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怪物は一日にして成らず  作者: ランナー
1章 佐倉英雄、二年目の夏
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10話 蟄虫啓戸

 酒敷市営球場に到着し、俺たちは三塁側ベンチから球場入りする。

 懐かしい。中学時代、県大会の会場となっており、何度かここで試合をしたな。

 そして準決勝で敗れた場所。今もなお俺を苛むトラウマの現場。

 正直入る事にためらっていたが、いざグラウンドに入ってみると、思いの外不快感はなかった。あれから二年経過して、だいぶ俺のほうも気持ちの整理がついているのかもしれないな。


 試合前、俺たちはレフトでキャッチボールを始める。

 キャッチボールをしながら自軍のスタンドを確認する。

 総勢50名居ながら42名が幽霊部員の吹奏楽部8名と教師数名以外見に来てない。

 佐伯の野郎、依頼を果たしてねぇじゃねぇか! 今すぐ手配しねぇとストライキも辞さないぞこの野郎!


 それに比べて相手のスタンドは賑やかだ。

 キャッチボール相手の耕平君にボールを返球してから城東高校のスタンドを見る。

 無地のユニフォーム姿の坊主頭どもが、わらわらとスタンドを陣取っている。おそらく3、40人近い部員がスタンドに居るだろう。

 あそこの選手達ですら龍ヶ崎や松下先輩よりも上手い奴が何人もいるんだろうな。

 その部員数だけでも圧倒されているが、それ以外にも吹奏楽部にチアガールまで応援に来ている。チアガールなんてけしからん! 俺の視線をグラウンドに向けない作戦だな! 卑怯な!!

 くそっ! 練習を始めやがって! 見せパンだと分かっていても目が行ってしまう!! キャッチボールに集中できんぞ! ってか俺ライト守るじゃん。特等席じゃん。最高かよ。


 「いって!」

 ふと右隣でキャッチボールをしていた恭平が大声を張り上げた。

 恭平のほうへと視線を向けると、グラブをはめていない右手で額を押さえていた。芝生の上には硬球が転がっている。

 あっこいつ、ボールをデコに当てたな。


 「わりぃ! 大丈夫かー!」

 恭平とキャッチボールをしていた大輔が、口元に右手を添えて声を張り上げ謝っている。

 この一連の出来事により山田高校のキャッチボールは一時中断し、恭平へと視線が集まった。


 「大丈夫か?」

 恭平の隣でキャッチボールをしていた松下先輩が不安そうな顔を浮かべて彼を心配する。

 松下先輩、こいつは心配しないで良いですよ。どーせろくでもない理由でしょうから。なんて心の声を呟く。


 「はい……大丈夫です……」

 弱々しく返答する恭平。そうしてゆっくりと顔を上げ、相手の陣営である一塁側スタンドをキッと睨みつけた。

 ごめん、こいつが硬球ぶつけた理由分かったわ。


 「くそっ! チアガールめ! あんな大胆な動きしやがって! パンツが見え見えじゃねぇかちくしょお!」

 予想通り、ろくでもない理由だった。

 ってか、俺は恭平と同じレベルの思考なのか。あれ? なんか泣きたくなった……。


 「嬉しいじゃねぇか! ありがとうございます!」

 さらに言葉を付け足す恭平。今から戦う相手に感謝するな。


 そんな恭平のアホな言動に笑う一同。

 不思議なものだ。恭平がアホみたいに騒ぐと自然と周囲の空気が緩む。緊張がほぐれるという感じだろうか? 恭平という男は案外ムードメーカーの才能があるのかもしれない。



 「バック!!」

 ある程度キャッチボールをやると、松下先輩が声を張り上げる。

 相手ベンチの前にはすでに城東の選手が並んでいる。あぁシートノックね。

 先攻の城東高校のシートノックが始まるので、俺たちはベンチへと戻っていく。


 「オーダーを発表するぞぉ。一番センター耕平。二番セカンド恭平。三番ピッチャー龍ヶ崎。四番ファースト大輔。五番ライト英雄」

 「異議あり!」

 「六番ショート大樹」

 シカトだと……! だからって俺はくじけないぞぅ!


