11話 天才舞い戻る
「あっちぃなぁ……」
マウンドに上がって第一声がそれだった。
左手で陽射しを遮りながら空を見上げてため息。梅雨明けはまだ少し先だというのに、空には夏のような陽射しを放つ太陽。
普段なら暑くて鬱陶しくて気分を害するしかないが、この場所にいるときだけは違う。口元が自然と緩む。
「最高だ」
夏のうだるような暑さの中で登るマウンド。
俺がイメージする高校野球そのものの中心に今立っている。
そして視線の先にはキャッチャーボックスに立つ哲也の姿。
マウンドで投球練習を始める。ボールを受ける哲也は、マスク越しから分かるぐらいの笑顔だ。
試合でマウンドに上がるのは、中三の県大会準決勝で敗れて以来だから、かなり久しぶりだ
だけど、まったく感覚は失われていない。一から百まで、モーションに入ってからボールを放つまで、何一つ忘れている箇所はない。
物心つく前から始めて十五歳手前のころに離れるまで、ずっと野球をしてきたからこそ、一年二年程度で野球を忘れるわけがない。
そしてこの胸に残る責任感も……。胸元の校名のロゴを左手で握りしめて低く息を吐く。体の奥底に眠る感覚を呼び起こすように、深く長く。
投球練習は軽めに投げて、フォームの確認だけで費やしてしまった。
マウンドから外れ、哲也のセカンドへのスローイングを邪魔しない。
その最中に俺は空を見上げる。
内野でボール回しが行われ、最後に俺のもとへと白球が戻ってくる。
試合も中盤、いや五回コールドが決まっているこの点差的には終盤といっても過言ではないか。ともかく試合開始から使われている白球はどこか薄汚れてきている。
もちろん今いるマウンドだってそうだ。思えば試合途中からの登板は久しい。中二のころにはエースナンバーをつけてて基本的にリリーフに回ることはなかったから、それこそ中一、あるいは小学校のころまでさかのぼるだろうか。
「五回! しまってこぉー!」
そんなくだらないことを考えていると、哲也の良く響く声がグラウンドに広がっていく。
くだらない思考はリセット。過去どう登板していたかなんて関係ない。プロフェッショナルというやつはどんな場面から任されてもパーフェクトに抑えるってもんだ。
俺は一度ロジンバックに指先を触れた。
さぁプレイボールだ。
城東の野郎ども、本当の勝負はこっからだぞ。
≪五回の表、城東高校の攻撃は、三番ショート西口君≫
「しゃあっす!!」
右打席に入るバッター。
こいつは確か今日3打数2安打3打点。スリーベース1本とツーベース1本だったか。県内中堅校でクリーンナップを任されているだけはある。
俺はジッとバッターと哲也を見つめる。ニヤニヤと笑う打席上のバッター。
相手は格下、この回は何点取るかな? この回から上がったピッチャー、もともと外野だし大したことないか? それとも思い出登板か?
……とか考えてんだろう?
残念だが、てめぇらの得点は13点で終わりだ。マウンドに俺が居る限りな。
しっかりと気合入れろ。そんなにやけた面じゃ打てないぞ? 俺から打てないようじゃ、甲子園なんか行けねぇぞ。
相手チームの応援が始まった。
ブラスバンドが、応援歌調にアレンジされた数年前流行したドラマの主題歌を鳴らし、それに合わせて、チアガール、スタンド組の部員達が一糸乱れぬ動きで応援を送る。
テレビ画面の向こうで何度も見た高校野球の応援風景が、今俺の目の前で起きている。それがたまらなく興奮させた。
「……やべぇ」
胸元のユニフォームを左手で掴みながら、俺はそんな言葉を漏らした。
自分が今、高校野球のマウンドに立っているのだと自覚して、余計に興奮してしまう。そうだ、ここは高校野球の中心。どこを守る誰よりも注目されるスポット。
自然と頬は緩み、口元が笑ってしまう。それを隠すように口元にグラブを当てた。
哲也の初球のサインは、インコースへのストレート。
攻めのリードだ。俺、これでも二年ぶりぐらいのピッチングになるんだけど? でも、そういうリードは嫌いじゃない。二年前から変わってなくて嬉しいぜ。
ゆっくりと腕を振りかぶり、投球動作へと移る。
一連の動作は一つでもミスはいけない。
全てパーフェクトなら、自身の最高の一球を放てる。
そして俺は、数年ぶりの実戦のマウンドからボールを投げ放った。
放たれたストレートは槍のように打者の胸元に構える哲也のミットを貫く。
初見でこのコースを打てたなら、多分そいつは名門校でもやっていけるレベルさ。
乾いたミットの音が、応援歌で包まれていた球場に鳴り響いた。
打者の顔から、油断の笑みは消えた。
中三の時に最速130キロを越したストレートは、二年間を経て球威とスピードが増していた。
全国の凄いピッチャーから見れば、130キロなんてまだまだだろう。
だが俺の手元で伸びるストレートは、150キロを越すピッチャーでもそうは居ないだろう。
生きた球と揶揄された俺のストレートを、城東のバッターは打てるかな?
