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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
6章 怪腕夏に唸る
164/324

163話

 「わ、わりぃ…」

 マウンドにやってきた中村っちは顔面蒼白で開口一番に謝罪の言葉を述べて、頭を大きく下げた。

 目に見えて反省している。別に責めるつもりはない。

 あの場面、中村っちの判断も分からなくもない。

 得点圏である二塁ランナーが居なければ、伊良部の力も半減する。今日の試合で改めて分かったのだが、伊良部はマジで得点圏にランナーがいないとアホみたいに打てない。

 そういうバッターがネクストバッターサークルにいたんだ。二塁ランナーをアウトにしようという考えは妥当といえば妥当だ。


 「気にすんな。むしろ伊良部と再戦出来てありがてぇ」

 一つ中村っちに感謝をした。

 中村っちが抱える失敗への罪悪感を軽くするために言ったのもあるが、感謝の気持ちは本当だ。

 俺は、伊良部にリベンジ戦をできる事がスゲェ嬉しかった。


 「3点差ビハインド。ホームランが出れば同点。伊良部は間違いなく、ここでホームランを狙ってくる。打たれれば同点、こんな場面で伊良部と対決できるか…最高すぎるぜ」

 欲を言えば逆転される場面で伊良部と対決したかった。

 それでも伊良部と刺すか刺されるかのこの場面で対決出来るのはありがたい。


 「英雄には悪いけど、ここは勝負は避けるべきだ」

 ここで哲也が意見を述べてきた。

 キャプテンとして、チームの事を考えた発言。

 間違いではない。むしろチーム同士の勝負という観点から見れば正しい選択だ。

 だが…。


 「避けるなんて弱っちい真似してるようじゃ、斎京学館にも…甲子園で待ってる強豪にも勝てねぇぞ哲也」

 得点圏打率10割の男伊良部と得点圏にランナーを置く場面で対決できるんだ。

 簡単に俺は引くつもりはない。

 ここはチームよりも、個人の意見を優先したい。


 哲也と俺が睨み合う中で、ベンチから伝令である鉄平がやってきた。


 「はい! 監督からの伝令だ!」

 明るい鉄平の声がマウンドにいる選手達全員の耳に届いた。

 俺と哲也も彼の方へと視線が向いた。


 「監督は同点まで許すから好きにしろだそうだ」

 「さすが佐和ちゃん、分かってるな」

 佐和ちゃんの伝令を伝える鉄平に、俺はにやりと笑った。

 そうして哲也へと視線を向ける。


 「哲也、ということだ」

 「…分かった。伊良部とは勝負しよう」

 監督の伝令を聞いた哲也は、反抗心を胸に閉じ込めて頷いた。


 「大丈夫だよ哲也。やばくなったらアレがある。だから、安心しろ」

 そういって俺は左手の拳を哲也に向けた。

 俺の挙動を確認した哲也は、一度俺の顔へと視線を向けて、小さく微笑み、右手拳を俺の差し出した拳に軽くぶつけた。


 「おっしゃあ! そう来なきゃな! 良いか英雄! 俺の所に打たせろ! スーパープレイで勝って、夜も千春ちゃんにスーパープレイをしてやるぜ!」

 「恭平、後で覚えてろよ」

 兄の目の前で、なに妹にふしだらな事をすると宣言してんだこいつは?