 「ねぇ! 異議あるんっすけどぉ!」

 「七番レフト榛名」

 「おい佐和ぁ! 異議があるっつってんだろ!」

 「あぁうるせぇな! 黙ってろ英雄!!」

 佐和ちゃんに怒られてしょんぼりとする俺。

 この後の打順は八番キャッチャー哲也、九番サード須田になった。



 「山田高校さん。そろそろシートノックの準備しておいてください」

 審判がこちらのベンチ前に来て報告する。俺たちは、すぐさまベンチ前に一列に並ぶ。

 あぁなんでこうなるんだよ。五番とかダルすぎる。というかなんでキャプテンの松下先輩より上位打線なんだ。おかしいだろうが。


 「松下先輩、この打順どう思います? おかしいですよね? キャプテンから言ってくださいよ。おかしいって、なんで俺様が五番じゃないんだって」 

 という事でキャプテンの松下先輩にダル絡みをする。


 「そうかな? これまでの練習見てる限り、佐倉のほうが俺よりバッティング上手いし、中軸にふさわしいと思うけど。俺はどっちかって言うと守備の人だし」

 そういって笑う松下先輩。なんて無欲な男だ。

 だが知っているぞ松下先輩。あなたが胸の大きい女の子へ向ける欲は強いという事を。恭平とそういう話をしてたのしっかり聞いてるんですからね。


 「いや、でも俺助っ人ですし……」

 「うん、佐倉は助っ人だから、あまり気張らなくていいぞ。後ろには俺がいるから、安心して打ちに行け」

 そういって笑う松下先輩の笑顔は凄く優しい。人当たりが良さそう。

 キャプテンにするにはあまりにも優しすぎるが、上に立つタイプの人を補佐するのに向いてそうな人だ。


 「うっす」

 こんな笑顔を見せられたら、こんな返事しかできない。

 松下先輩と関わったのはこの助っ人として練習に参加した期間のみだが、彼が少しでも野球を続けられるよう今日は頑張ってやるか。


 相手の先発ピッチャーは一年の佐山君。予想通りだ。

 去年のボーイズリーグで全国大会に出場したというピッチャーだ。

 正直、龍ヶ崎よりも投手としての能力は上じゃないかな。少なくとも実績だけならうちの面々を圧倒している。

 山田高校相手ならエースや二番手ピッチャーを出さなくても勝てると相手監督は踏んだようだ。そのうえで期待の一年生に夏の大会の試合の経験をさせようとしている。

 なめられてるのでギャフンと言わせたいところだが、果たして山田高校は佐山君から得点をあげられるのだろうか。



 外野でのんびりとシートノックを受けてあがる。

 そして再びベンチの前に整列する。今度はシートノックではなく、試合開始の準備だ。

 ほんのりと緊迫とした空気。たしかに張り詰めているがまだ足りない。中学の県大会準決勝の時のあの空気。もう一度俺は吸えるのだろうか?


 「集合!」

 様々な思考が交差する中で、主審の声が頭に響く。

 と同時に頭の中にあった、様々な思考は薄れ、試合へと意識は移っていった。


 県大会一回戦 城東高校 対 山田高校 試合開始


 と言っても、この試合は始まる前から虐殺になることは想定の範囲内だがな。



 先攻城東高校は先発ピッチャーを一年生にした以外は春の大会と全く同じメンバーで固めてきたようで、オーダー表には九番ピッチャー佐山君を除いて一桁背番号の選手の名前が連なっている。

 おかげでこっちの先発ピッチャー龍ヶ崎が面白いように打ち込まれる。

 哲也のリードも虚しく、伸びの無い速球は右中間、左中間を狙われ、龍ヶ崎の最大の武器であるカーブは二回の表には攻略された。

 二番手の亮輔が登板するも時すでに遅し、亮輔も打ち込まれて3失点。


 こちらの得点は、初回に恭平のデッドボールの後、龍ヶ崎の進塁打、大輔の左中間を破るツーベースヒットと、三回の耕平君の出塁後、盗塁、龍ヶ崎の進塁打、大輔のレフト前へのヒットの2点のみ。

 ちなみに俺は二打席連続三振。べ、別に手加減してるだけなんだから! ダルいから三振してるだけなんだから! 勘違いしないでよ!

