215話
八回の裏、ワンアウト一三塁。
俺は今、三塁ベース上にいる。
「恭平! 無理すんなよ!」
三塁コーチャーは鉄平ちゃん。
俺は彼の顔を見ずに左手を軽くあげて答える。
さぁ三塁ベースまで来たぞ。どう暴れてやろうか?
さっきの龍ヶ崎の打席は相手に警戒されまくって一歩も動けなかった。そんなに俺がなんかするように見えるのか? いや、なんかするつもりだけどさ。
ベンチを確認する。監督からの指示はない。よしよし、ここでも好き勝手やらせてもらえるらしい。
打席にいる大輔にも目を向ける。大輔は相手ピッチャーをじっと見つめている。すでにスイッチが入っているようだ。
次に相手の守備位置、視線の動きも確認する。先ほどの打席と打って変わって、まったく警戒しているように見えない。一人を除いて。
サードを守る吉井は俺を睨みつけている。かなり警戒されているらしい。
「さっきはナイスバッティングだったな」
「そりゃどうも」
あまりに睨んでくるので話しかけるが、そっけない態度を取られる。
なんだ。俺と話したいわけじゃないのか。
「…お前ら、どういう攻め方してくるんだ?」
「はぁ? 知らねぇよ。好きにやれって言われたからな」
吉井がそれとなく聞いてきたので、俺は指示された内容を口にする。
だが吉井は納得していないようだ。
この場面、好きにやれなんていう監督と言わんばかりの顔をしている。まぁ冗談話にとられただろう。
「お前ら、マジで分かんねーわ。部員のほとんどが高校から野球始めたって聞いたし、エースはエースでホームラン打たれてもニタニタしてるし、なんか気味悪い」
「へっへっへっ。それが俺らの強みさ。野球一筋のエリート様には俺らの強みなんて理解できねーべ」
「あぁ、まったくだ」
そう呟いた吉井は、守備位置へと向かうためにサードベースから離れていく。
気味悪いか。確かにそういわれると気味悪い集団かもな。
でも、今の一言で分かった。
こいつらには俺の動きなんて読めないってな。
キャッチャーが立ち上がった。
ワンアウト一塁三塁の場面で敬遠? 次のバッターは英雄だぞ?
確かに大輔よりも英雄のほうが抑えられるかもしれないが、これは中々リスクのあるプレーじゃないか?
初球、高めにふわりと浮いたボールが投じられる。
打席から大きく外れたコースへと投じられる敬遠球。大輔もさすがに打てる場所じゃない。
キャッチャーの三好も俺を一瞥するが、返球するボールは緩い。
その瞬間、ビビッと俺の背中に電撃が走ったような衝撃。
良い事思いついた。一度ベンチを見る。指示はない。ここでもフリーだ。
大輔は俺を一度見てきた。
俺は小さくうなずく。頼むぜ大輔、高校一年の時からの腐れ縁のお前なら、俺が何かをしようとしているのを察してくれるだろう?
阪南学園の選手たちをまた確認する。先ほどよりも警戒されていない。誰もがこの場面、何もしてこないと思っている。
確かにこの場面、終盤で負けてて、俺は同点になるランナーだ。しかもこのまま何もしなければ四番は敬遠されて満塁のチャンスになる。リスクのある事はしてこないと誰もが思ってるはず。
警戒はしているが、どこかで油断している。攻めるならここだ。
さて二球目、今度も大輔は見送りボール。
キャッチャーは一度こちらを見た。目が合う。警戒はしているようだが、俺が今からやる行動までは読めてない。
さぁそのまま俺から目を逸らせ。呼吸すらも慎重になる。一分たりとも相手に俺の行動を読まれてはならない。あぁたまらない。今からやろうとしている事を考えると楽しくなってくる。
緊張はしていた。だけどそれを覆いつぶすぐらいに楽しいという感情があふれている。ここを決めたら俺は超絶格好いい。千春ちゃんだって確実に落ちる。最悪アウトになっても大輔なら何とかしてくれるさ。
キャッチャーが俺から目を離した。意識を集中させる。キャッチャーの動きを凝視する。何気ない動作でボールをピッチャーへと投げ返す。
その瞬間、指が離れるその瞬間、俺はホームに向けて走り出した。
「走ったっ!」
誰かの驚いた声が聞こえた。
もう目線はホームだけを捉えている。
慌てた様子で俺を見てくるキャッチャー、審判、そして俺を見てにやりと笑う大輔。
大輔がすっと打席から離れる。ホームベースまでの道が出来た。がら空きのホームベース。そこに俺は頭から滑り込んだ。
四番大輔の打席での二球目。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
気づけばホームベースに頭から滑り込む恭平がいて、慌てて恭平をタッチするキャッチャーがいて、そして両腕を左右に広げて「セーフ!」と声を張り上げる審判がいた。
球場が騒然とする。驚嘆と歓声が入り混じる球場で、同点のランナーとなった恭平は起き上がり、高らかに片腕を突き上げながらベンチへと走ってきた。
「マジかよあいつ…」
さすがの事態に佐和ちゃんも呆気にとられた声が聞こえた。
このグラウンドで誰一人として恭平の行動を予測したものはいただろうか?
