち取った。少しの合間それを理解するのに手間取ったが、理解した瞬間、意識よりも先に雄叫びとガッツポーズをしていた。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
スタンドからの大歓声に負けないほどの勝利の雄叫びをあげる。
勝った! …勝ったんだ!! 俺はあの吉井に投げ勝ったんだ!!
熱狂がまだ収まらぬ甲子園球場で山田高校と阪南学園高校は試合終了の挨拶を済ませる。
結果的には4対2。試合前、選抜準優勝校であり今大会優勝候補の一角阪南学園が勝利するという下馬評は覆った。ダークホースだのミラクルだの言われて過小評価されまくっている山田高校が、三回戦へと勝ち進んだ。
「ナイスピッチ佐倉」
試合終了後、吉井が握手を求めてきた。
彼の目には涙はない。むしろ清々しい笑顔を浮かべている。
「ありがとさん」
吉井の右手を握り返す。
熱を帯びたその吉井の右手を俺は強く握りしめた。
「正直、今まで野球やってきて一番相手したくない最悪のピッチャーだったよお前は」
「そりゃどうも。俺もお前とはもう二度と対決したくないね」
悪態をつきつつもお互い笑顔。
「俺らが取れなかったてっぺん、取って来いよ」
「当たり前だ。最初からそれしか狙ってねーよ」
そうして吉井からのエールを受け取り、手を放しその場を後にした。
試合終了後の校歌斉唱。
また野球できる日が一日伸びた事に喜びを禁じ得ない。
次は三回戦か。吉井レベルのバッターがいる事を期待しよう。