 しかし大輔は凄いな。相手はボーイズリーグの全国大会出場ピッチャーの佐山君。

 彼は高校初めての大会だが緊張している様子はなく、十分すぎるピッチングをしている。さすがだな。

 そんな相手から2打数2安打2打点、三村さんマジパネェっす。


 「情けない試合してんなー!」

 四回の表の守り。ライトでぼけっと突っ立ってそんなことを呟いて大あくびを掻いた。

 ワンアウト二塁三塁。点差は10点。すでに五回コールドの条件は成立してしまっている。ここから山田高校に出来る事は精々七回コールドまで持ち込む、あるいは九回まで試合を続けさせることぐらいだろう。さすがに逆転なんてのは夢のまた夢がいいところだ。


 視線を一塁側スタンドへと向ける。大量得点で勝利を確信したからか、どうも城東高校サポーターの応援の熱が弱い。それでもチアガールは元気に動き回っていて、見ているだけで楽しい。こういうとき視力が良いって便利だな。

 視線をグラウンドに戻す。セカンドの恭平の顔がさっきからずっと一塁側スタンドに向いている。俺以上にチアガールを凝視している。あいつ、打球がきたらどうするんだ?

 そう考えていた瞬間、快音が球場に鳴り響いた。打球は一二塁間へと飛んでいく。

 打球な力強く大地を転がり、緩慢な動きのファースト大輔の横をあっという間に抜け、一塁側スタンドを見てボケッとしていた恭平は動作がワンテンポ遅れてボールを捕球できない。

 あわれ打球はライト前、俺のもとへと転がってきた。

 打球へと駆けながらランナーの動きを確認する。三塁ランナーは間違いなく生還できる。二塁ランナーも普通なら生還できるだろうか。


 中学までピッチャー専門だった俺だが、外野の経験は意外と多い。

 リトルリーグでも中学の野球部でも、俺の打力と強肩を期待して外野と併用されることが多かった。

 故に外野の打球処理もお手の物だ。しっかりと助走をつけて転がる打球を掴みとる。

 さてどうする? 助っ人らしく適当なボールを投げるか?


 「おせぇぞ! 野球舐めてんじゃねぇぞ助っ人!」

 さっきまでボケッとチアガールを見ていた恭平が騒がしい。

 あの野郎、顔面目掛けて全力投球してやろうか。

 なんてことを考えていたタイミングで哲也の声が聞こえた。


 「英雄! 四つ!」

 哲也の腹から絞り出したような大声が、中学時代の俺を思い起こさせた。あーそうだな。どこのポジションにいようと、お前へ投じるボールは手を抜けないよな。

 自然と頬が緩む。捕球前の助走はしっかりした。

 安心しろ哲也。俺はどのポジション、どの位置にいようとストライクを投げてやるよ。


 投じる前に二塁ランナーを見る。三塁を蹴飛ばしてから走るスピードが落ちた気がする。緩慢なプレーだ。

 大差で勝ってるから手を抜いたか? それとも手を抜いても得点になると油断したか?


 「なめんじゃねぇ」

 助走からホップステップと片足で数度ジャンプしてテンポを合わせ、そのまま一気に投げる態勢へ。

 助走からの勢いを全てボールに伝えるつもりで左腕を振るう。


 「ノーカットォォォォ!!!!!」

 哲也の怒号にも似た大声が響く。恭平はとっさに避ける。

 俺と哲也の間に一直線の空間ができた。それで十分、それだけあれば、哲也のミットにストライクを投げれる。

 視界は哲也のミットだけを捉える。意識が一点に集中していく感覚。

 左腕が唸り、ボールを左手から投げ放つ。投じた瞬間、勢い余って前のめりになりそのまま転がる。天然芝のチクチクしながら柔らかい感触に心地よさを覚えながら上体を起こして結果を見る。


 投じられたボールは一直線に哲也のミット目がけて飛んでいく。

 レーザービームと形容するのが最適解といわんばかりに低く鋭く哲也のミットに向かうボールは、まもなく哲也のミットに収まり、同時にホームに滑り込んできたランナーをタッチする。