八回の1点ビハインド、ワンアウト三塁でバッターは四番。しかもその四番は敬遠で自動的に満塁になるという大チャンス。その状態で同点ランナーがホームスチールなんて誰も予測も予想もしない。
「好きにやれとは言ったが、あそこまで好きにするとはな。馬鹿かあいつは!」
佐和ちゃんが大声を張り上げた。怒ってはいない。どこか嬉しそうな声。
おそらく佐和ちゃんですら恭平の行動は読めないのだろう。
だからこそこの作戦は成功したともいえる。
「見たかぁ! これが本物の盗塁って奴だぁ!」
吠える恭平。彼自身興奮を抑えきれていないようだ。
そんな彼を見て呆れ笑いをしてしまう。
「見たか英雄! お前の失態は俺の爆走で帳消しだ!」
笑顔を浮かべながら恭平が俺を見る。
悔しいがその通りだ。舌打ち一つしつつも俺は笑顔で迎え入れる。
「あーマジでお前はやばいわ」
「だろ! だから千春ちゃんとは婚約すっからなぁ!」
「バーカ、妹は絶対にやらねーよ」
なんて軽口をたたきあいながら恭平とハイタッチを一つした。
四番大輔は結局敬遠となった。
ワンアウト一二塁。二塁上にいる龍ヶ崎は勝ち越しのランナーだ。
そしてそのチャンスでタイムがかけられた。選手の交代。龍ヶ崎に代わって代走として鉄平が入る。
我が校では屈指の走塁のスペシャリスト。足の速さは耕平君や片井には劣るが、走塁技術と判断力ならば二人にも優るだろう。
佐和ちゃん、ここで勝負を決めに来たな。
阪南学園もここでタイムがかけた。マウンドに内野手が集まる。
すでに相手のブルペンでは控えのピッチャーが投球練習を始めている。背番号11番。確か三年生ピッチャーだったはずだ。
春の甲子園でも三試合で先発、リリーフで登板しており、大阪府大会でも何度か登板しているピッチャーのはず。
だが松井よりも打ちやすい。決めてやるぜ。
っと思ったが、相手ベンチは伝令係をマウンドに走らせただけで選手交代はしてこない。
このまま松井で勝負するようだ。
よし、それでこそエースだ。
松井と目が合う。闘志剥きだしの表情にこちらまで闘志が燃えたぎる。
試合が再開し、まず初球、アウトローに外れるストレート。
球速は140キロ前半を記録しているが、今のボールは明らかゾーンから外している。一度松井を見る。彼の一挙手一投足から、この回の相手の守りを予想する。
続く二球目も外に外れるストレート。ボール自体には力がこもっているが、ストライクに入れようという意志を感じない。
一度ベンチのほうへと振り向く。佐和ちゃんと目が合い小さくうなずく。
ネクストバッターサークルには中村っちがいるが、ベンチの様子が慌ただしく見えた。
この打席、相手バッテリーは俺との勝負を避けた。
ワンアウト一二塁で俺と勝負するより、ワンアウト満塁で後続のバッターと勝負したほうが抑える見込みが高いと判断したのだろう。
確かにその考えは悪くない。俺から後ろは徐々にバッティングの質が低下していく。次の中村っちは大味なバッティングで今日の試合松井に合っていない。七番秀平はまだまだ一年生で技術も経験も乏しい。八番哲也、九番誉は論外。
そのうえ、俺は先ほどの打席で松井からヒットを放っている。満塁策を取ってアウトできるポイントを増やすというのもうなずける。
阪南学園は基礎基本に忠実な堅い守備が持ち味だ。その守備力を信じての作戦か。
そうなると後続で1点か。厳しいか…。
「…いや」
先ほどの佐和ちゃんの動きを思い出す。西岡に出番があると言わんばかりの指示。
なるほど、まさか佐和ちゃんはここまで予測していたのだろうか?
