203話
七回の表、城南高校の攻撃。
この回の先頭バッターは四番中村。今日三度目の対決。
第一打席は三振、第二打席はショートゴロにしている。
「はぁ…」
息を吐いて脱力する。
そうして再び気を引き締めて、哲也のサインを確認する。
今日の俺は掛け値なしの絶好調だ。
自分でも恐ろしいぐらいに投じるボールすべてが完璧なものになっている。
それを示すように、ここまでの城南打線のヒットは0本。つまり現在ノーヒットノーランピッチング中だ。
だけど、変に意識して体が強張ることもなく、終始リラックスした状態で投げ込めている。
球数も変にかさんでいないし、しっかりと打たせて取る事も出来ている。
今日は打たれる気がしない。
腕を振り上げ、投球動作へと移る。
初球はインコースへのストレート。中村は打ちに来たが、打球は三塁線左へと転がっていくファールボール。それを見て、俺は再び息を吐く。
薩摩の怪童なんて言うから、スゲェバッターだと思っていたが、鵡川良平や大輔に比べたらはるかに劣る。今のボール、鵡川良平ならもっとスゲェ当たりにしてたはずだし、大輔なら下手したらスタンドまで運ばれていた。
確かに実績だけ見れば鵡川良平や大輔を大きく上回っているかもしれないが、県大会決勝戦のときの鵡川良平の発する威圧感や、大輔のパワーに比べれば怖くない。
いや、中村も十分すごいバッターだと思う。だがそれ以上に鵡川良平や大輔が凄すぎたという事なのかもな。
なんて考えてると、二球目のストレートを打ち返された。
打球はレフト方向へと飛んでいき、まもなくレフトポール左に切れてスタンドに飛び込んだ。
あぶねぇ、油断しすぎてたわ。
やっぱり中村は十分凄いバッターだ。俺らと一年でも世代が違っていたら、さぞや注目を浴びたことだろう。
だが残念、この世代には俺という怪腕と、大輔という怪物スラッガーがいる。
一球ボールにしたあとの四球目、投じたのはスライダー。
スライダーは、普段の何割増しぐらいの切れの良さと変化量で鋭く変化する。
その変化に中村のバットはついていけなかった。
この打席三度目のスイングは空振りとなり、三振。
バットを振り切った状態で、中村は悔しさをあらわにした表情を浮かべた。
バックネット裏にいる高校野球大好きなおじさま方もざわついている。薩摩の怪童のバットの快音を期待して来たはずなのに、まさかのノーヒット。
しかも初出場校のエースはここまでノーノーピッチング。四番は特大ホームラン。
本当、初戦の相手が有名な学校で良かったと思う。
おかげで今の俺の評判はありえないスピードで広まってる事だろう。
七回、我が校の攻撃へと入る。
城南のマウンドには依然エース福永。
初回の大輔の満塁弾以外は失点していない。ってか、あのホームランで目を覚ましたかのように好投が続いている。
と言っても制球が悪いのは相変わらずで、これまでに2個のフォアボールを出している。
だが投じるボールは力がこもっており、我が校の打線は打ちあぐねている。
この回もワンアウトから恭平にヒットを打たれるも、続く耕平君をキャッチャーフライ、三番龍ヶ崎をサードゴロに仕留めて無失点で切り抜けた。
さすがは神宮、選抜とエースナンバーつけて投げてきているだけあるな。マウンドでの立ち振る舞いはエースそのものだ。
そして仲間を信じて力投する姿は、チームメイトのみならず、スタンドで応援する応援団も奮い立たせている事だろう。
だが、こっちも負けるわけにはいかない。
一度帽子を深くかぶってから、マウンドへと走る。
八回の城南の攻撃。この回は七番から始まる。
前二打席ともに、七、八、九番のバッターは俺のストレートにタイミングすら合わせられなかった。
この回の打席で合わせられるとも思えない。
七番を空振り三振、八番をショートフライ、九番を見送り三振に仕留めて、俺はマウンドを降りた。
ここまで11個の奪三振。ノーヒットノーランと合わせて、かなりの絶好調だ。いや超好調というべきか。
でも、まだだ。
ノーヒットノーラン果たしても、怪物と名乗るにはギリギリ及第点と言ったところだろう。
もっと、もっと高みを目指さねばいけない。
「凄いね英ちゃん! まだ誰にもヒット打たれてないよ!」
ベンチに戻るなり、岡倉が笑顔で話す。
「そうだな。まぁ怪物になるって決めた以上、これぐらいはやらないとな」
「さすが英ちゃん! じゃあノーヒットノーラン狙っちゃおう!」
俺よりも意気込んでいる岡倉。
「あぁ、そうだな」
ドライな対応をしているが、ノーヒットノーランは本気で狙っている。
いや、今日の調子なら出来る気しかしない。
「英雄、いつも通りだ」
ここで佐和ちゃんが声をかけてくる。
いつも通りにやれば出来るか。まるで大輔みたいだな。でもまぁ、怪物ってのはそういうものなのかもしれない。
「はい、いつも通りやりますよ」
余裕の笑みを浮かべてみせる。
次のイニングを抑えればノーヒットノーラン達成だというのに、俺は緊張していない。本当、今日の調子は普段と比べるとおかしいな。
そして九回の表の城南高校の攻撃を迎えた。
スタンドの雰囲気が前のイニングよりもそわそわしているように感じる。
ノーヒットノーラン。選抜甲子園では2004年の七十六回大会で出たが、夏の甲子園では2000年代に入ってからまだ一度も出ていない。
ここで達成すれば、21世紀最初の夏の甲子園ノーノーピッチャーとして高校野球史に残るわけだ。
九回の城南の先頭は一番伊地知から始まる。