 ホームベース付近は砂塵(さじん)が舞った。そうして砂埃が薄くなった頃、球審がここぞとばかり右手を突き上げた。


 「アウトォ!!」

 その宣告に今日ずっと静かだった山田高校サポーターから歓声が上がり、ずっとイケイケムードだった城東サポーターが静まり返った。

 その様子を見て俺はにやりと笑っていた。


 「あーこれこれ、最っ高」

 相手を己の力でねじ伏せたときの快感を思い出していた。

 中学時代、俺はこうやって己の力でねじ伏せていたのを思い出す。

 やっべぇな。最高だなこりゃ。外野も案外悪くねぇなぁ。


 「ナイス英雄ー!」

 哲也の嬉しそうな声が外野にいる俺の耳にまで届いた。

 マウンドにいる亮輔はこっちを見て脱帽し頭を下げる。その様子を見た俺は左手を軽く上げて応えておく。

 ともあれこれでツーアウトだ。さっさと次のバッター抑えてベンチに帰りたい。頑張れ亮輔、三振にしてくれると嬉しい。もういい加減グラウンドにいるのは暑い。



 ツーアウトになっても亮輔のピッチングは安定しなかった。

 せっかく俺の超絶見事なファインプレーでランナーが消えたのに、フォアボールでランナーを出している。

 マウンドに立つ亮輔へと視線を向ける。外野からでもわかるぐらいに肩が上下に動いている。まだあと1イニング投げるのに大丈夫かあいつは?


 次のイニング、登板できるかも?

 そんな言葉が無意識のうちに沸いて、慌てて首を左右に振った。

 なにを考えてるんだ俺は。


 「アホくせぇ」

 そんな言葉をつぶやき、ポッと沸いた感情をかき消そうとする。

 だが脳裏に浮かんだその言葉は消えない。むしろどんどんと大きくなっていく。


 先ほどのアウトが、俺の野球選手のスイッチをオンにしてしまったようだ。

 相手をねじ伏せて優越感に浸りたい。そんな感情が沸きあがり、やがて色々な感情が俺の中で膨れがる。

 投げたい。打者を抑え込みたい。あそこに立ちたい。あそこで立って、無惨に打ち取られるバッターを見て鼻で笑いたい。奪三振に奪った時の興奮を味わいたい。ピンチを乗り越えた時の快感に身を震わせたい。投げて抑えて勝ちたい。


 「あーくっそ」

 ユニフォームの胸元に縫われた「山田」というロゴを強く握りしめる。

 空にある灼熱の太陽から降り注がれる熱が俺を闘争心を駆り立てる。ピッチャーとしての本能は冬眠から目覚めようとしている。

 やめろ。やめてくれ。ここでマウンド上がったら……



 野球やりたくなっちまうだろうが。

 


 四回の表が終わり、ベンチへと戻る。

 ベンチに入る前にセンター後方の電光掲示板へと視線を向ける。試合は13対2、すでに五回コールドが成立されている。

 この回の打順は六番松下先輩から。この回も得点は望めなさそうだ。


 「英雄、良い肩してんな」

 ベンチに戻るなり、開口一番に佐和ちゃんが俺に話しかけてきた。

 先に亮輔を労ったらどうなんですかねぇ監督。


 「まぁだてに中学時代ピッチャーやってませんでしたからね」

 「そうか。なら次の回ピッチャーやるか?」

 「え」

 情けない上ずった声が出て佐和ちゃんを見る。

 ニヤニヤ笑う佐和ちゃんの顔は、まるで俺の今の心境を読んでいるかのようで、少しばかり不愉快ではあったが、今はその感情などどうでも良くなるような動悸と震えに襲われていた。

 ゾワリと胸の奥底に隠れている魂が激しく鼓動する。ピッチャーとしての本能が震える。


 「次は大樹の奴の思い出登板させるつもりだったんだがな。気が変わった。お前のピッチングが見たい。噂には聞いてはいるが、まだ見たことないからな」

 「いや、俺は……」

 言葉が出てこない。頭がこんがらがってきた。

 俺はどうしたいんだ? 野球をやりたいのか? やりたくないのか? どっちなんだ?