西岡をここで代打か。確かにバッティング技術のみなら中村っちよりも期待できるし、あいつは恭平に負けず劣らずのお調子者。こういう局面でも緊張しないだろう。
三球目を見逃す。判定は当然ボール。スリーボールノーストライク。攻めてくる様子はない。
俺のバッティングで決めるつもりだったが、ここは後輩に手柄を譲ってやるか。
迎えた四球目、最後もボール球となりフォアボール。
松井はここで敬遠も含み三者連続フォアボールとなった。ボール自体は力が残っているが、三打席も続けてフォアボール投げてるとなると、ストライクの入りが甘くなるかもな。
まぁ、ここで決めるのは西岡だ。俺が深く考える事もないか。
一塁へと走りながらベンチを一瞥する。選手交代を告げるために一年の内谷が球審のもとへと走る。
ベンチから出てきたのは西岡と片井の二年生コンビ。佐和ちゃんが二塁上の大輔に手招きをしている。まさか…?
≪山田高校、選手の交代をお知らせします。六番中村君に代わりましてピンチヒッター西岡君、セカンドランナー三村大輔君に代わりまして片井君…≫
場内アナウンスが選手交代を告げる。
ここで大輔を下げるか。一度、塁上のランナーを確認する。二塁ランナーは片井、三塁ランナーは鉄平。これで龍ヶ崎と大輔の中軸二人がベンチに下がった。
佐和ちゃん、勝負をかけてきたな。ここで点が取れなかったら…。
いや、ここはポジティブに行こう。哲也と同じくネガティブに事を捉えるようになってはバッテリーとしての相性問題にも発展する。
最善のバッテリーはプラス思考とマイナス思考が組み合わせてる状態だ。
打席に入る西岡を見る。
打ち損じればチームの敗北につながる可能性があるこの場面において、経験不足の二年生に任せるのは少々荷が重い気がするが…。
西岡は表情に緊張はない。むしろ普段通りリラックスできている。嘘だろおい? まさかあいつ、この場面でビビんないのか? こりゃ驚いた。肝っ玉なのか、状況が読めてないのか分からんが、どちらにせよ、あいつの精神力の強さは飛びぬけているようだ。
なんだか、安心した。この試合だけじゃない。俺達三年生が抜けた後の山田高校野球部を引っ張ってくれるバッターがいる。
そんな確信を抱いた瞬間だった。
松井の投じた初球を西岡は決めた。オープンスタンス気味のバッティングフォームから綺麗に流し打ちされた打球は、鮮やかなまでに綺麗な一撃となって、一二塁間を割った。
マジかよ。ここで初球をライト前ヒットにするか。西岡の奴、恭平以上に頭悪いのかもしれんな。
一塁ランナーの俺は無理はしない。三塁ランナーの鉄平も楽々ホームインだ。しかし二塁ランナーの片井は自慢の脚力を生かして三塁ベースも蹴飛ばした。
打球はライト前へのゴロ。ライト広瀬はしっかりと助走をつけてからの矢のような送球をホームへと投じる。
並みの足ならホームでクロスプレーになっていただろう。大輔の足だったら下手すれば滑り込む前にはキャッチャーのミットにボールが収まっていたかもしれない。
広瀬は完璧なボールをキャッチャー三好のもとに投げ込んでいた。だが片井の足が一歩先行った。
三好がボールをキャッチしタッチする体勢に移ると同時に片井はホームに滑り込んでいた。そうしてタッチをかわしてホームベースに触れた。
俺はその一部始終を二塁ベース上という離れた位置から見ていたが、球審のセーフの判定ががくだされた時、ため息をついていた。
西岡の二点タイムリーヒット。
土壇場での逆転劇。松井はホーム近くで膝に手を当ててうなだれている。
山田高校のサポーターが陣取る一塁側スタンドからは勝利のムードが漂う。だが、まだ試合は終わっていないし、俺の戦いもまだ終わっていない。
俺はホーム付近から三塁ベース近くへと視線を向けた。そして吉井の姿を捉える。
ホーム近くでうなだれていた松井とは対照的に吉井の目はまだ死んでいなかった。良かった。そうじゃなきゃ俺が困る。
先ほどのホームランの借りをまだ返していないのだからな。
吉井優磨。次は絶対に打たれないからな。