 いや、恭平らしいと言えばらしい発言か。おかげで一気に緊迫した空気が、どこか気の抜けた空気に変わる。


 「英雄、打つ方はダメだが守備は任せろ! 恭平とのハイパープレーで併殺打に仕留めてゲームセットしてやる!」

 「よっしゃ誉! 二人のスペシャルプレイで千春ちゃんをメロメロにさせてやろうぜ!」

 誉の良いのか悪いか分からない発言とそれに乗っかる恭平。

 そうして何故かグラブタッチをし合う二人。

 お前らはもうちょい気を張り詰めろ。お調子者すぎんだろ。


 「英雄、次は絶対にミスらないからな」

 そう意気込む中村っち。


 「あぁ頼んだぞ」

 変に意気込みすぎてまたミスらなきゃ良いけどな。


 「秀平、お前も頼んだぞ」

 「はい! ファーストとしてどんなボールでも対応します!」

 秀平は力強く返事を返した。

 城東戦の朝に見せた緊張にまみれた表情はもうない。立派な一人の選手としてここにいる。

 頼むぜ秀平。うちの内野手、曲者ばかりだから大変だろうけど、お前だけが頼りだ。


 「そんでもって、俺もハイパープレーで恵那さんをメロメロにさせます!」

 …こいつもダメだったか。


 「おぉ! 秀平やるなぁ! 恭平秀平の平平コンビで佐倉家に殴り込みするぞぉ!」

 「うっす!」

 おい秀平、恭平の馬鹿な発言に乗っかるな。


 「みんな、もうちょい集中しようよ…」

 ここでキャプテン哲也からの小言が飛んだ。

 安心しろ哲也。こいつらこう見えて試合が始まれば集中してくれる。そこらへんの分別は一人(恭平)を除いてしっかり出来ている。


 お調子者ばかりの内野陣に呆れる哲也だったが、最後は微笑みながら選手たちを見渡した。


 「それじゃあ、しまってこう!」

 「おぅ!」

 最後に哲也の号令に全員で返事を返して、各選手が守備位置へと戻っていく。

 一人残された俺は帽子を目深にかぶり直す。


 深く長い息を吐きながら、右打席近くで待っていた伊良部と目を合わせる。


 彼は薄ら笑いを浮かべていた。

 まるで逃げなかった俺たちに対して、喜んでいるように見えた。

 同時に、脳内には初回に打たれたホームランの時のイメージが浮かび上がる。


 「…たまらねぇ」

 ピンチフェチの俺には最高のシチュエーションだ。

 打つか抑えるか、そういう場面があるからこそ、このマウンドで投げるのは止められない。



 ≪四番センター伊良部君。センター伊良部君≫

 高らかに場内アナウンスが選手の名前を告げた。

 同時に三塁側スタンドからは、伊良部の応援歌必殺仕事人が流れ始めた。

 軽快なラッパの音が響き、そこから他の楽器が音を奏で始め、スタンドにいる応援団が声をあげ始める。


 右打席でバットを構える伊良部。

 前のバッターたちとは違い、俺にバットを向けることも、威嚇のような咆哮をあげることもない。

 ただ冷静に打撃姿勢のまま、俺を見つめる。


 だが、俺をその目から感じられる闘争心は、前のバッターたちを大きく凌ぐものがあった。

 …あぁ、良い目だ。ゾクゾクさせてくれるぜ。


 背筋に何とも言えない刺激が走った。

 興奮が体を駆け巡り、気持ちを昂ぶらせる。

 ふつふつと闘争心は燃え上がり、体を火照らせるまでに熱くさせる。


 空から降り注ぐ暑さ、地面から沸き上がる土の匂い、センター方向から流れてくる風に乗る外野の芝生の匂い。スタンドからの一糸乱れぬ応援歌、球場の外から聞こえるセミの鳴き声、空には入道雲と青空が広がる。そして打席には得点圏打率10割の怪物、伊良部竜平。

 今まで立ってきたマウンドの中で最高の舞台だ。

 こんな舞台に立たされて、心躍らないピッチャーなどいない。


 「佐倉ぁ! 頑張れぇ!」

 「伊良部ぅ! まだまだ諦めんなぁ!!」

 両方のスタンドから聞こえる声援を耳にして、自然と頬が緩み、気持ちがリラックスしていく。

 打席に立つ伊良部も思いのほか笑っている気がした。


 「…楽しい」

 こんな最高のステージに立っていられる自分はなんと恵まれていることか。

 ここで気負ったり、抑えるなどと言う野暮な考えはいらない。ただ楽しむ。


 この最高の舞台を、人生で一度しかないこの瞬間を、人生で一度しか挑戦できない高校三年生の夏の大会を、俺は楽しむ。



 初球、アウトコース低めに決まるストレートを求めてくる哲也。

 俺は小さく頷いた。


 伊良部を一度見る。

 三振に奪った前二打席からは感じられなかった集中力と威圧感。

 本当、見れば見るほどに疑問が浮かんでくるバッターだ。何故チャンスの場面でしかその集中力を出せないんだ?