バッターが一度構えを解いてから、再度バットを構える。さっきほどと構えが全然違う。
今の一球で俺が前二人のピッチャーとは格が違うと悟ったのだろう。
良い判断。だが気合入れ直した程度じゃ俺から打てないぞ。
二球目、今度も内角をえぐるストレート。バッターは打ちに行くが、凄く振り遅れており豪快に空振りをした。
悔しそうな顔を浮かべるバッター、今度はバットを短く持って構えている。露骨なストレート待ちだ。
三球目、哲也がサインを送ってくる。アウトコース低めにチェンジアップ。
さすが哲也分かってるな。ここは緩急で決めるぞ。
そして三球目、放たれた時点で、バッターはタイミングを外していた。
情けない緩いスイングで空振りをするバッターを見て、俺はにやりと笑った。
空振り三振。
閑散とした山田高校の応援団が陣取るスタンドからは、やっと拍手と歓声が起きた。
久しぶりのマウンドも悪くない。相手打者を手玉に取る征服感と悔しそうに表情ゆがめる相手打者を見た時の優越感、どちらも最高だな。たまらん。
続くバッターは四番の三田。今大会屈指のバッターと評価されており、城東のバッター陣の中で一番対戦したかった選手だ。
そのミート力は全国にも通用すると、前にインターネットのサイトで評されていたのを思い出す。
三番西口が三振したせいか、三田は打席に入る前から真剣な顔つきをしていた。
県屈指のバッターと呼ばれているだけあり、風格は十分あるな。だが全然怖くない。
哲也のサインは、またもインコースのストレート。
強打者でも強気のリード。まったくリードに関しては男前だな哲也は。
ゆっくりと頷く。
一息吐いて、投球モーションに入る。
今俺が出せる全身全霊の一球。それを哲也のミットへと投げ込んだ。
三田が手を出せず見送る姿が目に入った。
哲也のミットの音。わずかに動揺を見せる三田の顔。だがすぐさま表情を変えて俺をにらみつける。
先ほどの打者とはやはり格が違う。よかった。拍子抜けしなくて本当よかった。
せっかくの登板だ。俺だってなにも無失点で切り抜けるつもりはない。むしろ俺のボールをパカスカと打つようなバッターが揃っていたほうが投げ甲斐があるというものだ。
続く二球目もインコースのストレート。今度は三田のバットが出た。
鋭いスイングでボールが弾き返される。金属バットからは甲高い音が鳴り響き、鋭い弾道となって三塁線左をライナーで抜けていく。まもなくファールゾーンの芝生をワンバウンドしたのちに勢いよくフェンスまで転がっていった。
三塁審判からはファールの判定。良い一撃だ。それでこそ県内屈指のバッターと呼ばれるというものだ。
打席から外れて数度素振りをする三田に緩みはない。どんな点差であろうと油断しないし慢心していない。見れば見るほど投げるのが楽しくなってくる。
だがこれで追い込んだ。
一つ遊び球も入れていいだろう。だが哲也は攻める。投じるのはスライダー。
俺のピッチングの生命線の一つだ。ストレートに近いスピードから鋭く変化するスライダーは中学のころから俺にとって決め球だった。
これを打ってくるバッターはそういなかった。正直こいつとストレートだけでも十分全国大会に行けたと自負している。チームの打線がしっかりしていたらの話だがな。
というわけで、高校初披露のスライダーだ。
緊張で失投することよりも興奮のあまり失投しないよう気を付ける。
今の俺はマジでヤバイ。好きな芸能人に出会ったときのファンみたいなそんな心境。
別に三田のファンではない。高校野球という舞台のファンといったところか。
三球目、投じられたスライダーは低めに放たれた。
三田のバットが動き出す。ストレートよりわずかに遅いこの球は初見には絶好球に思えるだろう。だがバットに触れる直前にボールは鋭く変化する。
哲也のミットの音と三田がバットを振り切る姿が見えた。
腕を振りぬいた状態でそれを見て俺はにやりと笑った。
城東高校打線を代表するスラッガー三田の三振は俺が思っていた以上に城東高校に衝撃を与えたらしい。
次に入った五番の水川の顔からは動揺が隠せていない。
こいつは三田よりワンランク下のようだ。もちろん油断はしないがな。
テンポよくストライクを重ねていく。水川のバットの振りはいまいちだ。三番の西口のほうがまだマシだ。
これじゃあ追い込んでからどこに投げても面白みがなく終わってしまいそうだ。依然相手バッターの表情は動揺を隠しきれていない。
三田が三振に打ち取られ、テンポよく追い込まれたからだろう。
興醒めだ。パパっと終わらせよう。
最後はストレートを投じて空振り三振に打ち取る。
これでスリーアウト。俺は脱帽して額の汗をぬぐいながらマウンドを駆け降りる。
体からはアドレナリンが放出されていて体中が興奮している。もっと投げたいとうずいている。
「だから投げたくなかったんだ」
また野球をやりたいと思ってしまった。もっと投げたいとピッチャーとしての俺が唸ってしまった。
だが今日はこれで終わり。とりあえずは久しぶりの試合でのピッチングということで満足しよう。
悠々とベンチへと戻る。
今日投げた球数は、たったの10球。
だがそれは、俺の運命を大きく左右する10球となった。