 中学時代、野球に命をかけていた自分が浮かび上がる。高校時代、恭平や大輔と馬鹿みたいに遊んでいた頃の自分が浮かび上がる。その二人の自分が交錯し、ぐしゃぐしゃになって俺の考えをかき乱していく。


 「俺は去年から目をつけてたファンなんだぜ? ファンサービスぐらい頼むぜ天才」

 言葉が出ず悩む俺に佐和ちゃんがさらに言葉をかける。

 揺れ動く考え。投げたい自分と、投げたら戻れなくなるぞと引き留める自分。

 グラウンドでは四回の裏の攻撃が始まり、すでに先頭の松下先輩がセカンドゴロに倒れ、続く七番亮輔も三振に終わった。ツーアウトから八番哲也。あいつは十中八九アウトだろう。もう考える時間は少ない。



 十数秒の思考の末、答えはまとまった。

 俺は一度溜め息を吐く。まるで面倒くさいと周囲に見せているかのように。

 しかしピッチャーの本能は嘘をつけない。どんなに隠そうと努力しても、口元がほころぶのを抑えきれない。

 結局、俺は野球の虫だ。こればかりは変わらない。トラウマになるような負け方をしても、堕落した高校生活の楽しさを知ってしまっても、幼少期から続けてきた野球から離れる事なんて出来ないんだ。

 もう二度と上がる事なんてないと思っていたマウンドに上がる権利を与えられた。それを断れるほど、俺は俺自身を律する事なんてできない。

 心臓の鼓動が早くなっていく。喜怒哀楽の喜と楽を放出させる。ずっと昔に眠りついたピッチャーとしての本能が、冬眠からあけた動物のように目を覚まし、雄叫びをあげて貪欲に投げたいと欲する。


 「俺の御眼鏡に叶うピッチングが出来れば、てめぇを怪物に育ててやるし、甲子園にも連れて行ってやるよ」

 ははは……。なにを言ってるんだこの佐和ちゃんは。

 怪物? 甲子園? なんだよそれ。


 俺は一度、腰をかがめて靴紐を固く結ぶ。気づけば哲也が打席から戻ってきていて、佐和ちゃんは松下先輩に審判に交代を告げに向かわせる。

 体が早く投げたいと言っているかのように震える。これが武者震いなのかは知らん。少なくとも怯えや恐怖からくる震えではないのは確かだ。

 どんどんと、アドレナリンが放出されていく気分だ。本能が唸り声をあげて覚醒していく。


 嫌だと言えば、もう二度と野球をやらなくていいんだぞ?

 ここでマウンドに上がったら、惰性に過ごす日々に戻れなくなるんだぞ? それでもいいのか?


 最後の最後、俺の中の俺が、俺自身へと問う。

 だがその問いへの答えはすぐに出た。



 ≪守備の交代をお知らせします。ピッチャーの榛名君がライトに入り、ライトの佐倉君がピッチャーに入ります≫



 「舞台は整ったぞ佐倉英雄。思う存分暴れて来い! 怪物になれるか見定めてやる。これは甲子園への第一歩だ」

 まだそんな事を言うか佐和ちゃん。


 「言っとくが、俺は怪物にもなりたくねぇし、甲子園なんてものも目指す気も野球部に入るつもりもねぇからな」

 多分、今の俺は野球をしたいんじゃない。

 今やりたいことはただ一つ。ずっと疼いていたあの欲求不満を満たすのみ。


 「俺はただ、無性に投げてぇ。相手バッターを蹂躙してぇ。だからマウンド行ってくる」

 そう言って、俺は靴紐を縛るために屈んでいた体を起こす。

 グラウンドへと一歩踏み出す前、一度立ち止まり、ちらりと後ろにいる佐和先生へと視線を向けようと首を動かす。


 「そんじゃあ佐和、目ん玉ひん剥いて、よーく俺のピッチングを見てろよ。あんたが一年間、待ち焦がれていた天才様のピッチングをな」

 そして俺はマウンドへと歩き出す。

 本能が唸り声をあげた気がした。一歩踏み出す事に身体の熱が増していく気がする。



 ≪ピッチャー佐倉君、ピッチャー佐倉君、背番号9≫

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