 「…ふぅ」

 一息吐いた。

 余分な力を抜き、真っ直ぐに哲也のミットを捉える。

 自然と意識は哲也のミットに集中し、全ての音が遮断され、視野も狭まり、ミットの一点のみを捉える。


 耳から聞き取れるのは心臓の鼓動だけ…。


 心臓の鼓動と合致した瞬間、右足が一歩前へと投球動作へと移る。



 クイックモーションからボールを投げ放つ。

 ボールは真っ直ぐに哲也のミットへと走る。指先には確かな手応え。

 それを伊良部は打ち抜いた。


 暴風のような一撃から打ち抜かれた打球は、快音を球場に響かせると同時に、強烈なライナーとなって一塁側のファールゾーンのフェンスに直撃した。

 ガシャン! と騒音を響かせて、打球は大きく跳ね返った。


 鋭いスイング。もう少し内に入っていたら、おそらくスタンドまで運ばれていただろう。

 このスイング、恐怖心を植え付けさせる暴力的なまでのスイング。まるでうちの大輔だ。


 「はは…ははは…」

 口から笑い声がこぼれ落ちた。

 なんて野郎だ。伊良部の野郎、ここに来て一番のバッティングをしてきやがった。

 伊良部を見る。奴の口元は笑っていた。あいつもこの状況を楽しんでいる。


 「ははっ…おもしれぇ」

 最高。最高すぎるぜ伊良部。

 この最高しか褒め言葉が出てこない舞台で、お前みたいなバッターと対決できるなんてな。

 最高すぎて、最高以外の言葉が思い浮かばない。


 「英雄! ボールは来てるよ!」

 哲也はそんな事を俺に言いながら、球審から貰った球を投げてくる。

 ピンチフェチにたまらないこの状況、調子が上がるのは当然で、良い球が行くのは当たり前だろう。



 プレートを踏み直し、俺は体を一塁側に向けながらも、首だけをバッターボックスの方へと向ける。

 こめかみからスゥーっと一筋の汗が流れる。

 興奮のあまり呼吸が乱れてきた。それを抑えるように一度深く息を吐いて、哲也のサインを確認する。


 二球目のサインは低めにチェンジアップ。

 直感か、野生の勘か、経験からくる経験則か、あるいはピッチャーとしての本能からか。

 少しでも高めに浮けば、スタンドに運ばれる気がした。


 スタンドは今日一番の盛り上がりを見せる。

 終盤ゲームを左右させるエースと四番の対決。

 高校、アマチュア、プロ問わず野球ファンなら誰だって心滾らせ注目する対決。

 ここで一番の盛り上がりを見せないでどうするって場面さ。


 息を吐く。

 意識は研ぎ澄まされ集中していく。

 指先よりも腕の振りを意識して腕を振るう。チェンジアップで重要なのは緩急。そしてここでは制球力も求められる。

 紙一重でもズレれば打席にいる怪物に打たれる。


 心臓の鼓動に合わせて、投球動作へと移る。

 右足は一歩前へ。両腕は左右に広がっていく。

 胸を張り、左腕を振るう。イメージはストレートと同じ投球フォーム。腕の振りはストレートと同じ振りから、極限までスピードを落としたボールを投じる!

 左腕を振るい、ボールを投げ放つ。


 放った瞬間、伊良部のバッティングフォームは崩れた。

 完璧にタイミングを外す一球。

 伊良部のバットは空を切り、俺の投じたボールは哲也のミットに収まった。


 バックネット裏に陣取る高校野球ファンのおじさま方から拍手と感嘆の声が漏れた。

 惚れ惚れしちゃうぐらいの完璧な一球だ。



 これでツーストライク。

 哲也のサインはインコース高めのストレート。釣り球だ。

 外れてもワンボール。そしたらアレを使うまでだ。哲也も使うつもりでこの配球をしたんだろう。


 熱気で夏の暑さよりも熱い球場。

 その中心に俺と伊良部はいる。


 三球目、左腕を唸らせてストレートを放った。

 高めへの釣り球。それに伊良部は手を出した。


 バットの上部に掠ったボールは、角度を変えてバックネットへと飛んでいき、そのまま直撃した。

 ファールボールか。

 それにしても今のボールに手を出すか伊良部。


 伊良部の表情は変わらないが、今の釣り球に手をだすってことは、ボールを上手く見えていないとも言える。

 そしてアレを使うならこの場面だ。


 何気なく俺は帽子のつばをつまんだ。

 それを見た哲也は、マスク越しでも分かるぐらいの笑顔を浮かべた。

 つばをつまみながら、伊良部を睨む。


 喜べ伊良部。

 お前がこのボール実戦で投げる第一号だ。


 心臓の鼓動が早まっていく。

 練習では何度も成功しているが、実戦で使うのは初めてだ。

 嫌でも緊張してきた。


 「あ、そうだ」

 ぽつりと声が出て、つばをつまんでいた左手を、尻の部分の左ポケットへと持っていく。

 ポケットの布越しからでも分かる長方形のお守り。

 鵡川からもらった勝利の手作り守りだ。

 彼女も今頃スタンドで見ているのだろうか? もしそうなら無様なピッチングだけはしたくない。


 野球とは別の事を考えたら、不要な肩の力が落ちた気がした。

 今なら決められる気がする。


 グラブへと左手を持っていき、グラブの中にある白球を人差し指と中指の間に挟む。

 意識はどんどんと集中していく。


 スタンドからの応援歌も、セミの鳴き声も聞こえないぐらいに。

 夏の入道雲も青空も、バックネット裏の観客も見えないぐらいに。

 むせ返るほどの土の匂いも、芝の香りも感じなくなるぐらいに。

 感覚を研ぎ澄ませ、俺は最後の一球を投じた。


 放たれた一球は真っ直ぐに哲也のミットへと向かう。

 ストレートよりもわずかに遅いボール。伊良部にとってみれば失投と受け取ってもおかしくない一球。

 伊良部は案の定打ちに来た。


 完璧にタイミングを合わせ、暴風のようなスイングをもってして投じられた一球を粉砕する一撃。

 だがそのスイングが、ボールを捉えることはなかった。


 ボールは、スイングに当たる前にストンと下へと落ちた。



 得点圏打率10割、チャンスで絶対的な力を見せ続けた驚異のクラッチヒッターは、この打席三回目のストライクを宣告された。

 それは得点圏打率10割の伝説の終焉とともに、このゲームを決定づける空振り三振となる。


 瞬間、ドッと一塁側スタンドが沸いた。

 球場が震えるほどの大歓声。大喝采。

 そんな中で、俺は獣のような雄叫びをあげながら、左腕はガッツポーズを浮かべた。


 ツーアウト。

 まだ試合は終わっていない。

 だが球場の雰囲気、頼みの綱の空振り三振、怪物伊良部竜平と入れ替わる形で打席に入った五番蔦谷は、すでに目に涙を溜めていた。

 すでに戦意は喪失している。


 まだ試合は終わっていないのに、俺は確かな勝利を感じていた。

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