ため息を吐いた。これは意識のスイッチ。集中のオンオフを意味する。
息を吐くことで、俺は意識を研ぎ澄まし、神経をとがらせる。
自然と集中していく。見るのは哲也だけ。奴の示すサインに従って、奴のミットに投げ込むだけだ。ただ、いつも通りのピッチングをこなすだけ。
初球はインコースへのストレート。
必死にスイングする伊地知だが、バットは虚しく空を切る。
ストライク一つ取るだけで、山田高校応援団からは歓声が上がる。
二球目はアウトコースへのカットボール。
伊地知は打ちに行くも、バットは鈍い音を立て、打球は一塁線の右側に転がるファール。これで追い込んだ。
三球目、インハイへの釣り球。
振ろうとする伊地知だが、バットをギリギリ止めボール。
最終回に入ったのに、体に疲れを感じない。体は軽く、どうすれば最高の一球を投げれるのかが分かる。
四球目、最後に選んだのはスライダー。
これを伊地知のバットは捉えきれず空を切った。空振り三振。
大歓声に包まれるスタンドを気にせず、俺はつまらなさそうにため息を吐いた。
今日のスライダーは切れ切れだ。
奪った12個の三振のうち、7個は追い込んでからスライダーで奪ったものだ。
これが常にできるようになれば、怪物を自称していい気がする。まだまだその境地まで至っていないがな。
二番江口が打席へと入る。
この場面、普通なら緊張してしまうはずだが、今の俺は案外落ち着いてる。
初球、二球目と続けてストレートでストライクを取り、あっという間に追い込んだ。
そして三球目のボール球のチェンジアップを打たせて、ショートゴロ。
「おっしゃ! 任せろ!」
恭平が大声を張り上げて打球を処理する。
素早い動作で打球を処理してファーストへ。
ファースト秀平が捕球しツーアウト。
さぁあとアウト一つ。
ノーヒットノーランまで後一人。
いやに緊張することなく、俺は最後のバッターと対面する。
三番中間が打席に入り、ネクストバッターサークルには四番の中村が腰を下ろす。
中間の出塁を許せば、四番中村との対戦。
脳裏にわざとフォアボールさせてしまおうかなんて考えが浮かんだが、すぐにそれを否定した。
別に中村と対峙してもアウトに抑える自信はある。だだ、わざと歩かせるなんてマネは対戦校、城南高校を侮辱にしている行為だ。
ここは全身全霊をもって、中間を抑える。
まずは低めにチェンジアップ。
これを中間は打ちに来るもファール。
続く二球目はインローに外れるストレートでワンボールワンストライク。
三球目はインハイへのストレートで空振りを取り、ワンボールツーストライク。
スタンドの雰囲気はそわそわしている。
今ここに高校野球史に残る新たな歴史が生まれようとしている事を肌で感じているのだろう。
哲也が最後のボールを要求する。
最後もスライダー。俺は小さく頷いた。
ゆっくりと腕を振り上げる。
体に力みはない。筋肉の動きは正常、指先の感覚も異常なし。
頭の中には完璧なボールを投げるための設計図のようなイメージがあって、それに合わせるように体が動いてくる。
何一つ問題ない投球フォームから、自身の持っている最高の一球を投じた。
低めに鋭く変化するスライダー。
今日幾度となく城南打線から空振りを奪ってきたスライダーは、この打席でも空振りを奪った。
瞬間、スタンドから大歓声が沸き起こった。
今ここに高校野球史に新たな歴史が刻まれた。
「しゃあぁぁぁぁぁ!!」
胸の奥底から沸き起こる喜びや嬉しさ、驚き、あらゆる感情がごちゃまぜになって、それが雄叫びという形で体から溢れ出た。
さっきまでどこか冷めたようにピッチングをしていたはずなのに、いざノーヒットノーランを達成したら気持ちが高ぶっていた。
興奮は心臓の鼓動を早め、表情筋を緩ませる。
なんとも言い難い喜びが溢れ出て、嬉しさを抑えきれなかった。
試合終了の整列のために俺はマウンドを降りて打席付近へと走る。
相手ベンチを見る。ネクストバッターサークルにいた中村は立ち上がることができず、ベンチから出てきた選手たちに引っ張られている。
薩摩の怪童の最後の夏はあっけなく終わった。いや俺が終わらせたというべきか。
やっとのことで整列し、一礼。
顔をあげたところで相手校の選手と一つ握手をする。
「ナイスピッチ」
そう言ってきたのは俺の目の前にいた福永。
泣きそうな顔をしているが、それを必死にこらえたような笑顔を浮かべている。
「お前のほうこそな」
初回の大輔のホームランがなければ、我が校は苦戦を強いられていただろう。
現に、我が校の今日の得点は大輔の満塁弾の4点のみ。二回以降は0点行進だった。
結果としては我が校が4点差つけての勝利ではあったが、完勝というよりは辛勝と言っても良いのかもしれないな。
バックネットの前で、センター方向に体を向けて整列する。
流れるのは我が校の校歌。
「なぁ英雄」
「なんだ恭平?」
「お前、校歌覚えてるか?」
恭平が小声で聞いてくる。
何を言ってるんだこいつは? 校歌を覚えてるかだと?
「覚えてるわけねぇだろ」
「だよなー」
満面の笑顔になる恭平。
それを横で聞いていた哲也が「校歌ぐらい覚えようよ…」と呟きながら頭を抱えていた。
試合終了後の勝利した学校の校歌が甲子園に流れる風景。
甲子園の中継で何度も見てきた光景だ。それは勝者のみに許された特権。
だからなのか、校歌を耳にして、やっと俺は勝利したのだと実感する。
俺はまだ野球をやれる。こいつらと一緒に野球が出来る。そう考えると素直に嬉しくなった。




